2022年2月1日火曜日

1/30「私の思いではなく、御心こそが」ルカ22:39-46

            みことば/2022,1,30(主日礼拝)  356

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:39-46         日本キリスト教会 上田教会

『私の思いではなく、

御心こそが』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。ルカ福音書 20:1-8

 

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 (ローマ手紙 8:13-16,マルコ福音書 14:32-36参照)


主イエスが十字架におかかりになる、その数時間前のことです。いよいよ間もなく、救い主は死んで葬られ、その三日目に墓を打ち破って復活なさいます。神ご自身の救いのご計画が成し遂げられるのか、どうか。私たちにもそれが確かな現実となるのか、どうか。その別れ道に私たちは立たされます。ここで、私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉;「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。あまりに謎めいていて、また恐ろしくもあり、マタイとマルコの福音書はこれを記録しましたが、けれどこのルカ福音書とヨハネ福音書は主イエスのこの発言を省きました。聞かなかったことにしたのです。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろう。けれど主イエスの弟子たちよ。もし、自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望しているとするならば、その救い主が、いったいどうして罪人の救いを確信し、「大丈夫です。本当のことですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。「オリブ山」とも呼ばれる、ここ、ゲッセマネの園での主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。

十字架の出来事のほんの数時間前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されています。なぜか。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主イエスご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈りなさい。格闘をするようにして、本気で祈りなさいと。「この杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人と、神によって造られたこの世界を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じて生きる私たち自身を、あなたはいったいどういう者だと思っていたでしょうか。

この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありました。悩みと苦しみの時がありました。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して、本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の小さな人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が生きて働いておられ、その神が真実にこのわたしの主であってくださることを。

あれから長い歳月が流れ去って、ゲッセマネの園でのあの一夜は遥か遠い昔のこととなりました。キリストの教会は世界中あちこちに数多く建てられ、主イエスを信じて生きる者たちがそれぞれの暮らしを建て上げ、悪戦苦闘しつづけています。神ご自身の祝福、平和と恵みと憐れみを携え、それを差し出し、手渡そうとして。祝福の源でありつづけるための、それぞれの悪戦苦闘を。キリストの教会は、私たちクリスチャンは、どのように生きることができるでしょう。この地上を旅するようにして生きるための、その旅の備えをどのように整え、どういう弁えと心得をもって、何を選び取り、また何を手放したり捨て去ったりできるでしょう。主イエスの弟子たちよ。あの夜、主は祈りつつ生きて死ぬことの格闘をしつづけておられました。「父よ、御心ならば、どうぞこの杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」。自分自身がいま現に抱えている切実な願いや心の思いがあり、他方で、御父ご自身の願いや御心がある。驚くべきことに、救い主イエスご自身がその2つの心、2つの願いの間にある隔たりや喰い違いに突き当たっています。自分自身の心と願い、そして御父の心と願いと。それらは喰い違っています。かけ離れており、別の違う方向をそれぞれ向いています。そこに思い至り、あの救い主イエスは、血の汗をしたたらせ地面に身を投げ出して格闘し、自分自身の心と願いをねじ伏せようとしておられます。自分自身とその心の願いや欲求を必死になって退け、御父の御前にひれ伏しています。

さて、「オリブ山」とも呼ばれるゲッセマネの園。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか取り除けてください。しかしわたしの思いではなく、あなたの御心が成るようにして下さい」。御心が成る、御心のままに、とは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着きます。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いや願いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくれる。きっと必ず、と。

主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「なぜ眠っているのか。目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて、身体中がすっかり冷たくなって、やがてとうとう死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。祈るようにといったい誰が勧められ、祈る場所へと招かれつづけていたでしょうか。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、必死になって、祈りつづけなさい。「神さま、私たちを憐れんでください。この私を憐れんでください」と、あなたも叫ぶように祈ってみればいいじゃないですか。あなたにも、それができます。

なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちは落胆するからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。もっと堅固で、もっと揺るぎない私だと思っていたのに。え、自分に自信が持てない? 当たり前です。いつか自分に自信が持てるようになることが目標だったんですか。そんなつまらないことをすっかり止めて、神さまをこそ信じはじめたらいいのに。せっかくクリスチャンにしてもらったんだから。形ばかりじゃなくて、ちゃんと中身も、神さまを本気で信じるクリスチャンにしていただいたらいいのに。誰にも頼れない。誰からも十分な励ましを得られない。その通りです。助けは神さまからいただこうと、あなたも思い返すことができればいいのに。困っている人や悩みの中に置かれている友だちを力つけてあげられない。その通りです。神さまをそっちのけにして、棚上げして、片隅へ片隅へと押しのけつづけて、いったいどんな希望や慰めがあるというのでしょう。「私はいったい誰を喜ばそうと、誰に喜ばれようとして、それを行なっているのか? それを口に出して言っているのか」と自分自身に問いかけてみましょう。まわりにいる人々を喜ばそうとしているかも知れない。あるいは、ただ自分自身の心を喜ばそうとして、それを行ない、それを話しているかも知れない。自分中心、人間中心のモノの考え方に、いつのまにかまたもや首までどっぷり浸かっているかも知れない。この私自身こそが。神の御心をそっちのけにして。もし万一、神さまに十分に信頼できなければ、私たちは絶望してしまうほかありません。

悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。「けれど御心どおりではなく、ただただ私の願いのままにおこなってください。私の心、私の願い、私の心、私の願い」とそればかりを渇望しつづけて。では、どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによって。思い続けることによって。あの時、あの丘で、十字に組まれたあの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。ウトウトしはじめていた私たちはハッと目覚めます。ただただ、主の手にすがって、導いてくれる主ご自身の手につながり、確かに結ばれつづけて、そこで安らかに歩みとおしたい。そうでした。それが私の願いであり、希望なのだと。疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神と出会っています。そこで神さまからの恵みと平和とゆるしを、改めて、まるでいま初めてのように、受け取っています。