みことば/2021,3,7(受難節第3主日の礼拝) № 309
◎礼拝説教 ルカ福音書 16:1-12 日本キリスト教会 上田教会
『不正な家令の利口さ』
16:1 イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。2
そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。3
この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。5
それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。7
次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。8
ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。 (ルカ福音書 16:1-12)
分かりにくい、やや難しい箇所です。けれど9節にあるように、ここには、『神さまのものである永遠の住まい。神の国』に迎え入れてもらえるための心得と秘訣が説き明かされているようです。ある金持ちの主人は神さまのことです。その主人の財産の管理を任されているしもべは、私たち人間です。まず1-9節、「イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。まず、一番最初に引っかかるのは『不正の富』という言い方、天の主人に対する他の人々の借金を扱うこの家令(=その主人の家の管理を任せられている管理人)の取り扱い方。また、クビにされそうだったこの管理人がズルくて間違ったやり方をしたはずなのに、それを天の主人が喜び、主イエスご自身も「よくやった」(9-12節参照)と喜んでくださっていること。この「不正の富」(9,11節)は「正しくはない、不当な仕方で手にした富。自分には資格も権利もないはずの富」という意味です。お金や財産それ自体は善でも悪でもない。警戒されつづけてきたのはお金や財産そのものではなく、それに執着しすぎることやむさぼりの心でした(13節,テモテ(1)6:10参照)。
10-11節。「小さなこと」と「大きなこと」、小さなことは他の人々がしでかした神への罪と背きです。大きなこととは、他の誰でもなくこの自分自身がしでかした神への罪と背きです。また最重要の重大問題は、この私自身こそが罪のゆるしを神さまから受け取って、たしかに救われるのかどうか。それこそが「真の富」でもあります。つまり、天に蓄えて積み上げてゆくはずの私たちのための宝です。神に信頼し、聞き従い、神にこそ感謝をしながら幸いに生きて死ぬことです。どんな神さまなのか。どんな私たちなのか。その神さまから私たちは、どういう取り扱いと救いの約束を受けているのか。家を留守にしてやがて間もなく帰ってくる主人。1匹の羊を探しに行ったあの羊飼い。あの、銀貨10枚の持ち主。2人の息子と暮らしていた、「いなくなっていたのに見つかった。死んでいたのに生き返った」と悲しんだり喜んだりしたあの父親。憐れに思って家来の借金をすべて帳消しにしてやり、その家来をすぐに呼び戻して、「不届きな家来め。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」と厳しく叱った王さま。「あの最後のものにも同じように支払ってやりたい。自分のものを自分のしたいようにする」と答えたぶどう園の主人(マタイ18:23-35,同20:1-16,同24:44-51,ルカ15:3-32)。そして今日のこの主人。これら全部、同じお独りの神さまです。神ご自身の、同じ1つの心です。
さて、神さまに逆らって背を向けること。それが聖書の言うところの『罪』です。罪を、神さまへの『借金』『負債』『負い目』などとも言い表しました。また、『富』や『宝』『労働賃金』などと語られるとき、それらは神さまからの自由な憐れみの贈り物でした。同時に地上に生きている間に使うようにと、期限付きで貸し与えられているもの。神さまご自身のものである財産です。それぞれ死ぬときに、私たちは裸で土に還ります。1-9節までは、私たちがどのように生きて死ぬのか、死んだ後どうなるのかを考えさせるために語られたたとえ話です。『この世の子ら』と『光の子ら』と比べて置かれました。『この世の子ら』は神さまを信じないで、死んだらそれでおしまいだと考えている人々です。だから、もちろんこの世でどうやって生きていくのかと、それしか考えることができません。それでもなお、この世界で自分の居場所を手に入れようと必死になり、知恵をしぼります。神を信じて生きる私たち『光の子ら』は、あの彼のあり方をよくよく見習いなさいと促されます。私たちもあの抜け目ない管理人を見習って生きてゆくとして、最後に1つの疑問が残ります。天の主人に対する友だちや知り合いたちの借金を割引にしてやり、私たちは友だちの家へ転がり込む算段でした。ところが迎え入れてもらう先は、友達や知り合いの家ではなく、『天の主人のものである永遠の住まい』であり、借金割引を主人も主イエスご自身もたいそう誉めてくださり、大喜びに喜んでくださっている。
ここまでくれば、私たちはもうすっかり知らされており、すべてを思い出しています。(1)神さまに対する友だちや知り合いたちの借金を割引いてやると、救い主イエスがどうして自分自身のことのように喜んでくださるのか。また、友だちの家に迎え入れられるはずだったのが、どうして天の父の永遠の住まいへと迎え入れられるのか。「これら小さい者の1人にしたことは私にしてくれたことだ」(マタイ25:40,45)と主イエスがはっきり仰ったからです。また、「あなたがたのために場所を用意しに行き、あなたがたをそこに迎え入れる」(ヨハネ福音書14:2-3)と主イエスがすでにはっきりと約束してくださっているからです。(2)しかもそれは、私たちがふさわしい十分な働きをしたからではなく、父の永遠の住まいに迎え入れられるに値するからでもありません。ただただ憐れんでくださったからですし、その御父からの憐れみを受け取ったからです(ルカ1:50,54,55,72,77-78,1ペテロ2:10,ローマ11:30-32参照)。(3)あの家令(=主人の家の財産の管理人)は「賢く振舞ったし、抜け目なかった」。それなら私たちは、あの彼よりもさらにもっともっと賢く振舞うことができます。どんな主人なのか、どんな心の主人なのかを知っているからですし、その主人からどういう扱いを受けてきたのかもよくよく覚えているからです。私たち1人1人も、天の主人の財産を委ねられた管理人たちです(マタイ24:44-51,1コリント4:1-2,2コリント5:18-19)。なによりも主人の憐み深い御心に忠実であることこそが求められます。手元には、主人に対する隣人たちや家族や知り合いたちの借用書を何枚も何枚も私たちは握っています。私たち自身も、あの彼に負けず劣らず主人のものである財産をずいぶん無駄使いしてきました。「会計報告をいますぐ出せ」と今日の夜か明日にでも言われるかも知れません。クビにされて、主人の家を追い出されて、路頭に迷うかも知れません。さあ困りました。主人に借りのある者を1人1人呼んで、大急ぎで、借用書の書き直しをしましょう。いくらに書き直せばいいでしょう。ほかの人たちの借用書も、どの人の借用書も例外なく、「主人への借り、油も小麦もなにもなし」。天の主人に対するこの自分自身の借用書はどうでしょう。同じです。「主人への借り、油も小麦もなにもなし」。天の主人を知っている光の子らであるなら、借用書の正しい書き直し方を誰でも知っています。誰のどの借用書に対しても、「主人への借り、油も小麦もなにもなし」。2割3割の減額をしてあげるどころではなく、全額を、すっかり丸ごと帳消しにしてあげることができます。なぜでしょう。なぜならば、それこそが私たちが主人からしていただいた、格別な憐れみの中身だからです。他の友人、知り合い、隣人、見たことも聞いたこともない赤の他人に対しても、どこの誰にでも同じ1つの流儀で手を差し伸べてあげることができます。聖書は証言します;(コリント手紙(2)5:18-22)「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。神の福音の本質は、罪人が価なしに、ただ恵みによって罪ゆるされることでありつづけます。
(4)ここでも、主なる神さまは、この大金持ちの主人そのままに、自分に借金のある者たちの借金が減ることをこそ喜び願いつづけます。損をしたくて損をしたくてたまらない、とでもいうように。借金を返してもらえてもそうでなくても、どの1人の借金もすべて丸ごと帳消しにしてやりたい、とでもいうように。その通りです。むしろ1人の罪人を憐れんで、罪の責任を問うことなくゆるし、すべて帳消しにしてくださって救うことこそが、主人にとっては他の何にもまさる利益であり、得であり、喜びでありつづけます。ぜひとも、よく心得続けているべきことがあります。どの一人も例外なく、皆、主人の財産を無駄使いし、いつクビにされても文句を言えないはずの、あまりに「不法」で、ふつつかすぎるしもべではありませんか。だからこそ、主人がご自身のものである永遠の住まいへと迎え入れてくださることを、聖書は「恵み」「あわれみ」と言い表しつづけ、私たちの教会の信仰告白もその一点に込められた福音の本質を言い表しました。つまり、「罪に死んでいる人は、ただただ神の恵みによるのでなければ決して神の国(=神の永遠の住まい)に入ることはできない」と。ご覧なさい。すっかり丸ごと帳消しにしてくださるための、主イエスの十字架がありました。それが確かにあったので、だからこそ、今ではすっかり丸ごと帳消しにしていただいています。では、私たちの魂の会計帳簿の整理をしましょう。《莫大な借金があったが、あわれみを受けて、全部帳消しにしていただいた》という私自身の驚きと、《あわれみを受けて、帳消しにしていただいた》という喜びと感謝に照らして。一から十まですっかり丸ごと。私たち自身の会計帳簿を、新しいノートに新しく書き始めましょう。