2022年2月28日月曜日

2/27「ユダヤ人の王なのか?」ルカ23:1-12

           みことば/2022,2,27(主日礼拝)  360

◎礼拝説教 ルカ福音書 23:1-12         日本キリスト教会 上田教会

『ユダヤ人の王なのか?』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

23:1 群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。2 そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。3 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。4 そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。5 ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。6 ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、7 そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた。8 ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。9 それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。10 祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。11 またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。12 ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。 ルカ福音書 23:1-12

 

40:9 よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。10 見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。11 主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。 (イザヤ書40:9-11

まず1-4節、「群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。そして訴え出て言った、「わたしたちは、この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました」。ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答えになった。そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。救い主イエスに敵対する者たちが、事実とは違う偽りを申し立て、訴え出ています。国民を惑わしている。貢物(みつぎもの)や税金をローマ皇帝カイザルに納めることを禁じている。また、自分こそ王なるキリストだと唱えていると。とくに、これらはローマ皇帝から遣わされた役人ピラトに対して訴え出ている発言ですから、もし本当に、貢物(みつぎもの)や税金をローマ皇帝カイザルに納めることを禁じているとするなら、放っておくことのできない、ローマ帝国に対する重大な反逆行為となります。ユダヤの国は、そのときローマ帝国に支配されて、その植民地とされているからです。偽りの証言と、その人の名誉を傷つける悪口や非難は、悪魔が好む2つのおもな武器でありつづけます。悪魔は初めから偽りを言う者であり、嘘と偽りの父です(ヨハネ福音書 8:44。例えば、アハブ王が預言者エリヤに「イスラエルを悩ます者よ」と呼びかけたとき、預言者は、「いいえ。あなたこそイスラエルを悩ませる者です。あなたと、あなたの父の家がイスラエルを悩ませたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです」と答えました(列王記上18:17。洗礼者ヨハネも、また主イエスご自身も厳しく非難されつづけました。「バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子(=主イエス)がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。ここで、「取税人、罪人の仲間」であるとは本当です。取税人や、除け者にされ、罪人であると軽蔑されている者たちの仲間、友だちになることは救い主としての最優先・最重要の職務であり、使命でもありました。なにしろ、罪人を救うためにこの世界に降りて来られたのですから(ルカ福音書7:33-35,1テモテ手紙1:15参照)

主イエスがののしられ、嘲られたのですから、すると主イエスの弟子であり、この主に従って生きる私たち自身にも、それぞれののしられ、あざけられる試練のときがやってきます。私たちも驚き慌てずに、それを甘んじて受けることができます。忍耐して、それを耐え忍ぶことが私たちにはできます。「心を悩ませるな。主に信頼して、ゆだねよ」と繰り返し励まされます。聖書は、私たちの心に語りかけます、「主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ」(詩37:4-5)。

イエスが王であることは、重要な指摘です。ローマ帝国の役人であるピラトから「あなたがユダヤ人の王であるか」と問われて、主イエスは「そのとおりである」と答えた。そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、「わたしはこの人になんの罪もみとめない」。イエスに対してなんの罪も認めないとはっきりと言ったこのピラトは、少し後なってから、はやりこのイエスには罪がないと十分に分かりながら、大勢の人々が「十字架につけろ。十字架につけろ」と激しく叫びたてるとき、その、『罪のないイエス』を罪人として死刑にする不法な判断をしてしまいます。自分でよくよく分かりながら、不法な裁きをし、歴史に自分の汚れた名前を残してしまいます。ピラトは今、正義や公正や正しいことが行われることなど少しも願っていません。ただ、声の大きな人々の声や、大勢の熱心な強い叫びに耳を傾け、その顔色を窺い、その空気を読んで、自分自身の身の安全と利益のために、その間違った不当な判断に従おうとしつづけています。

5-7節、「ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、「彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです」。ピラトはこれを聞いて、この人はガリラヤ人かと尋ね、そしてヘロデの支配下のものであることを確かめたので、ちょうどこのころ、ヘロデがエルサレムにいたのをさいわい、そちらへイエスを送りとどけた」。イエスという人物がガリラヤ出身のものだと分かって、ローマから派遣されてきた役人のピラトは、1つ良いことを思いつきました。ユダヤの国はローマ帝国の植民地とされていて、いくつかの領地に分割され、その上に、ローマ帝国の権威のもとにユダヤ人の支配者たちが立てられていました。ガリラヤ地方の支配者はヘロデという名前の者で、ピラトはヘロデと良好な関係を築くがなかなかできずにいました。捕まえられてきたこの人物を使って、ヘロデの機嫌を取ることができるかも知れない。

8-12節、「ヘロデはイエスを見て非常に喜んだ。それは、かねてイエスのことを聞いていたので、会って見たいと長いあいだ思っていたし、またイエスが何か奇跡を行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問を試みたが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちとは立って、激しい語調でイエスを訴えた。またヘロデはその兵卒どもと一緒になって、イエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はなやかな着物を着せてピラトへ送りかえした。ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった」。ヘロデは、洗礼者ヨハネを牢獄に閉じ込め、やがて自分の娘の願いどおりにヨハネの首をはねて殺した、あのヘロデです。ヘロデは、救い主イエスを侮辱し、もてあそび、あざけり笑いの的にしました。ヘロデとピラトとは以前は互に敵視していたが、この日に親しい仲になった。ポンテオ・ピラトの狙い通りになりました。

 

「救い主イエスが王であること」を、私たちは、深く心に刻みつづけなければなりません。救い主イエスに敵対する者たちが何をどう企てるか、あるいは私たち自身が何を考え、願い、どう行動するのか。いいえ、それよりも、『救い主イエスこそが王である』ことこそが最も大切です。まず、ユダヤ人の王であるとは、神によって選ばれた神の民イスラエルに、やがて救い主が遣わされると預言者たちによって預言されていたとおりに遣わされた救い主であり、その王であるお方であるということです。しかも、その救い主は、ユダヤ人のための王であるばかりでなく、神によって造られた世界の、その天と地の一切の権能を父なる神から委ねられた王であり、全世界を支配なさる王だということ。預言者たちの1人は、その姿をこう告げ知らせていました、「よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ書40:9-11と。

全世界の王である救い主イエス・キリスト。世界の王であられるその栄光と権威は、やがて終わりの日に再びこの世界を裁き、世界のための祝福を完成されるときにまったく現わされる。そればかりでなく、最初にこの世界に降りて来られ、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15と神の国を宣べ伝え、弟子たちと共に福音宣教の旅をしはじめた、そのそもそもの初めから、救い主イエスのものでありつづけました。だからこそ、その最初のときも今日でも、主イエスのもとから弟子たちが町々村々へと遣わされ、神の国を宣べ伝えて働くとき、その弟子たちは何一つ必要なものに不足することなく、満ち足りて、安らかに、希望にあふれて働き続けることができます。なぜなら弟子たちを送り出すにあたって、その彼らに、「すべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった」からであり、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と約束し、保証を与え、励ましたからです。世界の果てへと宣教に送り出すときにも、その同じ復活の主はこう約束なさいました、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(ルカ福音書9:1,10:19-20,マタイ福音書28:18-20。ユダヤ人の王であり、神によって造られた全世界のための王であるとは、このことです。もちろん、その約束と保証と励ましとはこの私たちのためのものでもありつづけます。やがて十字架にかけられたとき、その頭上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけられていました。役人や兵士たちや人々があざ笑って言いました、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。また、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。確かに神ご自身である救い主であり、ユダヤ人と全世界のための王です。しかも、自分自身を救うことをしないで私たち恵みに価しない罪人を救うために、ご自身の命も権威も栄光も投げ捨ててくださった救い主であり、唯一無二の王でありつづけます。

自分で自分を決して救わなかったからこそ、他の人々と罪人と、神によって造られたすべての生き物たち(=被造物。ひぞうぶつ)を憐れんで救うことができます。ただこのお独りの方のもとにだけ、神からの恵みと憐れみと平和があふれつづけます(ルカ福音書23:35-37参照)


【お知らせ】

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 Ksmksk2496@muse.ocn.ne,jp (自宅PC

2/27こども説教「妹だと言う③」創世記26:6-11

 2/27 こども説教 創世記 26:6-11

 妹だと言う ③

 

 26:6 こうしてイサクはゲラルに住んだ。7 その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。8 イサクは長らくそこにいたが、ある日ペリシテびとの王アビメレクは窓から外をながめていて、イサクがその妻リベカと戯れているのを見た。9 そこでアビメレクはイサクを召して言った、「彼女は確かにあなたの妻です。あなたはどうして『彼女はわたしの妹です』と言われたのですか」。イサクは彼に言った、「わたしは彼女のゆえに殺されるかもしれないと思ったからです」。10 アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれにされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。11 それでアビメレクはすべての民に命じて言った、「この人、またはその妻にさわる者は必ず死ななければならない」。              (創世記 26:6-11

 

 

  【こども説教】

 とくに自分の子供たちに対する父さん母さんの責任はとても重く大きいと、つくづく感じさせられます。神にこそ聞き従って生きていこうと決心して旅に出て、その最初のときから、アブラハムとサラ夫婦は「夫婦であることを隠して、兄と妹だとごまかしつづけて、どこにいっても、いつでもそうやって生き延びていこう」と2人で相談して決めました(創世記12:11-13参照)。まわりの人々をとても恐れたからであり、神さまを十分には信じられなかったからであり、不信仰であり、神へのとても悪い裏切り行為です。創世記12章、20章とつづけて、アブラハムとサラ夫婦は、夫婦であることを隠して、自分たちは兄と妹だとごまかしました。良くも悪くも、子供たちは父さん母さんのそのズルくて悪いやり方を習い覚えてしまいました。イサクとリベカ夫婦も、父さん母さんと同じズルくて悪いやり方を繰り返します。心が痛みます。外国人の王の口を用いて、神ご自身が彼らをきびしく叱ります。9-10節、「そこでアビメレクはイサクを召して言った、「彼女は確かにあなたの妻です。あなたはどうして『彼女はわたしの妹です』と言われたのですか」。イサクは彼に言った、「わたしは彼女のゆえに殺されるかもしれないと思ったからです」。アビメレクは言った、「あなたはどうしてこんな事をわれわれにされたのですか。民のひとりが軽々しくあなたの妻と寝るような事があれば、その時あなたはわれわれに罪を負わせるでしょう」。神さまが、とても不信仰なその彼らを正しい道に連れ戻してくださいました。

 

 

 【大人のための留意点】

 イサクはその信仰に試練があり、誘惑を受けていたのです。イサクの力がまことに微小でありますのに、試練と誘惑は大きいのです。……イサクは不安のあまりに、父親がエジプトで行なったのとそっくり同じことをやってしまいます。リベカが美しい人でしたので、父と同様、イサクは偽って、彼女を妹だと言いふらすのです。少なくとも、父親の欠点だけはよくもイサクは受け継いだものです。そして神は、その場合にも、彼を保護してくださいます。偽証の結果リベカの身に取り返しのつかない深刻な事態が起こるまえに、イサクはリベカと共にその土地で法的保護のもとに守られることになります。イサクの上に神の保護が及ぶのです。「あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福する」(創世記26:24)。(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年2月21日月曜日

2/20「神の子なのか?」ルカ22:63-71

            みことば/2022,2,20(主日礼拝)  359

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:63-71          日本キリスト教会 上田教会

『神の子なのか?』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:63 イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、64 目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。65 そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。66 夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、67 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。68 また、わたしがたずねても、答えないだろう。69 しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。70 彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。71 すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。      ルカ福音書 22:63-71

 

1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。(1ペテロ手紙 1:3-9

 救い主イエスが敵対者たちに捕らえられ、はずかしめを受け、不当な裁判にかけられています。やがて直ちに十字架につけられて殺され、葬られ、その三日目に死人の中からよみがえらされます。イエスご自身がエルサレムへの旅路の途中で、弟子たちに繰り返し予告しつづけていたとおりに、神の救いのご計画のとおりにです。

63-65節、「イエスを監視していた人たちは、イエスを嘲弄し、打ちたたき、目かくしをして、「言いあててみよ。打ったのは、だれか」ときいたりした。そのほか、いろいろな事を言って、イエスを愚弄した。神の独り子であられる救い主イエスが、人々からはずかしめを受け、あざけり笑われています。あざけられ、目隠しをされて打ち叩かれ、「誰が打ったかを言い当ててみろ」などと。神であられる救い主イエスには、とても横柄で傲慢な彼らの仕打ちをほんの一瞬のうちに払いのけることもできました。悪霊どもをたった一言で追い払うことができたように、また、天の大軍を呼び寄せて悪魔の手下にされている者たちをなぎ倒させることさえも。もし、そうしようと思いさえすれば、とても簡単にそうできました。けれど、しませんでした。はずかしめを受け、あざけり笑われることを、救い主イエスは自分の意志で受け入れています。目隠しをされて打ち叩かれ、「誰が打ったかを言い当ててみろ」などからかわれることも、十字架につけられ罪人の一人として死刑に処せられることさえも、甘んじて、自分の身に引き受けています。それが御父と御霊と御自身の救いの計画の中にあらかじめ決めていることだからです。また、サタンがご自分と弟子たちを試練にかけ、弟子たちがもみ殻のようにふるいにかけられる『闇の支配の時』を受け入れておられます。それが、私たち罪人と世界を救うために必要であるからです。そのためにこそ、この世界に降りて来られたからです(1テモテ手紙1:15

はずかしめられて身を屈めさせられ、へりくだった低い姿で、そのはずかしめを耐え忍んでみせてくださっていることは、主イエスを信じて、主イエスに従って生きていこうとする私たちのための大切な教えの機会でもあります。なぜなら、この世界にあって、私たちにも苦しみや悩みがつきまといます。不当な取り扱いを受けて、非難され、陰口を言われても、なおそれを忍耐しなければならないときもあります。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の後を踏み従うようにと、模範を残された」(1ペテロ手紙 2:21と、はっきりと証言されています。キリストがそうされたように、この私たちも同じようにしなさいと。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、脅かすことをせず、正しい裁きをする方にいっさいを委ねなさいと。聖書は証言します、「さらに、私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは癒されたのである。あなたがたは、羊のようにさまよっていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、立ち帰ったのである」(1ペテロ手紙2:24-25

66-71節、「夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。また、わたしがたずねても、答えないだろう。しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。救い主イエスが、ついにここで、やがて現わされるご自身の栄光の姿について証言しておられます。救い主イエスを信じない多くの人々にとって、その証言は、ただ神を冒涜するだけの根も葉もないイカサマだと聞こえたでしょう。しかも、そのとき、救い主イエスははずかしめられて身を屈めさせられ、へりくだった低い姿を人々の目の前にさらしています。どんな権威も、栄光も見いだせず、ただ弱く、力なく、あまりに惨めな有様で。

けれどもなお、この私たちこそは、救い主イエスの十字架の死と苦しみと共に、そればかりでなく、やがて栄光に包まれた姿でこの世界に戻って来られますことを、自分の心によくよく留めておきましょう。私たち罪人のためにあざけり笑われ、軽蔑され、十字架の惨めな死を遂げたその同じお独りの方が、天と地のいっさいの権威を帯びて、御父の栄光に包まれてやがて再びこの世界に降りて来られます。もし私たちが、救い主イエスが最初に地上に降りてこられて、十字架につけられて苦しみ、死んで葬られたことしか知らないならば、大切な真実のうちの半分しか知らないことになります。人民の長老、祭司長たち、律法学者たち、またローマ帝国の植民地の管理を委ねられた領地の支配者ヘロデや、ローマ帝国の役人ポンテオ・ピラトの不法な裁きの前に立たされようとしている、その同じ救い主イエスが、やがて終わりの日に、すべての敵対者たちの前に絶大な権威と栄光を帯びて審判の玉座に座るのだということを、よく覚えておきましょう。やがて、この世界の終わりの日にふたたび来られて、救いを完成なさり、栄光を受けられることもまたはっきりと知り、信じることができてはじめて、そこでようやく、私たちは希望と慰めをこの救い主イエスの御手から、十分に受け取ることができます。

ですから、「今からのち」「やがて終わりの日に」と宣言なさる救い主イエスの約束と御心を信じて、それを堅く心に留めて生きることのできるクリスチャンは幸いです。いましばらくの間、主イエスを信じる者たちは、主人であられるイエス・キリストの苦しみや、弱さ、あざけり笑われることや軽蔑や、ののしりに対してさえも、主イエスと共にそれらにあずかることを喜び、そこで満ち足りていることができます。同じように、「今からのち」「やがて終わりの日に」、その人々は、キリストの栄光にあずかり、彼と共にその強さを受け取ることになるからです。

聖書は証言します、「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」(1ペテロ手紙 1:3-9「信仰により神の御力に守られている」と告げられています。神の憐れみの御力が私たちにも必要なだけ十分に注がれつづけ、それを私たちは『イエスを信じる信仰によって』受け取りつづけるからです。もちろん、私たち自身はとても弱く、危うい、揺さぶられやすい者たちです。それでもなお神を信じる信仰によってこそ守られつづけます。また、神を信じる私たちのその信仰そのものが、私たち自身の肉の弱さのゆえに揺さぶられ、惑わされ、心をたびたび鈍くされながら弱められてしまうことにも私たちは気づいています。それでも大丈夫です。それぞれに神から贈り与えられた信仰そのものもまた、神ご自身の御力によって守られ、支えられ、弱まる度毎に強くされつづけるからです。

「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れない」。さまざまな試練で悩まねばならない期間はいったいいつまでなのかと問いかけたくなります。けれど、それは私たちには分かりません。神さまご自身がご存知です。長く続くかも知れないし、すぐにも悩みの日々が去ろうとしているかも知れません。ですから、その悩みが続く間、忍耐して耐え忍ぶことができるようにと、神に願い求めましょう。その悩みや苦しみと共に、励ましや支えをも与えつづけてくださるようにと願い求めましょう。悩みや苦しみと共に、慰めや喜びも確かに添えられています。それは神を信じているからだ、と教えられてきました。

70節。彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。この会話の意味は、「あなたは神の子なのか」と問われて、主イエスが彼らにこう答えています、つまり、「あなたがたは真実を語っている。あなたがたが、神の子なのかと問いかけたとおりに、私こそが神の子である」と。主イエスは、ご自分が約束されていた救い主であり、しかも確かに自分は神であるとはっきりと断言しています。それでもなお当時も、また今日でも、救い主イエスを信じることのできない人々は数多く残されます。偏見や先入観によって心がかたくなにされ、聴く耳が閉ざされつづけるからです。「聴く耳のある者は聞くがよい」と主イエスは仰いました。きびしい言葉です。けれども神ご自身が、その人を憐れんでくださって、その耳を開いて下さるのでなければ、誰一人も福音の言葉を聞き入れることができません。主イエスご自身はさらに、「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない」、また「父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできない」(ヨハネ福音書6:45,65と仰います。そうであるなら、なおさらのこと。この私たちは、天の御父に願い求めつづけましょう。この私自身の耳と心を開いてください。私と家族を主イエスの憐れみのもとへと、どうか引き寄せてくださいと。

 

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

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2/20こども説教「長子の特権」創世記25:27-34

2/20 こども説教 創世記 25:27-34

 『長子の特権』

 

25:27 さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。28 イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。29 ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。30 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。31 ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。    

(創世記 25:27-34

 

 

  【こども説教】

 アブラハムとサラ夫婦の子供イサク、その子供のエサウとヤコブ。この2人の兄弟の人生が語られます。

 まず、「長子の特権」には2つの意味が込められています。1つは、最初に生まれた息子として、家や土地など父の財産や権利や、一家の指導者としての責任などを引き継ぐことです。もう1つは、神からの祝福を受けるしるしです。もちろん、「神からの祝福」はただ最初に生まれた息子1人だけではなく、他のすべての子供たちも父さん母さんや、おじいさんおばあさんも皆が、その人と一緒に神からの祝福を受け取りつづけて生きることこそが神さまの願いです。また、「赤いもの、その赤いものを食べさせてくれ」と言い立てたから彼はエドムと呼ばれた、と書いてありました。エドムは、赤いものという意味です。31-33節、「ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った」。疲れ果てて、お腹もすいて、弟の作っていたパンとレンズ豆の煮ものをどうしても食べたかった。それで食べ物と引き換えに、エサウは、何よりも一番大切な神からの祝福を手放してしまいました。神さまからいただいた信仰と、神からの祝福。お金やモノや、他のなにかのために、その一番大切なものを、私たちも決して手離してはいけません。

 

 

 【大人のための留意点】

 キリストの十字架の出来事が生じて後、すべての人が、誰彼の区別なくすべての者を「信じる者」としてお召しになる、選びへと召されています。……事実、キリストは十字架上において、われわれの捨てられるべき運命を選びへと変えてくださったのです。キリストを信じる者は誰も失われず、救いに入れられるのです。キリストは、今日、われわれに神の選びを指し示されました。われわれは、神の選びに定められています。事実、キリストは次のごとく仰せになるのです。「わたしは失われた者をたずね、救うために来たのである」(ルカ福音書19:10)。(ヴァルター・リュティ『ヤコブ 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

2022年2月14日月曜日

2/13「ペテロの涙」ルカ22:54-62

             みことば/2022,2,13(主日礼拝)  358

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:54-62               日本キリスト教会 上田教会

『ペテロの涙』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:54 それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。55 人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。56 すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。57 ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。58 しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。59 約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。62 そして外へ出て、激しく泣いた。ルカ福音書 20:1-8

 

4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル手紙 4:14-16)


54-60節、「それから人々はイエスを捕え、ひっぱって大祭司の邸宅へつれて行った。ペテロは遠くからついて行った。人々は中庭のまん中に火をたいて、一緒にすわっていたので、ペテロもその中にすわった。すると、ある女中が、彼が火のそばにすわっているのを見、彼を見つめて、「この人もイエスと一緒にいました」と言った。ペテロはそれを打ち消して、「わたしはその人を知らない」と言った。しばらくして、ほかの人がペテロを見て言った、「あなたもあの仲間のひとりだ」。するとペテロは言った、「いや、それはちがう」。約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた」。救い主イエスが裁判を受けている間に、ここで、私たちは痛ましい出来事に直面します。ペトロという名の、1人の熱心で忠実な弟子の挫折と裏切りです。あの彼は、「イエスなど知らない。何の関係もない」と3度くりかえして、自分と主イエスとの関係を否定します。主イエスの弟子ペトロは、あの逮捕の際にいったんは逃げ去りながら、それでもこっそりと後を追って来ました。弟子たちの全員が主を見捨てて逃げ出しました。ただ主イエスだけが捕まえられ、裁判にかけられます。大祭司の屋敷の中庭で、火に当たる人々の間に紛れ込んで、怖がりながら、ペトロは座っています。捕えられた主がどんな目にあうのかと、その裁判の成り行きを見守るために。その屋敷で下働きをしている娘たちの1人が、その彼に目を留めます。「あ。この人のことを知っている」と。彼を見つめます。「あなたも、あのナザレ村から来たイエスと一緒にいた。そうでしょ」。「ガリラヤ地方の訛(なま)りがあるじゃないか。一緒にいるところを俺も見たぞ」「私も見た」「そうだ、この人だ」。次々に問いただされ、しつこく見つめられ、「いや知らない。人違いだろう」と彼は言ってしまいます。

彼ペトロは、弟子たちの中でもリーダー格で兄貴分的な存在でした。仲間たちからも信頼されていた力強い断固とした働き人が、けれども主に背を向けています。「これが、あのペトロか。私たちがよく知っていたあの同じ人物か」と、私たちは驚き呆れます。彼にも、主イエスを信じる信仰の様々な出来事があったのです。姑の熱を癒され、山の上で主の栄光の姿を目撃し、湖の上では危うく溺れそうになところを主に助けられました(ルカ福音書4:38,8:22,9:28)。さまざまな紆余曲折のあった長い旅路を、あの彼は主に従って歩んできました。この方に聞き従うことや信頼することを少しずつ学びとり、この方こそ信頼に足る方だと心に刻んできました。その主を「知らない。何の関係もない。赤の他人だ」と、1度ならず2度3度と言い放ってしまいました。彼のつまずきは、ほんの小さな試みから始まりました。時刻は、真夜中をとうに過ぎていました。大祭司に仕える下働きの娘がひとこと質問しました。「あなたも、あのナザレ村から来たイエスと一緒にいた」。刃物を喉元に突きつけられて、ではありません。大勢の強盗や兵隊たちに取り囲まれて、ではありません。無力な1人の娘のほんの一言が、彼を追いつめました。力強い断固とした彼の信仰を打ち砕くには、そのほんの小さな一言だけで十分でした。あまりに簡単なことです。

61-62節、「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」。私たちにも、あの彼のように、つまずく時が来るのでしょうか。けれど、この出来事は告げます;人間がどんなものであるのかを。その意思や決断がどんなに脆く不確かなものであるのかを。たとえ最善の、誠実で堅固な、揺るぎのない人物であっても、その信仰が弱り果て、衰え、ついにつまずいて倒れるときが来ると。だからこそ聖書は主に仕える働き人たちの弱さを、つまずきと破れを、手痛い挫折と失敗をくりかえし報告してきました。60節。夜明けを告げて、鶏が鳴きました。ペトロは、ほんの数時間前に主イエスから言われたあの言葉を思い出しました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、3度わたしを知らないと言うだろう」(22:34)。本当にそうだった。ペトロは、泣き出しました。その落胆、その涙の中身はなんだったでしょう。「ダメな、どうしようもない私だ。私は失格だ」と彼は、自分で自分を裁いています。私たちもそうです。身近な家族や兄弟や誰彼を裁いているだけでなく、しばしば自分自身を自分で裁いてしまっています。しかも互いに容赦なく裁き合うための材料をそれぞれ山ほど抱えています。不誠実。ごうまん。自分勝手。優柔不断。頑固で、意固地でかたくなでと。

主の弟子ペトロは、この時までは、《わたしは弱い》などとは思っていませんでした。誰かほかの人たちのことを言っているのだろう、と高をくくっていました。弱くてふつつかな人間は世間に大勢いるとしても、この自分だけは例外だ、別格だと。あの十字架前夜に泣いた時までは、そう思っていました。けれど突然に鶏が鳴きました。「そんな人は知らない。会ったこともない。何の関係もない」とシラをきっているうちに。彼は外に出て、激しく泣きました(22:31-,62)。この私たちにも鶏が鳴く時が来るでしょうか。主イエスを知らないと言い、外に出て涙を流すときが。

わたしたちの主なる神は、私たちの弱さをよくよくご存知です。知っているどころか、他ならぬこの神ご自身が私たちを、弱く脆く、限界ある存在としてお造りになりました。人は、土の塵から造られたのです。あなたも土の塵から造られたのだし、この私もそうです(創世記2:7,3:19,90:3,103:14,104:29-30,ヨブ10:9,伝道12:7,エゼキエル書37:9)。堅い石や鉄やダイヤモンドで造られた人間など誰1人もいませんでした。しかも、その弱く危うい壊れモノのような私たちのために、主はいったい何をしてくださったでしょう。あのペトロのために、何をしてくださったでしょう。「主イエスなど知らない。私には何の関係もない」と繰り返し偽り、そのふがいない自分に絶望して泣いたペトロを、けれども主は、見捨てることも見放すこともなさらなかった。あの大声で泣いて闇の中に駆け去っていった場面が、彼の生涯最後の場面ではありませんでした。主はペトロを、あの暗がりに放置することはなさいませんでした。彼はゆるされ、再び抱え起こされ、神の恵みのもとへと連れ戻されます。ペトロだけではありません。「聖書は主に仕える働き人たちの弱さとつまづきと挫折をくりかえして報告してきた」と先程話しました。こう言い直さなければなりません。『弱さをさらし、つまずいて挫折する度毎に、けれども彼らはゆるされ、忍耐され、助けられ、支えられつづけた。倒れる度毎に、抱え起こされつづけたのだ』と(マタイ27:3-,使徒1:18,創世記9:18-,12:10-,20:1-,26:1-,出エジプト記16:1-,17:1-,民数記11:10-,21:4-,サムエル下11:1-,列王上11:1-,ルカ22:47-)。ペトロもユダも同罪でした。ここにいるこの私たちもそうかも知れません。もし、ゆるしと憐れみの神さまに出会うことが出来なければ、私たちもふがいない自分自身に絶望し、自分で自分を裁き、自分自身で自分を滅ぼしてしまうほかありませんでした。あのユダのように。けれど神は、私たちを憐れんでくださいました。その憐れみはあまりに深かった。

 

       ◇

 

「神の御前で謙遜になれない人間は、恐ろしい人間になってしまう」と年配の一人の友人が言いました。耳を疑いました。神のことなど思いもしないだろうと周囲の人々から思われていた、そしていかにも傲慢そうに振舞っていた人の口から、そのような意外な言葉が漏れたからです。「謙遜とこの私とどこがどう結びつくのか。私の口からそんな言葉が一体どうして出てくるのかと、家族や友人たちは不思議がるだろう」と彼は言いました。本当に。神の前で謙遜になれない人間は、恐ろしい人間になってしまう。その人は、自分自身の内側に巣くう『恐ろしい人間』をつくづくと見つめて生きてきたのです。人間存在や他すべての造られた生き物たちを遥かに超えて、絶対者なるお方がおられる。けれど私は、その方のことを思うことが出来ない。だからこそ度々繰り返して、この自分は、あまりに恐ろしい破壊者に成り下がってしまうのかと。だからこそ度々繰り返して、この自分は、無慈悲で冷酷な審判者に成り上がり、人の弱さやふつつかさをあげつらい、裁きたて、いちいち目くじらを立て、「いたらない。ふさわしくない」などと容赦なく攻撃し、「傷つけられた。不当に扱われた」と恨んだり憎んだりしつづけているのかと。「もっとこうしてほしい。もっともっと」と要求ばかりをつきつけ、自己中心の傲慢な思いを淀ませてばかりいるのかと。正しい自分である、という恐ろしい人間。それに比べてあの人はこの人たちは、という恐ろしい人間。つまりは、まるで自分が神にでもなったつもりの恐ろしい人間。他者を憎み、弱らせ、打ち倒そうとする恐ろしい人間。私にも分かります。この私も、謙遜になれないそういう恐ろしい人間を心の中に住まわせている1人ですので。だからです。試練にあってつまずき倒れ、自分自身の貧しさと罪深さをつくづくと思い知らされ、『やがて立ち直るとき』が用意されていました。自分の傲慢さ、罪深さを思い知らされて、だからこそ兄弟姉妹たちの弱さを憐れんで思いやり、その人たちを助けてやることもできるために(ルカ22:31-32「あなたが立ち直ったら」と、その礼拝説教を参照)。しかもイエス・キリストという神は、その恐ろしい私たちのために低くくだり、へりくだって、人となられました。その主イエスから、「目覚めていなさい」と命じられました。心は燃えても肉体は弱い。もちろん、心も弱い。だから、あなたは目覚めていなさい(マタイ福音書26:41)。目覚めているとは、主の御業を思い起こすことです。《主がこの私のためにさえ強くあってくださる。だから》と自分自身に言い聞かせ言い聞かせ、そのようにして、私たちは神さまの現実に目覚めます。《私の主であってくださる方が、私を愛してくださる。大切に思っていてくださる。私を養い、支え、守り通してくださる。だから私は弱くても乏しくても、たとえ愚かであっても、恐れはない。何1つ欠けるところがない》と歌いながら、そのようにして私共は目覚めます。目覚めて、そこで生きて働いておられます神との出会いを積み重ねていきます。

2/13こども説教「イサクをささげる」創世記22:1-19

2/13 こども説教 創世記 22:1-19

 『イサクをささげる』

 

22:1 これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。……7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。                   (創世記 22:1-19

 

 

  【こども説教】

 アブラハムとサラ夫婦にとうとう子供が与えられました。イサクという名前の息子です。けれど神は、そのイサクをささげなさいとアブラハムに命令します。とてもきびしい命令です。モリヤの山の上には、アブラハムとイサクが2人だけで登っていきました。「火とたきぎはありますが、ささげものの小羊はどこにありますか」とイサクがアブラハムに質問します。アブラハムは、「神さまが自分でささげものを用意してくださる」と答えました。9-12節、「神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。二人の後ろのやぶのところに雄羊がいて、その羊をささげものにしました。やがて神さまは、私たちと世界の救うために、神の独り子、救い主イエスを十字架の上にささげてくださいました。聖書は証言します、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ロ―マ手紙 8:31-32

 

 

 【大人のための留意点】

 ここで「イサクの犠牲」として語られている事柄は、アブラハムの功績ではありません。神の奇跡の御業です。……もちろん、アブラハムはキリストではありません。けれども、アブラハムはキリストを指し示しています。イサクの犠牲は預言者的な意味を帯びて聖金曜日の犠牲の先触れとなっています。やがて、イエス・キリストにおいて神の約束はすべて、最終的に、然り、アーメンとなるのです。

 キリストによって決定的に満たされるこの約束のあることを、せめて今日は最後に指し示すことにしましょう。その約束は次のように記されます。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル手紙2:18。……キリストはわれわれのために、また先触れの形としてはアブラハムのためにも、試練を経験し、それに勝利なさったがゆえに、キリストはかの測り知れない全能を、――そして、今日われわれが知らされるごとく、――至る所で、切実かつ必要な祈りを聞きとどけてくださる全能を、お持ちになります(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』該当箇所、新教出版社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年2月7日月曜日

2/6「救い主が捕らえられる」ルカ22:47-53

            みことば/2022,2,6(主日礼拝)  357

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:47-53         日本キリスト教会 上田教会

『救い主が捕らえられる』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:47 イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。48 そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。49 イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、50 そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。51 イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった。52 それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。53 毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。ルカ福音書 22:47-53

 

1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。……11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。(1ペテロ手紙 1:5-13)


まず47-48節、「イエスがまだそう言っておられるうちに、そこに群衆が現れ、十二弟子のひとりでユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいてきた。そこでイエスは言われた、「ユダ、あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」。あなたは接吻をもって救い主である私を裏切るのか。なんという痛烈な言葉でしょうか。救い主イエスを愛していると見せかけながら、とても悪い、よこしまな裏切り行為がなされています。その弟子の一人が、こうして主への愛情と尊敬を装いながら、自分の主人を敵対者たちの手に引き渡します。同じような出来事が聖書の中でも、その後のキリスト教会の歴史の中でも、何度も何度も繰り返されつづけています。世界の終わりまで、そうしたことは続きます。聖なる神の御名のもとに迫害や、不当な独裁政治や人々を踏みにじる犯罪行為が繰り返されつづけます。この私たち自身もまた、ユダのように心を曇らせ、鈍くされて、主への愛情と尊敬を装いながら、はなはだしく主に背く行いをしてしまうかも知れません。それは、あり得ます。例えば、北王国イスラエルの王とされたアハブ王と王妃イゼベルはナボトという人のぶどう畑が欲しくなりました。ナボトは、けれど王の「その畑をゆずってくれたら、別のもっと良いブドウ畑を代わりに差し上げます」という申し出を退けて、ブドウ畑を譲ろうとしません。その畑が欲しくて欲しくて、王と王妃は神の御心にはなはだしく背く、とても悪い策略をめぐらせます。王妃はアハブ王の名前で手紙を書き、彼の印を押してその町に住んでいる長老たちと身分の高い人々にその手紙を送りました。手紙にはこう書き記しました、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」(列王記上21:9-10。そのとおりになりました。もし、神さまがそれを止めてくださらなければ、この私たちも、イスカリオテのユダ、あるいは王妃イゼベルと同じことをしてしまうかも知れません。それは、十分に有りえます。

49-51節、「イエスのそばにいた人たちは、事のなりゆきを見て、「主よ、つるぎで切りつけてやりましょうか」と言って、そのうちのひとりが、祭司長の僕に切りつけ、その右の耳を切り落した。イエスはこれに対して言われた、「それだけでやめなさい」。そして、その僕の耳に手を触れて、おいやしになった」。きびしい困難に耐えることや、主イエスのために牢獄に閉じ込められ、あるいは主イエスのために自分の命を投げ捨てることに比べれば、剣を振り回してほんの少し戦ってみることのほうが遥かに簡単です。先週のつづきですが、「自分の上着を売り払ってでも剣を飼い求めなさい」22:36と主イエスご自身から、弟子たちはとても奇妙な命令を受けました。「剣なら二振り持っています」と答え、「それでよい」と言われました。「そうか。敵対者たちに立ち向かって、剣をふりまわしてみればいいんだな」と弟子たちはうっかり早合点してしまいました。剣を振り回して、敵対者の部下の一人の片耳を切り落としてやりました。すると、どうしたわけか、「それだけでやめなさい」と主イエスから直ちに止められ、そればかりか、その僕の耳に手を触れて、主イエスは切り落とされた耳を治してやりました。そのための、二振りの剣です。別の福音書の記録では、この同じ場面で、主イエスがご自身の弟子たちに向かって、「剣を取る者は剣で滅びる」(マタイ26:52と仰っています。つまり、武器を取って戦えと要求されていたわけではなく、それが無意味であることを実地訓練で示され、また敵側の、耳を切り落とされた可哀そうなしもべの耳を癒してあげて、彼らと私たちへの憐みを示すためにだけ、その剣は役に立ちました。剣や、様々な装備や道具に頼るのでもなく、むしろ、ただただ神にこそ助けていただこうする心を習い覚えさせるためでもありました。神への信頼と服従。それさえあれば、十分だからです。もし、それがなければ、剣が何百本、何千本あっても豊かな財産や蓄えがあっても賢くても強くても、なんの役にも立たないからです。ほんのひととき振り絞った勇気は、すぐに萎えしぼんで、消えてなくなってしまいます。たかだか被造物にすぎない人間たちへの恐れが、すぐにも私たちを圧倒してしまいます。あの弟子たちも、剣さえ用意して、戦う準備も覚悟もすっかり出来ていたはずなのに、実際には、彼らのただお独りの主人を見捨てて、散り散りになって逃げ去ってしまいます。

様々な活動に活発に取り組むよりも、キリストのために辛抱強く困難を耐え忍ぶことのほうが、はるかに難しいのです。苦しみと悩みの中に置かれて、私たちはどのようにそれを耐え忍ぶことができるでしょうか。それは、ただただ神の恵みによる他はありません。なぜ、神を信じるその人々は、次々とある困難や苦しみや思い煩いを乗り越えて、なお耐え忍びつづけることができたでしょう。神さまの恵みがその人々のうえに有りつづけたからです。神によって自分が多く愛され、多くをゆるされつづけ、折々に心強く支えられ続けてきたことをよく覚えていたからです。

 

52-53節、「それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である。「だが今は」と、救い主イエスはおっしゃいます。試練と誘惑が私たちにも襲いかかるときが来ます。この私たちに対してさえも、悪魔がひととき勢いをふるうときがあります。試練と誘惑のときが来ることが、神ご自身によって、ひととき許されています。

だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。つまり、それがいつまでも続くわけではなく、やがて闇の支配と誘惑や試練のときが必ず過ぎ去るのだと、ここで救い主イエスによって、あの弟子たちと私たちははっきりと告げられています。神によって造られたこの世界のすべての者に対する神の支配は、絶対的で完全なものでありつづけます。よこしまな者たちの手は、その手が動くことを神がお許しになるまでは、堅く縛り付けられつづけています。神の許しなしには、悪魔も、またどんなによこしまな者たちも、指一本も動かすことができません。「動いて良い」と許可されて、それらは動きます。やがて「止めなさい。その手を止めなさい」と神から命じられるとき、彼らはその働きを止めて、鎖にしばりつけられます。「だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。救い主イエスが敵対する者たちの手に渡され、不法な裁きにかけられ、侮辱されてあざけり笑われ、罪人の一人として十字架につけられて殺され、葬られていた間、それは、神の救いのご計画の中で、神によってゆるされていた『彼らのときであり、闇の支配がひとときゆるされていた時』でした。やがて救い主イエスが死人の中からよみがえらされるとき、『彼らのとき。闇の支配の時』が終わりを告げ、過ぎ去って、いよいよ『救い主イエスのとき』がはじまります。すでに始まっている、その『救い主イエスのとき』の中に、私たちは生きています。

この私たちが救い主イエス・キリストに聴き従って生きる者たちであるので、もちろん私たちにも試練と悩みのときが来ます。それは、私たちが思っていたよりも長くつづくかも知れません。けれども他の何ものでもなく、ただ神ご自身こそが、その試練と悩みの時をも定めておられます。神が「よし」とされる以上に、その試練のときが引き伸ばされることは有り得ません。神があらかじめ定めておられたときに、その試練のときは消え去ります。「夜の闇が深まるとき、夜明けが近づいている」などと人々は言います。それは本当のことですが、その意味は、夜明けを来たらせる神こそがこの世界のためにも、また私たちと家族のためにも確かに生きて働いておられるということです。生きて働いておられますその神を確かに信じているので、だから私たちも、夜の深い闇の只中にあっても、なお「夜明けが近づいている」ことを確信することができます。苦難と悩みの日々を、闇の支配の時を、そのように、神を信じる者たちは耐え忍びとおすことができます。だから、私たちはクリスチャンです。

厚い雲がたれこめ、闇が世界を覆うときが来ます。さらに何度も何度も。悲しみと苦い試練の日々が私たちを襲う日々もあるでしょう。けれど、試練のときには必ず終わりが来ます。なぜなら、神の憐れみ深い御心によって、罪のゆるしによる救いがすでに知らされているからです。歩むべき道が備えられているからです。暗闇と死の陰とに住んでいた私たちの上に日の光が臨み、私たちを照らし、その足を平和の道へと導きつづけます。その光が何者であるのかを私たちはよく知っています。主イエスがおっしゃいました、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩くことがなく、いのちの光を持つであろう」と。ですから、こう勧められています、「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。見よ、暗きは地をおおい、闇はもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる」。また、「あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(ヨハネ福音書8:1,イザヤ書60:1-2,ローマ手紙13:11-12

 


2/6こども説教「妹だと言う②」創世記20:1-13

2/6 こども説教 創世記20:1-13

 『妹だと言う②』

 

20:1 アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。彼がゲラルにとどまっていた時、2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。3 ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」。4 アビメレクはまだ彼女に近づいていなかったので言った、「主よ、あなたは正しい民でも殺されるのですか。5 彼はわたしに、これはわたしの妹ですと言ったではありませんか。また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと言いました。わたしは心も清く、手もいさぎよく、このことをしました」。……11 アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。12 また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。そして、わたしの妻になったのです。13 神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。       

(創世記20:1-13

 

 【こども説教】

 アブラハムとサラ夫婦は、神を信じて、神に従って生きる旅を歩いてきました。とても美しい妻を横取りするために、だれかが私を殺すかも知れないとアブラハムは怖くなりました。それで、「妻だということを隠して、妹だと言ってくれ」と妻のサラに頼みました。2人は、そうやって生きていこうと決めました。神を信じる信仰が足りず、神に信頼することができなかったからです。とても不信仰であり、神への裏切り行為です。旅を始めてすぐの12章で、これをしました。この20章で、もう一度、同じことをしました。やがて26章で、彼らの息子夫婦イサクとリベカも、同じズルいことを繰り返します。どうして息子夫婦がそうなってしまったのかは、よく分かります。彼らは父さん母さんがいつも、どんなふうに暮らし、何をどう感じたり、考えたりして一日ずつを生活しているのかをよく見ているからです。子供たちもついつい同じ悪い生き方を身につけてしまいました。ただ、「親がこうしつけて育てた。だから子供たちは」と、軽々しく決めつけてしまうことはできません。親の力が及ばないことはあり、よく似た同じような大人になる場合もあり、まったく正反対の大人になることもあるでしょう。けれど、申し訳ないことです。

 まず11節、「アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです」。

「この所には神を恐れることがない。だから」と彼は言いました。その土地やそこに住む人々が神に信頼したり、聴き従ったりしないせいではありません。本当は、アブラハムとサラ自身こそが神に信頼していないのです。そして13節、「神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。「わたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください」。行くさきざきで。つまり、どこに行っても、いつでもそうやって生きていこうと。彼らはまだまだ、神を疑い、とても不信仰になっています。十分に神を信じるための旅がつづきます。

 

 

 【大人のための留意点】

 方便として嘘をつく。アブラハムはその妻を妹と偽って、王の側室たちの1人として差し出す。危険を回避できるばかりか、利益をも得る。彼の信仰は不信仰となり、神への信頼は失せ去りました。深刻な堕落であり、神への背反です。……かかる者が「信じる人の父」(ローマ4:11,16なのです。そして、かかる者はアブラハムひとりに留まりません。アブラハムの他にも、聖書には、ダビデの姦通が記されています。ペテロの否認があり、サウロのキリスト者虐殺があります。

 神は御国を、われわれの弱さや失敗を通しても建設なさいます。貧しい祈り、聖書を読むことが乏しいこと、気後れしながらの聖晩餐への参加、また、問題を抱きながらの礼拝出席は、それぞれに、こうし失われた息子のわが家への帰還であり、祝いの筵(むしろ=宴会などの座席)への帰還なのではないでしょうか。いま、神がどのようなお方であるかを知った者は、神を心に刻みつけられた者は、赤面しつつではありますが、感謝のうちに仕える志を新たにされて家路につき、また明日からの仕事に従事することでありましょう(ヴァルター・リュティ『アブラハム 創世記連続講解説教集』創世記 12:10-20の箇所、新教出版社)

 

 

2022年2月1日火曜日

1/30「私の思いではなく、御心こそが」ルカ22:39-46

            みことば/2022,1,30(主日礼拝)  356

◎礼拝説教 ルカ福音書 22:39-46         日本キリスト教会 上田教会

『私の思いではなく、

御心こそが』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

22:39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。45 祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって46 言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。ルカ福音書 20:1-8

 

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 (ローマ手紙 8:13-16,マルコ福音書 14:32-36参照)


主イエスが十字架におかかりになる、その数時間前のことです。いよいよ間もなく、救い主は死んで葬られ、その三日目に墓を打ち破って復活なさいます。神ご自身の救いのご計画が成し遂げられるのか、どうか。私たちにもそれが確かな現実となるのか、どうか。その別れ道に私たちは立たされます。ここで、私たちがよくよく目を凝らすべきことは、主イエスご自身の祈りの格闘です。そして、その只中で弟子たちを深く顧みておられることです。十字架の上での主の言葉;「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ福音書27:46)は、あの当時も今も、主を仰ぎ見る私たちの心を悩ませ続けます。あまりに謎めいていて、また恐ろしくもあり、マタイとマルコの福音書はこれを記録しましたが、けれどこのルカ福音書とヨハネ福音書は主イエスのこの発言を省きました。聞かなかったことにしたのです。主イエスご自身の認識と思いとは、十字架の上で、どんなふうだったのだろう。けれど主イエスの弟子たちよ。もし、自分自身が見捨てられてしまったと心底から絶望しているとするならば、その救い主が、いったいどうして罪人の救いを確信し、「大丈夫です。本当のことですよ」と約束さえできるのでしょう。十字架の上での苦しみはどの程度のものだったのか。御父への主イエスの信頼と服従は揺らいだのかどうか。「オリブ山」とも呼ばれる、ここ、ゲッセマネの園での主の姿こそが、それらに対する強い光を投げかけます。

十字架の出来事のほんの数時間前の夜、主イエスは苦しみ悶えながら、ただ独りで祈りの格闘をします。しかも、そこに主イエスお独りしかおられなかったのに、その姿がこんなに詳しく報告されています。なぜか。「あの時こんなふうに私は祈っていた」と、主イエスご自身がその姿を弟子たちに伝えてくださったからです。ほら、こうするんだよ。あなたがたも、地面に体を投げ出して祈りなさい。格闘をするようにして、本気で祈りなさいと。「この杯」。これは、あとほんの数時間後に迫った十字架の惨めで恐ろしい死を指し示します。弟子たちからも見捨てられ、罪人の1人として裁かれ、ツバを吐きかけられ、ムチ打たれ、十字架の上にその肉を裂き、その血を流しつくすこと。それは、神さまがわたしたち罪人と、神によって造られたこの世界を救ってくださるために、どうしても必要なことでした。神の独り子が、あの救い主イエスが、身悶えさえして苦しみ、深い痛みを覚えておられます。――どんな救い主を、どんな神を、思い描いていたでしょう。また、主イエスを信じて生きる私たち自身を、あなたはいったいどういう者だと思っていたでしょうか。

この祈りの格闘を細々と弟子たちに語り聞かせてくださったのは、私たちそれぞれにも厳しい試練があり、それぞれに、背負いきれない重い困難や痛みがあるからです。それぞれのゲッセマネです。あなたにも、ひどく恐れて身悶えするときがありました。悩みと苦しみの時がありました。もし、そうであるなら、あなたも地面にひれ伏して、体を投げ出して、本気になって祈りなさい。耐え難い痛みがあり、重すぎる課題があり次々とあり、もし、そうであるなら主イエスを信じる1人の小さな人は、どうやって生き延びてゆくことができるでしょう。わたしは願い求めます。がっかりして心が折れそうになるとき、しかし慰められることを。挫けそうになったとき、再び勇気を与えられることを。神が生きて働いておられ、その神が真実にこのわたしの主であってくださることを。

あれから長い歳月が流れ去って、ゲッセマネの園でのあの一夜は遥か遠い昔のこととなりました。キリストの教会は世界中あちこちに数多く建てられ、主イエスを信じて生きる者たちがそれぞれの暮らしを建て上げ、悪戦苦闘しつづけています。神ご自身の祝福、平和と恵みと憐れみを携え、それを差し出し、手渡そうとして。祝福の源でありつづけるための、それぞれの悪戦苦闘を。キリストの教会は、私たちクリスチャンは、どのように生きることができるでしょう。この地上を旅するようにして生きるための、その旅の備えをどのように整え、どういう弁えと心得をもって、何を選び取り、また何を手放したり捨て去ったりできるでしょう。主イエスの弟子たちよ。あの夜、主は祈りつつ生きて死ぬことの格闘をしつづけておられました。「父よ、御心ならば、どうぞこの杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」。自分自身がいま現に抱えている切実な願いや心の思いがあり、他方で、御父ご自身の願いや御心がある。驚くべきことに、救い主イエスご自身がその2つの心、2つの願いの間にある隔たりや喰い違いに突き当たっています。自分自身の心と願い、そして御父の心と願いと。それらは喰い違っています。かけ離れており、別の違う方向をそれぞれ向いています。そこに思い至り、あの救い主イエスは、血の汗をしたたらせ地面に身を投げ出して格闘し、自分自身の心と願いをねじ伏せようとしておられます。自分自身とその心の願いや欲求を必死になって退け、御父の御前にひれ伏しています。

さて、「オリブ山」とも呼ばれるゲッセマネの園。主イエスはここで、父なる神にこそ目を凝らします。「どうか取り除けてください。しかしわたしの思いではなく、あなたの御心が成るようにして下さい」。御心が成る、御心のままに、とは何でしょう。諦めてしまった者たちが平気なふりをすることではありません。祈りの格闘をし続けた者こそが、ようやく「しかし、あなたの御心のままに」「どうぞよろしくお願いします」という小さな子供の愛情と信頼に辿り着きます。わたしたちは自分自身の幸いを心から願い、良いものをぜひ手に入れたいと望みます。けれど、わたしたちの思いや願いはしばしば曇ります。しばしば思いやりに欠け、わがまま勝手になります。何をしたいのか、何をすべきなのか、何を受け取るべきであるのかをしばしば見誤っています。けれど何でも出来る真実な父であってくださる神が、このわたしのためにさえ最善を願い、わたしたちにとって最良のものを備えていてくださる。父なる神さまの御心こそがわたしたちを幸いな道へと導き入れてくれる。きっと必ず、と。

主イエスご自身から祈りの勧めがなされます。「なぜ眠っているのか。目覚めていなさい。祈りなさい」と。なぜでしょう。「目を覚ましていなさい。眠っちゃダメ。起きて起きて」。なぜでしょう。雪山で遭難したときと同じだからです。眠くて眠くて瞼が重くて目をつぶってしまいたくても、「しっかりして。眠っちゃダメ、起きて起きて」。だって、そのまま眠りこんでしまったら、その人は凍えて、身体中がすっかり冷たくなって、やがてとうとう死んでしまうからです。またそれは、わたしたちに迫る誘惑に打ち勝つためであり、それぞれが直面する誘惑と試練は手ごわくて、また、わたしたち自身がとても弱いためです。祈るようにといったい誰が勧められ、祈る場所へと招かれつづけていたでしょうか。「しっかりしていて強いあなたを特に見込んで、だから祈れ」と言われていたのではありません。そうではありません。あなたはあまりに弱くて、ものすごく不確かだ。ごく簡単に揺さぶられ、惑わされてしまいやすいあなただ。そんなあなただからこそ、精一杯に目を見開け。本気で、必死になって、祈りつづけなさい。「神さま、私たちを憐れんでください。この私を憐れんでください」と、あなたも叫ぶように祈ってみればいいじゃないですか。あなたにも、それができます。

なぜなら、「なんて弱い私か」と私たちは落胆するからです。「自分に少しも自信が持てない。小さく弱く、とても危うい私だ。壊れやすくて華奢なガラス細工のような私だ」と落胆するからです。もっと堅固で、もっと揺るぎない私だと思っていたのに。え、自分に自信が持てない? 当たり前です。いつか自分に自信が持てるようになることが目標だったんですか。そんなつまらないことをすっかり止めて、神さまをこそ信じはじめたらいいのに。せっかくクリスチャンにしてもらったんだから。形ばかりじゃなくて、ちゃんと中身も、神さまを本気で信じるクリスチャンにしていただいたらいいのに。誰にも頼れない。誰からも十分な励ましを得られない。その通りです。助けは神さまからいただこうと、あなたも思い返すことができればいいのに。困っている人や悩みの中に置かれている友だちを力つけてあげられない。その通りです。神さまをそっちのけにして、棚上げして、片隅へ片隅へと押しのけつづけて、いったいどんな希望や慰めがあるというのでしょう。「私はいったい誰を喜ばそうと、誰に喜ばれようとして、それを行なっているのか? それを口に出して言っているのか」と自分自身に問いかけてみましょう。まわりにいる人々を喜ばそうとしているかも知れない。あるいは、ただ自分自身の心を喜ばそうとして、それを行ない、それを話しているかも知れない。自分中心、人間中心のモノの考え方に、いつのまにかまたもや首までどっぷり浸かっているかも知れない。この私自身こそが。神の御心をそっちのけにして。もし万一、神さまに十分に信頼できなければ、私たちは絶望してしまうほかありません。

悩みと思い煩いの中に、私たちの目は耐え難いほどに重く垂れ下がってしまいます。この世界が、私たちのこの現実が、とても過酷で荒涼としているように見える日々があります。望みも支えもまったく見出せないように思える日々もあります。ついに耐えきれなくなって、私たちの目がすっかり塞がってしまいそうになります。神の現実がまったく見えなくなり、神が生きて働いておられることなど思いもしなくなる日々が来ます。しかも、私たちは心も体も弱い。とてもとても弱い。「けれど御心どおりではなく、ただただ私の願いのままにおこなってください。私の心、私の願い、私の心、私の願い」とそればかりを渇望しつづけて。では、どうやって主の御もとを離れずにいることができるでしょうか。主を思うことによってです。どんな主であり、その主の御前にどんな私たちであるのかを思うことによって。思い続けることによって。あの時、あの丘で、十字に組まれたあの木の上にかけられたお独りの方によって、いったいどんなことが成し遂げられたでしょうか。ウトウトしはじめていた私たちはハッと目覚めます。ただただ、主の手にすがって、導いてくれる主ご自身の手につながり、確かに結ばれつづけて、そこで安らかに歩みとおしたい。そうでした。それが私の願いであり、希望なのだと。疲れと思い煩いの眠りから、もうすっかり目を覚ましていました。目覚めて、そこで、生きて働いておられる神と出会っています。そこで神さまからの恵みと平和とゆるしを、改めて、まるでいま初めてのように、受け取っています。