2022年7月5日火曜日

7/3こども説教「自分を捨ててくださった救い主イエス」ピリピ2:6-11

7/3 こども説教 ピリピ手紙 2:6-11

『自分を捨ててくださった救い主イエス』

 

2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。   (ピリピ手紙 2:6-11)

 

 

 【こども説教】

 神であられる救い主イエスにとって、何が一番たいせつであるかはとてもはっきりしていました。罪人である私たち人間と、神によって造られたこの世界と、すべての生き物たちを罪と惨めさから救い出すこと。神の憐れみのもとに元どおりの平和と幸いの中に回復させること。それが最も大切な、どうしても成し遂げるべきことです。その最も大切なことのためには、その他すべて全部はどうでもいいことに成り下がりました。神が神であることの偉さや立派さ、力強さ、素晴らしくあることも、皆からほめたたえられることもすべて一切がどうでもいいことになり、自分のいのちもどうでもいいことになり、ポイと投げ捨てて、身を屈め、低く下り、十字架の上で罪人として惨めな死を耐え忍んで、父なる神の憐れみの心に従いとおしてくださいました。それらすべては、罪人である私たち人間と、神によって造られたこの世界と、すべての生き物たちを罪と惨めさから救い出すこと。神の憐れみのもとに元どおりの平和と幸いの中に回復させるためにどうしても必要なことだったのです。それだけを選び取ってくださいました。こんな私のためにさえ。この最も大切なことが分からなくなってしまった時、私たちも、あのピリピ教会の人々のように「自分は自分は」と言い立てて、つまらない自分にしがみつきつづけ、自分の心をすっかり鈍くされて、どこまでも虚しく争いつづけます。 

6-8節、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。ああ、そうだった。すっかり忘れていた。私も、すっかり分からなくなっていた。憐れみ深い神の御心をようやく思い起こして、1人また1人とへりくだって膝を屈め、「イエス・キリストは主。私たちはしもべにすぎない」と思い直す者たちが起こされていきます。

 

 

 【大人のための留意点】

 どうして、わたしたちは、そんなに自分を低く小さくしなくてはいけないのでしょうか。ここに書いてあるように、それこそが本当の神さまのみ姿だからです。……わたしたちは、ベツレヘムの馬小屋で人となられ、取税人・罪人・病人など苦しんでいる人といつもいっしょにいらしたイエスさま、十字架の上で全人類の苦しみを負われたイエスさま以外に、どこかほかに、神さまの姿を見つけ出そうとしてはいけません。そんなことをすると、わたしたちは、勝手に自分の頭で神さまをこしらえてしまいます。このように神さまご自身が、謙遜なお姿でわたしたちにご自分を示そうとなさったのですから、わたしたちも、自分のことばかりでなく、ひとのことも考え、ほかの人を自分よりもすぐれた者とし、どんな人も大切にしてゆかねばなりません。イエスさまがこの世に勝ったのは、ご自分を捨てることによって、その最後まで人々を愛しぬかれる愛によって勝利したのです。それゆえ、わたしたちは、心から「イエス・キリストは主である」と告白するのです。そして、これが礼拝の意味です(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。

 

2022年6月27日月曜日

6/26「御子イエスによる救い」へブル2:1-4

            みことば/2022,6,26(主日礼拝) № 377

◎礼拝説教 ヘブル手紙 2:1-4                   日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスによる救い』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)

2:1 こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。2 というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、3 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、4 さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。 (ヘブル手紙 2:1-4)


1節、「こういうわけだから」と、まず最初に語り継いでいます。先に進むためには、後ろを振り返って、これまで語られてきたことを思い起こす必要があります。何が語られてきたのか。「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」(1:2)と、最初に告げられました。語りかける神であり、語りかけずにはおられない神です。最初に神は「光あれ」と語りかけることによって、世界を造りはじめた(創世記1:1)。その語りかけの言葉には他に並ぶ者もない絶大で圧倒的な力があり、またご自身の御心と願いが込められていました。「けれど今、この終りのときには」と区切りを引いて、神の語りかけが大きく変化しました。神は、この終りの時には、御子イエスによって、わたしたちに語られた。驚くべきことです。すでにもう2000年も前から、神の独り子である救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、神でありながら人間の生身の体をもって生きて、神の国の福音を宣べ伝えはじめた。十字架にかかって殺され、葬られ、死人のなかからよみがえり、天に昇って御父の右の座にすわって、御父から全権をゆだねられた王としてこの世界を治め始めた。だからすでに『終りのとき』が始まって、着々と神の国がこの地上に、私たちの只中に建設されつづける。『終りのとき』とは、ひとたび罪に落ちてしまった世界と、神によって造られたすべての被造物が神の祝福のもとに回復されるときです。それは、この私たちを含めたすべての被造物に対する神の審判のときでもあります。

「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。神の独り子である救い主イエス・キリストによって天と地とその中にあるすべてが造られた。その同じ救い主イエスこそが世界全体の富と財産の相続者とされている。その救い主イエスがわたしたちに語りかけつづける。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。救い主イエスがすべて一切をその手に握っておられます。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられた。だからこの私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかないのだと。御子イエス・キリストは神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。『神の似姿』についての、聖書全体からの最終的な説き明かしがこれです。創世記3章の堕落によって、神の似姿がすっかりまったく失われてしまった。それは、救い主イエスによって、またイエスを信じる信仰によって私たちのうちに回復され、私たちは、キリストと似た者とされてゆきます。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(コロサイ手紙 3:9-11,ローマ手紙 8:29)。

「御子は、……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。キリストの御言葉、神の御言葉に十分な信頼が寄せられなければなりません。それが神を信じて生きるための不可欠な土台となります。しっかりした岩の上に家を建てたか、あるいは、ただ虚しいだけの砂の上だったかが問われます。数多くの預言者たちが、神のもとから遣わされ、神の言葉を神から預かって語りつづけました。イエスご自身も、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イザヤ書55:8-11,ヨハネ福音書 5:39-40)。厳しい口調で叱られているようにも聞こえます。けれどその本意は、確かに聖書の中に永遠の命があり、それは父なる神と救い主イエスを知り、信じて生きることだ。命を得るために主イエスのところへ行こうとして、イエスから命を受け取ろうとして聖書を調べ、読み、耳を傾けなさい。そうすれば、あなたも命を受け取ることができると。

さて、「御子は、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた」。父なる神の右に座り、と使徒信条も告白します。ここは、間違って覚えてはいけません。父なる神の右とは、父の単なる補佐役とか、助言者、アシスタントなどという役割ではありません。御父から天と地のすべての権威を授けられた、世界の王として統治し、治めつづける『王の職務』です。救い主イエスこそが私たちの罪をあがない、清める御業を成し終え、すべての権威を授けられ、世界の王として統治しつづける『王の職務』を担いつづけます。いつまでなのか。最後の最後に、すべての権威と権力とを打ち滅ぼしてしまうときまで。1コリント手紙15:24-26です、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

 

◇                ◇

 

 さて1節、「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう」。聞かされつづけ、習い覚えてきた神の言葉をいっそう強く自分自身の魂に刻み込み、はっきりと思い起こしつづけましょう。そうでないと、おし流されてしまう。どこへ。滅びへと至る、虚しい暗闇の彼方へ。罪と悲惨の只中へと。けれど憐み深い神なら、そんな私たちを罪と悲惨の只中から救い出すことができます。だから、この私たち自身こそは聞かされつづけ、習い覚えてきた神の言葉をいっそう強く自分自身の魂に刻み込み、はっきりと思い起こしつづけなければなりません。救い主イエスによって知らされ、差し出された神の憐れみのもとに留まり、そこに据え置かれて生きるために。やがて、神の永遠の御国に辿り着かせていただくためにです。

2-4節、「というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」。御使たちをとおして語られた御言とは、神の律法です。他方、福音において宣言されている救いは、御使いではなく、御子イエス・キリストによってもたらされました。神の福音と、神の律法。それらは一組となって、神の憐れみのもとに私たち罪人が生きるための道案内の役割を果たします。かつて、神の律法に反逆して背く者たちに対して、厳しい裁きと懲らしめがなされました。では、神の福音とその救いを軽々しく扱う者たちに対しては、神は何をなさるのか。さらに恐ろしい処罰が与えられます。福音とその救いの言葉をはっきりと拒絶しなくても、そこから身を引いて、神の憐れみの福音から遠ざかる者たちは、そのことに対する処罰と報いを免れません。「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか」と問いかけられています。

「この救いは、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」。福音が宣言する偉大な救いは、救い主イエスによって語られました。もちろん救いは、世の初めから、前もって預言者たちが述べ伝えつづけました。その約束がついにとうとう成し遂げられる時が来たと通告されたのは、洗礼者ヨハネが牢獄に閉じ込められた後、主イエスご自身によってなされました。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と。また、ナザレの会堂でイザヤ書61章の御言葉を主イエスは読み、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(マルコ1:15,ルカ4:18-)と宣言しました。そして今日に至るまで、おびただしい数の伝道者たちははてしないバトン・リレーのようにして、伝えられた言葉をそのまま次のランナーに手渡しつづけ、受け取り、手渡し、受け取り、手渡しつづけています。これからも世の終わりまで、主に仕える働き人たちはバトン・リレーのようにして伝えられた言葉をそのまま次のランナーに手渡しつづけます。「もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(1コリント手紙15:2-5)。バトン・リレー走者たちが手渡しつづけるそれら一つ一つの神の言葉を、私たちは決して侮ってはなりません。その一つ一つの言葉によっていのちが差し出され、その言葉によって私たちは神の憐れみのもとに生きる者たちだからです。

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC)

6/26こども説教「キリストの思いを」ピリピ2:1-5

6/26 こども説教 ピリピ手紙 2:1-5

 『キリストの思いを』

 

2:1 そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、2 どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。4 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。(ピリピ手紙 2:1-5)

 

 

  【こども説教】

 とても大切な事柄が最初に並べられています。「キリストによる勧め。愛の励まし。御霊の交わり。神が私たちを激しく愛してくださっていること、神のあわれみ」。これらが、神による平和と恵みが私たちの中で実現していくための土台です。それが、「もし、いくらかでもあるなら」と、わざわざ語りかけられています。ほんの少しでもあるなら、神の平和と恵みは必ず実現していく。もし、なかなかそうならないとするなら、それはどうしたことでしょう。と、私たちは問いかけられています。自分の胸に手を当てて、よくよく考えてみなければなりません。

1人いれば1つの思い。2人いれば2つの思い。20人いれば、20個のそれぞれバラバラな思いがそこにあります。すると、その人たちが1つの思いや1つの心になるとすれば、自分の思いや、誰彼の思いなどではなく、それを投げ捨てて、ただただ救い主イエス・キリストの思いになるほかありません。3-5節、「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」。互に人を自分よりすぐれた者としなさい、と命じられます。誰か、優れているように思える何人かを、ではなく、互いに相手を自分よりも優れた者として扱いなさい。つまり、どこの誰に対しても、思い上がって、自惚れてはいけないと注意されています。私たち人間には、とても難しいことです。この難しいことを何とかして分かってもらうために、伝道者は、とうとう十字架について死んでいかれた救い主イエスのことを語りはじめます。キリスト教信仰の中身として最も大切なことが、いよいよ次の6節~11節までで説き明かされます。この救い主イエスを信じて、イエスに従って生きていこうとするなら、イエスと同じようになり、なんとしてでも十字架についたイエスの心と行いとを思い起こそうじゃないかと。そうでなければ、他にはどんな平和も憐みもあるはずがないと。

 

 

 【大人のための留意点】

 自分はこんなに多く愛しているのに、という傲慢な心があると失敗します。自分は、人より大きな愛をもっていると自惚れるほど危険なことはありません。それはあのパリサイ人みたいに、鼻もちならない自惚れになってしまうからです。自分が偉いと思ったら、もう愛はいつのまにやら、どこかへ行ってしまうか分かりません。ですからパウロは、「同じ愛を持ちなさい」と勧めます。愛している人は、とかく、自分のほうがよけいに愛している、いっぱい愛していると思うため、いばったり自惚れたりして、かえって愛の心にヒビが入ってしまいます。……「へりくだった心」には、さらにもっと「人を自分より優れたものと考える」ことが大切になってきます。また、「ただ自分のことばかりでなく、ほかの人のことも考えてみる」ことが、ほんとうの謙遜、へりくだった心なのです。イエスさまは、この世に来て、ただ小さくなっておられたのではなく、いつも神さまと隣り人に喜ばれるように、人のことを考え、そのため十字架におかかりになったのです(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。

 



2022年6月20日月曜日

6/19「救いを受け継ぐ」へブル1:5-14

          みことば/2022,6,19(主日礼拝) № 376

◎礼拝説教 ヘブル手紙 1:5-14             日本キリスト教会 上田教会

『救いを受け継ぐ』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)

1:5 いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。6 さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた。7 また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、8 御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。9 あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、10 さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。11 これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、12 それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」とも言われている。13 神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」と言われたことがあるか。14 御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。    (ヘブル手紙 1:5-14)


まず5-6節、「いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、「神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである」と言われた」。「あなた」と呼ばれている相手は、直接にはダビデ王であり、けれどダビデ王を遥かに越えて、やがて地上に遣わされる救い主イエス・キリストをこそあらかじめ言い表し、指し示していると世々の教会は受け止めてきました。神は神、生身の人間はどこまで行ってもただ人間に過ぎず、神と人間との間には深い隔たりがありつづけました。1つの決定的な出来事が起こるまでは。

神によって造られた被造物にすぎない人間は、神の御前に深く慎まねばなりません。生身の人間が神を父とし、その子供とされることなどありえないはずだったからです。神の御使いであれ、他の被造物であれ、神以外のものが拝まれ、礼拝の対象とされることなど決して許されないからです。拝まれ、礼拝の対象とされてよい対象は、ただただ神ご自身である他ありません。「神のほかに何ものをも神としてはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」(出エジプト記20:2-6)と、神ご自身から断固として命じられているからです。「彼を拝すべき。礼拝すべきである」と言われたからには、その「あなた」とは神ご自身である、神の独り子、救い主イエス・キリストである他ありません。「あなたこそは、わたしの子」とは、ただもっぱら神の独り子イエス・キリストについて言われたことであり、このような栄光は神の御使いにも、他どんな被造物にも与えられるはずがなかったのです。越えることのできないはずの隔たりを、けれども神の側から乗り越えて、人間に近づいてきてくださった。救い主イエスがまことの神でありながら、同時にまことに人間となってくださることによって。

1つの決定的な出来事がすでに起こった。だからこそ今では、神と私たち、神によって造られたものたち(=被造物。ひぞうぶつ)との間の深い隔たりは埋められ、神と私たち被造物との間に一本の道が開かれました。『救い主イエス』という名前の、一本の救いの道が。主イエスはおっしゃいました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(つまり、救い主イエスを通りさえすれば、誰でも父なる神の憐れみのみもとに辿り着くことができる)」(ヨハネ福音書14:6)。その大前提と根本認識のうえで、この独り子イエス・キリストを通してだけ、私たちは憐みを受け、神の子供たちとして迎え入れられました。神の御前にへりくだって、深く慎む。しかも同時に、その同じ神を今では恐れも疑いもなく十分に信頼し、愛し、遠慮なく親しむことさえできるのです。ごく親しい友だち同士として。ただ救い主イエスによって(ヨハネ福音書15:14-17「わたしの友である。友と呼んだ」,讃美歌312番「慈しみ深き友なるイエスは」,ローマ手紙8:14-16,ガラテヤ手紙4:6)。

5-6節、「いったい、神は御使たちのだれに対して、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言い、さらにまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう」と言われたことがあるか。さらにまた、神は、その長子を世界に導き入れるに当って、『神の御使たちはことごとく、彼を拝すべきである』と言われた」。この世界全体に対する救い主イエスのご支配であり、その支配は全世界に及び、ユダヤ人にも異邦人にも、神によって造られたすべての被造物にも救いとなるのでなければ、もしそうでなければ、王としてのキリストの支配はどんな祝福の源ともなりません。救い主イエスがこの世界に降りて来られ、死と復活の救いの御業を成し遂げてくださったのは、「神は彼(=救い主エス)を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ手紙2:6-11)。

7-14節、「また、御使たちについては、「神は、御使たちを風とし、ご自分に仕える者たちを炎とされる」と言われているが、御子については、「神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである。あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、それらをあなたは、外套のように巻かれる。これらのものは、衣のように変るが、あなたは、いつも変ることがなく、あなたのよわいは、尽きることがない」とも言われている。神は、御使たちのだれに対して、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは、わたしの右に座していなさい」と言われたことがあるか。御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか」。救い主イエスについて、彼が、(1)「初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである」ところの創造主であると告げられ、また、(2)この彼が王として世界を支配しつづけることが告げられました。だからこそ、この救い主イエスこそがあがめられ、礼拝され、全幅の信頼を寄せられ、その言葉こそが聴き従うに価します。

父なる神が世界の創造者と呼ばれるように、同時にまた、救い主イエスもまた世界の創造主であること。これは、この手紙の冒頭ですでに語られたことです。「御子によって、もろもろの世界を造られた」(1:2)と。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられたのだから、この私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかない。聖書は、神の御霊によって導かれる私たちは神の子供たちであり、しかも神の相続人でもあると証言します。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ手紙 8:13-17)。救い主イエスが私たちを受け入れてくださるとき、彼と共に、彼によって私たちを富ませ、支えようという御心です。つまり、キリストを差し置いて、キリストの御心を抜きにしては、私たちはどんな財産も富も幸いももつことができないことを私たちがよくよく知り、肝に銘じることができるようにと。このように救い主イエスを信じる信仰であり、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とキリストが御父に信頼し従ったように、私たちもまた同じく、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とイエスからの言葉と御心にこそ聞き従いつづける信仰です。そこにだけ、私たちのための希望と祝福がありつづけます。

この救い主イエスが、唯一無二の、王の中の王として世界を支配しつづけること。「すべての事は父からわたしに任せられている」、また「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに」(マタイ11:27,同28:18-19)とイエス自身がおっしゃったのです。さらに、「あなたの敵を、あなたの足台とするときまでは」と御子イエスは御父から、天と地のいっさいの権威を授けられた王として働き続けます。さて、その期間は、いつまでなのか。1コリント手紙15:24-25にはっきりと告げられています。「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」と。王である救い主イエス・キリストは、その支配と働きに挑戦しようとする敵対者たちと立ち向かいつづけます。必ず勝利する戦いであり、やがてついにあらゆる敵を足もとに置き、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、御国を父なる神に渡されると約束されています。それでもなおキリストの支配は安らかに平穏であることはなく、それを脅かす敵対者たちがありつづける。世界の終わりの日まで、キリストの支配と御自身の闘いはつづきます。

だからこそ、救い主イエスに従って生きようとする者たちは励まされつづけます。罪の誘惑が私たちを誘いつづけるからです。腹の思いと、自分自身の肉の欲望が、私たちの心を鈍くさせ、惑わそうとし、神の御心に背かせようとしつづけるからです。この自分自身が救いからこぼれ落ちてしまわないように、気をしっかり持って、堅く立っていなけれなならないからです。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と。「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と。神の武具。それは、救い主イエスによって神の憐れみを知り、イエスによって神に必要なだけ十分に信頼を寄せ、その御心と御意志に聞き従いつづけて生きることです。ですから私たちは日毎に悔い改め、日毎に神に助けを願い求めて暮らしていきます。「わたしたちを誘惑に合わせず、悪から救い出してくださいと祈りなさい」と。こう証言されています、「感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」(ルカ22:46,同11:4,エペソ6:10,1コリント15:57-58)と。願い求めましょう。

 

【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC)

6/19こども説教「救いのしるし」ピリピ1:27-30

6/19 こども説教 ピリピ手紙 1:27-30

  『救いのしるし』

 

1:27 ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、28 かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである。29 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。30 あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。  (ピリピ手紙 1:27-30)

 

 

  【こども説教】

 28節、「かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。このことは、彼らには滅びのしるし、あなたがたには救のしるしであって、それは神から来るのである」。彼らも私たちも、いろいろな人たちに囲まれて暮らしている。喜んで、あなたを助けたり励ましたりしてくれる人もいるし、あなたを嫌って邪魔をしてくる人たちもいるでしょう。もし、誰かに嫌われて邪魔されても、嫌なことをされても、励ましたり助けたりしてくれる人もいて、あなたが安心して立っていられるなら、それは、神さまがあなたを助けてくれていることの目に見えるしるしです。神さまが、あなたのためにも生きて働いていてくださり、神さまがあなたの味方であるしるしです。

 そして29節、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」。救い主イエスを信じて、嬉しい良いことばかりじゃなく、苦しくてとても嫌なことも神さまから与えられます。喜んで、辛抱することができます。なぜかというと、神さまは私たちを苦しむままに捨て置かないからです。神さまが、ちゃんと味方であってくださるからです。

 

 

 

 

 

 【大人のための留意点】

 私たちの願いや見込みが破れた時でも、決して、神さまの願いや計画が破れたわけではありません。パウロはピリピの人たちがガッカリしてしまわないように、励ましているのです、「わたしのことは、神さまが一番良い道を備えてくださいます、ですから、牢屋の中にいるこのわたしの身にどんなことが起こっても、ただ、あの死人の中からよみがえったイエスさまを信頼してゆきなさい」と。そのようにイエスさまを信頼しているなら、わたしが生きのびて、あなたがたに会えるにしても、また、不幸にしてそういうことができないとしても、問題ではありません。自分たちの生活が、福音にふさわしいかどうか、イエスさまがお喜びになるように生きているかどうか、そのことを考えなさい。イエスさまがお喜びになるように心がけているなら、恐れることはありません。恐がることはありません。少しも慌てることはありません(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。

 

 

2022年6月14日火曜日

6/12「御子イエスによって」へブル1:1-4

           みことば/2022,6,12(主日礼拝) № 375

◎礼拝説教 ヘブル手紙 1:1-4                  日本キリスト教会 上田教会

『御子イエスによって』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)

1:1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。4 御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた。(ヘブル手紙 1:1-4)

 

15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。    (1コリント手紙 15:24-26)

 ヘブル人への手紙を、少しずつ読み味わっていきます。

 まず1-2節、「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたがこの終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。語りかける神であり、語りかけずにはおられない神です。最初に神は「光あれ」と語りかけることによって、世界を造りはじめました。その語りかけの言葉には他に並ぶ者もない絶大で圧倒的な力があり、またご自身の御心と願いが込められていました。「光あれ。水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ。天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ。地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ。天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。さらに神は言葉によって命じて、水の生き物と、空の鳥と、地の生き物たちと人間を造り、種のある実を結ぶすべての木と青草を造りました。世界創造の6日目に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」と報告されています。これが出発点です。「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られた」。いろいろな時に、いろいろな方法でとは、例えば夢や幻を用いて、あるいは火の柱や空を流れる雲をさえ用いて、神の民をエジプトから導き出し、また多くの預言者たちをご自身の口として用いて、人々に語りかけつづけました。

「昔は~だった。けれど今、この終りのときには」と区切りを引いて、神の語りかけが大きく変化しました。神は、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。驚くべきことです。すでにもう2000年も前から、神の独り子である救い主イエス・キリストが地上に降りて来られ、神でありながら人間の生身の体をもって生きて、神の国の福音を宣べ伝えはじめ、十字架にかかって殺され、葬られ、死人のなかからよみがえり、天に昇って御父の右の座にすわって、御父から全権をゆだねられた王としてこの世界を治め始めた。だからすでに『終りのとき』が始まって、着々と神の国がこの地上に、私たちの只中に建設されつづけているのです。『終りのとき』とは、ひとたび罪に落ちてしまった世界と、被造物が神の祝福のもとに回復されるときです。それは、この私たちを含めて、神によって造られたすべての被造物に対する神の審判のときでもあります。

「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた」。神の独り子である救い主イエス・キリストによって天と地とその中にあるすべてが造られた。その同じ救い主イエスこそが世界全体の富と財産の相続者とされている。その救い主イエスがわたしたちに語りかけつづける。徹底的に、ただただた救い主イエスにこそ、全世界と私たちの運命が集中しています。父なる神が救い主イエスにこそすべてを与え、委ねられたのだから、この私たちも、神によって救られたすべての被造物も、キリストの権限のもとにだけ据え置かれつづけます。救い主イエス・キリストは万物の相続者なのだから、彼のほかに恵みはないということです。ですから、もし、救い主イエスがその富と恵みによって私たちを助けてくださらなければ、私たちはとても惨めな者たちであり、なんの恵みも持たない者たちであり、恐れに取り囲まれて心細く生きるほかない。聖書は、神の御霊によって導かれる私たちは神の子供たちであり、しかも神の相続人でもあると証言します。「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ手紙 8:13-17)。キリストと共同の相続人。ここが、最重要ポイントです。世界全体の相続者であられる救い主イエスが私たちを受け入れてくださるとき、彼と共に、彼によって私たちを富ませ、支えようという御心です。つまり、キリストを差し置いて、キリストの御心を抜きにしては、私たちはどんな財産も富も幸いももつことができない。このことを私たちがよくよく知り、肝に銘じることができるようにと。救い主イエスを信じる信仰であり、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とキリストが御父に信頼し従ったように、私たちもまた同じく、「私の思いではなく、ただただあなたの御心のままに」とイエスからの言葉と御心にこそ聞き従いつづける信仰です。そこにだけ、私たちのための希望と祝福がありつづけます。

3-4節、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。『神の似姿』についての、聖書全体からの最終的な説き明かしがこれです。創世記3章の堕落によって、神の似姿がすっかりまったく失われてしまった。それは、救い主イエスによって、またイエスを信じる信仰によって私たちのうちに回復され、私たちはキリストと似た者とされてゆきます。「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」、また「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった」(コロサイ手紙 3:9-11,ローマ手紙 8:29)。

「御子は、……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。御子は、その受け継がれた名が御使たちの名にまさっているので、彼らよりもすぐれた者となられた」。キリストの御言葉、神の御言葉に十分な信頼が寄せられなければなりません。それが神を信じて生きるための不可欠な土台となります。しっかりした岩の上に家を建てたか、あるいは当てにならない砂の上だったのかが問われます。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(イザヤ書55:9-11)。数多くの預言者たちが、神のもとから遣わされ、神の言葉を神から預かって語りつづけました。今日でもまったく同じです。預言者たち、伝道者たちが語る聖書の説き明かしを神は、「私の口から出る私自身からの言葉だ。だから、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。私がそれを約束し、保証する」と仰います。神学生たちがそれぞれの伝道地へと送り出されようとするとき、このように彼らは励まされ、勇気を与えられつづける。たとえ粗末でも、未熟で至らなくても、神自身がそれをご自分の言葉として用いる。神が喜ぶところのことを為させ、命じ送ったことを神ご自身が成し遂げるからと。

また救い主イエスご自身も、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(イザヤ書55:8-11,ヨハネ福音書 5:39-40)。厳しい口調のようにも聞こえます。けれどその本意は、確かに聖書の中に永遠の命があり、それは父なる神と救い主イエスを知り、信じて生きることだ。命を得るために主イエスのところへ行こうとして、イエスから命を受け取ろうとして聖書を調べ、読み、耳を傾けなさい。そうすれば、必ず、あなたも命を受け取ることができると。

さて、「御子は、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれた」。父なる神の右に座り、と使徒信条も告白します。ここは、間違って覚えてはいけません。父なる神の右とは、父の単なる補佐役とか、助言者、アシスタントなどという役割ではありません。御父から天と地のすべての権威を授けられた、世界の王として統治し、治めつづける『王の職務』です。私たちの罪をあがない、清める御業を成し終え、すべての権威を授けられ、救い主イエスは、世界の王として統治しつづける『王の職務』を担いつづけます。いつまでなのか。最後の最後に、すべての権威と権力とを打ち滅ぼしてしまうときまで。1コリント手紙15:24-26です、「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである」。

 

  《祈り》

   主なる神さま。あなたにこそ心から信頼し、感謝をいたします。救い主イエスを信じる信仰のうちに、私たちを堅く据え置いてください。造られたすべての者たちと私たちのための神の愛と憐みを、この救い主イエスによって知り、イエスによって神に必要なだけ十分に信頼し、聴き従って生きることができますように。

   主イエスのお名前によって祈ります。   アーメン

 


【お知らせ】

 

①大人説教もこども説教も、よく分からないこと、『変だ。本当だろうか? なぜ』と困るとき、遠慮なくご質問ください。できるだけていねいに答えます。

②聖書や神さまのこと以外でも、困っていることや悩んで苦しく思うことを、もし僕で良ければお聞きします。個人情報など守秘義務を守ります。どうぞ安心して、ご連絡ください。

  

     金田聖治
(かねだ・せいじ)

      電話 0268-71-7511

 ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp (自宅PC)

6/12こども説教「キリストと共にいること」ピリピ1:21-26

6/12 こども説教 ピリピ手紙 1:21-26

 『キリストと共にいること』

 

1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。

(ピリピ手紙 1:21-26)

 

 

 【こども説教】

 救い主イエスの弟子パウロは、牢獄に閉じ込められて、裁判を待ち、やがて殺されようとしています。キリストの福音を知らせることで殺されるとしても、それは自分にとっても良いことだと受け止めています。また、もし牢獄から出してもらえるなら、ピリピ教会の人たちのところに出かけて助けることもできるので、そうなっても良いと考えています。どちらでもよい、ということです。23節で、「この世を去ってキリストと共にいること」を本当は願っていると書いていますが、もしかしたら、彼は今、大切なことを見落としているかもしれません。「この世を去って」も、キリストと共にいることができます。また、「生きている間も、どこで何をしていても、いつでもキリストと共にいる」とパウロも私たちも教えられています。あとで、彼はそのことを思い出して、皆にちゃんと伝えます。それは救い主イエスからの直々の、大切な教えです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、また「あなたには、わたしがついている」、また「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(マタイ福音書28:20,使徒18:10,申命記31:8)。そして、もし、救い主イエスが共にいてくださり、私たちの味方であり、守ってくださるなら、それでもう十分です。

 

 

 【大人のための留意点】

 わたしたちは、多くの場合、「どちらが本当に神さまの(神に従って生きる)道だろうか」といって悩むのではなく、「どっちの方が得だろうか」と、欲張りのために悩むことが多いのではないでしょうか。「どちらが自分の能力にふさわしいだろうか」と考えて悩むのです。学校を選ぶ時、職業を選ぶ時などがそれです。……しかし、神さまに従う道を歩むということは、ただ自分にとって都合の良ことだけではなく、多くの人に益になる方を選ばせられることなのです。主イエスも十字架を前にして、ゲッセマネの庭で血の汗を流して祈りました、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心のままになさってください」(マルコ福音書14:36)と(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)。