みことば/2019,7,21(主日礼拝) № 224
◎礼拝説教 ルカ福音書 7:1-10 日本キリスト教会 上田教会
『隊長と一人の兵隊』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
7:1 イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。2 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。3
この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。4 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。5
わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。7
それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。9
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。10
使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。 (ルカ福音書
6:22-23)
ローマ帝国軍隊で100人の兵隊を指揮する隊長からの使いが主イエスのもとにやってきます。この隊長からの願いを聞いて、主イエスはその手下の一人の兵隊の病気を治してあげました。そのとき、9節、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と主イエスは仰いました。これほどの信仰。ですから、何がこれほどなのか、どういうところが百卒長の信仰のとても良いところなのかと目を凝らしましょう。6節後半から8節です。「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。彼の部下である一人のしもべが病気にかかって死にかけていました。彼はユダヤ人の長老たちを使者として主イエスのもとへ遣わして、自分のしもべを助けてくださるようにと願いを伝えさせました。彼の家に主イエスが来る途中で、「わざわざ家にまで来てくださらなくても大丈夫。ただお言葉をください。そうすればしもべは治りますから」と使いの者に伝言させる。自分の家やその屋根の下に入れることを遠慮して、謙遜することが良いわけではありません。例えばシモン・ペテロは主イエスを家に入れて、寝込んでいたしゅうとめの熱を癒していただきました。また、そのためにわざわざ主は来てくださいました。死にかけていた娘をもつ会堂長もそうです。マルタ、マリア、ラザロの3姉弟も家に主イエスと弟子たちを招き、喜んでもてなしました(ルカ福音書4:36-,同10:38-42)。家に招いても良いし、招かなくても良い。そんなことではなく、大事なポイントは、主イエスからの言葉をいただくだけで彼の部下は必ずきっと病いを治していただけると、彼は信じ、確信していた。この一点です。あの彼は救い主イエスに強く深く信頼しており、それが「これほどの信仰」と主イエスがとても喜んだ彼の信仰の中身です。
こういう箇所を読んで私たちは戸惑います。この隊長と、彼を信頼し一途に従う部下の姿があまりに現実離れしているように見えるからです。まさか主は、この私たちに「あの隊長と部下の在り方」を手本とせよとお命じになるのでしょうか。あるいは、「この確信や信頼とこの従順がなければ、クリスチャン失格だ」などと? もし、そのように命じられ、そのように要求されるならば、私たちは失格とされ見放される他ないように思えます。神さまへのそんな確信も信頼も従順も、こんな私たちなんかにはカケラもないと言いたくなります。その一方で、しかし、私たちはこの隊長と部下の姿にどこか見覚えがあるようにも思えます。また彼の部下は、ともに死の陰の谷を渡り歩くような崖っぷちの日々を何度も何度もくぐり抜けてきた長年の深い付き合いの中で、この一人の隊長によくよく信頼して従うことを習い覚え、体で覚え込んでもいます。全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ、と深く頷くことを積み重ねてきました。だからこそ、たとえ瀕死の重傷を負っていても、足腰立たなくて気を失いそうになっているとしてもなお、その彼がこの私に「行け」と命じるなら、私は行く。その彼が「来い」と命じるなら、それなら私はたとえ這ってでも、棺桶から這い出してでも来る。生き死にを共にしてきた戦いの日々に、あの隊長がどういう隊長なのかをあの一人の部下はよくよく知ったのです。『権威があるもの』、それは『主である』ということです。最後の最後まで責任を負う者という意味です。その『権威のもとに置かれている私だ』ということは、その真実と慈しみのもとに据え置かれつづけてきたということです。あの一人の隊長はたしかに私にとっての最善最良を知り、願い、それを備え、最後の最後まで全責任を担い通してくださる。「本当に。たしかにそうだった」と。
こういう隊長と部下たちが、はたして、この地上に現実にいるかどうか。それはどうでもいいことです。むしろ本当には、私たち人間同士のことではないからです。そんなことよりも、そういうただお独りの隊長と、この私たち自身は、ともに死地をくぐり抜け長く深く付き合ってきた。その中で、このただお独りの隊長によくよく信頼して従うことを習い覚えてきた。全幅の信頼を寄せるに足る相手である。ひたすらに聴き従うに価する相手である、本当にそうだ、と深く頷くことを積み重ねてきたということです。こうして隊長と部下は、『主イエス』と『主イエスに従って生きる私たち』との本来の姿を指し示します。もちろん、そうした信頼関係は一朝一夕(いっちょういっせき=わずかの日時)には形造られません。例えば詩23篇のあの羊たちも、はじめから「主は私の羊飼い」と喜びと信頼にあふれたわけではありませんでした。むしろ、とても良いただお独りの羊飼いを片隅へ片隅へと押しのけ、その呼び声に耳を塞ぎ、すっかり忘れ果てて、そのために何度も何度も迷子になりました。むしろ自分自身の弱さと愚かさにばかり心を奪われ、自分の危うさと貧しさだけがこの迂闊な羊の心を暗くウツウツとさせつづけたでしょう。羊飼いとはぐれてしまった羊のように、飼う者のない迷子の羊のように。「なぜ、私は熊やライオンのようではないのか。するどい牙も角も強い腕も、速い足も、よく聞こえる耳もない。私は一匹の無力で無防備な羊にすぎず、そのうえうまい水も草も見当たらない。乏しい乏しい、乏しいことばかりだ。恐ろしい恐ろしい、恐ろしい。恐怖と不安と心細さの連続だ」と。ぶつぶつと不平不満をつぶやいてばかりいたその同じ羊が、同じ弱さと心細さの只中で、ある日、喜びを噛みしめています。たまたま上等のうまい水と草場にありついて、そこで、というのではありません。たまたま狼や熊やライオンや羊ドロボウから逃げおおせて、そこで、というのでもありません。「私は一匹の羊にすぎない。それ以上でもそれ以下でもなく、どこにでもいるただのごく普通の羊」と気づきました。「けれどなにしろ! とても良いただお独りの羊飼いがこんな私のためにさえ、確かにいてくださる。だから心強い。だから乏しいことはないし、どんな災いが襲ってきても、ち~っとも恐れない」と思い出したのです。
2節、「頼みにしていたしもべが病気になったので」。誤解しやすいところです。「格別に役に立つ、信頼できる、梅雨実で優秀な部下だから」ということではありません。この優秀な部下だけを特別扱いして、ひいきにしてということでもない。同じように、4-5節でユダヤ教の長老たちがこの隊長のために頼みに来たとき、「この人はそうしていただく値打ちがあります。私たちユダヤ人を愛し、いろいろ親切にしてくださり立派な会堂も建ててくださったから」と。その長老たちはそう考えました。けれど、もちろん救い主イエスの判断は彼らのモノの考え方とまったく違います。値打ちや資格がなる無しに関係なく、あの彼と部下とをただ憐れんでくださった。私たちも、救い主から同じように憐れんでいただきました。値打ちや資格やふさわしさとは何の関係もなしに。だから、この救いは「ただ恵み、ただ憐みの救いであり恵み」なのです。ここが分からないと、救いも祝福もすっかり分からなくなります。
あの隊長は、(ローマ軍のではなくて、地上のどの軍隊のでもなくて、天の万軍の最高司令官であるただお独りの隊長は)実は、どの一人の部下も重んじる方です。良い羊飼いがどの一匹の羊をも大切に慈しんだように。あるとき、一人の部下は思い出しました。「そう言えば私も、あの隊長からとても重んじられつづけている。隊長の命令によく従うからではなく、よく気がつく働き者だからでもなく、むしろ、たびたび反抗した、あまりに不従順で身勝手で、怠け者で頑固な部下だったのに。健康で元気ハツラツとしているときにも、重い病気にかかって死にかけたときにも、あの隊長は私を」と。もう一つのこと。隊長と部下が『主イエス』と『主に従う私たち』の在り方を指し示しているとして、その福音の第一の光は、主イエスに従う者同士である私たちの互いの在り方をも照らし出します。生身の人間にすぎない私たちクリスチャンが、ただ養われ世話されるばかりの羊であるだけではなくて、それぞれ互いに羊飼いの役割をも委ねられているからです。大きな大きな良い羊飼いであるイエス・キリストから、あのペトロと共に、「私を愛するか、愛するか、愛するか。私の小羊の世話をしなさい、羊の面倒をみて養いなさい。そのようにして私に従いなさい」(ヨハネ福音書21:15-17参照)と命令されているからです。良い羊飼いが私たちのためにもおられ、そのただお独りの羊飼いのもとに戻ってきた私たちですし、天に主人がおられるからです(ヨハネ福音書10:11-18,ペテロ手紙(1)2:25,コロサイ手紙4:1)。
奇妙なことに、ある一人のクリスチャンは洗礼を受けた後でも、ずっと長い間なんだかピンと来ませんでした。「イエスは主なり」と口先では唱えても首を傾げるばかりで、本当のことのようには思えませんでした。「御心のままに。御心のままに」と口癖のように言い続けながら、それと裏腹に、自分のその時々の気分や腹の虫に命じられるままに奴隷のように生きていました。人々の顔色をうかがい、周囲の人々の言いなりに聞き従っていました。ですから度々くりかえして心をかたくなにし、臆病になったり体裁ばかりを取り繕ったり、狡賢く振る舞いつづけました。ですから、いつまでたっても心細いままでした。「汚れた霊たちや湖の風や波までも主イエスに聞き従った。外国人の百人隊長もそうだった」と聞いても、なんだか他人事のようであり、どこか遠くのお話でありつづけました。主イエスとこの自分自身のことが語られている、などと思いもよりませんでした。この自分に対しても、主イエスという方がすべて一切の権威を握っておられることも、「よい羊飼いは羊のために命を捨てる。命を捨てる」(ヨハネ福音書10:11,15)とおっしゃっていたことも、この自分がその一匹の羊であり、その一人の部下であることも少しも気づきませんでした。――けれどあるとき、その時々の気分や腹の虫がウズウズしても言いなりにさせられなくなりました。人々の言いなりにもされなくなりました。「神に聞き従うよりも自分や他の誰彼に聞き従うほうが正しいかどうか、神の御前に判断してもらいたい。私はとっくに、よくよく判断してしまった」(使徒4:19-20参照)と涼し~い顔をしはじめました。いつの間にかその人もまた、主イエスの権威の下に深々と膝を屈めさせられたからです。身を起こさせられ、立ち上がらせられつづけるうちに、主イエスの権威の下に朝も昼も晩も生きることを、ついにとうとう習い覚えさせられたからです。そこはようやく、晴れ晴れとした自由な場所でした。主イエスが洗礼を受けたときと、山の上で姿が変わったときと2回、同じことが繰り返されました。主イエスを名指しして、主イエスがどんなおかたであるのかをはっきりと告げ知らせて、天の御父の声が聞こえたことです。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者である」。そして、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」(ルカ福音書3:22,同9:35)。イエスにこそ聴けと命じられ、「はい。分かりました。いつもそのようにいたします」と私たちは答えたのです。それが、私たちがクリスチャンであることの意味であり、中身です。弟子たちが復活の主イエスによって世界宣教へと送り出されたとき、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ福音書28:18-20)。天においても地においてもいっさいの権威を授けられたかたからの御命令です。主イエスから命じられているいっさいのことを守るように教える。どうやって互いに教え合うことができるでしょう。なによりまず、この自分自身こそが、そのように生きはじめることによってです。私たちは、他のどんな権威や支配のもとでもなく、ただただ主なる神さまの真実と慈しみの只中に置かれ、主イエスの権威のもとにだけ据え置かれている。だから、その分だけ自由です。それが私たちのための神さまからの約束です。一番下っ端の下っ端の下っ端の、ただの一兵卒にすぎない私たちの力と安らかさの源でありつづける。ああ、そうだったのかと。そうであるなら、やがて「あなたは行きなさい」と命じられるときに、私たちは安らかにここを立ち去ってゆこう。「来なさい」と命じられるときに、どこへでもいつでも、私の準備ができていようがいまいが、気が進もうが進むまいが、虫が好こうが好くまいが、そんなこととは何の関係もなしに! 「はい分かりました」と出かけていこう。それまでは、ここに留まろう。「しなさい」と命じられることをし、「してはならない」と禁じられることをしないでおこう。この私自身こそは。天に主人がおられますことを、その主人の権威の下に据え置かれてることを、この私たち自身もよく分からせていただいたのだから。
主イエスを信じた私たちは、あの百卒長と同じく、あの忠実な一人の部下と同じく、ただお独りの主人であられる救い主イエスのもとから、この世界へと、いつもの生活の現場へと送り出されつづけます。