2022年2月14日月曜日

2/13「ペテロの涙」ルカ22:54-62

             みことば/2022,2,13(主日礼拝)  358

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:54-62               日本キリスト教会 上田教会

『ペテロの涙』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:54 それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。55 人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。56 すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。57 ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。58 しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。59 約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。62 そして外へ出て、激しく泣いた。ルカ福音書 20:1-8

 

4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル手紙 4:14-16)


54-60節、「それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた」。救い主イエスが裁判を受けている間に、ここで、私たちは痛ましい出来事に直面します。ペトロという名の、1人の熱心で忠実な弟子の挫折と裏切りです。あの彼は、「イエスなど知らない。何の関係もない」と3度くりかえして、自分と主イエスとの関係を否定します。主イエスの弟子ペトロは、あの逮捕の際にいったんは逃げ去りながら、それでもこっそりと後を追って来ました。弟子たちの全員が主を見捨てて逃げ出しました。ただ主イエスだけが捕まえられ、裁判にかけられます。大祭司の屋敷の中庭で、火に当たる人々の間に紛れ込んで、怖がりながら、ペトロは座っています。捕えられた主がどんな目にあうのかと、その裁判の成り行きを見守るために。その屋敷で下働きをしている娘たちの1人が、その彼に目を留めます。「あ。この人のことを知っている」と。彼を見つめます。「あなたも、あのナザレ村から来たイエスと一緒にいた。そうでしょ」。「ガリラヤ地方の訛(なま)りがあるじゃないか。一緒にいるところを俺も見たぞ」「私も見た」「そうだ、この人だ」。次々に問いただされ、しつこく見つめられ、「いや知らない。人違いだろう」と彼は言ってしまいます。

彼ペトロは、弟子たちの中でもリーダー格で兄貴分的な存在でした。仲間たちからも信頼されていた力強い断固とした働き人が、けれども主に背を向けています。「これが、あのペトロか。私たちがよく知っていたあの同じ人物か」と、私たちは驚き呆れます。彼にも、主イエスを信じる信仰の様々な出来事があったのです。姑の熱を癒され、山の上で主の栄光の姿を目撃し、湖の上では危うく溺れそうになところを主に助けられました(ルカ福音書4:38,8:22,9:28)。さまざまな紆余曲折のあった長い旅路を、あの彼は主に従って歩んできました。この方に聞き従うことや信頼することを少しずつ学びとり、この方こそ信頼に足る方だと心に刻んできました。その主を「知らない。何の関係もない。赤の他人だ」と、1度ならず2度3度と言い放ってしまいました。彼のつまずきは、ほんの小さな試みから始まりました。時刻は、真夜中をとうに過ぎていました。大祭司に仕える下働きの娘がひとこと質問しました。「あなたも、あのナザレ村から来たイエスと一緒にいた」。刃物を喉元に突きつけられて、ではありません。大勢の強盗や兵隊たちに取り囲まれて、ではありません。無力な1人の娘のほんの一言が、彼を追いつめました。力強い断固とした彼の信仰を打ち砕くには、そのほんの小さな一言だけで十分でした。あまりに簡単なことです。

61-62節、「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」。私たちにも、あの彼のように、つまずく時が来るのでしょうか。けれど、この出来事は告げます;人間がどんなものであるのかを。その意思や決断がどんなに脆く不確かなものであるのかを。たとえ最善の、誠実で堅固な、揺るぎのない人物であっても、その信仰が弱り果て、衰え、ついにつまずいて倒れるときが来ると。だからこそ聖書は主に仕える働き人たちの弱さを、つまずきと破れを、手痛い挫折と失敗をくりかえし報告してきました。60節。夜明けを告げて、鶏が鳴きました。ペトロは、ほんの数時間前に主イエスから言われたあの言葉を思い出しました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないと言うだろう」(22:34)。本当にそうだった。ペトロは、泣き出しました。その落胆、その涙の中身はなんだったでしょう。「ダメな、どうしようもない私だ。私は失格だ」と彼は、自分で自分を裁いています。私たちもそうです。身近な家族や兄弟や誰彼を裁いているだけでなく、しばしば自分自身を自分で裁いてしまっています。しかも互いに容赦なく裁き合うための材料をそれぞれ山ほど抱えています。不誠実。ごうまん。自分勝手。優柔不断。頑固で、意固地でかたくなでと。

主の弟子ペトロは、この時までは、《わたしは弱い》などとは思っていませんでした。誰かほかの人たちのことを言っているのだろう、と高をくくっていました。弱くてふつつかな人間は世間に大勢いるとしても、この自分だけは例外だ、別格だと。あの十字架前夜に泣いた時までは、そう思っていました。けれど突然に鶏が鳴きました。「そんな人は知らない。会ったこともない。何の関係もない」とシラをきっているうちに。彼は外に出て、激しく泣きました(22:31-,62)。この私たちにも鶏が鳴く時が来るでしょうか。主イエスを知らないと言い、外に出て涙を流すときが。

わたしたちの主なる神は、私たちの弱さをよくよくご存知です。知っているどころか、他ならぬこの神ご自身が私たちを、弱く脆く、限界ある存在としてお造りになりました。人は、土の塵から造られたのです。あなたも土の塵から造られたのだし、この私もそうです(創世記2:7,3:19,90:3,103:14,104:29-30,ヨブ10:9,伝道12:7,エゼキエル書37:9)。堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人間など誰1人もいませんでした。しかも、その弱く危うい壊れモノのような私たちのために、主はいったい何をしてくださったでしょう。あのペトロのために、何をしてくださったでしょう。「主イエスなど知らない。私には何の関係もない」と繰り返し偽り、そのふがいない自分に絶望して泣いたペトロを、けれども主は、見捨てることも見放すこともなさらなかった。あの大声で泣いて闇の中に駆け去っていった場面が、彼の生涯最後の場面ではありませんでした。主はペトロを、あの暗がりに放置することはなさいませんでした。彼はゆるされ、再び抱え起こされ、神の恵みのもとへと連れ戻されます。ペトロだけではありません。「聖書は主に仕える働き人たちの弱さとつまづきと挫折をくりかえして報告してきた」と先程話しました。こう言い直さなければなりません。『弱さをさらし、つまずいて挫折する度毎に、けれども彼らはゆるされ、忍耐され、助けられ、支えられつづけた。倒れる度毎に、抱え起こされつづけたのだ』と(マタイ27:3-,使徒1:18,創世記9:18-,12:10-,20:1-,26:1-,出エジプト記16:1-,17:1-,民数記11:10-,21:4-,サムエル下11:1-,列王上11:1-,ルカ22:47-)。ペトロもユダも同罪でした。ここにいるこの私たちもそうかも知れません。もし、ゆるしと憐れみの神さまに出会うことが出来なければ、私たちもふがいない自分自身に絶望し、自分で自分を裁き、自分自身で自分を滅ぼしてしまうほかありませんでした。あのユダのように。けれど神は、私たちを憐れんでくださいました。その憐れみはあまりに深かった。

 

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「神の御前で謙遜になれない人間は、恐ろしい人間になってしまう」と年配の一人の友人が言いました。耳を疑いました。神のことなど思いもしないだろうと周囲の人々から思われていた、そしていかにも傲慢そうに振舞っていた人の口から、そのような意外な言葉が漏れたからです。「謙遜とこの私とどこがどう結びつくのか。私の口からそんな言葉が一体どうして出てくるのかと、家族や友人たちは不思議がるだろう」と彼は言いました。本当に。神の前で謙遜になれない人間は、恐ろしい人間になってしまう。その人は、自分自身の内側に巣くう『恐ろしい人間』をつくづくと見つめて生きてきたのです。人間存在や他すべての造られた生き物たちを遥かに超えて、絶対者なるお方がおられる。けれど私は、その方のことを思うことが出来ない。だからこそ度々繰り返して、この自分は、あまりに恐ろしい破壊者に成り下がってしまうのかと。だからこそ度々繰り返して、この自分は、無慈悲で冷酷な審判者に成り上がり、人の弱さやふつつかさをあげつらい、裁きたて、いちいち目くじらを立て、「いたらない。ふさわしくない」などと容赦なく攻撃し、「傷つけられた。不当に扱われた」と恨んだり憎んだりしつづけているのかと。「もっとこうしてほしい。もっともっと」と要求ばかりをつきつけ、自己中心の傲慢な思いを淀ませてばかりいるのかと。正しい自分である、という恐ろしい人間。それに比べてあの人はこの人たちは、という恐ろしい人間。つまりは、まるで自分が神にでもなったつもりの恐ろしい人間。他者を憎み、弱らせ、打ち倒そうとする恐ろしい人間。私にも分かります。この私も、謙遜になれないそういう恐ろしい人間を心の中に住まわせている1人ですので。だからです。試練にあってつまずき倒れ、自分自身の貧しさと罪深さをつくづくと思い知らされ、『やがて立ち直るとき』が用意されていました。自分の傲慢さ、罪深さを思い知らされて、だからこそ兄弟姉妹たちの弱さを憐れんで思いやり、その人たちを助けてやることもできるために(ルカ22:31-32「あなたが立ち直ったら」と、その礼拝説教を参照)。しかもイエス・キリストという神は、その恐ろしい私たちのために低くくだり、へりくだって、人となられました。その主イエスから、「目覚めていなさい」と命じられました。心は燃えても肉体は弱い。もちろん、心も弱い。だから、あなたは目覚めていなさい(マタイ福音書26:41)。目覚めているとは、主の御業を思い起こすことです。《主がこの私のためにさえ強くあってくださる。だから》と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは神さまの現実に目覚めます。《私の主であってくださる方が、私を愛してくださる。大切に思っていてくださる。私を養い、支え、守り通してくださる。だから私は弱くても乏しくても、たとえ愚かであっても、恐れはない。何1つ欠けるところがない》と歌いながら、そのようにして私共は目覚めます。目覚めて、そこで生きて働いておられます神との出会いを積み重ねていきます。