2021年3月28日日曜日

3/28「救い主が十字架につけられた」ヨハネ19:17-37

 みことば/2021,3,28(受難節第6主日の礼拝)       312

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 19:17-37              日本キリスト教会 上田教会


『救い主が

十字架につけられた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 19:17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。……28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。31 さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。32 そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。33 しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。34 しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。35 それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。36 これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。37 また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。 ヨハネ福音書 19:17-37

まず17-18節、「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた」。神ご自身であられる救い主イエス・キリストが、私たち罪人を罪と悲惨の奴隷状態から救い出してくださるために、このように罪のあがないを成し遂げてくださいました。私たちを救うためには、救い主イエスは罪人の身代わりとなって恥と苦しみと死を引き受けなければなりませんでした。私たちの罪の大きさと悲惨さがどれだけ大きかったのかが、ここに示されます。またそこまでしても、なんとしてでも私たちを罪から救い出そうとされた神の愛の大きさと深さが、ここに現れています。死刑にされる犯罪者は、その処刑場所まで、自分がはりつけにされて死ぬための十字架を自分自身で運ばねばなりませんでした。神が身を屈められた、そのへりくだりの深さを、私たちはここに見ています。救い主イエスは、このように私たちのために罪人の一人に数えられ、神の呪いを代わって受けてくださいました。神の律法の規定によれば、罪のあがないのために血を流された犠牲の生き物は幕屋の外に運び出されることになっており、木にかけられる者は神から呪われると宣言されているとおりにです(レビ16:27,申命記21:23。ですから、あのお独りの方の犠牲の死によって、私たちの罪があがなわれ、罪から清められたことを私たちは確信して良いのです。このお独りの方が呪いを受け、罪とされたのは、彼にあって私たちが神の義を受け取る(=神に「よし」とされ、受け入れられ、喜び迎え入れられる)ためでした(2コリント手紙5:21

19-22節、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。十字架の上にかけられた罪状書きには、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてありました。祭司長たちがそれを捻じ曲げようとしましたが、ピラトが書いたとおりに「ユダヤ人の王」とされました。ユダヤ人の王であり、また、世界とこの私たちの王でもあられる方として、救い主イエスは十字架にかけられました。そうあるべきことが成し遂げられました。その方に「ダビデの王座が与えられ、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続く」と神の御使いが予告したとおりに。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と東から来た博士たちが探し求めたように(ルカ1:32-33,マタイ2:2。「この世界の王とは全く違う王国の王である」と彼ご自身が総督ピラトに答えたように。永遠に支配をつづける真実な王として彼は生まれ、生きて、死んでいかれました。死んだ後にも、もちろん死人の中から復活なさり、終わりの日まで王としてこの世界と私たちを治めてくださるために。

 23-27節。救い主イエスが十字架にかけられたあと、兵隊たちはイエスの衣を分け合い、くじを引きました。また十字架の上で救い主イエスは母マリヤと弟子の一人を引き合わせ、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」「ごらんなさい。これはあなたの母です」と彼らを新しい家族となさいました。私たちに対してもそうであられるように、救い主イエスはマリヤに対しても憐み、心を砕いて配慮をしてくださいました。もちろん彼女は祈りや崇拝の対象ではなく、神からの憐みと支えと養いを必要とする、生身の人間に過ぎなかったからです。私たちもそうです。「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(1ペテロ手紙5:6-7と促されているようにです。

28-30節、「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた」。用意されていた酸っぱいぶどう酒について、少し説明します。死刑にされる罪人が十分に責めさいなまれた後で、あわれな罪人の死を早めて楽にしてあげるために、こうした飲み物が用いられていたようです。けれど、ここでよく分かっている必要があることは、救い主イエスはご自分から「その酸っぱい飲み物を早く飲ませて、楽にしてほしい」などとは求めなかったことです。罪人の救いのために必要なすべて一切が成し遂げられることを確かめたうえで、必要なすべてが成し遂げられるまでは、苦しみから解放されることを求めませんでした。それは、私たちへの無限の愛と、私たち罪人の救いに対する測り知れない心遣いと熱情です。何時間もかけて、ゆっくりと少しずつ彼は死んでいかれたのであり、彼がこうむった苦痛ははなはだしいものでした。それでもなお神の裁きに対して罪人たちの罪のつぐないを果たし、罪の清めがすべての点で完全なものとなるまで、苦しみと死から解放されようとは少しも望みませんでした。しかし、どうして、「すべてのことが成し遂げられた(=終わった)」と救い主イエスは言っているのか。罪人の救いのためには、神ご自身である救い主の死と復活こそがどうしても必要です。まだ彼は死んでいないし、まだ死人の中からよみがえっていません。「すぐあとに起こるはずのこと」を、救い主イエスは、ここですでに実感し、はっきりと知っていました。それで、「今や万事が終わった」ことを知り、「すべてのことが成し遂げられた(=終わった)」と救い主イエスは言っています。「聖書に書かれているとおりに死んで、墓に葬られ、三日目に死人の中からよみがえった」(1コリント手紙15:3とは、このことです。やがて間もなく、聖書に約束されていた救いの出来事がすっかり完全に成し遂げられようとしています。

このようにして救い主イエスは、私たちにも、人間たちにではなく、神にこそ従って生きるようにと命じています(使徒4:19,5:29。神の御心に対して十分に従順であり、神への服従を貫いて生きる在り方を。はなはだしい苦痛の只中にあっても、悩みと苦しみに責めさいなまれるときにも、神さまの喜ぶところのことをなして生きるようにと。それが、イエスの弟子である私たちすべてのクリスチャンに必ずきっとできるからと。神が、この私たちのためにもその従順の道を成し遂げてくださると。苦しむとき、悩みの只中で、けれど私たちはそれがいつまでつづくのかを自分では決めないし、自分自身で選び取ることもしません。その判断は神にだけお委ねすることができるからです。「アバ父よ。あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36と。

31-37節、「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある」。ユダヤ人の時間の考え方では、一日は夕方から始まります。「夕べがあり朝があった。夕べがあり朝があった」と世界創造の最初の7日間が数えられていたとおりに。そして、何も動かさず。わずかも働いてはならないと律法で定められている安息日の開始時間が迫っていました。安息日が始まる前に、処刑された罪人の遺体を下ろし、葬りの用意も済ませてしまいたいと人々は考えました。死刑にされた罪人が本当に死んでいるのを確認するために、足を折ります。けれど、十分に死んでいるとして、ローマ人の兵隊は救い主イエスの足を折りませんでした。けれど一人の兵隊がその死を確かめるためにわき腹を槍で突きました。「すぐ血と水とが流れ出た」と証言されています。

 救い主イエス・キリストが私たちに贈り与えてくださった「水と血の恵み」は今日、洗礼と聖晩餐という二つの聖礼典によって証言され、受け取られつづけています。神に背きつづける罪から解放され、私たちが清くされることは、新しいいのちを恵みによって神から受け取ることからはじまるからです。洗礼を受けることからそれははじまり、聖晩餐のパンと杯は罪のあがないが確かに成し遂げられたことを保証して、私たちを養い育てつづけるからです。そのように洗礼と聖晩餐によって、私たちは救い主イエスの恵みのもとへと導かれ、主イエスを信じる信仰によって、新しいいのちを受け取ります。

 あのとき、十字架の木の上で、救い主イエスの心臓の鼓動は止まり、彼は確かに息絶えて、死んでいかれました。神ご自身である彼の死が確かにあったので、罪をあがなう犠牲が成し遂げられました。彼の死と復活が確かにあったので、彼を信じるキリスト教信仰と、神を信じて生きる私たちの生活は虚しい砂の上にではなく、堅い岩の土台の上にしっかりと立てられています。彼が死んで復活なさったので、彼を信じる私たち一人一人も新しいいのちに生きる者たちとされました。