2016年8月10日水曜日

日曜学校夏期学校「神のみこころ(1)」

《朝のおはなし》               
 エゼキエルしょ34:5-12       
  『羊飼いたちを、みんなクビにする』
                                    はなし/かねだせいじ牧師

34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。 
                      (エゼキエル書 34:5-12

  そのころには、羊飼いも羊も、あちこちにたくさんいました。親戚のおじさんおばさんや、となりのおじさんや自分の家の兄さんが羊飼いだったりして、羊飼いはどこにでもあるふつうの仕事でした。いろんな羊がいます。勝手にフラフラ出歩いて、すぐに迷子になる羊。いたずらっ子の羊。いつも「腹減った。腹減った」って言っている食いしん坊の羊。甘えん坊の羊。「あー、みてごらん。あのプンプン怒ったり、いじけてすねている羊。○△君にそっくりだあ」。いつもの暮らしの中で、羊飼いたちが羊の世話をするようすを見ながら、人々は神さまを思い、神さまに守られ、養われて生きる自分たちを思いました。「ああ。こういう神さまだ。こういう私たちだ」と神さまを信じる人々はおもいました。羊飼いである神さま。その羊飼いに世話をされ、やしなわれて生きる羊である私たちだと。その神さまが、人間たちの中に『羊飼いの仕事をする者たち』を立てて他の人間たちの世話をさせました。人間でもある羊飼いたち。つまり、王さまや祭司や預言者たちなどです。けれど人間である羊飼いたちは、羊の世話をちゃんとしませんでした。それで羊である人間たちは仲間のむれから追いだされたり、迷子になって獣のえじきになったり、病気になって具合が悪くなったり、ケガをしてもそのまま放っておかれたりしました。もちろん神さまはとてもとても怒りました。「悪い羊飼いたちめ。自分ではおいしいものを食べ、よい服をきているが、ちっとも羊たちの世話をしないじゃないか。弱ったものを強くせず、病気のものを治してやらず、傷ついたものの手当てをしてやらず、いなくなったり迷子になった羊を捜そうともせず、かえって羊たちを乱暴に、いじわるにあつかっているじゃないか。自分のことばかり大事にして、羊たちを放ったらかしにしている。なんて悪い羊飼いたちだ。神などいないとでも思っているのか。いいや、私は目をひからせてきたし、ちゃんと生きて働いている。だからもう、おまえたちに羊の世話をさせてはおかない。全員クビだあ!!」と。そのかわりに、神である私が自分で羊たちの世話をし、自分で羊たちをやしなう。追いだされたり、迷子になって獣のえじきになりそうな羊を私が自分で捜しだし、病気になって具合が悪くなった羊やケガをした羊を、私の羊たちを、この私が自分で元気にしてやろう。この私が自分で捜しだし、自分で世話をして養ってやろう。
  神さまを信じる人たちは、この救いの約束をききました。そして、信じて待ちつづけました。「やがて、神さまが救い主として、私たちのところに来てくださる。ほんとうに良い羊飼いとして来てくださって、約束どおりに、神である救い主が自分で羊たちの世話をし、自分で羊たちをやしなってくださる23節を参照)。追いだされたり、迷子になって獣のえじきになりそうな羊を、神である救い主が自分で捜しだし、病気になって具合が悪くなった羊やケガをした羊を、神さまの羊たちを、救い主である神さまごじしんが自分で元気にしてくださる。自分で捜しだし、自分で世話をして養ってくださる。やがて、良い羊飼いである救い主が、きっとかならず私たちのところに来てくださる」と。




  《主題のおはなし/神のみこころ①》
 ルカふくいんしょ15:1-10       
  『一匹の羊、一枚の銀貨』
                はなし/かねだせいじ牧師

15:1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして 近寄ってきた。2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。3 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、4 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。7 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
8 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくし  たとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。9 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。10 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
                        (ルカ福音書 15:1-10)

  いつものように主イエスは、ほかの人たちからバカにされたり仲間はずれにされている人たちや取税人たちとたのしく食事をしていました。食べたり飲んだりしながら、神の国について教えてくださっていました。すると、そのたのしい様子を見て、いつものように文句や悪口をいう人たちがいました「罪人たちを迎えて、おしゃべりしたり、食事までいっしょにしている。ああ、ひどい。イヤだイヤだ」2節,ルカ5:29を参照)と。この文句や悪口をぶつぶつ言っている人たちのために、主イエスはたとえ話で教えはじめます。神さまが、どういう人たちを、どんなふうに恵みと祝福のもとへと招いてくださるのかを。
  4-6節。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼びあつめ、『わたしといっしょに喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」。さあ、本気になって考えてみましょう。もし、あなたが羊飼いで、飼っている羊の一匹が迷子になったら、九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまでどこまででも何日も何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで捜しまわるでしょ。見つけたら、肩に担いで、大喜びで帰ってきますね。ね、あなたもきっとそうするでしょう。本当? (手をあげさせる)「私もきっとそうします」って人は。「いいや。私はそんなことはしない」って人は? 野原に残した九十九匹の羊は、あっという間にどこかにいなくなってしまうでしょう。そうしたら大損害です。羊会社の雇い主からきびしく叱られて、クビにされてしまうかも。そんなことをする羊飼いは滅多にいません。捜しに行くとしても、99匹をまず囲いに戻して柵に鍵をかけて、留守を守るアルバイトを雇って細々と指示を与え、それから捜しに行くでしょう。せいぜい30分か1時間くらい捜して見つからなかったら、諦めて帰ってくるでしょう。「何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで」などという捜し方はしませんね。私たちのいつもの考えややり方とは、ずいぶん違います。だから、ここでハッと気づかねばなりません。この羊飼いは、私たち人間のことではありません。私たちとは違って、もし神さまなら きっと必ずそうしてくださるということです。なぜ、いなくなったたった一匹を見つけるまでどこまででも何日も何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで捜しまわるのでしょうか。かわいそうだからです。迷子になった羊は、放っておいたらどこまででも行ってしまいます。太郎山のてっぺんにまで登ってしまうかもしれません。崖の小道の先の先まで、どんどん登って、崖から転げおちてしまうかもしれません。おそろしいけものやクマに、ムシャムシャ食べられてしまうかもしれません。こわくてさびしくて、心細くて、どうしていいかわからなくてメソメソシクシク、エンエンエンエンないているでしょう。その恐ろしさや心細さが手にとるようにわかるので、かわいそうでかわいそうで、だから、あとさき考えず、いなくなったと分かったらすぐに捜しにでて、見つけるまでどこまででも何日も何ヶ月、何十年かかっても、見つけだすまで捜しまわります。そういう神さまだからです。あやうく死んでしまうところを見つけて助けてあげたら、うれしくてうれしくて、大喜びで連れてかえります。「みなさん。いっしょに喜んでください。いなくなった羊を見つけましたよお。ああ、うれしい、うれしい」。
  7節。「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう」。迷子になって、神さまの恵みの場所からはぐれてしまった羊。戻りたくても戻れず、こわくてさびしくて、心細くて、どうしていいかわからなくてエンエンエンエンないているかわいそうな羊。それが、『罪人』の中身です。なぜ見つけるまで捜すのか。なぜ、捜しだして大喜びで連れて戻るのか。放っておいたら死んでしまうからです。かわいそうでかわいそうで、しかたがないからです。こういう神さまです。この羊がどうして、どんなふうに迷子になってしまったのかは書いてありませんね。意地悪なほかの羊に追いだされてしまった場合もあるし、自分勝手でうっかりしていた場合もあるでしょう。羊飼いといっしょに暮らしているのがイヤになって、自分から出ていった羊もいましたよ。このルカ福音書15章には、迷子になった一匹の羊、なくなった一枚の銀貨、自分から家を出ていった息子と三つのたとえ話が次々に語られます15:4-6,8-9,11-24,25-32。この15章は、『聖書全体の心。神さまの心』と呼ばれて、大切に読み親しまれてきました。これらはみな、『罪人』の中身です。なくなった銀貨なんて、自分が持ち主の手から転げおちてしまったことにさえ気づかずに、恐ろしいとも心細くて淋しいとも、なんとも思っていません。いろんな迷子のなりかたがあって、けれどみな、とてもかわいそうです。かわいそうでかわいそうで、それで大慌てで必死に捜しまわり、連れて戻って、神さまは大喜びします。そういう、とてもやさしい心の神さまです。
                  2016,8,7-8 信州バイブルキャンプにて)

       (図表 『羊飼いである神。その神に養われる羊である私たち』)


【補足説明/およその全体像】
神と私たち人間との関係はいくつかの大きなイメージで語られつづけてきました。例えば、親と子、夫婦や恋人同士、医者と病人、木と枝、農夫と畑、また『羊飼いと羊』というように。羊と羊飼いの普段の暮らしぶりを眺めながら、『ああ、羊飼いである神。その神に養われる羊である私たちだ』と(エゼキエル書34:1-31,23,100:1-3,イザヤ書40:10-11,53:6,サムエル記上17:34-37)。神ご自身が羊飼いであり、しかも同士に羊である人間の中に『羊飼いの役割』を担う者たちを神が立てました。王、祭司、預言者。また様々なリーダーたち。けれどそのリーダーたちは身勝手で不誠実で、羊たちの世話をしません。エゼキエル書34章では、「その不届きなリーダーたちを全員解雇する」と神が宣言し、彼らに代わって神ご自身が『良い羊飼い』としてご自分の民の世話をすると約束なさいました。長い歳月をへて、その約束が救い主イエスによっていよいよ果たされます(ルカ15:1-7,ヨハネ10:11-18,21:15-19,マタイ9:36。特にヨハネ福音書21:15-19では「私を愛するか。私の子羊の世話をし、養いなさい」と『羊飼いの役割』を担う人間たちが改めて再雇用されます。プロテスタントの牧師は、ペテロとともに、この再雇用された羊飼いたちです。ですから、「全員クビ」と厳しく叱られて解雇されたことと、憐れみを受けて再雇用されたいきさつを、すべての牧師たちは朝も昼も晩もよくよく覚えて、魂に刻んでおかねばなりません。やがてペテロは何年も働いたあとで、しみじみと仲間の羊たちに語りかけます、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」(ペテロ手紙(1)2:21-25)。ああ本当に、私たちはただお独りの良い羊飼い=救い主イエスのもとへと連れ戻していただきました。なんと幸いなことでしょう。
 「羊は、私たちクリスチャンだけのことですか?」と、良い質問を受けました。もちろん、クリスチャンだけではなく、人間様だけでもなく、神によって造られたすべての生き物たちです。救われるべき対象、憐れみの及ぶ範囲を思い巡らせてみてください。世界創造の7日目に神は、ご自身によって造られたすべてのものを自分のものとし、祝福なさったのです。ノアの大洪水後には、「すべての生き物と救いの契約を立てる」と神は断言なさり、神の民の出発に際して、「あなたによって地のすべてのやからは祝福に入る」と約束されたからです(創世記2:1-3,9:10-17,12:1-3,ローマ手紙8:18-22。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう(ヨハネ福音書10:16と救い主イエスご自身もおっしゃいました。天と地のすべて一切を造った神であり、その当然の帰結です。自分が失われた羊の一匹であることをまだ知らない、おびただしい数の羊たちが残されていることを、飼い主がいないかのように弱り果て、倒れている憐れな羊たちのことを、この私たちは覚えておきましょう。私たちクリスチャン全員もまた、今では『羊飼いの役割』を託されてもいるからです。