2022年2月28日月曜日

2/27「ユダヤ人の王なのか?」ルカ23:1-12

           みことば/2022,2,27(主日礼拝)  360

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:1-12         日本キリスト教会 上田教会

『ユダヤ人の王なのか?』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:1 群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。3 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。4 そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。5 ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。6 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。9 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。10 祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。11 またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。 ルカ福音書 23:1-12

 

40:9 よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。10 見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。11 主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。 (イザヤ書40:9-11

まず1-4節、「群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。救い主イエスに敵対する者たちが、事実とは違う偽りを申し立て、訴え出ています。国民を惑わしている。貢物(みつぎもの)や税金をローマ皇帝カイザルに納めることを禁じている。また、自分こそ王なるキリストだと唱えていると。とくに、これらはローマ皇帝から遣わされた役人ピラトに対して訴え出ている発言ですから、もし本当に、貢物(みつぎもの)や税金をローマ皇帝カイザルに納めることを禁じているとするなら、放っておくことのできない、ローマ帝国に対する重大な反逆行為となります。ユダヤの国は、そのときローマ帝国に支配されて、その植民地とされているからです。偽りの証言と、その人の名誉を傷つける悪口や非難は、悪魔が好む2つのおもな武器でありつづけます。悪魔は初めから偽りを言う者であり、嘘と偽りの父です(ヨハネ福音書 8:44。例えば、アハブ王が預言者エリヤに「イスラエルを悩ます者よ」と呼びかけたとき、預言者は、「いいえ。あなたこそイスラエルを悩ませる者です。あなたと、あなたの父の家がイスラエルを悩ませたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです」と答えました(列王記上18:17。洗礼者ヨハネも、また主イエスご自身も厳しく非難されつづけました。「バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子(=主イエス)がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。ここで、「取税人、罪人の仲間」であるとは本当です。取税人や、除け者にされ、罪人であると軽蔑されている者たちの仲間、友だちになることは救い主としての最優先・最重要の職務であり、使命でもありました。なにしろ、罪人を救うためにこの世界に降りて来られたのですから(ルカ福音書7:33-35,1テモテ手紙1:15参照)

主イエスがののしられ、嘲られたのですから、すると主イエスの弟子であり、この主に従って生きる私たち自身にも、それぞれののしられ、あざけられる試練のときがやってきます。私たちも驚き慌てずに、それを甘んじて受けることができます。忍耐して、それを耐え忍ぶことが私たちにはできます。「心を悩ませるな。主に信頼して、ゆだねよ」と繰り返し励まされます。聖書は、私たちの心に語りかけます、「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ」(詩37:4-5)。

イエスが王であることは、重要な指摘です。ローマ帝国の役人であるピラトから「あなたがユダヤ人の王であるか」と問われて、主イエスは「そのとおりである」と答えた。そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。イエスに対してなんの罪も認めないとはっきりと言ったこのピラトは、少し後なってから、はやりこのイエスには罪がないと十分に分かりながら、大勢の人々が「十字架につけろ。十字架につけろ」と激しく叫びたてるとき、その、『罪のないイエス』を罪人として死刑にする不法な判断をしてしまいます。自分でよくよく分かりながら、不法な裁きをし、歴史に自分の汚れた名前を残してしまいます。ピラトは今、正義や公正や正しいことが行われることなど少しも願っていません。ただ、声の大きな人々の声や、大勢の熱心な強い叫びに耳を傾け、その顔色を窺い、その空気を読んで、自分自身の身の安全と利益のために、その間違った不当な判断に従おうとしつづけています。

5-7節、「ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた」。イエスという人物がガリラヤ出身のものだと分かって、ローマから派遣されてきた役人のピラトは、1つ良いことを思いつきました。ユダヤの国はローマ帝国の植民地とされていて、いくつかの領地に分割され、その上に、ローマ帝国の権威のもとにユダヤ人の支配者たちが立てられていました。ガリラヤ地方の支配者はヘロデという名前の者で、ピラトはヘロデと良好な関係を築くがなかなかできずにいました。捕まえられてきたこの人物を使って、ヘロデの機嫌を取ることができるかも知れない。

8-12節、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった」。ヘロデは、洗礼者ヨハネを牢獄に閉じ込め、やがて自分の娘の願いどおりにヨハネの首をはねて殺した、あのヘロデです。ヘロデは、救い主イエスを侮辱し、もてあそび、あざけり笑いの的にしました。ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。ポンテオ・ピラトの狙い通りになりました。

 

「救い主イエスが王であること」を、私たちは、深く心に刻みつづけなければなりません。救い主イエスに敵対する者たちが何をどう企てるか、あるいは私たち自身が何を考え、願い、どう行動するのか。いいえ、それよりも、『救い主イエスこそが王である』ことこそが最も大切です。まず、ユダヤ人の王であるとは、神によって選ばれた神の民イスラエルに、やがて救い主が遣わされると預言者たちによって預言されていたとおりに遣わされた救い主であり、その王であるお方であるということです。しかも、その救い主は、ユダヤ人のための王であるばかりでなく、神によって造られた世界の、その天と地の一切の権能を父なる神から委ねられた王であり、全世界を支配なさる王だということ。預言者たちの1人は、その姿をこう告げ知らせていました、「よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ書40:9-11と。

全世界の王である救い主イエス・キリスト。世界の王であられるその栄光と権威は、やがて終わりの日に再びこの世界を裁き、世界のための祝福を完成されるときにまったく現わされる。そればかりでなく、最初にこの世界に降りて来られ、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と神の国を宣べ伝え、弟子たちと共に福音宣教の旅をしはじめた、そのそもそもの初めから、救い主イエスのものでありつづけました。だからこそ、その最初のときも今日でも、主イエスのもとから弟子たちが町々村々へと遣わされ、神の国を宣べ伝えて働くとき、その弟子たちは何一つ必要なものに不足することなく、満ち足りて、安らかに、希望にあふれて働き続けることができます。なぜなら弟子たちを送り出すにあたって、その彼らに、「すべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった」からであり、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と約束し、保証を与え、励ましたからです。世界の果てへと宣教に送り出すときにも、その同じ復活の主はこう約束なさいました、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(ルカ福音書9:1,10:19-20,マタイ福音書28:18-20。ユダヤ人の王であり、神によって造られた全世界のための王であるとは、このことです。もちろん、その約束と保証と励ましとはこの私たちのためのものでもありつづけます。やがて十字架にかけられたとき、その頭上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけられていました。役人や兵士たちや人々があざ笑って言いました、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。また、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。確かに神ご自身である救い主であり、ユダヤ人と全世界のための王です。しかも、自分自身を救うことをしないで私たち恵みに価しない罪人を救うために、ご自身の命も権威も栄光も投げ捨ててくださった救い主であり、唯一無二の王でありつづけます。

自分で自分を決して救わなかったからこそ、他の人々と罪人と、神によって造られたすべての生き物たち(=被造物。ひぞうぶつ)を憐れんで救うことができます。ただこのお独りの方のもとにだけ、神からの恵みと憐れみと平和があふれつづけます(ルカ福音書23:35-37参照)


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     金田聖治
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