2022年8月1日月曜日

7/31こども説教「自分のことを求めるだけで」ピリピ2:19-24

7/31 こども説教 ピリピ手紙 2:19-24

 『自分のことを求めるだけで』

 

2:19 さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。20 テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。21 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。22 しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。23 そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。24 わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。          

(ピリピ手紙 2:19-24

 

 

 【こども説教】

 ピリピ教会はとても難しい悩みを抱えていました。きびしい争いやいがみ合いがつづき、それぞれ相手のことを思いやることもできず自分のことばかり考え、その中で、神を信じて生きることが本当にはどういうことであるのかがよく分からなくされようとしていました。神さまのもとにある平和と恵みをふたたび教会に取り戻させようとして、手紙が書き送られました。「救い主イエスがどういう方で、何をなさったのかを思い起こしてみよう。その救い主を信じるあなたがたは、互いに、どういう関わりかたをしているだろうか」と諭され、励まされました。さらに、テモテという伝道者とエパフロデトという働き人をそちらに送ると手紙は知らせます。この2人ともが、ピリピ教会の人たちのことを大切に思っている人たちです。

 21節、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない」。信仰をもたない人たちのことではなく、キリスト教会と多くのクリスチャンのことを言っています。こう語りかけながら、ピリピ教会の人たちや私たちが自分自身をよくよく振り返ってみるようにと促しています。そういえば、救い主イエスご自身が弟子たちに、「もし私についてきたいのなら、自分を捨て、自分の命を捨てて付いてきなさい」(ルカ福音書 9:23-25参照)ときびしく命じておられました。しかもイエスご自身こそが「自分にしがみつこうとせず、自分をまったく捨て去り、自分を低くなさり、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に従順であられた」(2:6-8参照)と語りかけられたばかりです。それでもなお自分にこだわり、どこまでも自分自身の幸いや都合の良いことばかりを求めつづけるなら、キリストの教会もあの彼らも私たち自身も、神からのいのちも平和も失ってしまうほかありません。困りました。

 

  【大人のための留意点】

 自分のことを求めないで、キリストのことを求める心です。自分を捨てて人のために尽くすと言いながら、あんがい奉仕、奉仕と口にしながら、自分の利益を求める人が何と多いことでしょう。キリストを大きくしないで、自分を大きくしようとする欲望もあるのです。

 さらに「証明ずみ」ということです。これは「練達ぶり」とも訳されていますが、もともと、金属が火などでためされて、本物かどうか調べることから来ています。わたしたちの信仰も、いろいろな出来事に出会って、試されます。本物かニセ者かが分かってきます。信仰はこのように、生きた生活の中で証明されてゆかなくてはなりません(『喜びの手紙 ~ピリピ人への手紙による信仰入門~』蓮見和男、新教出版社 1979年,該当箇所)

 

 

 

8/5 夏期キャンプ こども説教 ルカ福音書 17:11-19

『ひとりは神を讃美した』   

 

17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。(ルカ福音書 17:11-19

 

 

 【こどもと大人のための着目点】

 11-13節。(1)「遠くで立ち止まり」;病気をうつさないように、他の人々に近づかず、離れて暮らすようにと『神の律法』で決められていた(レビ記13:1-23。(2)病気が癒されることと、他の人々といっしょに生きることを強く願っていた。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と大声で叫んだのは、主イエスなら治してくださると希望をかけ、『救い主イエスによる神の憐れみ』をつよく願い求めたから。

 14節。(1)祭司に体を見せて、病気が治っているのを証明してもらえれば、他の人たちのところへ戻って、いっしょに暮らすことがゆるされる規則。(2)「行く途中で清められた」。「行きなさい。祭司に自分の身体を見せなさい」は、「病気が癒された」「私が、あなたがたの病気を癒した」という意味。その言葉を信じて、10人は出かけた。しかも途中ですでに、彼ら10人は主イエスからその憐みの力を受け取っている。「見ないで信じる信仰」(ヨハネ福音書20:24-29,2コリント手紙4:18参照)10人に贈り与えられた、と言える。彼ら10人は、信じはじめていた。

 16-19節。イエスのもとに戻ってきて、ひれ伏して神に感謝したのは、ただ1人だった。しかも、「これはサマリヤ人であった」と。皆から見下され、嫌われ、除け者扱いされているはずの人こそが、神の恵みを受け取っています。その人々を喜んで迎え入れてくださる救い主イエスです(ヨハネ福音書 4:1-,ルカ福音書10:30-35。その1人に、「あなたの信仰があなたを救った」とその信仰(神にこそ願い求め、恵みを受け取って神に感謝し、信頼を寄せ、それゆえ聞き従いつづける信仰)によって生きるようにと励ました。神を信じつづけて生きるためには、誰にでも、この励ましが全生涯にわたって必要でありつづける。神からの支えの御手を軽んじさせ、神に背かせようとする誘惑と肉の思いが、誰にでも付きまといつづけるので。同時に、「ほかの九人はどこにいるのか」と問いかけたのは、せっかく主イエスと出会い、御言葉を聴き、信じはじめたはずだったのに、イエスのもとに戻って来られなかった彼らをとても残念に思い、深く憐れんだので。戻って、神に感謝できさえすれば、その1回の感謝と讃美は力強い出発点となりえた。『神にこそ願い求め、恵みを受け取って神に感謝し、信頼を寄せ、それゆえいっそう忠実に聞き従いつづけて生きる信仰』を受け取りはじめることができただろうに。あと一歩だったのにと。しかも、「神への切なる願いも、感謝も喜びも、信頼も忠実も、みな神からの恵みの贈り物」であり、1人のためだけでなく10人のためだけでなく、ただ恵みによって誰にでも贈り与えようと待ち構えて、神さまの側では、すでに準備万端だったので。