2022年2月7日月曜日

2/6「救い主が捕らえられる」ルカ22:47-53

            みことば/2022,2,6(主日礼拝)  357

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:47-53         日本キリスト教会 上田教会

『救い主が捕らえられる』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:47 イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。48 そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。49 イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、50 そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。52 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。53 毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。ルカ福音書 22:47-53

 

1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。……11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。(1ペテロ手紙 1:5-13)


まず47-48節、「イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。あなたは接吻をもって救い主である私を裏切るのか。なんという痛烈な言葉でしょうか。救い主イエスを愛していると見せかけながら、とても悪い、よこしまな裏切り行為がなされています。その弟子の一人が、こうして主への愛情と尊敬を装いながら、自分の主人を敵対者たちの手に引き渡します。同じような出来事が聖書の中でも、その後のキリスト教会の歴史の中でも、何度も何度も繰り返されつづけています。世界の終わりまで、そうしたことは続きます。聖なる神の御名のもとに迫害や、不当な独裁政治や人々を踏みにじる犯罪行為が繰り返されつづけます。この私たち自身もまた、ユダのように心を曇らせ、鈍くされて、主への愛情と尊敬を装いながら、はなはだしく主に背く行いをしてしまうかも知れません。それは、あり得ます。例えば、北王国イスラエルの王とされたアハブ王と王妃イゼベルはナボトという人のぶどう畑が欲しくなりました。ナボトは、けれど王の「その畑をゆずってくれたら、別のもっと良いブドウ畑を代わりに差し上げます」という申し出を退けて、ブドウ畑を譲ろうとしません。その畑が欲しくて欲しくて、王と王妃は神の御心にはなはだしく背く、とても悪い策略をめぐらせます。王妃はアハブ王の名前で手紙を書き、彼の印を押してその町に住んでいる長老たちと身分の高い人々にその手紙を送りました。手紙にはこう書き記しました、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」(列王記上21:9-10。そのとおりになりました。もし、神さまがそれを止めてくださらなければ、この私たちも、イスカリオテのユダ、あるいは王妃イゼベルと同じことをしてしまうかも知れません。それは、十分に有りえます。

49-51節、「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった」。きびしい困難に耐えることや、主イエスのために牢獄に閉じ込められ、あるいは主イエスのために自分の命を投げ捨てることに比べれば、剣を振り回してほんの少し戦ってみることのほうが遥かに簡単です。先週のつづきですが、「自分の上着を売り払ってでも剣を飼い求めなさい」22:36と主イエスご自身から、弟子たちはとても奇妙な命令を受けました。「剣なら二振り持っています」と答え、「それでよい」と言われました。「そうか。敵対者たちに立ち向かって、剣をふりまわしてみればいいんだな」と弟子たちはうっかり早合点してしまいました。剣を振り回して、敵対者の部下の一人の片耳を切り落としてやりました。すると、どうしたわけか、「それだけでやめなさい」と主イエスから直ちに止められ、そればかりか、その僕の耳に手を触れて、主イエスは切り落とされた耳を治してやりました。そのための、二振りの剣です。別の福音書の記録では、この同じ場面で、主イエスがご自身の弟子たちに向かって、「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52と仰っています。つまり、武器を取って戦えと要求されていたわけではなく、それが無意味であることを実地訓練で示され、また敵側の、耳を切り落とされた可哀そうなしもべの耳を癒してあげて、彼らと私たちへの憐みを示すためにだけ、その剣は役に立ちました。剣や、様々な装備や道具に頼るのでもなく、むしろ、ただただ神にこそ助けていただこうする心を習い覚えさせるためでもありました。神への信頼と服従。それさえあれば、十分だからです。もし、それがなければ、剣が何百本、何千本あっても豊かな財産や蓄えがあっても賢くても強くても、なんの役にも立たないからです。ほんのひととき振り絞った勇気は、すぐに萎えしぼんで、消えてなくなってしまいます。たかだか被造物にすぎない人間たちへの恐れが、すぐにも私たちを圧倒してしまいます。あの弟子たちも、剣さえ用意して、戦う準備も覚悟もすっかり出来ていたはずなのに、実際には、彼らのただお独りの主人を見捨てて、散り散りになって逃げ去ってしまいます。

様々な活動に活発に取り組むよりも、キリストのために辛抱強く困難を耐え忍ぶことのほうが、はるかに難しいのです。苦しみと悩みの中に置かれて、私たちはどのようにそれを耐え忍ぶことができるでしょうか。それは、ただただ神の恵みによる他はありません。なぜ、神を信じるその人々は、次々とある困難や苦しみや思い煩いを乗り越えて、なお耐え忍びつづけることができたでしょう。神さまの恵みがその人々のうえに有りつづけたからです。神によって自分が多く愛され、多くをゆるされつづけ、折々に心強く支えられ続けてきたことをよく覚えていたからです。

 

52-53節、「それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。「だが今は」と、救い主イエスはおっしゃいます。試練と誘惑が私たちにも襲いかかるときが来ます。この私たちに対してさえも、悪魔がひととき勢いをふるうときがあります。試練と誘惑のときが来ることが、神ご自身によって、ひととき許されています。

だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。つまり、それがいつまでも続くわけではなく、やがて闇の支配と誘惑や試練のときが必ず過ぎ去るのだと、ここで救い主イエスによって、あの弟子たちと私たちははっきりと告げられています。神によって造られたこの世界のすべての者に対する神の支配は、絶対的で完全なものでありつづけます。よこしまな者たちの手は、その手が動くことを神がお許しになるまでは、堅く縛り付けられつづけています。神の許しなしには、悪魔も、またどんなによこしまな者たちも、指一本も動かすことができません。「動いて良い」と許可されて、それらは動きます。やがて「止めなさい。その手を止めなさい」と神から命じられるとき、彼らはその働きを止めて、鎖にしばりつけられます。「だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。救い主イエスが敵対する者たちの手に渡され、不法な裁きにかけられ、侮辱されてあざけり笑われ、罪人の一人として十字架につけられて殺され、葬られていた間、それは、神の救いのご計画の中で、神によってゆるされていた『彼らのときであり、闇の支配がひとときゆるされていた時』でした。やがて救い主イエスが死人の中からよみがえらされるとき、『彼らのとき。闇の支配の時』が終わりを告げ、過ぎ去って、いよいよ『救い主イエスのとき』がはじまります。すでに始まっている、その『救い主イエスのとき』の中に、私たちは生きています。

この私たちが救い主イエス・キリストに聴き従って生きる者たちであるので、もちろん私たちにも試練と悩みのときが来ます。それは、私たちが思っていたよりも長くつづくかも知れません。けれども他の何ものでもなく、ただ神ご自身こそが、その試練と悩みの時をも定めておられます。神が「よし」とされる以上に、その試練のときが引き伸ばされることは有り得ません。神があらかじめ定めておられたときに、その試練のときは消え去ります。「夜の闇が深まるとき、夜明けが近づいている」などと人々は言います。それは本当のことですが、その意味は、夜明けを来たらせる神こそがこの世界のためにも、また私たちと家族のためにも確かに生きて働いておられるということです。生きて働いておられますその神を確かに信じているので、だから私たちも、夜の深い闇の只中にあっても、なお「夜明けが近づいている」ことを確信することができます。苦難と悩みの日々を、闇の支配の時を、そのように、神を信じる者たちは耐え忍びとおすことができます。だから、私たちはクリスチャンです。

厚い雲がたれこめ、闇が世界を覆うときが来ます。さらに何度も何度も。悲しみと苦い試練の日々が私たちを襲う日々もあるでしょう。けれど、試練のときには必ず終わりが来ます。なぜなら、神の憐れみ深い御心によって、罪のゆるしによる救いがすでに知らされているからです。歩むべき道が備えられているからです。暗闇と死の陰とに住んでいた私たちの上に日の光が臨み、私たちを照らし、その足を平和の道へと導きつづけます。その光が何者であるのかを私たちはよく知っています。主イエスがおっしゃいました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう」と。ですから、こう勧められています、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、闇はもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」。また、「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(ヨハネ福音書8:1,イザヤ書60:1-2,ローマ手紙13:11-12