3/14 こども説教 使徒行伝 24:10-21
『パウロの答弁』
24:12 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、13 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。17 さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。18
そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。 (使徒行伝
24:12-18)
ローマ帝国から送られてきている役人(=総督)の前で、いよいよパウロに対する取り調べが始まっています。パウロは、キリスト教の信仰がどういうものなのかを、ここで知らせようとしています。訴えられたことのほとんどは中身のない、ただの悪口でした。騒ぎを起こしたこともなく、神殿を汚すようなこともしていません。ただ「異端の頭」だと言われたことについては、これに答えることが信仰の中身を知らせるために役にたつことだと考えて、説明をしはじめました。「異端」というのは、自分たちが信じている内容とはずいぶん違う、間違った悪い教えという意味です。そのころのキリスト教は、他の人々からそのように思われていました。14-15節、「ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです」。律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることというのは、旧約聖書のことです。むしろ聖書全体と言っても良いでしょう。「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえる」ということもまた、聖書が告げている内容です。聖書が教えるとおりに信じている。パウロも私たちすべてのクリスチャンも、この同じ場所に立っています。そのうえで、「神が救い主イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、このお独りの方によって世界に救いをもたらそうととしている」(使徒2:32,同4:10-12)。これが、キリスト教信仰の大切な中身です。