2016年8月10日水曜日

8/7「深く憐れんで」マタイ9:27-31

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。      (創世記12:2-3


 ◎とりなしの祈り

 主なる神さま。あなたによって造られたこの世界のすべての生き物たちのための祝福を世界中に及ぼすため、その祝福と平和の出発点とするために、あなたは神の民を、この私たちをも選び出されました。光栄あるその役割を、この私たち一人一人にも、毎日毎日の具体的な生活の只中で、精一杯に果たさせてください。あわれみ深く、心優しく取り扱っていただいてきた私共ですから、その同じ憐れみと親切と暖かい思いやりを、他の人たちにも分けてあげることができますように。そのように、あなたからの憐れみの光をこの世界に輝かせて生きることができますように、この幸いな私たちを、世のための光とならせてください。
 神さま。けれどなお全世界も私たち自身の心も どんどん狭く貧しくなっていこうとしています。自己中心の身勝手な世界。しかも、自分と身内の損得ばかりに執着しようとする私たちです。なんと身勝手で、よこしまな、恥ずかしいことでしょう。どうか自分と少し違う生活習慣、違う伝統や文化の、違う言葉を話す、肌の色の違う、自分とは違う他の民族の人々をも同じく愛し尊ぶ私たちとならせてください。小さな弱い人々を大切にし、温かく迎え入れる私たちであらせてください。沖縄で暮らす人々も、日本で暮らす外国人労働者とその家族も、危ない原子力発電所のすぐ傍らで暮らす家族も、発電所で安く働かされる下請け労働者たちも、老人たちの生活も若い親たちと子供の生活も、まるでそこにいないかのように見て見ぬふりをされ、片隅へ片隅へと押しのけられ、置き去りにされつづけます。おかげで、毎日食べるご飯にも本当に困って、学校の給食費も支払えない家がたくさんあります。ひと握りのごくわずかな人々が豊かさを独り占めし、ますます強く豊かになっていきます。その傍らで、多くの貧しい人々が貧しいままに取り残されつづけ、その格差がどんどん広がっていく一方です。そういう社会のしくみを、ほかの誰でもなく、この私たち大人が選び取ってきたからです。私たち大人の責任です。ですから神さま。どうか私たちに謙遜さと平和と憐れみの心とをもう一度取り戻させてください。思いやり深く心やさしい社会を築いてゆくことを、この私たち一人一人にも、どうか心底から本気で願い求めさせてください。この一つの願いをかなえてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン



                                        みことば/2016,8,7(主日礼拝)  71
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:27-31                       日本キリスト教会 上田教会
『深く憐れんで』
+こども説教『悪者の私たちにも、神はなさけ深くしてくださった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  9:27 そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。28 そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。29 そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。30 すると彼らの目が開かれた。イエスは彼らをきびしく戒めて言われた、「だれにも知れないように気をつけなさい」。31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言いひろめた。                                     (マタイ福音書 9:27-31)

2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。              (ペテロ手紙(1)2:10  



  27-29節。目の不自由な二人の人が、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながら主イエスと弟子たちの一行についてきました。けれど主イエスは、すぐには彼らの呼びかけに答えません。まるで、その叫び声が耳に入らなかったかのように。相手にする気にもなれないとわざと無視するかのように。しばらく歩き進み、彼らが叫ぶままにさせた後で、ようやく主は彼らとやりとりをしはじめます。彼らの心の中にあるものを確かめていたのかも知れません。彼らと私共の心の中にあるものを知ろうとされて。どの程度に本気なのか。何を、どの程度に彼らが求めているのかと。ほんのわずかな不都合や困難で、ごく簡単に諦めたり心変わりをして、「主イエスを」ではなくて何か他のものを求めて、別の場所へ、別の誰かのところへと立ち去っていくのかどうかと。
 さて、あの彼らは「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と主イエスに呼びかけていました。『ダビデの子』という呼びかけは、特別な意味でだけ語られます。ダビデ家の家系や血筋に属する者、子孫の一人というだけではありません。それくらいなら、その該当者は何百人何千人もいるでしょう。そうではなくて、聖書の神を信じて生きてきた人々は、ただ一人の特別な人間に対してだけ『ダビデの子よ』と呼びかけます。ダビデの子孫の中からやがて救い主が現れる(イザヤ9:7,エゼキエル34:23-24,37:24,マタイ1:1,ローマ1:3他)、と預言されつづけていたからです。つまり、『約束され預言され、待ち望まれつづけていた私たちの救い主よ』と、彼らは主イエスに向かって呼ばわっています。「わたしたちを憐れんでください」と語りかけられ、「わたしにそれができると信じるか」と主イエスは質問なさいます。わたしにそれができると信じるか。「主よ、信じます」と彼らは答え、その答えに主イエスは満足なさり、その信仰の中身を喜んでくださっています。「主よ、信じます」という答えをこそ、ぜひ彼らの口から聞きたかったのだと言わんばかりに。
  『約束されていた救い主である』と彼らは、すでにはっきりと分かっています。その上で、なお主イエスは彼らに叫び求めさせつづけ、「わたしにそれができると信じるか」とさらに一歩進んで、問いただしています。彼らを救う力があり、また喜んでそうしてくださろうとする憐れみ深さをお持ちだと分かっており、救い主からのその憐れみをぜひ受け取りたいと心底から願っているのかどうか。あの彼らも、そしてここにいるこの私たち一人一人も。なぜなら、「あなたがたの信仰どおりに、あなたがたの身になるように」29節)と主イエスが仰るからです。30-31節。彼らの目は開かれました。主イエスは彼らをきびしく戒めて、「誰にも知れないように気をつけなさい」と口止めをしました。けれど彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めてしまいました。主イエスはご自分が約束されていた救い主であることを他の人々に言い広めないようにと、弟子たちを戒め、救われた人々と家族を戒め、また悪霊たちにも戒めました。この件については、申し訳ありませんが実はあまりよくは分かりません。(1)サタンや悪霊どもには厳しく戒めて、一言も言わせませんでした。大切な嬉しい知らせですから、悪霊やサタンなどに宣伝してもらわなくても良かったのです。(2)救われた人々への口止めは、やや緩やかなものでした。そう口止めされても、彼らは受け取った幸いを言い広めずにはいられませんでした。(3)弟子たちに対する口止めは、期間限定でした。やがて時が来て、彼らは宣べ伝えはじめます。町々村々へと二人ずつ組にされて遣わされて、また「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害を及ぼす者はまったくない」「すべての国民を主イエスの弟子とし、洗礼を授け、命じておいたいっさいを守るように教えよ。わたしは天においても地においても一切の権威を授けられている。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのだから」と命じられ、心強く励まされて。だからこそ、やがて主イエスの弟子たちは、警察や役人たちや裁判所やお偉い議員たちから厳しく叱られ、「イエスの名によって語ることも説くこともいっさい相成らん」と脅かされても、涼し~い顔をして断固として言い逆らいました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」(ルカ10:19,マタイ28:18-20,使徒4:19-20しかも「誰にも知られないように」という主イエスからの口止めは、今ではすっかり解かれています。ですから、どんなに臆病で肝っ玉の小さな怖がり屋のクリスチャンでも、今では誰でも脅かされたり叱られる度毎に、これくらいのことを言い返します。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいですか、どう思います? わたしたちはもうとっくに判断をして、腹をくくっていますけどね」と涼し~い顔をして。にこにこして。なぜなら、神さまが私たちの味方だからです。一切の権威を授けられた救い主イエスご自身が後ろ盾であり、その方が太鼓判を押し、しかも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのだから」と朝も晩も心強く励ましつづけてくださるからです。

       ◇

  さてあの彼らは、救い主イエスに「憐れんでください」と呼ばわり、願い求めました。知らんぷりされても、口を閉ざしませんでした。ぜひとも憐れんでいただきたかったからであり、しかも、きっと必ず憐れんでくださるとよくよく知っていたからです。『憐れんでくださる神である』と、ちゃんと知っている者だけが「主よ、わたしを憐れんでください」と願い求めます。願い求めつづけて、その憐れみを受け取ります。つまり、それは単なる願いであるだけではなく、こういう神さまを私はこのように信じているという信仰の言い表しであり、信仰の確信でもあったのです。『あなたがたの信仰どおりに、あなたがたの身になるように』とは、このことです。あなた自身は、どういう神さまを、どのように信じてきたのですか? 憐れみ深い神さまであると知っている者たちは、なんと幸いなことでしょう。神さまの格別な憐れみをあふれるほどに受け取り、その憐れみによって満ち足らせていただけるからです。
  思い起こし、魂に刻みましょう。初めに主なる神さまが天と地をお造りになったとき、その6日目に、神さまはご自分が造ったすべてのものをごらんになりました。それはとても良かったので、「極めて良い。嬉しい」と大喜びに喜ばれました。7日目に、それら造られたすべてのものを祝福し、ご自分のものとしました(=聖別.せいべつ,創世記1:31-2:3。神さまが7日目に安息し、ご自分の仕事を離れてホッと一息つかれたように、同じく私たちも安息日(=日曜日)を重んじ、自分の抱えもった仕事を離れて、ホッと一息つきます。神のものとされていることを改めて覚え、神さまからの祝福を受け取って、その祝福のうちに生きるためにです。天と地のいっさいを造って大喜びに喜び、ご自分のものとし、祝福なさった神は、それゆえご自分が造ったすべてのものを持ち運びつづけ、決して見捨てることも見放すこともなさいません。はじめの大喜びと祝福とを、神さまご自身がよくよく覚えておられるからです。
  思い起こし、魂に刻みましょう。ノアの時代、大洪水が地上を覆っていた間も神さまの憐れみは、箱舟とそこに避難したものたちの上に注がれつづけました。水が引いて箱舟から出た者たちは、その最初の礼拝の只中で、神の憐れみの言葉を聴きました。「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。悪いことを十分に承知した上で、しかし私は二度と人のゆえに地を呪うことをしない」(創世記8:1,21-22と。
  思い起こし、魂に刻みましょう。やがてアブラムとサライと、ほんのひと握りの人々を祝福の中へと選び取ったのは、その彼らのためだけの憐れみではなく、この天と地に満ちる神によって造られたすべてのものたちのための憐れみと祝福のためでした。「あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」(創世記12:2-3。すべてのものたちのための、神さまからの祝福の出発点。それが、私たちもまた神の民の一員とされていることの意味です。なんということでしょう。
  思い起こし、魂に刻みましょう。女奴隷ハガルはアブラムの子をはらみ、その途端に、自分の主人サライを見下げるようになりました。そもそもアブラムとサライ夫婦自身こそが神を侮り、神ご自身を見下したからです。ハガルは逃げ出しました。神はそれでもなおアブラムとサライ夫婦を憐れみ、女奴隷ハガルとその腹の子を憐れみました。荒野にある井戸の傍らで、ハガルは、「主はこんな私にさえ目を留めてくださった」と驚き、感謝にあふれました。「女主人のもとに帰って彼女に従順に仕えなさい」と命じられて帰りましたが、サライに従順に仕えることはできませんでした。主が私にさえ目を留め、憐れんでくださったことを、あっという間に、すっかり忘れてしまったからです(創世記16:1-14。残念でした。
  思い起こし、魂に刻みましょう。神の民イスラエルがエジプトで奴隷とされていた間にも、神さまの憐れみは片時も途絶えませんでした。奴隷の家エジプトから連れ出してくださったのも、ただただ神の憐れみによりました。主なる神は仰いました、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。だから わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地に至らせよう」(出エジプト記3:7-8を参照)
  思い起こし、魂に刻みましょう。旧約聖書の民はエジプト脱出とバビロン捕囚からの帰還と、二度の大きな憐れみの出来事を体験し、それを深く覚えつづけました。祭りも礼拝も、ただもっぱらその憐れみを覚えて、心に刻みつづけるためにあります。苦難の只中でようやく謙遜にされ、彼らは祈りました。「あなたは、あわれみをもってしばしば彼らを救い出し、彼らを戒めて、あなたの律法に引きもどそうとされました。けれども彼らはごうまんにふるまい、あなたの戒めに従わず、人がこれを行うならば、これによって生きるというあなたのおきてを破って罪を犯し、肩をそびやかし、かたくなになって、聞き従おうとはしませんでした。それでもあなたは年久しく彼らを忍び、あなたの預言者たちにより、あなたのみたまをもって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けなかったので、彼らを国々の民の手に渡されました。しかしあなたは大いなるあわれみによって彼らを絶やさず、また彼らを捨てられませんでした。あなたは恵みあり、あわれみある神でいらせられるからです」(ネヘミヤ記9:28-31を参照)
  思い起こし、魂に刻みましょう。主イエスの弟子たちも、異口同音に神の憐れみを思い起こしつづけます。「あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである」「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(ローマ手紙11:30-32,ペテロ手紙(1)2:10かつて私共は誰一人も神の民ではありませんでした。けれど神の民とされました。なぜ? どうやって? ――神からの憐れみを受けたからです。それを覚えているし、手にしっかりと掴んでいる。だからこそ、それで 私たちは今なお神の民でありつづけています。