みことば/2016,8,28(主日礼拝) № 74
◎礼拝説教 マタイ福音書 10:16-23 日本キリスト教会 上田教会
『主ご自身こそが語り、支え、救い出す』
~指図と心得.(2)~
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
10:16 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。・・・・・・19
彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。21
兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。22 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 (マタイ福音書 10:16-22)
先週の1-15節のつづきです。主イエスのもとから町々村々へと弟子たちが送り出されていきました。手ぶらで出かけていき、「天国が近づいた。この家に平和があるように」(7,12節)と祈れと指図されて。あの最初の12人と、この私たちクリスチャンとは同じ心得と同じ指図を授けられて、主イエスのもとから送り出されえてゆきます。それぞれの家族のもとへ、住んでいる地域やいつもの職場へと。そこで主イエスの弟子として一週間ずつ暮らします。日曜日毎に主のもとへと立ち返り、また主のもとから送り出され、立ち返りと、そのようにして心得と指図を確認し、改めて心に深々と刻み込みながら、一週間、また一週間と生きてゆく私たちです。
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また、「手ぶらで出かけてゆけ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(8-10節)とも指図されました。それと今日の箇所とは、どこがどう結びつくのでしょう。16-18節、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」。蛇はどういうふうに賢かっただろうか。鳩は、どこがどう素直だろうかなどと思い悩みはじめると、すっかり訳がわからなくなってしまいます。むしろ、16節の『羊を狼の中に送る』という一言。これで、すっかり分かります。9章36節で、主イエスは「群衆が飼う者のない羊のように弱り果て、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れんだ」と。だからこそ、弱り果て倒れている羊たちのための「働き人」をと。それは、直ちに『羊飼いの役割を担って働く羊たち』です。そして送り出す際の指図、10章6節、「イスラエルの家の失われた羊たちのところに行け」。『羊飼いの役割を担って働く羊たち』として、失われた羊たちのところへ行き、捜し出し、弱ったものを強くし、病気にかかり傷ついたものを手当し、良い羊飼いである救い主イエスのところへ連れ帰ること。これこそが、あの最初の時も今も変わらず、『羊飼いの役割を担って働く羊たち』がなすべき働きであり、
この私たちにゆだねられている使命です。
日曜学校の夏期学校で『羊飼いと羊』のことを話してきたばかりなのですが、神さまが羊飼いであり、その神さまに養われる一匹一匹の羊である私たち。しかも羊である私たち人間の中に、ほかの羊たちの世話をし、養う『羊飼い』の役割が委ねられました。牧師だけでなく、長老や執事だけでなく、すべてのクリスチャンが他の羊たちの世話をし、互いに養いあう『羊飼い』の役割が委ねられています。このことが大事です(エゼキエル書34:1-31,詩23篇,イザヤ書40:10-11,同53:6,ルカ福音書15:1-7,ヨハネ福音書21:15-19,ペテロ手紙(1)2:24-25を参照)。すると『羊飼いの役割を担って働く羊たち』はすでに必要なだけ十分にいるはずなのに、なお今日でも、はぐれて迷子になり失われつづけている羊たちが大勢おり、おびただしい数の、弱り果て、倒れている羊たちがいるのはどうしたわけでしょう。すべてのクリスチャンは、自分は養われ世話されるはずの羊であると知っているだけでなく、他の羊たちの世話をし、互いに養いあう『羊飼い』の役割がこの私にも委ねられていると気づく必要があります。「収穫は多いが働き人が少ない」(9:35)と嘆かれていた理由はそこにありました。だから収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。その通りです。すでに送り出されている働き人が目を覚まして、「ああ。私も失われた羊たちや、弱り果て、傷つき、倒れている羊たちのための働き人たちの一人であり、羊飼いの役割を担って働く羊の一匹だった。うっかり忘れていた。かえって逆に他の羊を押しのけて迷子にしてしまったり、意地悪したり、乱暴に扱ってケガをさせたりしていた。これは申し訳ないことだった。あの羊たちや神さまに対しても、この私こそがまったくお詫びのしようもない」と。さて夏期学校のキャンプで、「羊は、私たちクリスチャンだけのことですか?」と良い質問を受けました。もちろんクリスチャンだけではなく、人間様だけでもなく、神によって造られたすべての生き物たちこそが『失われた羊たち』です。天と地とその中にあるすべて一切が、イスラエルの家とその羊たちです。なぜでしょうか。憐れみ深い神さまによって救われるべき対象、憐れみの及ぶ範囲を思い巡らせてみてください。世界創造の7日目に神は、ご自身によって造られたすべてのものを自分のものとし、祝福なさったのです。ノアの大洪水後には、「すべての生き物と救いの契約を立てる」と神は断言なさり、神の民の出発に際して、「あなたによって地のすべてのやからは祝福に入る」と約束されたからです(創世記2:1-3,同9:10-17,同12:1-3,ローマ手紙8:18-22)。「わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう」(ヨハネ福音書10:16)と救い主イエスご自身もおっしゃいました。天と地のすべて一切を造った神であり、その当然の帰結です。自分が失われた羊の一匹であることをまだ知らない、おびただしい数の羊たちが残されていることを、飼い主がいないかのように弱り果て、倒れている憐れな羊たちのことを、この私たちは覚えておきましょう。私たちクリスチャン全員もまた、今では『羊飼いの役割』を託されてもいるからです。すると、『羊飼いの役割を担って働く羊たち』としての賢さや素直さをこそ、よくよく思いめぐらしてみるべきでしょう。送り出してくださった良い羊飼いである主イエスの御心にかなって働き、暮らしていこうとする賢さであり、主イエスに一途に目を凝らし、耳を傾け、信頼を寄せつづける素直さである他ありません。
23節の末尾に目を向けてください。「よく言っておく。あなたがイスラエルの町々を回り終えないうちに、人の子は来るであろう」。福音書の中で、主イエスはご自身のことをたびたび『人の子』と言い表しつづけます。主イエスご自身のことです。覚えておくべきことは、ご自分が出かけていこうとしている町々村々に、この私たちを先立って送り出しておられる、つまり私たちが送り出されたその所々に、その家や、そのいつもの職場に、その町々に、主イエスご自身が後から来られる! ということです。しかもやがて弟子たちを送り出す際に、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らに洗礼(=せんれい。バプテスマ)を施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20)と太鼓判を押してくださったではありませんか。この私と、いつも共にいてくださると肝に銘じつづけましょう。それは大きな励ましであり、私たちの拠り所であり、同時に、私たちの襟を正させ、背筋をピンと伸ばさせます。なぜなら私たちが足を踏みしめて立っている場所は、どこで何をしていても何もしていなくたって、誰と一緒のときにもただ独りで過ごす日々にさえ、エルサレムの城門の只中でありつづける。なぜ? 本当に? 主イエスご自身が私たちのための主の家であり、しかも私たちはそれぞれ主が宿ってくださる主の家とされているからです(コリント手紙(1)3:16-17,6:19,(2)6:16)。だからこそ、名も無き祈りの人は気づきました――
キリストはこの家の主人であり、
いつもの食卓の目に見えないお客であり、
私たちのいつもの何気ない会話やお喋りの一つ一つに
黙って耳を傾けつづけておられる方です。
やがて私たちは衆議所や公民館、町内会自治会館に呼び出され、裁判所や警察署に引き渡され、ムチ打たれたり、脅されたり、はずかしめられたり、長官や王たちの前に引き出されます。聖書に書いてあるとおりに。「あかしをするためである」(18節)とはっきり告げられています。主イエスの弟子であることのあかしであり、具体的には、良い羊飼いである主イエスのもとから、彼の権威のもとに送り出された『羊飼いの役割を担って働く羊たち』の一員であることの証しです。そうであるならば、何の心配も後暗さも引け目もまったくありません。19節以下。何をどう言おうかと心配しなくてもいいそうです。言うべきことは、その時に授けられる。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。また私たちは、主イエスの名のゆえにすべての人に憎まれるであろうと予告されています。悪い大臣ハマンの時代のエステルとモルデカイとユダヤ同胞たちのように(エステル記3:1-4:17)。あるいは、豊臣秀吉から江戸時代へとつづいた長い長い迫害の時代のキリシタンたちのように。主を信じる兄弟姉妹たち、恐れてはなりません。恐れるに足りません。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(22節)からです。
最後まで耐え忍ぶ者は救われる。このことを、はっきりと説き明かしておきましょう。『最後まで耐え忍ぶことができたので、だからその者は救われる』ということではなくて、『すでに救われているので、だからその者は最後まで耐え忍ぶことができる』。つまり順序が逆なのです。すでに神によって愛され、神の民として選び出され、救われ、支えられ、養われつづけているので、だから! 主イエスを信じるその一人のクリスチャンは最後まで耐え忍ぶことができるのです。すべて一切は、ただただ神さまの憐れみにだけかかっています。憐れんでくださる神であり、憐れみを受けた私たちである。だから、この私たちもまた、様々な困難や厄介事や悩みと苦しみが次々と待ち構えているとしてもなお、きっと必ず最後の最後まで耐え忍ぶことができます。神さまこそが、それをこの私たちのためにも成し遂げてくださいます。
多くの時代が流れて、けれどなお神の民とされた私たちの悪戦苦闘の日々は続きます。1人のお母さんは家計簿を眺めながら思い悩みます、「今月のやり繰りをどうしたらいいだろう。子供たちの学資や養育費や、私たちの老後のための蓄えは」と。1人のおばあさんは思案します、「このごろ耳が遠くなった。膝も腰も痛い。私の骨粗しょう症と糖尿と高血圧をどうしたらいいのか。せめて、血圧最高値を162まで引き下げなければ」と。1人の悲しく淋しいクリスチャンは失望します、「頼りにしていたあの人がこう言う。この人もこう言う。誰も分かってくれない。誰も私の力になってくれない」と。不思議なことです。神の民は、いつもごく少数でありつづけ、自分たちの小ささ、弱さ、貧しさをつくづくと思い知らされました。しかも主は、私たちを愛してくださっており、その愛はとても強いので、だからたとえ私たちが弱くても乏しくても貧しくあっても、なお恐れはない。主は、「我らの弱さを知りて憐れむ」(讃美歌461,312番2節を参照)お方だからです。しかも私たちは「憐れんでくださる主であり、憐れみを受けた私たちだ」と知って、主イエスを慕い求める。だから、ご覧ください。残った無力で小さい者たちは、憐れみ深い主の御前に膝を屈め、そこでこそ助けと支えを求めて仰ぎ見、立ち上がりました。「はい。私が戦います」と言いながら、あの新しい彼らは、「私ではなく、主ご自身が先頭を切って第一に戦ってくださる」と知っています。「私が担います」と言いながら、「主こそが全面的に、最後の最後まで担い通してくださる」と知っています。「主にこそ私はお任せしている」と弁えているからこそ、その新しい人は「私が引き受けます。私にお任せください」と手を挙げます。そこは晴れ晴れしていました。なにしろ神さまが大きい。なにしろ神さまこそが、他の何者よりも飛び抜けて、その千倍も万倍も強く賢くあってくださる。その膝を屈めた無力な場所こそ、この自分があるべき居場所だと思い定め、そこで彼らは、私たちの弱さを知って憐れんでくださる主イエスと出会いました。出会いを積み重ねてまいりました。私共はクリスチャンです。ここは、キリストの教会です。
祈り求めましょう。