2022年8月9日火曜日

8/7こども説教「エパフロデトを送る」ピリピ2:25-30

 8/7 こども説教 ピリピ手紙 2:25-30

 『エパフロデトを送る』

 

 2:25 しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。26 彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。27 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。28 そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。29 こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。30 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。(ピリピ手紙 2:25-30

 

 

 【こども説教】

 テモテを送るより先に、まずエパフロデトをピリピ教会に送り返そうとしています。このエパフロデトについては、ここと4章で少し事情が説明されています。エパフロデトは元々、このピリピ教会の人でした。パウロを助けて働くために送られ、けれど重い病気にかかってしまいました。病気が治り、いったんピリピ教会に帰りたいと本人が望むので送り返します。28-30節、「そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである」。「大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない」と、とても丁寧に、むしろ丁寧すぎるほどに、言葉を添えています。もしかしたら、病気になって務めの途中で帰ってくるエパフロデトをあまり喜んで迎えようとしない兄弟姉妹たちもいるかも知れない。彼を十分に尊重し、暖かい思いやりの気持ちで迎えることのできない者もいるかも知れない、と心配したのかも知れません。あの彼は、「キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになった」。神さまこそが「死ぬばかりの病気にかかった彼を憐れんでくださった。神さまは、私をも憐れんでくださった」。だから、彼の病気は治ったのだと。そういう彼なので、役に立たない人間として見ないでほしい。不満や失望の思いで彼を迎えないでほしいと、心から願っています。その人も、また他の一人一人も私たちも、神の憐れみを受けた者たち同士なのだからと。

 

 

 【大人のための留意点】

 エパフロデトを迎えるピリピの教会にあるかも知れない批判的な考え方を静めようとしてなされているものであります。エパフロデトを、役に立たない、いくじのない人間として見ないでほしいという願いを、強くこの手紙の中で表しているのであります。せっかく大切な務めを託してパウロのもとに送ったのに、務め半ばにして帰ってくるなんてなんとだらしのない奴だと、不満や失望の思いをもって彼を迎えないでほしい、と強く願っています。かれは、私の兄弟である、同労者である、戦友として懸命に働いてくれた人物である。彼が病に陥ったのも、キリストの業のために命を懸けて働いた結果なのだ。十分に彼は自分の果たすべき務めを果たした。だから彼を大いに喜んで主にあって迎えてほしい。それが29節の言葉において、パウロが強調していることであります。……エパフロデトが病を癒されたことを、病が治ったとは言わずに、「神は彼をあわれんでくださった」、(27節)と言い表しています。つまり、ここでパウロが言わんとしていることは、神も、エパフロデトの病にかかる弱さを批判してはおられない、非難してはおられない、ということであります(久野牧『ピリピ人への手紙』(説教集)一麦社、該当箇所)