みことば/2019,7,7(主日礼拝) № 222
◎礼拝説教 ローマ手紙11:16-24 ルカ福音書 6:43-45 日本キリスト教会 上田教会
『良い木が良い実を
結ぶのだろうか?』
11:17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、18
あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。20
まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。22
神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。23
しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。24 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。 (ローマ手紙11:16-24)
6:43 悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。45
善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。 (ルカ福音書 6:43-45)
43-45節、「悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。善人は良い心の倉から良い物を取り出し。悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである」。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶと告げられます。もし、あなたや私がとても良い格別な木に結ばれているとするなら、当然、良い実を結ぶはずであると。その通りですね。私たちが普段いつもの暮らしの中でどんな実を結んでいるのか。胸に手を当てて、しばらく考え巡らせてみると、その実態が思い出されてきます。あるいは自分自身ではよく分からなくても、身近に接している連れ合いや親や子供たちや、職場の同僚たちや近所の人たちには、すっかりお見通しです。「ああ、あの人はああいう人だ」と。――正直な所、この私自身は自分の胸が痛みます。とても痛みます。お詫びをしたいような、情けないような、あまりに惨めなような、申し訳ない気持ちになります。皆さんはどうですか? 『良い行い』によって救われるのではなく、ただ救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただただ恵みによってだけ救われた私たちです。それでもなお、だからといって、私たちがとても短気で怒りっぽかったり、臆病で生狡かったり、身勝手で意固地で頑固でありつづけていいのか。あまりに自己中心で、冷淡で、思いやりの薄い、了見の狭い人間でありつづけていいのか。いいはずがない。いいえ、「救われた者たちはその結果として、感謝と慈しみの実を結ばないはずがない」(ハイデルベルグ信仰問答,問64を参照)と断言されています。良い働きをしつつ生きて死ぬ私たちとなることができる。神さまが必ずそうしてくださる。これが、クリスチャンであることの希望です。
だからこそ最初から、よくよく語り聞かされつづけてきました。例えば洗礼者ヨハネは、すでに長い間神さまを信じて生きてきたはずの神の民に向かって、「まむしの子らよ」とわざわざ呼びかけました。アブラハムの子孫だからと内心自惚れていた彼らに向けて、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている」(マタイ福音書3:7-11)。悔改めにふさわしい実を結べ。この私たちもまったく同じです。一人一人のクリスチャンも、もちろん牧師も、長老も執事も皆が同じく命じられています、「悔改めにふさわしい実を結べ」と。主イエスを信じて生きはじめた最初のときに洗礼を授けられたのは、悔い改めるためです。聖晩餐のパンと杯を飲み食いしつづけているのも、毎週毎週の礼拝説教の言葉を聴きつづけているのも、聖書を開いて読んでいるのも讃美歌を口ずさむのも祈るのも皆すべて、悔い改めつつ毎日の暮らしを生きるためです。例えば、ある人は「♪神はひとり子を」という讃美歌がとても好きで、もう何十年も繰り返して歌いつづけてきました。台所でご飯支度をしながら、家の片づけをしながら、洗濯物をたたみながら。「罪をば犯して神に背き、逆らう我さえなお愛したもう。ああ、神は愛なり。汚れはてし我さえ愛したもう、神は愛なり」(讃美歌184(Ⅱ)番)。口ずさみながら、はっと気づきます。ああ、そうだった。神に背き逆らいつづける、とても汚れた心の私をさえ神さまは愛してくださった。それなのに私は、連れ合いやご近所の誰彼など、かんたんに人を悪く思ったり怒ったり軽蔑したりしていた。ほんのささいなことで、この私は文句や悪口を言っている。なんてことだ。申し訳なかったなあ。この私自身こそが神にも人さまにも逆らってばかりいた。ああ恥ずかしい、恥ずかしい。神さま、ごめんなさい。口ずさみつづけてきたその歌が、その人をクリスチャンであらせつづけています。その歌が、その家に神さまからの祝福を運び続けています。なんという幸い、なんという恵みでしょう。聖書が告げるところの『悔い改め』は、180度グルリと神へと向き直ることです。あり方も腹の思いも何もかも。自分自身と人間のことばかり思い煩って、そのあまりに神を思う暇がほんの少しもなかった在り方から、神さまへと立ち返って生きるために。罪のゆるしを得させる悔い改めであり(ルカ福音書3:3)、そのための洗礼、パンと杯、一回一回の礼拝であり、讃美歌を歌うことであり、祈りです。
今日ご一緒に読んだもう一つの箇所はローマ手紙11:16-24です。(お手数をかけますが、もう一度、その箇所を開いてください)1本の大きな木を思い浮かべてみてください。長い長い歳月をかけて養い育てられていく、1本の、とても大きなオリーブの木です。数千年かけて育まれてきた、1本の、大きな大きなオリーブの木、それが神の民イスラエルです。こ~んなに太い幹の、その根本から梢の先まで、びっしりと、たくさんの枝々が伸びています。1本1本の枝は、それぞれの時代時代のイスラエル民族であり、キリストの教会であり、1人1人の私たちクリスチャンです。ごく早い時期に根元のあたりから伸びた太い枝があり、数千年後になってから、梢近くで芽を出して伸びてきた若くて小さな枝々もあります。手入れをする農夫。太い幹。そして多くの枝々。それは父なる神、神の独り子イエス・キリスト、そして多くの信仰者たちです。ある者は、ごく早い時期に根元のあたりから伸びた枝のようであり、彼らはユダヤ人と呼ばれました。ずいぶん後になって、野生のオリーブの木から切り取られてこの木に接ぎ木された枝のような信仰者たちもいます。かつては神の民ではなかった。今は、憐れみを受け、よいオリーブの木に接ぎ木され、根から豊かな養分を受け取るようになった。神の民としていただいた(ペトロ手紙(1)2:10)。異邦人であるクリスチャン、つまりこの私たちです。
「誇るな。思い上がるな。むしろ恐れて、神の慈愛と峻厳とを見よ」(18,20,25節)。私たちは、いつもこのように戒められます。梢の先のほうから地面を見下ろすと、ポキン、ポキンと折り取られた無数の枝々が地面に横たわっています。根からの養分が、いつどんなふうに遮られ、枝まで届かなくなってしまったのか。また根から養分を受け取ることを、その枝自身がどんなふうに止めてしまったのかを私たちは聞かされています。恐ろしいことです。そして野生のオリーブの枝であった私共が、いつ、どんなふうにして、この豊かな大きな木に接ぎ木していただいたのかを、よくよく覚えているからです。私たちは恐れつつ、喜びます。喜びつつ、恐れます。彼らは不信仰のために折り取られたのであり、いま私たちは、ただ信仰によって幹に結ばれているのだとすれば。それは、ただ恵みによったのであり、憐れみを受けたからなのですから(ローマ手紙3:21-30)。私たちは喜びつつ恐れます。でもいったい何を、誰を、私たちは恐れましょうか。主なる神さまがただ恵みによって私たちを良い木に接ぎ木してくださって、神の民としてくださいました。ならば私たちは、もう誰をも恐れなくてよいはずです(詩27:1-4)。むしろ、いつも『敵は本能寺にあり』です。その慈しみ深い神の恵みに背いてしまいそうな、せっかく受け取った主の恵みと憐れみをポイと投げ捨ててしまいそうな、この私自身の心のありようをこそ恐れましょう。いじけたり高ぶったりしながら、浮き足立って主の恵みのもとから度々迷い出てしまいそうな、この私自身をこそ恐れます。
18節、「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」。金槌で、頭をいきなりガツンと殴られたような気持ちです。ついうっかりして、あの頼りがいのあるしっかりした誰彼の働きや、この私の働きが肝心要だと思い込んでいました。自分の両肩に背負って、この私たちこそが働いていると。私たちが計画し、この私が心を配り、だからこの私が万端すっかり取り仕切って、私が細々と世話を焼いて面倒を見てやらなければ、この木の幹も、他の枝々も根も、倒れたり枯れたりしてしまうだろうと。この私こそが木の幹を支え、枝々を支え、私が根を支え、土を支えているのだと。まるで親分かご主人さまにでもなったつもりで。いったい何様のつもりか。それは大間違いだ、と聖書66巻は語りつづけます。私たちのご主人さまは天におられ、そのとても良い格別なご主人さまは生きて働いておられると。なにしろ、「あなたが根を支えているのではなく、根が、あなたを、支えている」のですから。
25節「兄弟たちよ。あなたがたが自分を知者だと自負することのないために」。傲慢になるな。高ぶるな。どうか謙虚になってもらいたい。ここだけでなく、このローマ手紙の初めから終わりまで、コリント手紙でも、ガラテヤ手紙でもピリピでも、パウロは口を酸っぱくしてクドクドと語りつづけます(ローマ手紙3:27-,4:2,11:18-20,12:3,16,コリント手紙(1)1:26-31,3:21,4:18-19,8:1,13:4,ガラテヤ手紙6:14)。「自分が右の手でしている善い行いを左の手に知らせてはいけない」(マタイ福音書6:3参照)。ついつい自惚れて、他人を見下してしまいやすい私たちだからです。主イエスご自身も、同じくまったく、これを語りつづけます。「偉くなりたいと思う者は仕える人となり、かしらになりたいと願う者はしもべとならねばならない」(マタイ福音書18:4,20:26-,23:11)。神さまからの恵み、恵み、恵み。神さまからの憐み、憐み、憐み。いったい、なぜでしょう。本当に、耳にタコができるほど、ウンザリするほど私たちは聞きつづけてきました。
30-32節。これが、救いの奥義だというのです。つまり、神さまがその人を憐れむ。その人は、憐れみを受け取って、救われる。これが救いの道筋。「この1本の道筋しかない」と断言していいと思います。「誇り」と「自負」とは、その1本道をなんとかして通って辿り着きたいと願う者たちの前に立ち塞がって、邪魔をしていました。
兄弟姉妹たち。何よりまず私たちがよくよく知るべきことは、それは、神ご自身が身を低く屈めてくださったことです。救い主こそが自分に固執しようとなさらず、低く下り、かえって自分を無にし、しもべの身分をとり、十字架の死に至るまでご自分を献げてくださった(ピリピ手紙2:6-)ことを。いったいなぜ、《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》に身を置きなさいと命じられるのか? そこが、福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所だからです。すべての人の後になり、皆に仕える者となってくださった救い主が、その《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》を、私たちとの待ち合わせ場所となさり、そこで格別な贈り物を受け渡ししてくださろうとして、その《後ろの、下っ端の、仕えるしもべの場所》で待っておられます。そのようにして格別な恵みと平和とを差し出してくださっています。皆から「立派だ。さすがだ。偉い」と思われたくてウズウズしている、先頭の上のほうにいるその人は、ですからとても残念なことに、待ち合わせ場所を間違えています。いくら待っていても、その救い主はそこに現れません。ご存知でしたか。「何となく聞いてはいる」「だいたい分かった」という程度ではなく、心底から、それを知りたいのです。神さまとの待ち合わせ場所がどこなのかということを。福音を福音として受け止め、慈しみの神と出会うための、いつもの待ち合わせ場所がどんな場所なのかを。「神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めた」(32節)。憐れむため。いいえ、むしろ憐れんで、救うために。この、いつもの待ち合わせ場所に、私たちは足を踏みしめつづけます。たしかに憐れみを受けたし、いま現に受け取りつづけている。それをガッチリと抱え持っている。それこそが、この私たちを、この救いの場所に留め置き、この私たち一人一人を最後の最後まで、神の民であらせつづけます。