2019年7月1日月曜日

6/30「人を裁くな」ルカ6:37-42


                      みことば/2019,6,30(主日礼拝)  221
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:37-42                日本キリスト教会 上田教会
『人を裁いてはならない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
 6:37 人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。38 与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。39 イエスはまた一つの譬を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。40 弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう。41 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。42 自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。(ルカ福音書 6:37-42)

 弟子たちと大勢の群衆が聞いています。その中で、とくにご自分の弟子たちに向けて救い主イエスは語り続けています20節を参照)。まず37-38節、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。「自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るその量りで、自分にも量り与えられるであろう」。国語辞典を開きますと、裁くことは『良い悪いを区別して、決まりをつけること』と説明しています。良いことは良い、悪いことは悪い。言っていいことと悪いことがあり、して良いことと、してはいけないことがある。そのことを腹に収めて一日ずつを生きること。すると、それは裁判官や検察官や陪審員たちがしているだけではなく、この私たち全員一人残らず、普段の生活の中でごく日常的にしていることです。5~6歳の小さな子供たちもしますし、父さん母さんたちは自分の子供に、なんとかして『良い悪いを区別して、決まりをつけること』を習い覚えさせたいと努力します。そういうことのできる大人になってもらいたいと願って。して良いこととしてはいけないこと。言って良いことといけないこと。それを判断し、区別し、弁え知る人間でありたいのです。また、自分が心の奥底で密かに弁えているだけではなく、「あなたはそんなことを言ってはいけない。そんなことをしてはいけない。それは悪いことだ」と口に出し、態度にも示すべき時もあります。さて聖書自身は2種類の裁きがあると告げます。人間が人間を裁くこと。そして、神ご自身が私たち人間をお裁きになること。「人を裁いてはならない」と主はおっしゃいます。それはもちろん、「別にィ。どっちでもいいんじゃないの。私には関係のないことだし」と知らんぷりしていなさいと勧めているわけではありません。軽々しく人を判断し、うかつな間違ったやり方で善悪や物事を区別しては困ると言いたいのです。それでもなお私たちの人生は、朝も昼も晩も、家にいても道端を歩いていても、自分自身で良い悪いを判断し、区別し、裁かねばならない事柄の連続です。裁いてはならない? いいえ。決して避けて通ることなどできなかったのです。だからこそ、目の前の一つ一つの出来事に、中学生も小学生も、幼稚園や保育園に通う小さな子供たちまで、「どうしたらいいだろう」と頭を抱え、胸を痛めます。
39-40節、「イエスはまた一つの譬を語られた、『盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。弟子はその師以上のものではないが、修業をつめば、みなその師のようになろう』」。私たちクリスチャンは、主イエスの弟子です。師であり先生であられる救い主イエスが、「あなたがた私の弟子は、わたし以上のものにはならないが、私のもとで修業を積んで、必ずきっと、私のようになるであろう」。また、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」(ヨハネ福音書14:12,15:14-16。語りかけてくださっている救い主イエスのその心を汲み取らねばなりません。もし、目の不自由な人が目の不自由な人を手引きするのだったら、せいぜいその2人ともが深い穴に落ちて困ったことになるほかない。けれど主イエスが文字通り手を引くように手引きしつづけて、私たちを導き続けます。どんな穴にも、下水溝やくぼみにさえ落ちるはずがないのです。主イエスがはっきりと保証なさり、太鼓判を押してくださいます。手取り足取りして、つきっ切りで指導に当たってくださり、必要なだけ十分に修業を積ませ、子どもたちの親としても、社会人としても、十分な良い働きができる者としていただけます。なにしろ主イエスご自身からの約束です。この約束を、私たちはよくよく覚えておきましょう。
 41-42節、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」。梁は、家の屋根を支えるために横に渡した、太くて長い材木です。またもや痛い所を突かれました。兄弟の目にあるほんの小さなチリやゴミははっきりと見えるのに、なぜ自分の目の中のその大きな大きな太い丸太に気づかないのか。まず自分の目からその丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からも小さなおが屑も塵もゴミも取り除くことができる。まったく、その通り。「偽善者よ」と呼びかけられたことに腹を立てたり、嫌な気がしたり、がっかり気落ちしている場合ではありません。とても大事に思い、愛してやまない弟子なので、耳に痛い厳しいことも折々に語り聞かせねばなりません。偽善者に成り下がってしまいやすい性分を根深く抱えた私どもなので、わざわざ「偽善者たちよ」と辛口で語りかけます。なぜなら偽善者にならないで済むためにです。深く慎んで、自分自身のよこしまさや、しばしば大きく膨れ上がってしまいやすい自分の悪い心に自分で気づいていることが役に立ちます。
さて、私たちの目を塞いで、ものが見えなくさせる丸太とは『罪。肉の思い』です。また私たち自身の信じる心が弱く乏しいことであり、私たち自身の『不信仰』と言うこともできるでしょう。それが、折々に私たちの目と心を塞いで目を見えなくし、大事なことを見失わせつづけます。しかも信仰を持たない人たちや他宗教の人々を批判しているのではなく、まずなにより、「主イエスの弟子である私たちに向けて」、その警告が語りかけられていることを受け止めなければなりません20節を参照)(1)例えば主イエスがご自身の十字架の死と復活を予告なさったとき、弟子のペテロは、主イエスをわきへ引き寄せ、いさめはじめました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません(あっては困るし、とても不都合なので、止めてください)」と。そして手厳しく叱られました、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。そして弟子たちに向けて主イエスはおっしゃいました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」主イエスを後ろへ引き下がらせ、自分自身とまわりの人々を思い煩いつづける。そのあまりに、神を思う暇がほんの少しもなくなってしまう。どんな神なのか、どういう救いと恵みなのかもすっかり分からなくなってしまう。それこそが、私たちの目の中にある大きな大きな丸太です。「自分が自分が自分が」と自分の自己主張を抱え持ちすぎている私たちに、もし私に付いてきたいと願うならば、その邪魔な「自分」を捨てなさいとおっしゃいます。「自分のやり方、自分の考え、自分の気持ち」そして「自分の命」、いつの間にか大切になりすぎてしまったそれらが私たちの目の中にある丸太です。それでは、差し出されている新しい自分と、新しい生命がちっとも見えない。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と主イエスは、私たちを招きつづけます。
(2)例えば5つのパンと2匹の魚で多くの人々が養われ満たされたことが、弟子たちにはどういうことなのかさっぱり分かりませんでした。その数時間後に、風と波にこぎ悩む小舟の上の弟子たちのところまで主イエスが湖の上を歩いて来られたとき、弟子たちはそれは幽霊だと思い、驚いたり恐れたりしました。自分の貧しく小さな頭で理解し、納得できることしか受け止めようとしません。「それっぽっちの魚とパンでは大勢の人々に食べさせ、満ちたらせることなどとうてい無理だ。できるはずがない」と思い、「湖の上を歩いて来ただと? そんな馬鹿なことがあるものか。学校で理科の時間に教わったことと違うじゃないか」。じゃあ、あなたはどんな神だと思っていましたか? パンと魚のことと、主イエスが湖の上を歩いてきてくださったこと、それらは同じ一つの出来事でした。神が私たちのためにもちゃんと生きて働いておられますことです。ちっとも分からなかったし、信じることもできなかったのは、それは、「弟子たちの心が鈍くなっていたせいだ」(マルコ福音書6:52と聖書は報告する。聖書から、私たちは何を習い覚えてきたでしょう。つまらない一般常識と世間で習い覚えてきてしまった道理にがんじがらめに縛られて、いつの間にか、なんでもできる神を信じることができなくなっていました。それが、彼らとこの私たちのための、目の中にある大きな大きな丸太です。
(3)例えば十字架について殺される前の晩に、ゲッセマネの園で主イエスが必死に祈りつづけていたとき、3人の弟子たちは思い煩いと疲れのために眠くて眠くて仕方がなかった。その弟子たちを気づかって主イエスが様子を見に戻ってくる度毎にやはり弟子たちは眠っていた。「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。まだ眠っているのか、眠っているのか眠っているのか」。思い煩いと疲れ、さまざまな心配事、恐れと不安。それらが目の中の大きな丸太です。
(4)例えばエマオ村への道を歩いていた二人の弟子は、目が見えなくされたり、また見えるようにされたり、見えなくなったりと繰り返しつづけます。この私たちもそうです。エマオ村への道中で道連れになったかたが救い主イエスだとは分かりませんでした。「目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」と聖書は報告します。イエスが死んでしまったと落胆し、絶望しつづける弟子たちに、主イエスが語りかけます、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。この発言のポイントは、「すべての事を信じられない者たち」です。つまり、「そのうちの何割かは信じられる。これど、これとこれとこれは嫌だ。無理だ」と自分で決めつけて、選り好みして信じる者たち。「私なりに信じています」「私にわかる範囲で、無理なく、ほどほどに信じています」などと言う人々のことです。それはその人の頑固さであり、神よりも自分のほうが正しいと思い込んでいる心の鈍さと愚かさです。それでは、救い主イエスの死と復活についても信じられるはずがないではないか。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを説きあかされました。村に着き、一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった」と聖書は報告します。「取りなさい。私の体である」「皆、この杯から飲みなさい」と告げられ、パンと杯を受け取るとき、そして礼拝の中で救い主イエスが説き明かされ、描き出される度毎に、目の中の大きな大きな丸太が取り除かれて、私たちの目と心が開かれますように。神ご自身が確かに生きて働いておられますことと、神の御前に据え置かれた私たち自身の毎日の生活の現実を、御心にかなってはっきりと見て取り、受け止め、そのように生きはじめる新しい自分がそこから始まりつづけますように。主イエスは語りかけます、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか」と。救い主イエスについて聖書にかかれてあることは、必ずことごとく成し遂げられます。こう証言されています。「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる」(ヨハネ福音書9:39-41,マタイ福音書16:21-,マルコ福音書6:52,14:32-42,使徒9:3-18,ルカ福音書24:13-32。この私たちこそが、これらの事の証人です。