わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。(ヨハネ福音書 10:10-11)
◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。独り子なる神、救い主イエスのお働きをとおして私たちを新しい生命と救いへと招き入れ、あなたの憐れみを受けた子供たちとしてくださり、現にそのように養いつづけてくださっていますことを、ありがとうございます。ますます、あなたに感謝をし、信頼を寄せ、あなたにこそ必要なだけ十分に聴き従いつづけて生きることができるようにさせてください。
しかも御父よ、私たちはあなたに対して誓いを立てました。あなたへの従順を主イエスが身をもって示し、差し出してくださいました。ですからこの私どもも喜んで、あなたへのその同じ従順の道を生きることができるようにさせてください。自分自身を愛するように、自分の家族を愛するように、自分と同じ肌の色で同じ言葉を喋る同じ民族を愛するように、それに負けず劣らず隣人を愛し、他の民族や他の主義主張をもつ人々を重んじ、互いに気遣いや労わりを差し出し合うことができるようにさせてください。自分勝手な心やわがままな思いを、どうか今日こそきっぱり捨てさせてください。へりくだった低い心をもって、互いに和み合い、喜びあう私たちとならせてください。あなたに対してするように、あなたに対して語るように、あなたへの畏れと慎みをもって、1つ1つをすることができますように。そのようにして私たちを、自分自身の家族の中にあっても、学校でも職場でも隣近所や町内会でも、道を歩いているときにも誰と一緒のときにも、あなたの慈しみと平和を輝かせるための『世の光』とならせてください。この国には、身を屈めさせられ、片隅に押しのけられ、貧しく心細く暮らす人々がたくさんいます。どうか、私たちを憐れんでください。また、あなたから差し出され、受け取りつづけています憐れみを証しして生きる私たちとならせてください。多く愛され、多くゆるされつづけている私共ですから、それと同じだけ多く愛し、多くゆるし、暖かく隣人を迎え入れ、手を差し伸べる私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2016,8,14(主日礼拝) № 72
◎礼拝説教 マタイ福音書 9:35-38,エゼキエル書34:1-12
日本キリスト教会 上田教会
『飼う者のない羊のように弱り果て、倒れている』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。37
そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。 (マタイ福音書 9:36-38)
34:8 わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。9
それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。11
主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。 (エゼキエル書 34:8-11)
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主イエスは町々村々を巡り歩き、諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、人々の病気やわずらいを癒して回りました。そして36節、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れまれ」ました。飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている。ここです。つまり救い主イエスの目には、弱り果てて、倒れているその人々が『羊』だと見えました。また、『本来なら、羊飼いに飼われ、世話をされ、養われているはずの羊なのに、彼らには羊飼いがいない。だからそのせいで弱り果てて、倒れている。なんと憐れな、なんと痛ましいことだろうか』と。神さまの目から見て、私たち人間は誰も彼もが羊です。しかも羊飼いに飼われ、世話をされ、養われて生きるはずの羊たち。もし羊飼いがいないのなら、羊飼いからはぐれ、仲間の群れからも離れてしまうならば、弱り果て、倒れてしまう他ない、あまりに脆く弱々しい生き物であると。
羊と羊飼いのことをお話いたしましょう。この当時のこの社会では、羊飼いという職業はごく普通のありふれた職業でした。神さまを信じて生きる人々は、羊飼いと羊たちのいつもの暮らしぶりを毎日毎日眺めつづけながら、その姿に重ねて、神さまと自分たち自身とを思い描きました。羊飼いである神であり、その神さまに養われ、世話をされて生きる一匹一匹の羊である私たちだと。さて、羊と私たち。羊飼いと神さま。どこがどう似ているというのでしょう。羊はどういう生き物なのかをご存知ですか? 他の動物と見比べてみると分かってきます。例えば羊には、迫ってくる危険を感じ取るための良い耳や嗅ぎ分けるするどい鼻がありません。逃げ延びるための速い足もありません。戦って相手を打ち負かすほどの鋭い牙も爪も角も、太くて力にあふれた強い腕もありません。ほとんどすべての生き物たちは、なにかしら身を守って生き延びてゆくための武器や道具をもっています。けれど羊には何もないのです。しかも! 目がとても悪い。目の前の、今食べている範囲の草しかはっきりとは見えません。おいしい草にありついてムシャムシャ、ムシャムシャ食べている。気がつくと、仲間の群れからも羊飼いからもはぐれて、迷子になっている。戻る方角も道筋もさっぱり分からない。崖から転げ落ちてしまうかもしれません。腹を空かせて飢え死にしてしまうかも知れません。強い獣たちに襲われて食べられてしまうかもしれません。羊ドロボウに捕まってしまうかも。あまりに無力で無防備な羊が生き延びてゆくためには身を守るための何の道具も武器もなく、その代わりに羊飼いがいてくれます。自分のための良い羊飼いが目を留めていてくれて、世話をし、養ってくれるならば、それなら羊は一日一日と安らかに生きのびることができます。そうではないなら、羊は弱り果て、倒れて、ついにとうとう死んでしまうほかありません。
けれど、それならなぜ、その神を信じて生きるはずの彼らがまるで飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのか。本来なら、羊飼いに飼われ、ちゃんと十二分に世話をされ、何の不足も危うさもなく養われているはずの羊なのに。彼らのための羊飼いは、いったいどこで何をしているのか。さきほど読みましたエゼキエル書34章です。『羊飼いである神さま。その神さまに世話をされ、養われる羊である私たち』。さて神さまが羊飼いであるとして、私たち人間の世話をしたり助けたり守ってあげるその羊飼いの役割を人間にもさせました。王や祭司や預言者や役人たち、民の中の長老たちなどがその係です。つまり、神さまこそが私たち人間の世話をしたり助けたり守ってくれる羊飼いなんですが、私たち人間にもその羊飼いの役割をさせました。けれど、困ったことになりました。羊飼いの仕事を任せてあった人間たちが、その仕事をちゃんとしないのです。それで、たくさんの人たちがいじめられたり、乱暴されたり、除け者にされたり、追い払われてあちこちに散り散りになってしまったりしました。そのあまりにかわいそうな姿を見て神さまは怒ったり、悲しんだりしました。神さまは預言者に語りかけました。1節から、ゆっくり読んでみましょう;「主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは・・・・・・。(8節)主なる神は言われる、わたしは生きている。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す』」(エゼキエル34:1-11)。羊飼いの仕事を任せてあった人間たちに向かって神さまは言います。「王も祭司も預言者も役人たちも、全員クビ。だってお前たちは自分のことしか考えていないじゃないか。ただ自分が楽しんだり、いい思いをしたり、食べたり飲んだりするばかりで、他の羊たちの世話をしようともしない。見てみなさい。あの迷子になったり、病気になったり怪我をしているかわいそうな羊たちを。おそろしい獣に食べられそうになっている羊たちを。傷ついてすっかり弱り果ててしまった小さな羊たちを。なんとも思わない。分かった。もう、お前たちに任せてはおけない。私が自分で羊たちを探し出し、自分で彼らの世話をし、自分で彼らを養い、守っていく」と。
やがて来る救い主は、この羊飼いである救い主である(23-24節)。人々は神さまのこの約束を信じて待っていました。ある日、ナザレ村から来たイエスという人が、人々を集めて、おかしなことを語り始めました。「ある人が100匹の羊を飼っていてその1匹が迷子になりました。その羊飼いはどうすると思う。もちろん大慌てで探しに出かけて、どこまでも探し、とうとう見つけて大喜びでその羊を連れ帰りますよ。『皆さん、いっしょに喜んでください。いなくなっていた羊を1匹、とうとう見つけたんですヨオ』って」。このイエスさまは、人々がまるで世話してくれる羊飼いを持たない迷子の羊のように弱り果て、がっかりして暮らしている姿を見て、ああかわいそうになあと心をひどく痛めておられました。また、こんなことも語り出しました。「私は良い羊飼いです。だって、羊のことをちゃんと心にかけていますから。その羊たちを連れ戻して救うためには、自分の生命さえ喜んで投げ出しますから」(ルカ福音書15:3-7,マタイ福音書9:36,ヨハネ福音書10:11-18参照)。そんな話を聞いてもなんとも思わない人もいましたけれど、聖書をよくよく読んで教えられてきた人たちはピンときました。「あ、あのことだア。エゼキエル34:1-24。じゃあ、この人が、あの約束されていた羊飼いだったのか。神さまが約束してくださったことが、とうとう本当の出来事になるのか」。
神さまご自身である救い主イエスがとうとうやって来ました。格別に良い羊飼いとして。十字架にかかって殺され、葬られ、三日目に復活し、その姿をみんなに見せてくださり、天に昇って今も私たちのために働きつづけ、やがてもう一度この世界に来てくださる。そのようにして、救いの御業を成し遂げてくださる。弱いものを強めるためにです。病気のものを元気にし、傷ついたものの手当をし、やさしく包んであげるためにです。除け者にされて追い払われたわれたものを連れ戻すためにです。迷子になって失われたものを探し求めるためにです。あの遠い昔、「見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」と仰った主なる神さまこそが、救い主イエスでした。その救い主を信じて、私たちもとても弱かったのに強くしていただきました。病気だったのに元気を取り戻しました。傷の手当をしてもらい、追い払われていたのに連れ戻してもらいました。迷子になっていたのに、探し出していただきました。世話をされつづけています。だから、それで私たちはここにいます。
あのとき確か、「全員クビ」って羊飼いの仕事を皆が取り上げられてしまったんでしたね。生身の人間である羊飼い(=牧者)は、あのときから、1人もいなくなったはずだった。けれどいないはずなのにいます、それも大勢。キリスト教会の牧師は、この『羊飼い』という意味です。復活の主イエスは、挫折し逃げ去ったペトロともう一度出会って、こうおっしゃいます。「私を愛するか。愛するか。愛するか」「じゃあ、あなたも、私の子羊たちの世話をしなさい。そうやって、私に従いなさい」(ヨハネ福音書21:15-17参照)と。いいえ! 勘違いしてはいけません。ただ『牧師』だけが羊飼いではありません。洗礼を受けたすべてのクリスチャン、イエスを信じて生きるクリスチャンたち全員が、神さまから直々に、この羊飼いの仕事を任せられました。私の子羊たちの世話をしなさい、養いなさい。もし私を愛したいと願うなら、私の子羊同士で互いに世話をし、面倒を見合いなさい。よろしく頼みますと。
最後の37-38節は、少し分かりにくいと思えます。「そして弟子たちに言われた、『収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』」。収穫と聞いて私たちはごく普通に思い浮かべる『収穫』と、ここで語られている中身はずいぶん違うと思えます。よく晴れた秋の日に、たわわに実った豊かな水田風景とか、畑の収穫物とか。よく実って熟したぶどう畑、りんご畑、とうもろこしとか大根とか、なす、トマト、カボチャとか。「収穫は多いが」と語りかけながら、救い主イエスはどういう光景を見つめているでしょうか。傷つき倒れて、息も絶え絶えの、今にも死んでしまいそうな弱り果てた羊たちの一匹一匹です。失われた、あてもなく野山をさまよい歩く惨めな羊たちです。飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている、神の羊たちです。それこそが、収穫されるべき羊たちであり、主イエスの群れの囲いの中へと無地に迎え入れられ、世話をされ、養われるべき羊です。「働き人が少ない」とはどういうことでしょうか。すでに主の囲いの中へと迎え入れられ、世話をされ、養われている羊たちの数は十分に多いはずなのに。・・・・・・もしかしたら私たちは、その『働き人』の中にこの自分自身も含まれ、頭数に数えられていると気づいていなかったのかも知れません。傷つき倒れて、息も絶え絶えの、今にも死んでしまいそうな弱り果てた羊たちの一匹一匹。失われた、あてもなく野山をさまよい歩く惨めな羊たち。飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている、神の羊たち。それこそが、ぜひ何としても収穫されるべき羊たちであるとするならば、この私たちの働き方もずいぶん変わったものとなるでしょう。他のどんな優れた働きや業績でもなく、ただただ憐れみの実をこそ結ぶ働きであるほかありません。こう証言されています、「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(コリント手紙(2)9:9-14を参照)。憐れみの実だと言われながら、けれど、「あなたがたの義の実を」と書いてありましたね。え? と首を傾げましたか。「おかしいなあ、どういうことだろうか」と考え込みましたか。いいえ。正しくともなんともなかった私共が! けれど神さまから『正しい』と見なしていただきました。救い主イエスが成し遂げてくださった御父への従順を私たち自身の従順、神への正しさとして、ただ恵みによって贈り与えられました。つまり私たちの正しさとは、それは直ちに、神さまから贈り与え合えられた憐れみです。「あなたがたの義の実」、それは直ちに、『贈り与えられた憐れみの実そのもの』です。しかも主イエスを信じる信仰によってこのお独りの方の中へと植え込まれた私たちが、憐れみと感謝の実を結ばないなどということはありえないのですから(ハイデルベルグ信仰問答,問60-64,1562年)。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。