2021年3月15日月曜日

3/14「二人の主人に仕えることはできない」ルカ16:13-18

         みことば/2021,3,14(受難節第4主日の礼拝)  310

◎礼拝説教 ルカ福音書 16:13-18                     日本キリスト教会 上田教会

『二人の主人に

仕えることはできない』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

16:13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。14 欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。15 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。16 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。17 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。

                     ルカ福音書 16:13-18

 

6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。               (申命記 6:4-9)

 ごいっしょに読んだ中で冒頭の13節が最も大切であり、「神にこそ仕え、神の御心に従って生きるように」と救い主イエスご自身が勧めています。神以外の何者にも仕えずに、ただ神をこそ自分のただお独りの主人としつづけ、自分は神に仕えるしもべであると肝に据えて生きていくこと。それこそが幸いな、祝福された生涯です。さて、14節以下では『神の律法を尊び、重んじて生きる』ことが説き明かされます。神を愛し、神に仕えて生きるとは、そのまま直ちに、『神の律法を尊び、重んじて生きる』ことであるからです。救い主イエスがこの地上に降りて来られ、救い主としてお働きになった目的が2つ明らかにされています。(1)罪人を救うことと、(2)律法を成就し、そこに中身と生命を注ぎ込むことです。この2つは互いに結びついて1つの恵みです(1テモテ手紙1:15,マタイ福音書 5:17。そこで14節以下を順に確かめて、最後にまたこの13節へと戻ってきます。

 14-15節。「神と富とに兼ね仕えることはできない」とおっしゃる救い主イエスを、欲の深いパリサイ人たちがあざ笑いました。そこで、その笑っている彼らに向かって主イエスはおっしゃいます、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」と。彼らがあざ笑ったのは耳が痛かったからで、富や財産に執着して、その奴隷にされてしまい、神に仕えることができなくなっていたからでした。図星だったので、あざ笑ってみせました。また彼らは富に執着するだけでなく、「人々の前で自分を正しいと見せかける」ことにも執着して、地位や名誉や人から尊ばれることが何より好きで、その欲望に取りつかれてもいました。けれど神は、「それらは虫がついたり錆びたり腐ったりし、泥棒が来て盗み出したりもする。やがて失われるはずの虚しい宝にすぎない」とキッパリと言い切ります。それらを愛し、執着しすぎることがないようにと私たちは警告されています。

 16-17節、「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」。まず、「律法と預言者とはヨハネの時までのものである」。それは、律法も預言者たちの預言も新しい段階に入ったからです。長い時間をかけ、人間たちによって、律法は骨抜きにされ、中身のない形ばかりのものに変えられてしまいました。そこに生命と中身がもう一度、改めて吹き込まれなければなりません。別のときに主イエスはおっしゃいました、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」(マタイ5:17-19。主の弟子パウロが説き明かし、宗教改革者たちが改めて読み取ったように、律法は私たちの正しさやふさわしさを証明するものではなく、逆に、私たち自身の罪深さや心が頑固であることを証しします。神の憐みによって救われることを願って、救い主イエスへと向かわせるために。救い主イエスを信じて救われた者たちにとって、神の律法は御心にかなって新しく生きはじめるための指針となります。また、預言者たちはやがて来られる救い主を指し示しつづけました。すると、律法も預言者もともに、救い主イエスを指し示し、イエスを信じる信仰へと人々を導く役割を与えられていたことが分かります。次に、「神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している」ということ。よく分かりにくい言い方です。マタイ福音書11:12では、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と。「突入している。激しく襲われている。奪い取っている」。これらの激しい言葉使いは、決して否定的な悪い意味で言われているのではありません。神ご自身が、神を求める炎のような熱情と渇望を人々のうちに燃え上がらせました。それまで眠っていたような人々が、荒野で呼ばわる洗礼者ヨハネの声に呼び覚まされ、「神の国をぜひ見たい。そこに入れていただきたい」と押し寄せました。まるで激しく襲うような、奪い合うかのような熱情をもって。さらに、主イエスが神の国の福音を語り、その弟子たちが語り継ぎ、すると、その福音の言葉を聞いて、するどい剣で胸を刺し貫かれたかのように心に痛みを覚えて、多くの人々が神を信じて生きることをし始めました。さらに、「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」。なぜなら救い主イエスご自身が神の律法を成就するためにこの世界に降りてこられたからです。律法によって、私たちが自分自身の罪深さと邪悪さ、心の頑固さを痛感させられ、神の憐みを求めて主イエスへと向かい、主イエスを信じて生きることをしはじめるために。だからこそ神の律法の一点一画も損なわれることなく、成し遂げられて生命を宿し、その目的を果たします。つまり、救い主イエスを人々に信じさせ、また、『神を愛し尊び、隣人を自分自身のように愛し、互いに尊び合って生きる者たちとさせる究極目標』を果たしつづけます。このように律法の目標は、福音そのものであったのです。

 18節、「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである」。神ご自身とその律法の尊厳や神聖さが軽んじられ、損なわれようとしていた時代でした。人間たちの手によって、神の律法そのものが都合よく捻じ曲げられていましいた。あるとき、パリサイ人たちが主イエスを試そうとして近づいて来て、こう問いかけたほどです。「何かの理由で夫がその妻を出す(=離縁する)のは差し支えないでしょうか」(マタイ19:3と。「妻を離縁する場合には離縁状を渡せ」と聖書(申命記24:1に書いてあるし、離縁状を渡しさえすれば思いのままに離婚してもよいではないかと。主イエスは答えます、「あなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許した。けれど、初めからそうではなかった。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」(マタイ19:8-9と。つまらない些細な理由で好き勝手に離婚してよいわけではありません。「あなたがたの心が頑ななので、神が、仕方なしに離婚をゆるしてくださったのだ」と告げられました。実は私自身も「×いち」(=バツいち。離婚を一回経験した者)で、離縁状を渡されてしまった身勝手で頑固すぎる人間の一人です。心が痛みます。私たちは皆共々に、あまりに心が頑なな者同士です。創世記2章があるから、軽はずみに離婚してはなりません。「神が一つに結び合わせてくださったものを人間が二つに引き裂いてはならない」からです。また、1コリント手紙7:12以下にとても重要な証言がなされています。「未信者の連れ合いやその子供たちも、そこに1人のクリスチャンがいるおかげで神の恵みと祝福の領域に据え置かれているし、すでに彼らもまた清くされている」と。それでもなお、心のかたくなさを憐れんでいただいており、やむを得ない場合には離婚もゆるされます。神の尊厳や神聖さとともに、その憐み深さを覚えておかねばなりません。また、この言葉は人間同士の夫婦関係ばかりでなく、私たち人間と神との間の本質的な深い結びつきをも指し示しています。クリスチャンは救い主イエス・キリストのものとされ、旧約聖書の時代から「夫と妻のように」神との結婚関係にあるとされ、「すべてのクリスチャンは、花婿である主イエスと添い遂げると誓った花嫁である」と教えられています(ヨハネ福音書3:29-30,マタイ福音書25:1-13,エペソ手紙5:22-32。よく覚えておかねばなりません。

 では、13節に戻りましょう。「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。神と富。もっとはっきりと言い表すならば、『神』と『神以外の、他すべて一切』の両方ともにいっしょに仕えることは決してできない。もし、幸いなクリスチャンでありたいと心から願うならば、誰でも主イエスがおっしゃったこの言葉を、腰を据えて、じっくりと考え巡らせつづける必要があります。『神に仕える心』と『神以外のなにものかに仕える心』、二つの相反する心を抱いたままでは、神に仕える幸いなクリスチャンであることができません。つまり、神を第一として、本気になって腹をくくることができるかどうか。もし、できなければ、いつの間にか、その人は神に仕えることを二の次、三の次にし、どんどんどんどん後回しにしつづけて、それでもなお心が少しも傷まない。そのような二心(ふたごころ)のクリスチャンに成り下がってしまうかも知れません。主イエスに仕えて生きることを本気で考え巡らせるなら考え巡らせるほど、それだけいっそう、「人知では測り知れない神の平安」が私たちを守りはじめます。自分自身や他の人たちのためではなく、私たちの救いのために死んで生き返ってくださったお独りの方のために生きようとすればするほど、「信仰からくる喜びと平安」(ピリピ手紙4:7,ローマ手紙15:13が私たちをしっかりと堅く支え続けます。もし、救い主イエス・キリストに仕えて生きることがそうするだけの価値があることであるならば、この私たち一人一人はいよいよ心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、このお独りの方にこそ仕えて生きるのです。神以外のもの。富や財産。豊かな暮らし。人々からの良い評価。愛され、頼りにされ、人々から重んじられて生活すること。社会的な地位、名誉。様々な喜び、楽しみ。多くの人々にとって、そうしたものが人生のおもな関心事になってしまいます。生きる目的とさえ言ってよいほどに。けれど兄弟姉妹たち、それらを愛しすぎ、執着しすぎてしまうことはとても危険です。

 この私たち自身が、他のものを愛するあまりに神を軽んじることが決してありませんように。他のものに親しんで、そのあまりに神を疎んじてしまう私たちとなることがありませんように。「善かつ忠なるしもべよ」と、終わりの日に、ぜひ私たちも、ただお独りの主人から喜んでいただきたいのです。