2020年9月30日水曜日

われ、弱くとも ♪主はわが飼い主

われ、弱くとも  18、最終回     賛美歌21120番、讃美歌Ⅱ編の41

 ♪ 主はわが飼い主

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。賛美歌21120番、讃美歌Ⅱ編の41、『主はわが飼い主』です。詩編23編をなんとかしてそのまま歌おう、と努力しました。この歌ばかりではなく、多くの作り手たちが詩編23編を歌おう、心に深く刻み込もうと試みつづけ、詩23編から数多くの讃美歌が生み出されました(賛美歌21では、97981201212193674584594611954年版でも同じようです。213247270294303354472527。Ⅱ編では、6156197など)。この詩編23編こそが、クリスチャンの生涯をよくよく言い表し、その希望と慰めのありかをはっきりと指し示しつづける大切な聖書証言の1つだからです。まず歌の1節から4節までを読みましょう;「主はわが飼い主、私は羊。み恵みによって、すべて足りている。青草の原に私を伏させ、憩いの水辺に連れて行ってくださる。主は私の魂を生き返らせ、正しい道へと導いてくださる。死の陰の谷を行くときにも、私は災いを恐れない。なぜなら主が共にいてくださるのだから」。旧約聖書の時代。羊飼いは、ごく普通のありふれた職業でした。羊たちと羊飼いの毎日の暮らしを眺めつづけて、「あのウロウロチョロチョロしている羊、あれは私だ」「いつもまごまごして置いてきぼりにされそうな危なっかしい羊、俺そっくりだ」などと。そうした様子に重ね合わせて、人々は神さまを思い、自分たちの暮らしを思いめぐらせつづけました。ああ、羊飼いのような神様だし、その羊飼いに養われる1匹1匹の羊のような私たちだと。では、私たちはどこがどう羊のようなのか。例えば、恐ろしいキバもない。立派な角も、鋭いツメもない。太くて強い腕もなく、足が速いわけでもない。危険を聞き分ける良い耳もない。身を守るための硬い甲羅もない。だから羊のようなのだ。その弱さと無防備さ、危うさ、心細さが羊のようなのだ。近眼で、目がとても悪い。目の前の、いま食べている草しかよく見えない。うまい草をムシャムシャ食べているうちに簡単に道を逸れて迷子になってしまう。仲間の群れからも飼い主からもはぐれて、どこへ行ってしまうだろう。どこまでも行って、うっかり山のテッペンへも、戻ろうとして足を滑らせ深い谷底へ真っ逆さまに転げ落ちてしまいそうだ。腹も減り、ノドも渇き、寒さに凍えてメエメエ鳴く他ない。だから羊のようなのだ。もし、迷子になったその一匹の羊をどこまでも探し求めてくれる愛情深い良い羊飼いがいてくれなかったら、熊や狼に食べられてしまうだろう。羊ドロボウに盗まれてしまうかも知れない。だから羊のようなのだ。羊飼いのような主であり、この私は主に養われる羊だと噛みしめているのは、この羊がすでに何度も何度も、死の陰の谷をくぐり抜けて、その度毎に救い出されてきたからだ。自分自身の弱さや危うさを知り、貧しさを知り、その分だけ羊飼いである主の慈しみ深さをつくづくと知ったから。また聖書自身は、「やがて神さまご自身である良い羊飼いが現れる。そのお独りの方こそが救い主だ」と預言しました(エゼキエル書34:1-24参照)。長い長い歳月がすぎて、あるときナザレ村から来たイエスという方が不思議なことを語りだしました。「ある人が100匹の羊を飼っていてそのうちの1匹が迷子になったとする。そうしたら」、また「私が良い羊飼いだ。なぜなら羊たちのことをよく知っているし、羊も私を知り、私の声に聴き従う。私は羊のために自分の命を捨てる(ルカ15:1-7,ヨハネ10:7-18参照)。それを聞いて、聖書に親しんできた人々の中の中の何人かが気づきました。「あ、あのことか。じゃあ、このお方こそが救い主なのか」。

  さて昔々あるところに、1人の淋しがり屋のおばあさんが住んでいました。その人はクリスチャンでした。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきつづけました。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも小さな声でグチをこぼしていたのです。あるとき、そのおばあさんが転んで足を挫きました。毎週毎週の礼拝を楽しみにしていた人でしたけれど、教会に来ることが出来なくなりました。お見舞いにいったとき、その人の牧師は彼女にこう言いました;「さあ、困りましたね。……そうだ、いいことがある。詩編23編を暗記してもらいましょうか。どうです?」。おばあさんは、いつものように顔をしかめて、渋~い返事をしました。「えー、そんなこと嫌だわ。無理だわ。どうして私が? 誰か他の人にさせてくださいよ。面倒くさいし、だいいち私はもうすっかり年をとって、もの忘れがひどくなったんですよ。詩編23編の暗記だなんて、絶対に無理です。できません、できません、できませ~ん」。そのおばあさんは、暗記しました。もちろん、いつものように「あーでもない。こーでもない」と不平不満や文句を山ほど並べたてながら、嫌々渋々でしたけれど。だってその牧師が「できなきゃ地獄に落とす。天の国は立ち入り禁止」などと言って脅かして、無理矢理に覚えさせたんですから。そのおばあさんの家に、牧師は訪ねていきます。おばあさんは何しろ足を挫いていますし、ずっと横になっていたものですから、腰も背中も首も痛くなって、アイタタイタタイタタタタと、布団の中でうめき声をあげます。「ああ、こんな体になっちゃって。どうせ私なんかは。情けない。恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」と、おばあさんはいつものようにグチをつぶやきます。「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」と、朝も昼も晩も口癖のようにつぶやきました。本当はずいぶん欲張りだったので「乏しい。乏しい。乏しい」と不満を募らせました。臆病でしたし、とても見栄っ張りだったので、「情けない。恥ずかしい。情けない。恥ずかしい」と。しばらくそのうめき声や愚痴を聞いた後で、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と牧師は催促します。「ええっ、やっぱり覚えきれませんよ。無理です。私は頭が弱くなってしまって。暗記しようとしたら、頭の中でゴチャマゼになってしまって。壊れたレコードみたいに、同じ所に何度も何度も戻ってしまって。できません。ああ情けない、恥ずかしい。情けない、恥ずかしい」。「それじゃあ、どうぞ。忘れたら、ときどきカンニングしてもいいですよ」「だって、でも。だって、でも、やっぱり。「……主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ、いこいの汀にともないたまふ」。つっかかり、つっかかりしながら、ときどき文語訳と口語訳と新共同訳をゴチャマゼにしながら、ときどきは、チラッと聖書のページを確かめながら、壊れたレコードのように同じ所へ何度も何度も戻ってしまって、その度に赤くなったり青くなったりし、目を白黒させながら、それでも、おばあさんは覚えた言葉を一生懸命に読み上げます。それが、おばあさんと牧師の日課になりました。体の具合も少しずつ良くなって、起き上がることができるようになり、台所をかたづけ、また近所をソロリソロリと出歩けるくらいにまで回復しました。それでも牧師がやってくると、おばあさんはドキドキします。「あ、また来た。困ったわあ、どうしましょう」。お茶を飲み、世間話を少しして、「じゃあ、聞かせていただきましょうか」と、いつものように牧師が催促します。「エヘン。ン、ン。……主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ」。やがておばあさんの足は治り、また日曜日の礼拝に来ることができるようになりました。それからまた何年かが過ぎました。おばあさんの口癖は、今でもやっぱり、「乏しい。乏しい。乏しい。あれも足りない、これもこれも足りない」「心細い。心配だ。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい」。そうですね。ほんの少し、それを言う回数が減ったかも知れません。1日に10回くらい繰り返していたのが7、8回くらいに。遠い所に離れて暮らすそのおばあさんの息子から、あるとき牧師に、1枚のハガキが届きました;「ありがとうございます。母は礼拝を守っています。いいえ、礼拝が母を守ってくれているのです。心から感謝をいたします」。ときどき、おばあさんは思い出して、独りの部屋で、あの聖書の言葉を言ってみます。「エヘン。ン、ン、……主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。主は我を」。

  羊飼いに導かれて旅をしつづける羊たちの群れがあり、私たちはその1匹1匹の羊だと聖書は語りかけます。羊たちの格別な幸いが歌われます。けれどその羊たちも、ほんの少し前まではとても淋しがり屋でした。心配事が山ほどあり、心細くて、それでいつも不平不満や文句やグチをこぼしつづけていました。「あれも足りない、これも足りない。乏しい。乏しい。乏しい」と「心細い。心配だ。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない」と。何日も満足な食料にありつけず、水場も見当たらず、飢え渇いてさまよう暮らしがつづきます。羊飼いは羊たちに草と水を与えるために、羊たちと一緒に野宿をしながら山々を越え、薄暗い谷間の奥深くにまで分け行って進みます。野の獣が羊たちの命を狙いに来ます。夜の闇に紛れて、羊ドロボウも忍び寄ります。死の陰の谷をようやくくぐり抜けたかと思うと、次の死の陰の谷。また、死の陰の谷。その連続です。それなのに今、あの羊たちは「すべて足りている。何も欠けることがないし、もう十分だ」。いつ、そう言っているのでしょう。青々とした草原で、お腹一杯に草を食べているときに? あるいは冷たくて美味しい水のほとりでゆったりと休んでいるときに、そこで「満足満足」と言っているのでしょうか。「わたしは災いを恐れない。なんの心配も不安もない」。羊たちは、いつそう言っているのでしょう。死の陰の谷を歩いているその真っ只中で、そこで、そう言っているのです。草一本も生えていない、もう何日もつづけて水の一滴も口に出来ない荒れ野を旅しながら、この羊は歌うのです。「乏しきことあらじ、なんの不足もない。これで十分」と。やせ我慢でもなく、体裁を取り繕って見栄を張ってでもなく、腹の底から安心しており、豊かであり、満ち足りることができました。なぜなら、ついにとうとう理解したからです。「主はわが牧者なり」と。「あなたが私と一緒にいてくださる。だから」と。

  233節に「御名のゆえをもて」とあります。いったいどうして羊たちをその羊飼いは導き通し、やがてきっと必ず憩いの緑の野と水のほとりに連れていってくださるのか。真面目な羊だからとか、よく働く役に立つ羊だからなどということとは何の関係もなく。痩せっぽちの小さな羊も、へそ曲がりの不平不満をブツブツつぶやいてばかりいる羊も、ひがみっぽいイジケた羊も。いつも気もそぞろで、たびたび迷子になってしまう迂闊な羊も、なんの区別も分け隔てもなく。その理由は、ただただ良い羊飼いである神さまご自身の中にこそある。御名のゆえをもて。名前は、そのまま中身です。神さまの名、それは神さまご自身の実態であり、お働きであり、こういう神様だからということです。これこれこういう私たちなのでということではなく、何しろ、神さまがそういう神さまなので、だから、そうなさる。ご自分の羊を見放さず見捨てず、必ず導き通す。神さまは何しろそういう性分なので、と。

 歌詞の5節6節を読みましょう;「恵みにあふれる宴会を開いて、主は私の頭に良い香りの油を注いでくださる。命のある限り、幸いは尽きることがない。主の家に私は帰り、そこに永遠に住まわせていただこう」。詩23編の末尾(6)です。「命のある限り、恵みと憐れみはいつも私を追いかけてくる」。恵みと憐れみとを与えてくださる羊飼いご自身こそが私をどこまでも追いかけ、ピタリと寄り添って来てくださる。それは、私たちがしばしば羊飼いの恵みと慈しみから迷い出てしまったからであり、羊飼いの恵みと慈しみから時には逃げ出そうとしたからです。これまでいつもそうだった、と彼らは実感しています。では最後の質問。「命のある限り」とは何でしょうか? この地上に生きている限りは、でしょうか。それなら死んだ後では、羊飼いご自身も、羊飼いの恵みと慈しみも消えうせるというのでしょうか。「決してそうではない」と彼らも私たちも知っています(イザヤ46:3-4,139:7-12)。これまで、ずっとそうだった。今もそうだ。ならば、これからも必ずきっと主なる神さまの恵みと憐れみの只中を、私たちは生きることになる。祈りましょう。

 

2020年9月29日火曜日

9/27「正しいことを判断する」ルカ12:54-59

               みことば/2020,9,27(主日礼拝)  286

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:54-59                     日本キリスト教会 上田教会

『正しいことを判断する』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:54 イエスはまた群衆に対しても言われた、「あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。55 それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。56 偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。57 また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。58 たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。59 わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。                            (ルカ福音書 12:54-59)

                                               

5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。6 わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。11 そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。                             (ローマ手紙5:5-11)


まず54-57節についてです。救い主イエスは、とくに群衆とご自身の弟子たちに対して語りかけておられます。時を見分ける務めがこの自分自身に課せられていることを、私たちは改めて教えられます。56-57節にかけて、「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか」。なぜ、「偽善者よ」と厳しい言葉を投げかけられるのかというと、あの彼らもこの私たちも今の時代をはっきりと見分けることができるはずであり、それに照らしてなすべき正しいことをし、してはならない悪い行いはしないでおくようにと自分自身で適切に判断できるはずだからです。

 「今の時代」とは何なのか。あの時代にも、今日の私たちの間でも、時を見分けるためのはっきりしたしるしがすでに現わされています。「救い主がこの地上に遣わされ、救いの御業を成し遂げる」という預言者たちのいくつもの預言が成就しているからです。救い主イエスご自身がすでに私たちの只中に現れ、神の国の福音を宣べ伝え、十字架につけられて殺され、その三日目に復活なさいました。けれどもなお多くの人々の目は塞がれて、この声に聴き従うことを拒みつづけました。

 58-59節、「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。やがてこの世界に終わりの日が来て、神の救いの御業がすっかり成し遂げられ、裁きをへて、救い主イエスを信じる者たちは神の永遠の御国へと招き入れられることになっています。これが、神からの約束です。差し迫った最重要の課題は、神との和解を受け入れて、神の御心にかなった歩みをしようと願い求めて生き始めることです。手遅れになる前に、間に合ううちにです。この私たち一人一人もまた、自分を訴える人と一緒に役人のところへ向かって歩いて行く途中です。やがて終わりの日に、裁き主イエス・キリストの御前に立たされることになっており、誰一人も例外なく皆が、神の裁きを受けることになっています(1コリント手紙4:1-5,マタイ25:531-46。自分を訴える人がおり、その人と一緒に神の裁きを受けるための道を歩いている。それは、なによりまず神の聖なる律法が私たちに敵対し、私たち自身の申し開きとは正反対の厳しい告発状を読み上げることです。神ご自身が私たちを訴えます。例えば、「殺してはならない」と先祖も私たちも戒められてきました。救い主イエスは仰います、「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」と。そのとおりです。しかも私たち自身はいったい何度、兄弟姉妹や家族や隣人に対して腹を立て、「愚か者」とののしり、「バカ者」と繰り返し繰り返しあざけり笑いつづけたことでしょうか。数えきれません。その人々に対しても神ご自身に対しても、まったく申し訳ないことです。その「あなたは殺してはならない」という戒めについて、宗教改革期の信仰問答はとてもよい説き明かしをしています。「自分の隣人に対して嫉みと憎しみと怒りを抱かなければそれば十分なのか。いいえ、そうではありません。神が私たちに求めておられるのは、私たちが隣人を自分自身のように愛すること、その人に対して忍耐と平和と柔和、憐みと友情を示すこと、その人にふりかかる災いを力の及ぶかぎり防ぐこと、自分たちの敵にさえ善を行うことです」(マタイ5:22-25,「ハイデルベルグ信仰問答 問答107」)。この「殺してはならない」という箇所を読み直す度毎に、毎回毎回、自分が恥ずかしくなります。心が痛みます。「自分こそが神さまの憐みの御心に背きつづけている。本当に申し訳ないことだなあ」と突きつけられます。裁き主イエス・キリストの御前に立つ時までに、その罪深い数々の行いについてゆるしを受け取らねばなりません。そうでなければこの私たちは、裁判官のところへひっぱって行かれ、裁判官は私たちを獄吏に引き渡し、獄吏は私たちを獄に投げ込むはずだからです。最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来られない牢獄に閉じ込められてしまうからです。

 神との和解、だからこそ目の前のその隣人との和解です。これこそ、救い主イエスの福音が私たちの魂へと差し出してくれる最も重要な贈り物です。神の子供たちとされ、救いと祝福のうちに据え置かれている幸いは、平和とゆるしです。神との間に平和とゆるしを贈り与えられている私たちは、それをお互い同士にも分け合う者たちとされました。もちろん分け隔てなく、まったくの無償で、ただ恵みによってです(2コリント手紙5:18-19「その罪過の責任をこれに負わせることをしないで~」)。聖書は証言します、「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである」(ローマ手紙5:5-11神の憐みの愛が差し出され、私たちはそれを受け取りました。ここで重要な肝心要は、それが、いつ、どのようにしてかということです。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ」と。これが、十字架のあがないについての聖書自身からのはっきりした証言です。

そして、10節「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させてくださった私たちの主イエス・キリストによって神を喜ぶのである」。先ほどの『罪のゆるし』の4つの出発点;「弱い。不信心。罪人。神の敵」。神の救いと恵みから取りこぼれてしまいそうな、その危うくおぼつかない片隅に、私たちは繰り返し陥ります。「あまりに弱く不確か。信じ切れない。身勝手で、かたくなで、人間を恐れ、人間のことばかり思い煩い、そのあげくに神を思うことがなかなかできずにいる。こんな私では、神の恵みを受けるのにまったくふさわしくない」。人からもそう思われ、自分自身でもそういう自分にすっかり嫌気がさして失望する日々がやってきます。兄弟姉妹たち。けれどなお私たちは踏み止まります。また、そういう危うくおぼつかなく見える兄弟姉妹や小さな隣人たちをさえ、私たちは決して見限りません。「どうせ、あの人はそういう人間だ」などと侮ったり、軽々しく決めつけることもいたしません。なぜなら、救い主イエスによって神の憐みを知り、救い主イエスによってこそ、神を信じているからです。

  「正しいこと」は数多くあり、私たち人間のそれぞれの正しさも無数にありつづけます。そのために互いにいがみ合ったり、争ったりもしつづけるでしょう。けれど神ご自身の正しさは、この世界と、ご自身がお造りになったものたち(=被造物、ひぞうぶつ)を憐み愛することの中にはっきりと現わされました。恵みに価しない罪人をなお憐れんで愛する神であり、「罪人を救うために救い主イエス・キリストをこの世にお遣わしになった」(1テモテ手紙1:15憐みの正しさです。「なぜ正しいことを自分で判断しないのか」と救い主から問いかけられていました。神を信じて生きる私たちクリスチャンにとっては、正しい判断とは神の憐みの御心にかなったことを選び取り、ぜひ行いたいと願い、そのように生きることです。神の律法が教えるように、『神を心から愛し、その御心に聴き従うこと。そして隣人を自分自身のように愛し尊ぶこと』(マタイ22:36-40です。では、神が現に確かに私たちの罪をゆるしてくださっていることは、何によって、はっきりと分かるでしょうか。自分自身にも、私たちといっしょに生きる連れ合いや子供たち、隣人たちにとっても、「ああ本当に、その通りだ」と。それぞれに気難しく心がとても頑固だったはずの私たちが、けれど、あるとき気がつくと、一人の小さな隣人を自分自身のように愛しています。憎しみと怒りを抱かないばかりではなく、ついにとうとう、その一人の小さな隣人に対して忍耐と平和を、憐みと友情を精一杯に差し出そうとしています。穏やかに共にいる私たちとされています。憐みの神を喜び、神に感謝をし、信頼を寄せ、それだけでなくその一人の小さな人を喜び迎え入れています。キリストの愛こそが私たちを駆り立てて止まなかったからです。ゆるされた罪人同士であることが、そのようにしてこの私たちの間でも、少しずつ実を結びはじめます。神の憐みの実を。なんという恵みでしょう。

 

     ≪祈り≫

神さま。あなたがなんでもお出来になること、まったくの善い心と、温かい慈しみとを備えておられますことを信じさせてください。そしてさらに、あなたが私たちを祝福と救いの中へと選び入れてくださっていますことが、ただまったくの恵みであり、私たち自身の内にはそうしていただくだけのふさわしさも値打ちのないことを思い、救い主イエス・キリストのうちに差し出された憐みによってあなたを信じて、一日ずつの暮らしを建て上げてゆく私たちであらせてください。

     脅かされ、惨めに身を屈めさせられ、心細く貧しく暮らすものたちが世界にあふれています。私たちもそうです。どうか憐れんでくださって、助けの御手を差し伸べてください。

     あなたは私たちと世界のすべてを、この救い主イエス・キリストにお委ねになりました。救い主キリストこそが私たちとすべてのものたちの救いの守り手であられます。私たちが、このお独りの方から離れず、背を向けて遠ざかることもなく、いつもこの方の前で従順であり、ついにあなたの永遠の御国にあなたが入れてくださるまで、お守りください。

     主イエスのお名前によって祈ります。     アーメン

 


9/27こども説教「旅路を急いでいる」使徒20:1-6

 

 9/27 こども説教 使徒行伝20:1-6

 『旅路を急いでいる』

 

20:1 騒ぎがやんだ後、パウロは弟子たちを呼び集めて激励を与えた上、別れのあいさつを述べ、マケドニヤへ向かって出発した。2 そして、その地方をとおり、多くの言葉で人々を励ましたのち、ギリシヤにきた。3 彼はそこで三か月を過ごした。それからシリヤへ向かって、船出しようとしていた矢先、彼に対するユダヤ人の陰謀が起ったので、マケドニヤを経由して帰ることに決した。4 プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、それからテモテ、またアジヤ人テキコとトロピモがパウロの同行者であった。5 この人たちは先発して、トロアスでわたしたちを待っていた。6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。(使徒行伝20:1-6

 

 主イエスの弟子たちの旅はつづきます。マケドニヤからギリシャへ、3カ月してシリヤへ向かおうとし、けれど道を戻り、祭りの後でピリピからトロアスにきて、そこで7日間過ごしました。エルサレムの都に向かって、彼らは旅を急いでいます。なんとかしてペンテコステの祭りまでにはエルサレムに辿り着いていたいと願いながら16節)旅を急いでいる理由はもう少し後で明かされます22-23節を参照)が、もちろん自分たちの考えや計画通りではなく、神さまのご命令と指図に従ってです。「私の願い通りではなく、御心のままになさってください」と主イエスが父なる神さまに従いつづけたように、あの弟子たちも、そして私たちも同じ心得で、一日ずつを暮らします。

 

    【補足/わたしの思いではなく】

  御子イエス・キリストが御父に信頼し、従順でありつづけたように、私たちも御父と御子イエスに信頼し、従順であること。

⇒マルコ福音書14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」

   ⇒ローマ手紙8:15「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」

2020年9月24日木曜日

われ、弱くとも ♪安かれ、わが心よ

 われ、弱くとも 17         讃美歌298

 ♪ 安かれ、わが心よ  

 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。1954年版讃美歌の298番、賛美歌21532番『安かれ、わが心よ』です。1節、2節をまず読みます;「1節。安らかであれ、私の心よ。主イエスは共にいてくださる。痛みも苦しみも雄々しく忍び耐えなさい。なにしろ主イエスが共にいてくださるので、耐えることのできない悩みはないのだから。2節。安らかであれ、私の心よ。荒々しい波や風が脅かすときにも、父なる神の御旨にお委ねしよう。御父が私の手を取るようにして導いていってくださるからだ。しかも望みの岸は、もうすぐそばまで近づいているのだし」。2つの曲を読み比べてみました。ほとんど同じ歌詞です。ただ2節目、1954年版では「父なるあまつ神の御旨に委ねまつれ」。賛美歌21では「御旨に委ねまつれ」として、委ねる相手が父なる神の御旨だとはあまりはっきりとは言い表さないままにした。それは1節で、「主イエスは共にいます。主イエスが共にいてくださるので」と、安らかに忍耐できるための安心材料として主イエスに集中しているからです。それなのに2節で「父の御旨に委ねる」と急に言われてしまうと、なんだかギクシャクしてしまうような、信頼を寄せるべき相手は主イエスなのか、それとも父なる神なのかと混乱してしまいそうだからです。多分、この信仰の本質部分がここで問われています。聖書に証言されて、父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神と、3つの神を信じている。3つの神さまはそれぞれバラバラ勝手にではなく1つ思いになって働いてくださる。それが、三位一体なる神さまを信じることの具体的な中身です。この理解がちゃんと自分の腹に収まって揺るぎないのかどうか、と問われています。ここが、この信仰の急所だと思えます。何度も言ってきましたがとても大切なので、もう1回説明します。「縦並びに並んでいる3つの神さまです。分かりますか」と僕は先生から教えられました。先頭に父なる神、その後ろに主イエス、その後ろに聖霊なる神さま。主イエスは、「父は。父は」と指し示しつづけ、「父から命じられたこと以外、私は何一つしない」(ヨハネ5:19,30参照)とまで仰る。父への絶対的な信頼と服従です。主イエスのほうが格下だからでもなく部下なのでもなく、御子イエスはへりくだった謙遜な神さまなのです。また、だからこそ御父は「これは私の愛する子。これに聴け」と私たちの心と耳とを主イエスへと集中させ、天と地の一切の権能を主イエスにすっかり委ね、主イエスを王としてこの世界を支配させました(マタイ3:17,17:5,28:18,コリント(1)15:24-25)。聖霊なる神さまもまた、へりくだった謙遜な神様で、「主イエスは、主イエスは」とイエスを指し示し、イエスの教えを思い出させ、心に刻ませ、主イエスを信じる信仰を私たちに与えつづけます(ヨハネ14:26,コリント(1)12:3,ヨハネ(1)4:1-3)このようにして、3つの神さまは1つ思いになって働く。ここが急所です。もし、この理解が揺らぐなら、信仰はなし崩しに崩れ落ちてしまうでしょう。ですから1節の「主イエスは共にいます。主イエスが共にいてくださるので」と、安らかに忍耐できるための安心材料として主イエスに集中することは正しい。しかも2節で、「天の御父の御旨にすべて一切を委ねる」こともまた同じく正しい。主イエスと御父とは1つ思いであるからです。

  しかも2節の「天の御父の御旨にすべて一切を委ねる」という信頼のと服従の姿や在り方を、主イエスご自身こそがはっきりと私たちに示してくださいました。まず、主イエスが教えてくださったあの『主の祈り』です。呼びかけと讃美に挟まれた6つの願いは、天にいます御父への信頼をこそ告げていました。「天の父よ、あなたの名をあがめさせてください。あなたの国を来らせてください。あなたの御心をこそ、この地上で成し遂げてください」。しかも私たちは、ゲッセマネの園でのあの祈りの格闘を、ここで直ちに思い起こすことができます。マタイ、マルコ、ルカと3つの福音書がこれを報告しています。マルコで読みます;「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』。少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」(マルコ14:32-)。このゲッセマネの園での主イエスの祈りの格闘の姿から何をどう聞き取ることができるのかが、キリストの教会にとって、私たち1人1人のクリスチャンの生涯や毎日の暮らしぶりにとっても分かれ道となりました。確かに、主イエスはひどく恐れて身悶えさえしている。死ぬばかりに悲しい、苦しいと心の内をさらけだしもする。まったくその通りです。では、主イエスは絶望しておられるのか。望みも希望もすっかり失って、天の御父への信頼も消え失せてしまったのか。そうだと言う人々がおり、いいやそうではないと言う人々もいます。あなたはどう考えるのか。「アッバ、父よ」と、救い主イエスは天のお父さんに向かって呼びかけています。アッバ。その地方の方言ですが、ほかのどの国でも、どんな時代でも、2、3歳くらいのまだほんの小さな子供は父親に向かってこのように呼びかけます。「お父ちゃん。おっとう」などと。ですから私たちの救い主は、この時、小さな子供の心に返って天のお父さんに向けて、「トウチャン。オットウ」と呼ばわっています。不思議なことです。イエスさまはもちろん、もうすっかり大人なんですけれど、このお父さんの前では、このお父さんに向かっては、小さな小さな子供なのです。主イエスは「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れて身悶えしながら、「この苦しみのとき、この苦い杯」と噛みしめながら、しかしそこで、ユダヤ人の指導者たちやローマ提督や役人や兵隊たちを見回すのでありません。この崖っぷちの緊急事態の局面で、ここで、父なる神さまにこそ一途に目を凝らします。「おっとう。どうかこの苦い杯を私から取りのけてください。しかし私が願うことではなく、あなたの御心にかなうことが行われますように」(14:36)。「御心にかなうことが。御心のままに」。自分を愛してとても大切に思ってくれるお父さんやお母さんといっしょにいるときの、小さな小さな赤ん坊の心です。そう言われて、ある人々は渋い顔をします。何十年も生きてきて、頭も心もすっかり頑固になってしまった老人たちが反論します;「年をとった者が、どうしてまたオギャアオギャアと生まれたり、おっとう、トウチャンなどと口に出せるだろう。できるはずもない(ヨハネ福音書3:4,9参照)。あなたもそう思いますか。いいえ私たちは新しく生まれることができます。父なる神さまに向かって、救い主イエスがしたように、「おっとう、トウチャン」と。ここにいるこの私たちだって、心底から親しく呼ばわることができます。呼ぶと応えてくれるオットウがいてくださるんですから。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ福音書10:15)と主イエスご自身が語っていました。子供のようにって、どういうこと? 子供のどんな性質や状態や心を言っているのでしょう。簡単そうで難しい。子供が純粋無垢で清らかだなどと聖書は言っていません。そういうことではない。むしろ、人間は罪深い存在で、小さな子供も例外ではないと聖書自身は証言していました(創世記8:22)。子供のようにという決定的で最終的な答えが、ここにあります。ゲッセマネの園で、「アッバ父よ」と祈った、このときの救い主イエスのような『子供』です。つまりは御父への、一途で手放しの信頼。それこそが『子供のように神の国を受け入れる』こと(ローマ8:14-16参照)。難しい、よく分からない? それなら逆に、『大きな大人のように、頑固な年寄りのように神の国を拒んで退ける』ことなら、よく分かるでしょう。だって、私たちはずいぶん長く生きてきてすっかり大人になってしまいました。年も取って、頭も心もカチンカチンに堅くなってきました。たいていのことは分かっていると思い込んでいるし、自分は賢いと思っています。礼儀作法も世間様の常識もよくよく弁えているつもりの私だ。じゃあ、そのあなたには、神の国や神の福音を受け入れることはかなり難しいでしょう。

  そして、この歌のためのもう1つの大きな土台が、歌詞の右下に小さな文字で記されていました。マタイ28:20。マタイ福音書の最後の出来事。復活なさった主イエスが弟子たちを世界宣教へと送り出す場面です。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。ここが、あの彼らと私たちのためのいつもの出発点です。あの弟子たちと私共1人1人も、このようにして主イエスから送り出されました。送り出されて、それぞれの場所で、月曜日も火曜日も水曜日も朝も昼も晩も、主イエスに仕えて働いています。この出発点へと、何度も何度も立ち返ってきます。山の上で主イエスの御前にひれ伏した弟子たちの中に、「しかし疑う者もいた」と報告されています。どんな気持ちがしますか。心が波立ちますか? いいえ、むしろ逆です。そもそもの最初から、神さまを信じる者たちは信じながら疑う者たちばかりでした。疑いの心はなかなか拭い去るこごができませんでした。だからこそ1500ページあまりのこの分厚い聖書は、「恐れるな恐れるな」と励ましつづけます。神を信じる人々は、なかなか十分には神さまを信じきれず、だからこそ恐れ続けました。なお神さまはその信仰の乏しい人々を見捨てることも見離すこともなさいませんでした。例えばモーセはヨシュアに語りかけました、「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:7-8)見放すことも見捨てることもしない。先立って行き、共にいてくださる。その主は、イエス・キリストのことでした。アダムとエヴァも、ノアも、アブラハムとサラも、モーセも、ギデオンもソロモンも母マリヤもザカリヤも、トマスもペトロもパウロも、そして私たちも。疑いながらも、けれど主イエスの御前にひれ伏している。それが私たちのための希望です。主と共におり、主に仕えて働く中で、私たちの恐れも疑いも、痛みも苦しみも悩みもウツウツとした思い煩いも、主ご自身がだんだんと少しずつ拭い去ってくださるからです。

 3節について、1つだけご一緒に思い起こしましょう。「神さまの国がやがて来る。そのとき、憂いが消え、神さまの御顔を仰ぎ、命の幸いを受け取る」。けれど神さまの国はいつごろ来るのでしたか。やがて終わりの日に。そう、それが1つの正しい答え。もう1つの同じく正しい答えは、今現にすでに神の国は私たちの生活の只中に来ている。復活の命の幸いを受け取る。いつ? やがて終わりの日に、そして今現に、すでに受け取りつづけている。だからこそ、私たちは悩みと苦しみの只中でなお安らかであることもできるのです。見なさい。主イエスがそこにいます。

2020年9月22日火曜日

9/20こども説教「市の書記役が静かにさせた」使徒19:35-41

 9/20 こども説教 使徒行伝19:35-41

 『市の書記役が静かにさせた』

 

19:35 ついに、市の書記役が群衆を押し静めて言った、「エペソの諸君、エペソ市が大女神アルテミスと、天くだったご神体との守護役であることを知らない者が、ひとりでもいるだろうか。36 これは否定のできない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、いっさいしてはならない。37 諸君はこの人たちをここにひっぱってきたが、彼らは宮を荒す者でも、われわれの女神をそしる者でもない。38 だから、もしデメテリオなりその職人仲間なりが、だれかに対して訴え事があるなら、裁判の日はあるし、総督もいるのだから、それぞれ訴え出るがよい。39 しかし、何かもっと要求したい事があれば、それは正式の議会で解決してもらうべきだ。40 きょうの事件については、この騒ぎを弁護できるような理由が全くないのだから、われわれは治安をみだす罪に問われるおそれがある」。41 こう言って、彼はこの集会を解散させた。                   (使徒行伝19:35-41

 

 大変な大騒動になるところでした。市の書記役が出てきて、人々を鎮めて、集まりを解散させました。35-37節、「ついに、市の書記役が群衆を押し静めて言った、「エペソの諸君、エペソ市が大女神アルテミスと、天くだったご神体との守護役であることを知らない者が、ひとりでもいるだろうか。これは否定のできない事実であるから、諸君はよろしく静かにしているべきで、乱暴な行動は、いっさいしてはならない。諸君はこの人たちをここにひっぱってきたが、彼らは宮を荒す者でも、われわれの女神をそしる者でもない」。書記役は、女神や御神体や神殿に反対するわけではなく、また無理矢理に連れて来られたクリスチャンたちも何も不都合なことをしていないと説明しました。人間の手で造ったものが神なのかそうではないのかということに、書記役は一歩も踏み入らず、ただ騒ぎを鎮める必要があると考えただけでした。それでもなお今日でも、「人間の手で造ったものは神ではないこと、神ではないものにひれ伏したり、それに仕えたり、拝んだりしてはならない」(出エジプト記20:1-6,申命記5:6-10参照)ことは、神を信じて生きる私たち自身がいつでもどこででも従うべき、とても重要な戒めでありつづけます。さて書記役は、「みんなの前で何か訴えるべきことがあるなら、正式な市の会議があり、裁判もある。裁判官や地方総督たちに訴え出るがよい」と語りかけました。騒ぎはおさまりました。

9/20「平和ではなく分裂を」ルカ12:51-53

                                       みことば/2020,9,20(主日礼拝)  285

◎礼拝説教 ルカ福音書 12:51-53                   日本キリスト教会 上田教会

『平和ではなく分裂を』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

12:51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。                        (ルカ福音書 12:51-53)

2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。             (エペソ手紙2:13-18)

 まず51節、「あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である」。もちろん、救い主イエスは平和をこの地上にもたらすために来られました。それは本当です。ただ、その平和はとても大きな素晴らしい平和です。神と、神によって造られたすべてのものたちが平和に、心を通わせ合って共に生きることであり、人間同士も、さまざまな違いを乗り越えて互いに相手を尊重し、労わり合い、それぞれが背負ってきた痛みや苦しみを思いやり合い、手を差し伸べ合って生きる平和です。自分中心の身勝手な思いを捨て去ってこそようやく少しずつ形造られ、だんだんと成し遂げられてゆく平和です。だからこそ、その大きな素晴らしい平和は、そう簡単には実現しません。その実現の前には、きびしい対立や争いや分裂も起こります。何度も何度も。その分裂や憎しみの中から、平和が芽生え、育てられてゆきます。きびしい対立や争いや分裂が何度も起こることは決して無意味なことではなく、その苦しみの中から、平和や和解のために立ち上がる人々が出てくるからです。「平和ではなく分裂である」と救い主イエスが仰ったのは、そういう意味です。分裂や憎しみや争いを通して、それを乗り越えて生み出されてゆくはずの平和を、この地上に、私田たちの間にもたらすために、救い主イエス・キリストは来られました。

 最初に救い主イエスご自身が神の国の福音を宣べ伝えはじめたときにも、それを喜んで聞き、受け入れた人々がおり、同時に、そうではなく厳しくはねつけた多くの人々もいました。預言者たちの時代にもそうであり、主イエスの弟子たちとキリスト教会の長い歴史の中でもそうでした。「私は救い主イエス・キリストを信じます」と私たちが人々の前で信仰を告白するとき、多くの抵抗や反発が起こり、多くの人々の憎しみも湧き起ります。だからこそ救い主イエスご自身がその弟子である私たちに、争いや分裂に対して備えをしておくようにと警告しておられます。なぜなら、主イエスの弟子である私たちは神の国の福音のために、それが真実であることを証言するために闘い、その実現のために働き、踏みとどまって忍耐する必要もあるからです。支えや助けや励ましが無ければ、心の弱い者たちは押しつぶされ、心を挫けさせてしまいかねないからです。しかも、どの一人も例外なく、だれもが心の弱い者たちであるからです。もちろんそれぞれの伝道者も同じです。一人一人のクリスチャンもまったく同じです。このことを互いに覚えておきましょう。

 救い主イエスのご支配のもとには、ほかのどことも違う格別な平和と、穏やかな静けさがあります。主イエスの弟子である私たちはその平和が与えられると約束され、それを受け取って生きるようになると保証されています(ヨハネ福音書14:27。私たちはどこへと向かうのでしょう。その平和は、どのようにして贈り与えられるでしょうか。聖書は証言します、「ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである」(エペソ手紙2:13-18救い主イエスが与えてくださった平和は、神を知らず、信じることもしない人々と、神を信じて生きる者たちとの間の平和です。この私たち自身こそが神を知らず、神を信じて生きることを拒みつづけていた者たちでした。神から遠く離れていた私たちを、神がご自身のもとへと近づけてくださいました。『十字架のあがない。十字架のあがない』と、私たちは互いに語りつづけます。しかも、その中身は、キリストの血によって成し遂げられた神との平和であり、互いの平和です。私たちのうちに根深くありつづけた『敵意という隔ての中垣』をキリストご自身が取り除いてくださいました。神と和解させていただき、キリストは、ご自身が十字架にかけられて死んで復活なさったとき、私たちのその『敵意』をもご自身の十字架につけて滅ぼしてくださいました。ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄してくださいました。神を信じない、神の御心を侮り、軽んじて憎みつづける私たちの敵意を十字架にかけて滅ぼしてくださり、その私たちを、信じて生きる者たちへと造り替えてくださいました。これが、私たちのために成し遂げられた十字架のあがないです。そのあがないの上に立って平和の福音に私たちは耳を傾け、受け入れつづけています。一つの御霊の中にあって、御父のみもとに近づくことができる私たちとされています。これが、私たちのために成し遂げられた十字架のあがないです。しかも、だからこそ、『十字架のあがない』はなお、この私たちのために続いています。神の御心に背く心を日毎に滅ぼされ、そのように神と和解させられ、御心にかなった歩みを願うように励まされつづけ、自分自身が深く抱えてしまったさまざまな敵意と、分け隔てと、排除や憎しみの心を、十字架にかけて日毎に滅ぼされているからです。救い主イエスの十字架の血と、そこで引き裂かれた肉こそが、私たちのためにキリストの平和を成し遂げました。

例えば、主イエスの復活の朝に弟子たちは周りにいる人間たちへの恐れに取りつかれ、臆病になって小さく縮こまっていました。隔ての中垣を自分の中でどんどんどんどん高く大きくんしてゆくとき、そこに救い主イエスが来てくださって、「安かれ」とあの弟子たちに仰いました。安かれ。平和があるように、という意味です。弟子たちの中に立ち、てのひらと脇腹の傷跡を見せてくださいました。そこでようやく、弟子たちに喜びが溢れました。イエスはまた弟子たちに言われました、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(ヨハネ福音書20:19-23私たちの内にキリストの平和があり、キリストのあがないが確かに成し遂げられてあることの中身は、これです。主イエスから遣わされてこの世界を生きる私たちが主イエスからの指図とご命令通りに、神からの罪のゆるしを告げ知らせ、その人々も私たち自身をも罪から解き放ち、神との平和に生きる者たちへと招き入れていただくことです。『十字架の平和と、十字架のあがない』がこのように、私たちの生活の只中で生きて働きつづけます。自分の大切な家族や隣人や、職場の同僚たちを、罪から解放しながら、また私たち自身も敵意や妬みや、分け隔てと、排除や憎しみの心を、十字架にかけて日毎に滅ぼされつづけます。臆病な心がいつの間にか、穏やかで安らかな心へと造り替えられてゆきます。

 52-53節、「というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。家族の中でも、あるいは職場や地域やそれぞれの共同体の中でも、互いに分かれて対立したり、争ったり、いがみあったりする日々がつづくかもしれません。キリスト教信仰のせいで、そうした争いや対立が起こる場合もあり、あるいはまったく違う原因で起こる場合もあるでしょう。遠い昔、預言者が告げました、「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」(マラキ書4:5-6。直接には洗礼者ヨハネの働きについて語られたものですが、これはヨハネにつづくすべての伝道者、またすべてのクリスチャンの役割と成し遂げるべき使命について語りかけています。「父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」。正しくは、「父たちの心をその子供たちに。子供たちの心をその父たちに向けさせ」です。父さん、母さんたちは、神を信じる信仰を子供たちや孫たちに伝え、神を信じて生きる幸いを知らせ、神の御心を子供たちへと告げ知らせるとても大切な務めを神から託されていました。父たち母たちのそれぞれの心ばかりではなく、むしろ父なる神の御心へと、自分自身と子供たちの心を向けさせ、子供たちの心へと父なる神の御心を向けさせること。

 

               ◇

 

 だからこそ、かつて神から遠く離れていた私たちがここにいます。神を知らず、神を思うこともなく、自分たち自身とこの世界のことばかり思い煩って、心をさまよわせつづけていた私たちが。『敵意という隔ての中垣』をあちこちに、いくつもいくつも築き上げていた私たちがいます。罪とは、神への反抗です。「私が私が」と自分中心になって強情を張り、神から遠く離れていた私たちは、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神の側近くに引き寄せられ、お互い同士に対しても近いものとされました。私たちにとって何が平和でしょう。平和はどこにあるでしょう。それは互いに顔色を窺い合うことではなく、話を合わせてただ同調し合うだけではなく、恐れてうわべを取り繕うことでもなく、互いに波風立たないように静かにしていることでもありません。なぜなら第一に、何にもまして、神ご自身との平和であり、神の御心にこそ従って生きていきたいと願う平和だからです。天におられる主人にこそ従って生きることを選び取っているからです(コロサイ手紙4:1。わたしたちは、一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからです。

 罪のあがないを成し遂げてくださった救い主イエスが仰います、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15


2020年9月17日木曜日

われ、弱くとも ♪祈ってごらん分かるから

 われ、弱くとも  (プレイズワールド7番、新聖歌481)

 ♪ 祈ってごらん分かるから 

  こんばんは。讃美歌をごいっしょに読み味わっていきましょう。『祈ってごらん分かるから』という讃美歌です。これが収録されている讃美歌集は、いのちのことば社発行のプレイズワールド。リビングプレイズという讃美歌集の子供版です。歌詞を読んでみましょう;「君は神さまにネ話したことあるかい? 心にあるままを打ち明けて。天の神さまはネ、君のことなんでも分かっておられるんだ、なんでもね。だから空あおいで『神さま』と一言いのってごらんよ、分かるから。小川のほとりでも、人ごみの中でも、広い世界のどこにいても、本当の神さまは今も生きておられ、お祈りに応えてくださる」。心にあるままを打ち明けて、神さまに話す。それが祈りだ、とこの讃美歌は教えてくれます。何でも分かっておられる神さまが、けれども「ぜひ話しかけてほしい」と願ってくださり、耳を傾けていてくださる。だから、私たちも祈ってみよう、神さまに話しかけてみようじゃないか。例えば、この聖書の神さまを信じはじめたばかりの人たちに祈りの手ほどきをします。日曜学校の子供たちにも、「こうやって祈るんだよ。分かるかい」と。祈るのが苦手だという人もいるし、「得意だし、結構好きです。いつも祈っています」などという人もいます。どんな言葉遣いでどんな仕草や態度で祈るのか。何をどう祈るのか。だいたい何分間くらい祈るのか。いつ、どういう場所で祈るのか。多分、そういうことで困る人はあまりいないでしょう。けれど、どう祈っていいか分からない。主イエスの弟子たちもイエスに、「先生、私たちにも祈りを教えてください」と願い出ました(ルカ11:1)。それは作法や手順を問う問いではなくて、むしろ祈りの本質を問いかけています。祈りを向ける相手がどんなお方なのか。どんな相手が、あなたの祈りに耳を傾けているのかが分からず、それで戸惑っている。その証拠に、「いやいや、どんな言葉でもいいし、どんな仕草で祈ってもいい。目を開けていてもいいし、つぶっていてもいい。何でも自由に祈ってみなさい。1、2の3、ハイどうぞ」と言われても、それだけでは祈りはじめることなどできません。どんな神さまが、どんな心で、この私の祈りを聞いておられるのか。それこそが、祈りについての究極の問いかけです。どんな神さまを、あなたはどのように信じているのですか?

 誰にでも、生涯で一番最初の祈りがありました。僕にもあったし、あなたにもあったでしょう。こうやって祈るんだよと、牧師や神父か、あるいは信仰を持つ友だちの誰かが手ほどきしてくれたかも知れません。それで、この人は生まれて初めてとうとう神さまに向かって祈ってみました。だって、本当は神さまに向かって話しかけたいことがいっぱいあったのです。私が味わってきた辛さと悲しみ。嬉しかったことも、とても恐ろしかったことも。激しく心を揺さぶられ、心を惑わされ、どうしていいか分からなずただただ溜息をついたことも、惨めで心細かったことも、その1つ1つを神さまに向かって話したかった。「ありがとうございます」と頭を下げたかったし、「助けてください。支えてください」とすがりつきたかった。けれど空を仰いで「神さま」と呼びかけて、その後の言葉がつづきませんでした。思いがあふれるばかりで頭の中も真っ白になって、何と言っていいか分からなくなった。あのお、ええとええと……。それでモジモジしながらその人は帰っていきました。もし、それを脇からこっそり眺めていた人があったなら、「なあんだ。祈るのを途中で止めてしまったのか」と思うかもしれませんね。祈りの訓練がまだまだ足りない、未熟だなあ、などと軽はずみにこの人を見下してしまうかも知れません。けれども兄弟姉妹たち、神さまは、「なあんだ」とガッカリしたりバカにしたりはなさいません。「よし。よく祈ってくれた。ありがとう、ありがとう、私は嬉しい」と大喜びに喜んでくださるに違いありません。空を仰いで「神さま……」、これでもう十二分に豊かな祈りだったのです。整っていない、ひどくぶっきらぼうで言葉足らずで幼い祈りも、それどころか私たちの言葉にならない呻き声も、溜息も涙も叫びも、その1つ1つは祈りとして神さまの耳に届きます。祈りがそういうものだという以前に、祈りに耳を傾けつづけてくださる神さまは、そういう神さまであるからです。だからこそ、例えば詩編130編は「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と神さまに向けて呼ばわっていました。まとえ深い水の底からでも、地の果てからでも、その祈りやつぶやき、叫びや涙は祈りとして神さまの耳に届き、聞き分けられます。例えば出エジプト3章、燃える柴の木の中から神さまはモーセに語りかけました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し……、彼らを導き上る」(7-8)と。彼らの苦しみ、叫び声や溜息、痛くて痛くて「ううう」と漏れる呻き声でさえ、祈りとして聞き届けてくださる神さまです。アダムとエヴァ夫婦の息子カインがアベルを殺したとき、神さまは兄さんのカインに語りかけました、「お前の弟アベルはどこにいるのか」「知りません。私は弟の番人でしょうか」「なんということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(創世記4:9以下)と。こういう神さまなのです。隠れたことを見て、聞いている神さまが、祈りはじめる前からあなたの祈りに耳を傾け、「ぜひ私に向かって祈ってほしい」と願い、待ち構えておられました。

 隠れたことを見ておられ、人の心を見抜く神さまだと告げられて、あなたはどう感じますか? いろいろな思いが私たちの心の中に沸き起こります。良い思いも、ねじくれた悪い思いも。心優しく暖かで立派な思いも、あるいは恥じるべきよこしまな思いも。それらすべてをすっかり見抜いておられる方がいる、と聖書は告げます。どうしましょうか。逃げ出したくなるか、穴があったら入りたいか。穴に隠れても逃げても、あなたの行いも心の思いも、神さまの目にすっかりさらされて、隠しようもない。けれど恐れはじめる前に、私たちは立ち返りましょう。思い起こしましょう。どんな神さまだったかと。愛してくださる神さまであり、ゆるしてくださる神さまではなかったでしょうか。あなたのその弱さと貧しさを、あなたの傲慢さ、ズルさ、意固地でかたくなであることを、卑屈なくせにいつも自己中心であることを、そのことごとくをよくよく分かった上で、なお愛し、なおゆるし、迎え入れてくださった神さまではなかったか。だからこそ、天に主人がおられ、その主人が見ておられる(コロサイ手紙4:1,マタイ6:6)。それこそが私たちクリスチャンのための祝福であり、戒めでありつづけます。

  神さまが見ていてくださるし、知っていてくださる。そして、私たちも知っている。何を。神さまが生きて働いておられ、その神さまは慈しみ深い神さまであり、私たちをとても大事に思っていてくださり、その私たちのためにも最善をはかり、最善を備えていてくださるということを。私たちの悩みや葛藤も、私たちそれぞれの生涯も、この世界も、生きて働いておられます神さまの恵みの御手の内にこそある。「万事が益となる」と断言されています。あなたのためにも、万事を益としてくださる主なる神さまがいてくださると断言されています(ローマ手紙8:28参照)。それはもちろん、神さまを信じる者がどんな禍や困難からも無縁だということではありません。神さまを信じていてもいなくても、人は重い病気にかかり、交通事故にも遭い、勤めていた会社が倒産したり、クビにされたり、借金を抱え、人から容赦なく責め立てられたり、陰口をきかれることもある。年老いて、目も耳も足腰も衰え、病院のベッドに長く横たわり、やがて死んでいきます。もちろんです。あるいは、子育てや大切な務めの道半ばで倒れることもありえます。後ろ髪を引かれるようにして立ち去って行かねばならないこともあるでしょう。病気が治ることもあり、治らないままそれを抱えて苦しみながら生きることもあります。孤立無援で、助けも支えもなかなか見出せない日々もあります。それが、生きるという私たちの現実です。その同じ現実を、クリスチャンも同じく生きていきます。ただ、それだけが現実なのかといえば、そうではありません。私たちのための神さまの現実が確かにあり、この私たち1人1人は、生きて働いておられます真実な神さまの慈しみの内に据え置かれている。「天におられる私の父の御心によらなければ、髪の毛一本も私の頭から虚しく地に落ちることはない」(ハイデルベルグ信仰問答の問1,マタイ10:29-31参照)と教えられ、そのように信じています。もちろん、いつまでも黒髪フサフサというわけではなく、白髪頭になるしハゲ頭になるし、爺さん婆さんになる。けれどそれは天の父の慈しみの御手のうちに取り扱われつづける。そのことに、私たちは信頼を寄せています。そうでしたね。だから白髪頭になっても、ハゲ親父になっても足腰衰えてヨボヨボになってもなお晴れ晴れとしています。

  さて、この讚美歌で「神さまと一言、祈ってごらんよ。分かるから」と歌う。逆に、祈るのでなければ決して分からない。じゃあ何が、どう分かるというのか。私たちの神さまが今も生きて働いておられ、その神さまはあなたの祈りに応えてくださる方であるということが。私たちの神さまは、この私のためにもあなたのためにも恵み深い真実な神であってくださり、主であってくださり、あなたの祈りやつぶやきに耳を傾け、あなたと共にいて支え、どこからでも助け出し、心強くあなたとあなたの家族とその生涯を持ち運んでくださる。語りかけながら、祈りの中で神さまと出会った人々のことを僕も思い出しました。ペトロやパウロなど、主の弟子たちもそうでした。マリアとマルタもそうでした。中風の人を戸板に乗せて運んできた4人の人々もそうでした。12年間も出血の病気に苦しめられてきたあの女性もそうでした。墓場に鎖でつながれていたあの彼もそうでした。神殿の入口で座って物乞いをしていた男もそうでした。息子や娘の命をなんとかして助けていただきたいと主イエスのもとにやってきた父さんや母さんたちもそうでした。僕もそうだったし、あなたもそうですか。主イエスとの格別な出会いが積み重ねられていきました。そうそう、兄さんに殺されるかもしれないと夜逃げをしていった、あの双子の弟ヤコブもそうでした。創世記28:10以下です。野宿をし、石を枕にして眠り、神さまと出会いました。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神さまの御使いたちがそれを上ったり下ったりしていました。あの時から、彼も神さまを信じて生きる者とされました。主は仰いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」。そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」。主なる神さまがここにいる、と彼は気づきました。人里離れた誰もいないこんな荒地さえ、神の家、天の門とされている。それじゃあ、神の家じゃない場所などもう世界のどこにもないじゃないか。どこもかしこもとっくの昔から神の家、天の門とされつづけていたのか。ああ、私は知らなかった。小川のほとりに独りで立つときにも、見ず知らずの多くの人々に囲まれていても、広い世界のどこにいても、この神さまこそが、あなたの支え、あなたの助け、あなたの頼みの綱でありつづけてくださる。それは、立派な大先生にいくらしつこく丁寧に説明されても、難しい本をたくさん読んでも分からない。滝に打たれても、断食しても分からない。そうではなく、ただ「神さま」という、あの祈りの格闘を積み重ねてゆく中で分かってくる。きっと分かるから。だから、あなたも祈ってごらん。

2020年9月13日日曜日

9/13「大騒動(2)」使徒19:28-34

9/13 こども説教 使徒行伝19:28-34

 『大騒動(2)』

 

19:28 これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。29 そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。30 パウロは群衆の中にはいって行こうとしたが、弟子たちがそれをさせなかった。31 アジヤ州の議員で、パウロの友人であった人たちも、彼に使をよこして、劇場にはいって行かないようにと、しきりに頼んだ。32 中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。33 そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。34 ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。           (使徒行伝19:28-34

 

 主イエスの弟子の一人が「人の手で造られたものは神ではない」と言ったことがきっかけになって、とても大きな騒動が起こりました。とくに、神殿の模型を造ってお金もうけをしていた銀細工職人たちが、腹を立てました。また、女神や神殿を大事に思う人たちも自分たちの信仰が悪く言われたと思って、大騒ぎをしはじめました。主イエスの弟子の何人かが無理矢理に捕まえられて、劇場に連れ去られました。乱暴なことをされるかもしれません。命の危険もあります。劇場の中に入った大勢の人たちはとても興奮して、それぞれ、いろいろなことを言い立て、騒いだり怒鳴ったりしつづけました。ユダヤ人のアレキサンデル(注)という人が皆の前に連れ出されましたが、ただユダヤ人だというだけで、人々はとても腹を立てて、その人の話をろくに聞こうともしません。ただただ叫びたてつづけます。

 

  (注)1テモテ手紙1:20,2テモテ手紙4:14に同じ名前の人のことが報告されるが、同じ人なのかどうかは分からない。