2021年3月1日月曜日

2/28「背いたことは一度もない」ルカ15:20-32

        みことば/2021,2,28(受難節第2主日の礼拝)  308

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:20-32                   日本キリスト教会 上田教会

『背いたことは一度もない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。                  (ルカ福音書 15:20-32)

 救い主イエスご自身が、大切なことをぜひ伝えようとして、このたとえ話を話しておられます。まず羊飼いと羊、次に持ち主と銀貨、そして最後に父親と二人の息子たち。3つのたとえ話は1組で、神さまご自身の只1つの心を私たちに伝えようとしています。さて、ある人に息子が2人いました。「ある人=父親」は、神さまのこと。「2人の息子」は私たち人間のこと。兄と弟、2種類の別々の人間、別々のタイプというよりも、同じ1人の私の中にも2つの在り方と心があります。私たちは、ある時にはあの兄のようであり、別の時には弟のようでもあります。今日は特に、兄の箇所を読み味わいましょう。

 24-30節、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』」。家に残って、ずっと父とともに暮らしていた兄さんは、その喜びあう父と弟の姿を見て、とても腹を立てます。取り残されたような淋しさを味わい、心を痛め、まるで自分という存在が踏みつけられたように感じました。この兄の腹立ちや悲しさ、苛立ちを、私たちも知っています。よく知っています。「私は何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかった。それなのに」。まず最初に気づくことは、自分は正しいと思い込んでいる人たちは、罪人(のように見える人たち)やふさわしくない(と思える人たち)に対して、しばしば思いやりに欠け、やや不健康な気持ちを抱いてしまいやすいことです。父の財産を使いつぶし、身を持ち崩して家に帰ってきた放蕩息子に対して、その年上の兄がどんな振る舞いをするのかが描き出されます。放蕩息子を大喜びで迎えている様子を目にして、兄はとても腹を立て、弟の欠点やふさわしくなさを言い立てます。父親がその子をあまりに寛大に温かく迎え入れているといって、これまでに積み重なった不平不満をあふれさせます。同じ息子であり、しかも年長の兄でさえあるのに、これほどに良くしてもらった覚えが一度もない。「自分の弟」と呼ぶこともできずに、30節、「あなたの身代(しんだい)を食いつぶしたこのあなたの子」と突き放した冷たい言い方をします。いなくなっており、死んでいたはずの家族を見つけ出し、けれど再び迎え入れることのできたその喜びを分かち合うことも出来ず、ただねたましい思いと、恨みつらみに支配されてしまいます。痛ましく、悲しく寂しい光景です。

 これは、主イエスの時代のユダヤ教徒たち、パリサイ人や律法学者たちの在り方や心情を現わしています。また後にキリスト教に回心したユダヤ人クリスチャンが同胞であるはずの外国人クリスチャンに対して抱く軽蔑や、ねたみや反発をも描き出します。彼らの目から見ると、後から神を信じるようになった外国人クリスチャンは、年下のあの放蕩息子のようにも見えたでしょう。取税人や罪人たちが救い主イエスから喜び迎え入れられている様子を眺めて、パリサイ人や律法学者たちが不愉快そうにつぶやいていたのと同じように15:1-2。放蕩息子の兄の不平不満や怒り、ねたましさはまた、今日のキリスト教会の中の多くの人々がしばしば実感することでもあります。この私たち自身の心にも、日常生活の現実のさまざまな場面で、あの兄と同じ不平不満や憤りが宿ります。

 なぜ、そうなってしまうのか。(1)まず第一に、彼らも私たちも自分自身の罪深さや、恵みに愛しない、ふさわしくない自分であることがよく分からず、「本当に罪深い私だ」などと実感できず、なかなかピンと来ないからです。それで、ついつい「他の人々よりも自分のほうが正しく、ふさわしい」という間違った愚かな幻想を抱きやすいからです。(2)そのために、私たちは他者に対して思いやりに欠け、慈悲深い心を持ちにくいからです。もし誰かが救われて、神の祝福と幸いにあずかったときにも、それを自分のことのように喜ぶことが難しくなります。(3)なによりも、『罪がゆるされ、恵みに価しないまま罪人が、ただ恵みによって罪から救い出される』という福音の本質について、すっかり誤解してしまっているからです。『ただ恵みによるのでなければ、罪に死んでいる人間は決して神の国に入ることができない』という福音の場所に立ち、すべての人が神に大きな負債を負う罪人であり、誇るべきものは何一つもなく、持っている良いもので神からただ恵みによって贈り与えられたのでないものは何もないと気づかされた者たちは、ついにとうとう、あの兄が陥ってしまった心の病いから解き放たれます。

この私たち自身も、この《兄》の悔しさや不満を折々につぶやきます。神の御前に深く慎み鎮まる者だけが、慎み弁える限りにおいてだけ、神ご自身のお働きのごく一部分を喜ばしく担うことをゆるされるのです。片隅の、ほんのごく一部分を。ほんのひと時だけ。例えば、牧師は精一杯に必死に説教をしてもよいでしょう。けれど、それが誰にどの程度に届くのかは、神の領域であり、神ご自身の守備範囲です。例えば教会に奉仕する者たちは、それぞれ精一杯に心を尽くして働いてもよいでしょう。けれど、それがいつどのように実を結ぶのかは、神の守備範囲なのです。「私たちがこう計画し、こう働いた。だから」と出来事や一つ一つの結果を眺めるならば、私たちは、とても大事なものを見落としてしまうことになります。主であられる神さまご自身のお働きと、その慈しみ深い御心を。

  28節以下、「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。はなはだしく腹を立てて、あの兄さんは家に入ろうとしません。いいえ、悔しさと激しい怒りのあまりに、顔をあげることも家に入ることさえできずにいるのです。父親は出てきて、「私の子よ」と語りかけながら彼をなだめます。「私の子供よ」と呼びかける父の声を聞いて、そこで、あの彼の長年の恨みや不満が噴き出します。あの兄さんは、子山羊一頭分の肉や盛大なパーティーが望みだったわけではありません。「あ。あの子だ」と大慌てでこの私にも走り寄って、私の首をギュッと抱いてほしかったのです。あの弟のときのように。「今日帰ってくるか、明日帰ってくるか」とソワソワ待ちわびてほしかったのです。あの弟のように。「一番良い晴れ着を。指輪を。靴を。すてきなパーティーの支度を、早く早く早く」と大騒ぎしてもらいたかったのです。愛情のはっきり目に見えるしるしが欲しかった。この私も、あの弟のように。つまり、《どんな父親か、父にとってどんな自分か、父が自分のことをどう思ってくれているのか》が、もうすっかり分からなくなっていました。

  『死んでいた。いなくなっていた』のは、一体どの息子のことでしょうか。神さまからはぐれてさまよい続けていたのは、どの息子でしょう。遠くまで出て行った息子だけではありませんでした。家にずっと留まって、父と共に恵みの日々を積み重ねてきたはずのあの息子もまた、そこにいながら死んでいたのです。目の前に父の姿をはっきりと仰ぎながらも、迷子になっていました。忙しく立ち働きながら、迷子になっていました。父を見失い、父からはぐれて、心をすっかり惑わせていました。野原に残っていた99匹の、「自分は正しい。ちゃんとやっている」と思い込んでいた羊たちのように。持ち主の手の中にあっても、嬉しくともなんともないあの9枚の銀貨のように。テーブルの下に落ちて、けれど痛くも痒くもないあの1枚の銀貨のようにです(8-10)。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と大喜びに喜ぶあの父親は、もう一人の息子に対しても、知らんぷりしてテーブルの下に転がっている1枚の銀貨のためにも、同じくやっぱり「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と喜ばないでしょうか。いいえ、そうではありません。

 31-32節。たとえ話の中の父親の口を用いて、主イエスご自身が神の心を私たちに差し出します、「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。この答えこそ、第一には、主イエスと人々との親しい交わりを眺めて、彼らを軽蔑し、不平不満や怒りをつぶやいていたパリサイ人と律法学者に対する答えであり、しばしばあの兄の貧しい気持ちに毒されてしまう私たちを回復させようとする答えです。救い主イエスは、ただ罪人をゆるし、迎え入れて救うために、この世界に降りて来られました。その福音の証言は、そのまま信じて受け入れるに足るものです(1テモテ手紙1:15「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」,130:3-4「あなたには、ゆるしがあるので」,ルカ1:72-79「罪のゆるしによる救い」「神のあわれみ深い御心による」)。もし、それを理解し、受け入れることができなければ、この信仰は無意味です。こういう神であり、こういう救いと祝福だからです。

 

              ◇

 

兄弟姉妹たち、よく聞きなさい。あなた自身が天の御父に背いたことが一度もなかったのか度々あったのかどうかを、私は知りません。けれども天の御父ご自身こそは、あなたに背を向けたことなど一度もありませんでした。あの父は、あなたが父に対して従順である日々にも、心を貧しくして背きつづける日々にも、あなたの世話をしつづけました。先頭を切って、しんがりを守って、わが身も顧みず、天の御父こそが全面的にあなたの世話をしつづけてくださった。あなたをぜひふたたび喜び迎えたい、と切に願っておられます。さあ、父の家の中に入ってきなさい。その食事の席に、あなたも着きなさい。主からの恵みをなんとしても見出しましょう。ゆるしがたいことを何度も何度もゆるされつづけてきたことを、支えられてきたことを、大事に大事に愛されてきたことを。穏やかな朝にも、嵐の夜にも、この父の切なる願いと招きに耳をよくよく澄ませましょう。この格別な父さんは、こう呼ばわっておられます;「食べて祝おう。なにしろ、この大切な息子たちは、このかけがえのない娘たちは、死んでいたのについに生き返った。いなくなっていたのに、とうとう見つかった。よかった。よく帰って来た。こんなに嬉しいことはない」。

天の御父の息子たちよ、娘たちよ。