2022年2月14日月曜日

2/13こども説教「イサクをささげる」創世記22:1-19

2/13 こども説教 創世記 22:1-19

 『イサクをささげる』

 

22:1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。……7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。                   (創世記 22:1-19

 

 

  【こども説教】

 アブラハムとサラ夫婦にとうとう子供が与えられました。イサクという名前の息子です。けれど神は、そのイサクをささげなさいとアブラハムに命令します。とてもきびしい命令です。モリヤの山の上には、アブラハムとイサクが2人だけで登っていきました。「火とたきぎはありますが、ささげものの小羊はどこにありますか」とイサクがアブラハムに質問します。アブラハムは、「神さまが自分でささげものを用意してくださる」と答えました。9-12節、「神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。二人の後ろのやぶのところに雄羊がいて、その羊をささげものにしました。やがて神さまは、私たちと世界の救うために、神の独り子、救い主イエスを十字架の上にささげてくださいました。聖書は証言します、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ロ―マ手紙 8:31-32

 

 

 【大人のための留意点】

 ここで「イサクの犠牲」として語られている事柄は、アブラハムの功績ではありません。神の奇跡の御業です。……もちろん、アブラハムはキリストではありません。けれども、アブラハムはキリストを指し示しています。イサクの犠牲は預言者的な意味を帯びて聖金曜日の犠牲の先触れとなっています。やがて、イエス・キリストにおいて神の約束はすべて、最終的に、然り、アーメンとなるのです。

 キリストによって決定的に満たされるこの約束のあることを、せめて今日は最後に指し示すことにしましょう。その約束は次のように記されます。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル手紙2:18。……キリストはわれわれのために、また先触れの形としてはアブラハムのためにも、試練を経験し、それに勝利なさったがゆえに、キリストはかの測り知れない全能を、――そして、今日われわれが知らされるごとく、――至る所で、切実かつ必要な祈りを聞きとどけてくださる全能を、お持ちになります(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)