8/21 こども説教 ルカ6:43-45
『その実によって分かる』
6:44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。45
善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。 (ルカ福音書 6:44-45)
良い木から良い実がなる。悪い木から悪い実がなる。その通りですね、とても分かりやすいです。人間もそれとそっくり同じで、心の中にそれぞれ倉をもっていて、このわたしたちは良い心の倉から良い物を取り出し、悪い心の倉からは悪い物を取り出す。自分自身の心の倉から出てきたものによって、その人が良い人間なのか悪い人間なのかが分かると主イエスはおっしゃいます。45節の終わりを見てください。「心からあふれ出ることを、口が語るものである」。こういうことを折々に語られるから、それで、「ああ、そうだったのか」と私たちは神さまへと心を向け返して生きることができます。ぼくの口からも! ついつい悪口や陰口が出てきます。ついつい意地悪な、思いやりのない、冷たい言葉が出てきて、「思ってもいないことを、うっかり言ってしまった」などと言い訳をしています。思ってもいないことを、うっかり言った? 嘘ですね。もしも本当に思ってもいなかったことならば、その口から出てくるはずがない。思っていたからこそ、その悪い言葉と思いが出てきました。意地悪でトゲトゲしい態度や仕草や、バカにしたような表情や、怒った恐い顔つきや、思いやりのない声。悪い心の倉から悪いものがどんどん出てこようとします。すると私たちは、かなりの悪者たちですね。別のとき、主イエスはこうおっしゃいました。「口に入るものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである」(マタイ14:11-20を参照)。
さて、それぞれ心の中の倉に悪いものをドッサリ溜め込んだ悪者である私たちが、けれど神さまからの憐れみを受け、その罪をゆるされました。しかも! ただその憐れみによって、私たちの心の倉はだんだんと少しずつ少しずつ清くされてゆきます。悪いものをドッサリ溜め込んでいたはずだったのに、今ではその倉から、良いものがときどき、ほんの少しずつは出てくるようにされました。びっくりです。元々とても悪い木だった私たちは、良い木である主イエスの幹に接木されて、主イエスの木の枝々とされたからです(ヨハネ福音書15:1-8,ローマ手紙11:16-24)。神さまのおかげです。口からも態度からもいつもの暮らしぶりからも良いものが出てくると嬉しいでしょう。悪いものが心の倉からだんだんと少なくなってゆくと晴れ晴れしてきます。さきほどご一緒に歌いましたこども讃美歌の「主われを愛す」(讃美歌461,賛美歌21-484)の4節目。「♪わが君イエスよ、われを清めて、良き働きをなさしめたまえ」。わたしのボスである主イエス。どうか、この私の心の倉を清くしてくださって、こんな私にも良い働きをさせてください。主イエスなら、きっとしてくださるとちゃんと分かっているし、信じているので、それで願い求めています。もちろん、願いはかないます。神さまが、この私たちのためにも、きっとかなえてくださるからです。
【補足説明/木と枝と根と土と】
(*)ローマ手紙11:17-24。ヨハネ福音書15:1-。この2箇所が、聖書の中に積み重ねられてきた『木と枝と根と耕す人のイメージ』の総まとめの役割をはたします。長い歳月をかけて育っていく一本のとても大きな木を思い浮かべてください。大きな大きなオリーブの木を。数千年かけて育ってきた大きな一本のオリーブの木、それが神の民イスラエルです。太い幹の根本から梢の先の先まで、たくさんの枝々が伸びています。一本一本の枝は、それぞれの時代時代のイスラエル民族であり、キリストの教会であり、一人一人の私たちキリスト者です。ごく早い時期に根元のあたりから伸びた枝があり、数千年後になってから、梢近くで芽を出して伸びてきた若い枝々もあります。私たちのこの上田教会は、また私たち自身はどのあたりに、どんなふうに枝を伸ばしているのでしょう。またその大きな木は、木を守る『耕す人・農夫』によって手入れを受けています。忍耐深く骨惜しみしない働き者であり、木をとても愛している農夫は、野生のオリーブの木から枝を切り取って、この豊かな木に接ぎ木しつづけます。手入れをする農夫。太い幹。そして、多くの枝々。それは父なる神、神の独り子、そして多くの信仰者たちです。あのヨハネ福音書15章でも、「つながっていなさい。あなたは留まっていなさい」(9節)と。主イエスにつながっているなら、誰でもきっと必ず、豊かに実を結ぶ。それこそが、神さまから私たちへの断固たる約束です。