みことば/2022,2,20(主日礼拝) № 359
◎礼拝説教 ルカ福音書 22:63-71
日本キリスト教会 上田教会
『神の子なのか?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
22:63 イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、64 目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。65
そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。66 夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、67 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。68
また、わたしがたずねても、答えないだろう。69 しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。70 彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。71
すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。 (ルカ福音書 22:63-71)
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(1ペテロ手紙 1:3-9)
救い主イエスが敵対者たちに捕らえられ、はずかしめを受け、不当な裁判にかけられています。やがて直ちに十字架につけられて殺され、葬られ、その三日目に死人の中からよみがえらされます。イエスご自身がエルサレムへの旅路の途中で、弟子たちに繰り返し予告しつづけていたとおりに、神の救いのご計画のとおりにです。
63-65節、「イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。神の独り子であられる救い主イエスが、人々からはずかしめを受け、あざけり笑われています。あざけられ、目隠しをされて打ち叩かれ、「誰が打ったかを言い当ててみろ」などと。神であられる救い主イエスには、とても横柄で傲慢な彼らの仕打ちをほんの一瞬のうちに払いのけることもできました。悪霊どもをたった一言で追い払うことができたように、また、天の大軍を呼び寄せて悪魔の手下にされている者たちをなぎ倒させることさえも。もし、そうしようと思いさえすれば、とても簡単にそうできました。けれど、しませんでした。はずかしめを受け、あざけり笑われることを、救い主イエスは自分の意志で受け入れています。目隠しをされて打ち叩かれ、「誰が打ったかを言い当ててみろ」などからかわれることも、十字架につけられ罪人の一人として死刑に処せられることさえも、甘んじて、自分の身に引き受けています。それが御父と御霊と御自身の救いの計画の中にあらかじめ決めていることだからです。また、サタンがご自分と弟子たちを試練にかけ、弟子たちがもみ殻のようにふるいにかけられる『闇の支配の時』を受け入れておられます。それが、私たち罪人と世界を救うために必要であるからです。そのためにこそ、この世界に降りて来られたからです(1テモテ手紙1:15)。
はずかしめられて身を屈めさせられ、へりくだった低い姿で、そのはずかしめを耐え忍んでみせてくださっていることは、主イエスを信じて、主イエスに従って生きていこうとする私たちのための大切な教えの機会でもあります。なぜなら、この世界にあって、私たちにも苦しみや悩みがつきまといます。不当な取り扱いを受けて、非難され、陰口を言われても、なおそれを忍耐しなければならないときもあります。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の後を踏み従うようにと、模範を残された」(1ペテロ手紙 2:21)と、はっきりと証言されています。キリストがそうされたように、この私たちも同じようにしなさいと。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、脅かすことをせず、正しい裁きをする方にいっさいを委ねなさいと。聖書は証言します、「さらに、私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは癒されたのである。あなたがたは、羊のようにさまよっていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、立ち帰ったのである」(1ペテロ手紙2:24-25)。
66-71節、「夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう。しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。救い主イエスが、ついにここで、やがて現わされるご自身の栄光の姿について証言しておられます。救い主イエスを信じない多くの人々にとって、その証言は、ただ神を冒涜するだけの根も葉もないイカサマだと聞こえたでしょう。しかも、そのとき、救い主イエスははずかしめられて身を屈めさせられ、へりくだった低い姿を人々の目の前にさらしています。どんな権威も、栄光も見いだせず、ただ弱く、力なく、あまりに惨めな有様で。
けれどもなお、この私たちこそは、救い主イエスの十字架の死と苦しみと共に、そればかりでなく、やがて栄光に包まれた姿でこの世界に戻って来られますことを、自分の心によくよく留めておきましょう。私たち罪人のためにあざけり笑われ、軽蔑され、十字架の惨めな死を遂げたその同じお独りの方が、天と地のいっさいの権威を帯びて、御父の栄光に包まれてやがて再びこの世界に降りて来られます。もし私たちが、救い主イエスが最初に地上に降りてこられて、十字架につけられて苦しみ、死んで葬られたことしか知らないならば、大切な真実のうちの半分しか知らないことになります。人民の長老、祭司長たち、律法学者たち、またローマ帝国の植民地の管理を委ねられた領地の支配者ヘロデや、ローマ帝国の役人ポンテオ・ピラトの不法な裁きの前に立たされようとしている、その同じ救い主イエスが、やがて終わりの日に、すべての敵対者たちの前に絶大な権威と栄光を帯びて審判の玉座に座るのだということを、よく覚えておきましょう。やがて、この世界の終わりの日にふたたび来られて、救いを完成なさり、栄光を受けられることもまたはっきりと知り、信じることができてはじめて、そこでようやく、私たちは希望と慰めをこの救い主イエスの御手から、十分に受け取ることができます。
ですから、「今からのち」「やがて終わりの日に」と宣言なさる救い主イエスの約束と御心を信じて、それを堅く心に留めて生きることのできるクリスチャンは幸いです。いましばらくの間、主イエスを信じる者たちは、主人であられるイエス・キリストの苦しみや、弱さ、あざけり笑われることや軽蔑や、ののしりに対してさえも、主イエスと共にそれらにあずかることを喜び、そこで満ち足りていることができます。同じように、「今からのち」「やがて終わりの日に」、その人々は、キリストの栄光にあずかり、彼と共にその強さを受け取ることになるからです。
聖書は証言します、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(1ペテロ手紙 1:3-9)。「信仰により神の御力に守られている」と告げられています。神の憐れみの御力が私たちにも必要なだけ十分に注がれつづけ、それを私たちは『イエスを信じる信仰によって』受け取りつづけるからです。もちろん、私たち自身はとても弱く、危うい、揺さぶられやすい者たちです。それでもなお神を信じる信仰によってこそ守られつづけます。また、神を信じる私たちのその信仰そのものが、私たち自身の肉の弱さのゆえに揺さぶられ、惑わされ、心をたびたび鈍くされながら弱められてしまうことにも私たちは気づいています。それでも大丈夫です。それぞれに神から贈り与えられた信仰そのものもまた、神ご自身の御力によって守られ、支えられ、弱まる度毎に強くされつづけるからです。
「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れない」。さまざまな試練で悩まねばならない期間はいったいいつまでなのかと問いかけたくなります。けれど、それは私たちには分かりません。神さまご自身がご存知です。長く続くかも知れないし、すぐにも悩みの日々が去ろうとしているかも知れません。ですから、その悩みが続く間、忍耐して耐え忍ぶことができるようにと、神に願い求めましょう。その悩みや苦しみと共に、励ましや支えをも与えつづけてくださるようにと願い求めましょう。悩みや苦しみと共に、慰めや喜びも確かに添えられています。それは神を信じているからだ、と教えられてきました。
70節。彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。この会話の意味は、「あなたは神の子なのか」と問われて、主イエスが彼らにこう答えています、つまり、「あなたがたは真実を語っている。あなたがたが、神の子なのかと問いかけたとおりに、私こそが神の子である」と。主イエスは、ご自分が約束されていた救い主であり、しかも確かに自分は神であるとはっきりと断言しています。それでもなお当時も、また今日でも、救い主イエスを信じることのできない人々は数多く残されます。偏見や先入観によって心がかたくなにされ、聴く耳が閉ざされつづけるからです。「聴く耳のある者は聞くがよい」と主イエスは仰いました。きびしい言葉です。けれども神ご自身が、その人を憐れんでくださって、その耳を開いて下さるのでなければ、誰一人も福音の言葉を聞き入れることができません。主イエスご自身はさらに、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」、また「父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできない」(ヨハネ福音書6:45,65)と仰います。そうであるなら、なおさらのこと。この私たちは、天の御父に願い求めつづけましょう。この私自身の耳と心を開いてください。私と家族を主イエスの憐れみのもとへと、どうか引き寄せてくださいと。
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金田聖治(かねだ・せいじ)
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