2/6 こども説教 創世記20:1-13
『妹だと言う②』
20:1
アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにとどまっていた時、2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。3 ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」。4 アビメレクはまだ彼女に近づいていなかったので言った、「主よ、あなたは正しい民でも殺されるのですか。5 彼はわたしに、これはわたしの妹ですと言ったではありませんか。また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと言いました。わたしは心も清く、手もいさぎよく、このことをしました」。……11 アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。12 また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。13 神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。
(創世記20:1-13)
【こども説教】
アブラハムとサラ夫婦は、神を信じて、神に従って生きる旅を歩いてきました。とても美しい妻を横取りするために、だれかが私を殺すかも知れないとアブラハムは怖くなりました。それで、「妻だということを隠して、妹だと言ってくれ」と妻のサラに頼みました。2人は、そうやって生きていこうと決めました。神を信じる信仰が足りず、神に信頼することができなかったからです。とても不信仰であり、神への裏切り行為です。旅を始めてすぐの12章で、これをしました。この20章で、もう一度、同じことをしました。やがて26章で、彼らの息子夫婦イサクとリベカも、同じズルいことを繰り返します。どうして息子夫婦がそうなってしまったのかは、よく分かります。彼らは父さん母さんがいつも、どんなふうに暮らし、何をどう感じたり、考えたりして一日ずつを生活しているのかをよく見ているからです。子供たちもついつい同じ悪い生き方を身につけてしまいました。ただ、「親がこうしつけて育てた。だから子供たちは」と、軽々しく決めつけてしまうことはできません。親の力が及ばないことはあり、よく似た同じような大人になる場合もあり、まったく正反対の大人になることもあるでしょう。けれど、申し訳ないことです。
まず11節、「アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです」。
「この所には神を恐れることがない。だから」と彼は言いました。その土地やそこに住む人々が神に信頼したり、聴き従ったりしないせいではありません。本当は、アブラハムとサラ自身こそが神に信頼していないのです。そして13節、「神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。「わたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください」。行くさきざきで。つまり、どこに行っても、いつでもそうやって生きていこうと。彼らはまだまだ、神を疑い、とても不信仰になっています。十分に神を信じるための旅がつづきます。
【大人のための留意点】
方便として嘘をつく。アブラハムはその妻を妹と偽って、王の側室たちの1人として差し出す。危険を回避できるばかりか、利益をも得る。彼の信仰は不信仰となり、神への信頼は失せ去りました。深刻な堕落であり、神への背反です。……かかる者が「信じる人の父」(ローマ4:11,16)なのです。そして、かかる者はアブラハムひとりに留まりません。アブラハムの他にも、聖書には、ダビデの姦通が記されています。ペテロの否認があり、サウロのキリスト者虐殺があります。
神は御国を、われわれの弱さや失敗を通しても建設なさいます。貧しい祈り、聖書を読むことが乏しいこと、気後れしながらの聖晩餐への参加、また、問題を抱きながらの礼拝出席は、それぞれに、こうし失われた息子のわが家への帰還であり、祝いの筵(むしろ=宴会などの座席)への帰還なのではないでしょうか。いま、神がどのようなお方であるかを知った者は、神を心に刻みつけられた者は、赤面しつつではありますが、感謝のうちに仕える志を新たにされて家路につき、また明日からの仕事に従事することでありましょう(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』創世記 12:10-20の箇所、新教出版社)。