みことば/2019,7,28(主日礼拝) № 225
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:11-17 日本キリスト教会 上田教会『息子を生き返らせて
いただいた』
いただいた』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
7:11 そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。12
町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。13
主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。15
すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。16 人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。17
イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。 (ルカ福音書
6:22-23)
11-15節。「そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった」。救い主イエスは、未亡人であり、いままた一人息子に先立たれてただ独りで残されたこの婦人を深く憐れみました。「泣かないでいなさい」と声をかけ、死んだ息子を生き返らせ、その息子を婦人に返してあげました。
生き返らせていただいたこの息子は私たちのためのしるしであるということを、私たちは知らねばなりません。この彼がそうであるように、主イエスを信じる私たち一人一人も、復活の新しい生命に生きる者たちであるからです。マルタとマリア姉妹の弟のラザロもそうです。パウロの長い長い話を聞いているうちに居眠りをし、三階の窓から落ちて死んでよみがえった若者もそうです(ヨハネ福音書11:1-44,使徒20:10-)。私たちがはっきりと信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をもイエスと一緒に墓から導き出してくださいます。主イエスをよみがえらせた御父が私たちをもよみがえらせ、御前に立たせてくださると私たちは知っています。死人を生かし、無から有を呼び出される神を私たちは信じたのです(テサロニケ手紙(1)4:14,コリント手紙(2)4:14,ローマ手紙4:17)。このことが明白な真実であることが分かるために、この一人息子は多くの人々が見ている前でよみがえらされました。町の門の前で、それが起こりました。死んだ人を運び出す葬りのために集まった群衆と、主イエスについてきていた大勢の人々がこのことの証人とされました。棺に手をかけて担いでいる人たちを立ち止まらせた主イエスは、私たちに復活の生命を得させるためにも私たちに手を差し伸べてくださり、そればかりか、私たちを起き上がらせて神の国に招き入れてくださるために、墓穴と陰府の底にさえくだってくださいました。
14-15節。「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がって物を言い出しました。救い主イエスは死んでいた若者に呼びかけました。声を聴かせ、すると直ちに、若者はこの世界に呼び戻されて生きている者とされました。私たちの場合もこれとまったく同じです。遠い昔に、預言者エゼキエルは主なる神から問いかけられました。「これらの骨は生き返ることができるのか」。預言者は答えました、「主なる神よ、あなたのみが御存じです」。すると命じられました。「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」(エゼキエル書37:4-6)。預言者エゼキエルは命じられるままに枯れた骨に語りかけ、骨は預言者の声を聴き、すると直ちに、そのようになりました。主が語りかける言葉を聞き、主の霊を注がれる。けれどそれは、いつ、どこで起こっているでしょう。『ずっと昔にはこうだった』という思い出話を聞いているのではありません。今日でも、私たちの間にも、まるで死んだようになって、生きていても死んでいるのとあまり変わらないような気分で毎日毎日を生きている人がとても大勢います。枯れた骨のように、乾いて、谷底にただ横たわるように生きる人もいます。その人は起き上がるでしょうか? その人は、再び生き返るでしょうか? 「主の言葉を聞け」と主ご自身がその人に語りかけ、その人のすっかり塞がれていた耳をついにとうとう開いてくださることを。「これらの骨は生き返ることができるか?」「主なる神よ、あなたのみがご存知です」。この問いと答えの間に、キリストの教会はたちつづけてきました。信仰と不信仰との間に。信じることと疑うこととの間にです。「あなたのみがご存知です。しもべは聞きます。どうぞ教えてください」と答えようとして、けれどあるとき、「そんなバカなことが信じられるか」と私たちは小さな声でつぶやきました。常識で考えたって、小さな子供だって分かる。骨は骨、もし起き上がってカタカタカタカタと歩きだしたら、そりゃあ、面白おかしいだけのただのホラー映画だろう。ただのおとぎ話か絵空事だろう、などと。みなさんもそれぞれ手元にお持ちの、このやたらに分厚い聖書。信仰をもって生きて死んでいった人々と神さまとの出来事ですけれど、そこには折々に、信じようとして信じきれなかった疑い迷う人々の姿が描かれつづけました。しつこく何度も何度も。読み返しながら、「ここにもある。ここにもある。あ、この人もこの人もだ」と疑う人々の姿を見せつけられながら、私たちも首を傾げつづけてきました。
また私たちは、主イエスが私たちを信仰によってどのように元気づけ、奮い立たせてくださるのかを教えられています。主イエスは、ご自身の言葉に、隠された秘密の力を吹き込んでおられます。だからこそ彼の言葉は死んでいる者の魂の中にも入り込んで、ゆだねられた使命をそこで成し遂げるのです。救い主イエスはこう語りかけます、「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネ福音書5:25)。私たちの救いについて、救い主イエスご自身が、「よくよくあなたがたに言っておく」としばしば語りかけます。よくよくあなたがたに言っておく。なぜなら、私たちが喜びにあふれて毎日毎日の暮らしを幸いに生きることを、主が心から願ってくださっているからです。主イエスが語った福音を信じることがとても大切であり、だからこそその言葉を心に堅くしっかりと刻み込んでいるべきだからです。死んだ人たちが、神の独り子である救い主イエスの声を聴くときが来る。今すでに来ているし、今がそのときである。そして、主イエスの言葉を聴く者は生きる。イエス・キリストが語った福音を聴いて信じることが、私たちが思いも及ばないほどの大きな力を発揮する。「死んだ人間」とは、どういう意味でしょう。何か霊的な、比喩のような精神的な意味で、主イエスはそうお語りになるのでしょうか。心の中でだけ、その人の新しい生きざまがほんの少しくらいは起こることもあるが、もちろん実際に死んだ人間が生き返ることなど決してあり得ないと。いいえ、決してそうではありません。例えば、今日ごいっしょに読んだとおり、ナインという町の未亡人の一人息子は確かに死んで棺に納められ、葬りのために町の門から外へ運び出されようとしていましたが、「若者よ、さあ、起きなさい」と主イエスから命じられて、すると大勢の人たちが見ている前で直ちに起き上がりました。また例えばマルタとマリアの弟であるラザロは死んで4日もたった後、墓に葬られ、けれど「ラザロよ、出てきなさい」と主イエスから命じられて、すると手足を布で巻かれ、顔も顔覆いで包まれたまま、直ちに墓穴から出てきました(ヨハネ福音書11:44)。もし死人の復活がないなら、キリストもよみがえらなかったはずです。キリストがよみがえらなかったとするなら、わたしたちの宣教はむなしく、わたしたちの信仰もむなしいものです。そうだとすると、キリストを信じて眠った者たちは滅んでしまったことになります。もし私たちが、この世の生活の中でだけ、頭のほんの片隅でだけキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在だということなります(コリント手紙(1)15:13-19参照)。
たしかにそうであるとして、「死んだ人間が生き返る」とは現実の体のことでもあり、同時に、霊的な魂の事柄でもあります。その両方です。まるで死んだように生きていた日々が、この私たちにもあったからです。聖書は証言します、「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、……この世のならわしに従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子だった」(エペソ手紙4:1-3)。罪と悲惨の只中に死んでいた私たちです。そのように、私たちの本性がはなはだしく堕落して、神の正しさを慕い求める気力も願いもすっかり失われていたとするならば、神からの生命は私たちの中でまったく消え失せていたことになります。だからこそ、救い主イエス・キリストの恵みは「死んでいた人が本当によみがえる出来事」なのです。私たちの教会の信仰告白がはっきりと言い表すように、「神の恩恵によるのでなければ、罪に死んでいた人は神の国に入ることなど決してできません」(「日本キリスト教会 信仰の告白」参照)。この恵みが、救い主イエスの福音によって、私たちの中にはっきりと確かに植え付けられています。また、植え付けられつづけます。救い主イエスが、その御霊の力によって私たちの心の奥深くにまで語りかけるからです。差し出されているキリストの生命を、私たちは主イエスを信じる信仰によって受け取るからです。死んでいる人々の耳を神さまが開かせてくださり、彼らはキリストの声を受け取り、その御声が死んでいた人々をふたたび生命へと回復させるからです。だからこそ、そのようにして、こう語られつづけています、「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」。そのようにして、かつて死んでいた私たちも、失っていた生命へと連れ戻され、ふたたび生きる者たちとされました。生命へと何度も何度も連れ戻されつづけ、ふたたび生きる者たちとされつづけます。
16-17節。「人々はみな恐れをいだき、『大預言者がわたしたちの間に現れた』、また、『神はその民を顧みてくださった』と言って、神をほめたたえた。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった」。そこに居合わせた人々はみな恐れを抱きました。神が確かに生きて働いておられると知って、そこで様々な種類の「恐れ」が生じます。神を信じない人々は恐れおののいて、そこから逃げ去りたくもなるでしょう。神を信じる人々は、そこで神を敬う心に揺り動かされて、喜びにあふれて身を屈めます。ただ恐ろしいだけの恐れと、うれしくてワクワクするような畏れと。そのような二種類の恐れが生じています。神の真実さとその力にふれて、人々は神に対してただ敬意を抱いただけでなく、「ありがとうございます」と神に感謝をしています。慰められ、勇気を与えられ、そこでそのようにして大喜びに喜んでいます。
「神はその民を顧みてくださった」と言った。元々の言葉では、「神はその民を訪れてくださった」という意味です。目を留め、顧み、心にかけていてくださる神ですが、それだけでなく、直々に先祖と私たちを訪れてくださる神です。しかも、神ご自身によるその訪問は、先祖と私たちをあるべき本来の姿へと回復させることができます。先祖と私たちはたびたび踏みつけにされ、ないがしろに取り扱われてきただけではなく、奴隷状態の中に据え置かれました。そこでとても頑固になり、臆病にもなって、惨めに怯えて暮らしつづけました。私たちに残された希望は、神が私たちの救い主であってくださると約束してくださったことにかかっています。驚くべき出来事に触れた彼らは、自分たちが本当にすっかり回復される救いのときがいよいよ近づいたと感じて、感謝し、喜んでいます。もちろん、そのとおりです。なぜなら目の前に立っておられた主イエスは、偉大な預言者、かなり大物の優れた預言者などという程度ではなく、約束されつづけていた、あの救い主ご自身であるからです。
このお独りのかたが、私たちにも語りかけます。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1:15)。