みことば/2019,7,14(主日礼拝) № 223
◎礼拝説教 ルカ福音書 6:46-49 日本キリスト教会 上田教会
『土台なしで家を建てる?』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:46 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。48
それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。49
しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。 (ルカ福音書
6:46-49)
救い主イエスは語りかけつづけておられます。聖書の神さまを信じて生きる者たちが、どのように生きて死ぬことができるのか。隣人や職場の同僚や家族との、普段のいつもの付き合い方。毎日の暮らしをどう建てあげてゆくことができるのかという根本問題について。つまりは、神からの福音と律法の本質と生命についてです。まず46-47節。神に向かって、救い主イエスに向かって「主よ、主よ」と熱心に呼ばわっている。礼拝に出席し、祈っている。けれど、主の言うことを行わない。それはどういうことでしょう。主のもとに来て、主の言葉を聞いて行うとはどういうことでしょうか。神を信じる信仰によって、この私たちは、毎日毎日の暮らしを、どんなふうに生きることができるのでしょうか。48-49節、「それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。土台って、なんのことですか。土台があるとか無いとか。ええっ? 主イエスは、二種類の家を私たちの前に並べて見せます。よく見比べてみるようにと。一方は、土台なしに建ててしまった家です。もう一方は、しっかりした十分な土台と基礎の上に建て上げられた家です。これら二種類の家は、外見上はとてもよく似ていて、見分けがつきません。けれど雨が降り、洪水や津波や地震が押し寄せ、風が強くその家に打ちつけるとき、二つの家の違いは誰の目にもはっきりしてしまいます。しかも、私たちの地域にも間もなくはなはだしい雨が降りはじめ、あなたや私の家にも強い風がひどく打ちつけはじめます。
今日では様々な人々が救い主イエスの説教を聞いています。悔い改めて、神さまのもとへと立ち返るようにと促されます。主イエスとその福音を信じるように。清い暮らしを送るようにと。すると、ある人々はただ聴くだけで満足せずに、実際に、神さまへと腹の思いも普段のあり方も向け返し、実際に、主イエスとその福音を信じて暮らしはじめ、現実に具体的に悪い行いをすることを止め、善い働きをすることを習い覚えはじめます。その人々は、耳を傾けて聴く人々であるだけではなく、聴いたことを実際に行い、そのように暮らしはじめる人々だったのです。この人々こそが、うっかりと土台なしに家を建ててしまう者ではなく、しっかりした十分な土台と基礎の上に自分の家を建て上げてゆく、とても幸いな人々です。なんということでしょう。
私たちのほとんどは大工さんではなく、建築の専門家でもありません。けれど、それぞれに家を建てています。小さな子供たちも中学生や高校生たちも、悪戦苦闘しながら懸命に自分自身の家を建てており、おじいさんおばあさんになってもなお家を建てつづけています。建物のことではなく、その中身です。例えば、一個のキリスト教会が家です。一つの家族も家です。キリスト者の一つの生涯も、建て上げられてきた一軒の家に似ています。私たちは一つの家族を築き上げ、建てあげていきます。一軒の家を建てあげてゆくように、毎日の生活を生きてゆきます。私たちそれぞれのごく短い生涯も、それぞれ一軒の家を建てあげてゆくことに似ていますね。私たちの手に委ねられている一つ一つの働きも、家を建てることに似ています。そっくりです。さあ私たちは、この私自身は、どんなふうに築きあげてゆきましょうか。屋根をどんな形にしようか。壁を何色にしようか。間取りや玄関周りをどうしようか。どんな家具を揃えようか。――いいえ。それよりも何よりも、なにしろ家を建てるための土台こそが肝心要だ、と主イエスはおっしゃるのです。地面を深く深く掘り下げ、大きな岩の上に土台をガッチリと据えて、そこに、あなたの家を建てあげてゆくならば。そうであるなら、大洪水になって川の水が押し寄せてくるときにも、激しい雨や嵐にも、あなたのその大切な家は少しも揺り動かされず、ビクともしない。私たちの人生が平穏であるとき、家の土台がどうなっているか、耐震強度がどのくらいかなど誰も気にも留めません。何の問題もないように思えます。この上田教会も。それぞれの職場や家庭生活も。夫婦や親子の関係も。子供たちを養い育てることも。先々のための私たちの蓄えも。けれど不意に突風が吹き荒れます。川の土手があまりにたやすく崩れ落ち、濁流が荒々しく押し寄せます。私たちの日々が脅かされるとき、その時に、苦労して建てあげてきた大切な家の土台が何だったのかが問われます。
49節。砂の上に家を建てた愚かな人。倒れ方がひどかったそのあまりに脆い家。でも、なぜ、彼らは《土台なし》に家を建ててしまったのでしょう? 驚くべきことに、やがていつか川の水があふれて押し寄せるというだけでなく、神の民とされたイスラエルは、わざわざ自分から進んで大水の中に入って行かされました。まず葦の海の中へ。次には、ヨルダン川の中へと(出エジプト記14:1-31,ヨシュア記3:1-)。奴隷にされていたエジプトの国から導き出され、ヨルダン川を渡って、ついに約束の土地に辿り着いたとき、川床から取った12個の石が積み上げられました。その12個の石は、信仰教育のための教材とされました。その石を見て、子供たちが、父さん母さんに質問するのです。「どこの河原にでもあるようなこんな普通の石に、どんな意味があるの。どうして、ここにわざわざ置いてあるの」と。そのとき子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いた所を渡ったと、あなたは話して聞かせなさい。「いいかい、○○ちゃん、よく聞いてね。あなたたちの神、主は、あなたたちが大きな深い川を渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、私たちが葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じだったんだよ。それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、主の御手の力強いことをあなたも知るためであり、また、あなたたちがいつもいつでも、あなたたちの神、主を敬うためだったんだよ」(ヨシュア記4:23-参照)と。あのとき何が起こったのかを、覚えておきましょう。ヨルダン川を渡ろうとして、キャンプ地をみんなで後にしたとき、神さまとの契約の石の板を入れた箱を祭司たちが担ぎました。そして、皆の先頭に立ちました。ちょうど春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤防を越え出てきそうなくらいに、いっぱいになっていました。箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる泥水は、はるか遠くのザレタンの隣町で壁のように立ったのです。それは、ちょうど葦の海を渡った40年前とそっくり同じでした。すべてのイスラエルが干上がって乾いた地をわたって行く間、主の契約の箱を担いだ祭司たちはヨルダン川の真ん中の干上がって乾いた川床に立っていました。人々が渡ったのも、契約の箱を担ぐ祭司たちが立っていたところも、ドロドロのぬかるみではなく、乾いて干上がった川床でした。大慌てで走ってではなく、歩いて渡ったのです。ここが大事。だって、そうでなければ、体の丈夫な、泳ぎの達者な何人かしか渡れなかったでしょう。けれどイスラエルの人々の中には、杖をついて手押し車を押してゆっくりゆっくり歩くおばあさんたちがいました。膝や足腰がギシギシ痛むおじいさんたちがいました。つい先ごろ危ない手術をしてやっと退院してきたばかりのおじさんもいたし、風邪をひいている人もいたし、お腹の大きなお母さんもいたし、小さな子供たちや赤ちゃんもいたのですから。すべてのイスラエルとは、そういうことです。
防災・避難用具の袋の中に、懐中電灯やラジオやペットボトルの水や乾パンなどと一緒に、このギルガルの12個の石が入っています。各家庭に一個ずつ。そう、私たちの手元にあるのは、ヨルダン川の干上がって乾いた川床で拾ったギルガルの石です。一人一冊ずつの聖書も、ギルガルの石。それぞれ心に刻んできた聖書の一節も、大切に口ずさんできた大切な讃美歌も、一回一回の礼拝も祈りも、あのパンと杯も、その一つ一つはヨルダン川の真ん中で干上がった乾いた川床から持ち帰ってきたとても大切な石です。厳しく辛い出来事が私たちを襲い、心淋しく惨めな思いを噛みしめる日々に、その石を見つめて私たちは問いかけます。その石自身が私たちに答えます。「川の流れはせき止められた。イスラエルはヨルダン川を乾いた地にされて渡った。紅海を乾し涸らして渡らせていたときと同じだった。あなたの足の裏は、乾いた土地を踏みしめて立っていた。あの時だけでなく、川の流れは何度も何度もせき止められ、私たちは大水の底の、けれども乾いて干上がった所を渡りつづける。今もそうだ。それは私たちが主の慈しみの御手が力強いことを知るためであり、いつでもどこでもどんな辛さと悩みの只中にあっても、そこでこそ私たちの神、主を敬うためである」と。
実は、どこもかしこも、ひどく危うい川べりの砂地に建った家でした。けれども、類稀な、他のどこにもいないお独りの建築家がいたのです。倦むことなく、黙々と、その建築家は土台を据えつづけます。しかも最良の揺るぎない土台と建築材料を惜しげもなく注ぎ込んで。長い歳月が流れました。その、ただお独りのとても良い建築家は、今も土台を据えつづけます。むしろ救い主イエスは、「どんな家か。土地は岩場か、砂地か」などと家や地質を選ぶことをなさいませんでした。どこにでも、そしてどんなに傾きかけた危うい家にも土台を据えつけようとされ、どの家の下にも堅い磐石な岩を据えつけようとされました。そのお独りの建築家には願いがあったからです。どの家も確固として建てあげたい。あなたのその大切な家もぜひ、と。家を建ててくださるのは、主ご自身です(詩127:1)。家の土台を据えつけてくださるのも、主です。「私が建てる。あなたのためにも、この私こそが格別な土台を据えつける」と、主がおっしゃいます。断固として、そのように約束してくださいました。だからこそ家を建てあげようとする私たちの労苦は、むなしくはない。決して、むなしくはない。「主のもとに来て、主の言葉を聞いて行う」。それは、主の言葉を聞いて、聞いたことを信じて、信じたとおりに毎日毎日を生きることです。もし、聞き届けてきた主の言葉とは違う別のやり方で、自分の肉の思いのままに選び取り、判断し、習い覚えてきた主の言葉とは別に、もし腹の思いのままに行なってきたとするならば、その毎日毎日の暮らしや生き方、わたしたちのその家には土台がなかったことになります。強い風が吹きつけると、ごく簡単に倒れてしまいます。しかもその倒れ方ははなはだしく被害甚大である。それでは困ります。どのように家を建て上げてゆくのか。この私たちは、どのように毎日毎日を生きてゆくのか。つまりは主への信頼と忠実、聞き従って生きること。なアんだ、そんなことか。それなら、私たちにだってできます。しかも、そのように毎日毎日を生きてきたはずの私たちではありませんか。困難は突風のように吹きつけ、泥水のように押し寄せます。私たちを取り囲み、押し倒そうと迫ってきます。台風が近づいています。いいえ、もう暴風雨圏内に巻き込まれています。それなら私たちは、今こそ呼ばわりましょう。「どうぞ、私を助けてください。私の家が今にも倒れてしまいそうです」と。「主よ主よ。私たちの願いどおりではなく、ただただ天の御父の御心にかなうことを成し遂げてください」と。拠って立つべき根源の土台に、今こそ、あなたはしがみつきなさい。見栄も恥も外聞もかなぐり捨てて。主にゆるされ、主のあわれみを受け、主に助けられる場所へと、あなたは大慌てで駆け戻って、そこに身を置きなさい。いつでも、どこからでも駆け戻って、そこに身を据え置きなさい。
深い大水の底にいたはずなのに、けれど不思議なことに、その場所は干上がって乾いています。泥水が押し寄せようとして、けれど川の水はせき止められています。干上がって乾いた川床に、あなたは足を踏みしめています。なんということでしょう。なにしろイエスを主とするあなたであるからです。神の民イスラエルの子供たちよ。主の呼び声が聞こえ、私たちはついにとうとう、まるで初めてのようにして、聞き届けるでしょう;「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である』」(イザヤ43:1-3)。