2019年4月22日月曜日

『死んで、それで終わりじゃない』


コラム
『死んで、それで終わりじゃない』
     金田聖治

 誰でも必ず死ぬ。例外はない。死はしばしば不意に問答無用で訪れる。しかも、死後の生命をほとんどの人は信じない。するとその人々にとっては、行く手に待ち構えているのは虚無と絶望であるほかない。先のことをできるだけ考えず、その日その日、一瞬一瞬をただ面白おかしく生きることを願い、気を紛らわせつづけてただ一回きりの人生をむだに浪費するのだろうか? 恐れながら、みじめに絶望しながら。むかしの人は言った、「生きてるうちが花。死んだら、それでおしまいよ」と。キリスト教信仰の中にさえ、そうした虚無主義が忍び込む。コリント手紙(1)15:32-33に、

もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようで はないか。あすもわからぬいのちなのだ」。まちがってはいけない。

飲み食いしようとする理由と中身は、「明日をも知れない生命だ」という絶望と恐怖と、虚しい自己憐憫です。「明日をも分からない生命だ。それならせめて今日は、好き放題に飲み食いする愚かな宴会騒ぎでもしようじゃないか」と。ここで、リビング・バイブル訳は思い切った荒技での翻訳を試みます、「『大いに飲み食いして、愉快に過ごそう。文句があるか。どうせ明日は死ぬ身だ。死ねば、何もかもおしまいなのだから』ということになります」。なるほど。本当にその通り。しかも、その姿は出エジプト記326節の光景とまったく瓜二つです。神をすっかり見失って金の子牛像を造り、明日は祭りだと宣言し、「金の子牛」祭りをしはじめたときの様子と。「民は座して食い飲みし、立って戯れた」「そのあとが大変です。あたりに座り込んで食べたり飲んだりするかと思えば、立って踊りだす者もでるしまつです。とんだ乱痴気さわぎになってしまいました」(口語訳,リビングバイブル訳)。わおっ。その虚しさが目に見えるようです。自分の胸に手を当てて問いかけると、それぞれに心当たりもあるでしょう。復活の新しい生命を見失うことと、神ご自身を見失うこととは、このように同じ一つの虚無への入口です。「もうおしまいだ」と絶望した心で味わうその好き放題なカラ騒ぎはちっとも楽しくないし、豪華な高級料理の数々もおいしくない。ただ虚しく、よけいにますます惨めになるだけ。ね、分かるでしょう? 
たしかに誰でも弱り衰えてゆき、必ず死ぬ。なかなか報われず、誰にも分かってもらえず、心細く苦しく惨めに生きる日々は誰にでもあります。自分の居場所がどこにも見いだせない、私が生きる価値はあるのかと、疑わしく思える日々も。けれど、「死んで、それで終わりではない。だから、しっかりしなさい。揺さぶられることなく、堅く立ちつづけなさい」と聖書は断固として告げる。どうしたら、気をしっかり保つことができるでしょう。世界と自分自身の初めと終わりについての神さまからの約束を、あなたは信じることができますか? この世界全体も、あなたを含めてすべての生命体も、神が祝福のうちにお造りなった。やがて世界の終わりが来て、救い主イエスによる審判をへて、神を信じて生きる者たちは神の永遠の御国へと迎え入れられる。神さまからの約束。この約束の上に立って毎日の生活を生きる。だから、私たちはクリスチャンです。「天の御父の御心なしには、髪の毛一本も虚しく地に落ちることはない」と習い覚えてきましたね。「お母さんのお腹からオギャアと生まれ出たときからずっと、神によって背負われ、抱っこされて生きてきた。だから白髪になってもそうであり、いつでもどんな苦境からでも必ずきっと、その造り主なる神さまが救い出してくださる」(マタイ10:29-31,イザヤ46:3-4参照)。「たとえ私が死の陰の谷を行くときにも災いを恐れません」(詩23と羊たちが晴れ晴れと歌った理由はこれです。一つの死の影の谷をかろうじてようやく乗り越え、かと思うと次の死の影の谷、また次の、また次のと。飢え渇く日々の連続です。いつもいつも豊かな緑の草場、おいしい水のほとりなどと絵空事を夢想するわけではありません。飢え渇きながら困難な旅路を歩む。それでもなお良い羊飼いである神さまが、羊である私を連れ歩いてくださる。この一点を確信しています。だから恐れはなく何の不足もないと。そこでようやく私たちは惜しみつつ、心に刻みつつ日々を生きることができます。お元気で。よい日々を。                 
2019,4,21 当教会機関誌の巻頭言から)


『LGBTQの人々と共に生きる』


 コラム
 LGBTQの人々と共に生きる
                       金田聖治

  私たちの教会の人権委員会には、部落差別、日本に住む外国人、アイヌ、性的少数者、沖縄の人権問題等、いくつかの活動が委ねられています。緊急に取り組むべき重要課題の1つとして、LGBTQの事柄があります。レズビアン、ゲイ、また出生時の性別判定とその後の自己認識とが一致しないなどの性的少数者の人々は、今日まで病気や障害を負う人々とみなされ、そのために差別や排除が生まれ、該当者の人権が不当に侵害され続けてきました。社会からもキリスト教会からも彼らは排除され、孤立しています。十数名に一人という高い割合で該当者がいますが、「私たちの周囲にはそういう人々はいない」と多くの人々は思い込んでいます。いないのではなく、彼らは恐れて隠れています。あるいは共同体の中から排除されて、さまよっています。しかも、このことについてこの日本の社会と私たちキリスト教会にははなはだしい罪があります。いいえ、この私自身にはなはだしい罪があります。情けなくて、申し訳なくて、涙が出ます。そうさせつづけ、ただ黙認し、また助長してきたからです。「病気、障害、罪」であるという判断も含めて、キリスト教会の中にも多種多様な信仰的な理解や判断があり、その違いを乗り越えてゆくには大きな困難があります。それでもなお彼らと和解し、神との和解へと共々に向かう私たちでありたいと心から願います。なぜなら救い主イエスは、「健康な人に医者はいらない」(ルカ5:31)とおっしゃったからです。もし自分たちは健全で正しい人間であると自認してふるまうなら、この私たち自身こそが高慢なパリサイ人の病いに陥るでしょう。例外なく誰もが重い病いを患う病人であり、良い医者である神のもとへと招かれています。もし、「自分には罪がない。とても健全で、善良だ」というなら、自分を欺き、神ご自身を偽り者とすることになります。「病人を招き、罪人を救うために来られた救い主イエス」と自分たちはなんの関係もないと、神に背を向けて、神ご自身からもその救いからもますます離れ去ってしまうことになります。これこそあまりに危うい崖っぷちであり、信仰の特A級の危機です。もし、この崖から転げ落ちてしまえば、神ナシの、あまりに惨めで虚しい人生に逆戻りです。うわおっ。今にも死にかけているはなはだしく重篤な病人であり、最低最悪の罪人同士である私たちこそは、ですから 今日こそ心底から悔い改めて、御子イエスの血によるゆるしによって教会の在り方が清められることを共々に願い求めます。性的少数者の人々の隣人であろうとし、共々に神との和解にあずかる光栄ある使命をキリスト教会は託されています。
 身勝手で不寛容な空気が世界中を覆っています。日本に住む外国人に対するヘイト・スピーチ、ヘイト・クライム(=他者を憎悪する犯罪行為)の諸行動もなお野放しです。外国人技能実習生、職業訓練性という美しい名目のもとで、国家ぐるみの搾取がなされつづけます。しかも私たちが取り組んでいる事柄は人権諸問題などではなく、いつもいつも神の主権についての一つの課題でありつづけます。神の主権的恵みのもとに、私たちは自由です。何をしているのか、どこにどう足を踏みしめて立っているのかと必死に問い続けねばなりません。
  戦況は悪化の一途をたどっています。もし兄弟たちの多くが「それよりも伝道や牧会を」「それで教会が賑わって勢力を拡大してゆけるのならいいけれど」などと自分の腹の思いばかりを先立てつづけるならば、私たちは信仰の大きな危機と災いを放置することになります。ふたたび来てくださる救い主を共々に待ち望んでいます。キリストはすべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるからです。この望みを、私たちも堅く信じているからです。
(「部落問題に取り組むキリスト教連帯会議」のための活動報告 2019,4,26


2019年4月19日金曜日

不就学児童調査からの外国人排除に関する要請文



日本に住む外国人児童の教育権を侵害してはダメですよ、要請文

内閣総理大臣 安倍晋三 様
文部科学大臣 柴山昌彦 様

要請文

 日本社会の少子高齢化の傾向がますます強まる中、「不足する人材を確保」することを 目的に、昨年末、改定出入国管理法が国会を通過しました。しかし、法務省によれば、 2017年度失踪した技能実習生が7,000名を超えており、「技能実習」に名を借りた過酷な 労働の強要の実態が明らかになっています。これまでの技能実習制度の根本矛盾の解消を 図らないままなされたこの度の入管法改定においては、これからさらに導入される外国人 労働者を、日本社会に定住する移民ではなく、産業の人材不足を一時的にだけ埋める「労 働力」としてのみ眼差すばかりで、これからの日本社会を持続可能な社会として共に生きて支える、人権を有する一人の「人間」として受け入れる視点の欠如が最も大きな問題として指摘されています。  
そのようななか、文部科学省が、「不就学学齢児童生徒調査」を今年も実施することが 報じられました。文部科学省の2018年の調査によれば、一年以上所在のわからない児童 生徒は63人とされていますが、NHKの調査によれば、日本に住む外国人児童生徒約12万人のうち日本の学校にも外国人学校にも在籍していない子どもの数は8,400人とされます (NHK News Web 201949)しかし、文部科学省は、憲法26条を根拠として、義務教育の対象は「国民」であるとの見解のもと、同調査の調査票に「外国人は、対象から除外する」という但し書きをそえ、これまでの調査と同様に調査対象から外国人を排除しようとしています。しかし、2011年4月1日に閣議決定された「人権教育・啓発に関する基本計画」第4 章2(7)には、「我が国に在留する外国人は年々急増している。日本国憲法は、権利の性質上、日本国民のみを対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人についても、等しく基本的人権の享有を保障しているところである」と明記されています。また、教育機会確保法(201612月)第34号では、「義務教育の段階における普通教育 に相当する教育を十分に受けていない者の意思を十分に尊重しつつ、その年齢又は国籍その他の置かれている事情にかかわりなく、その能力に応じた教育を受ける機会が確保されるようにする」と定められています。  
日本がすでに批准している「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」13条 には、「この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める」と記されています。この他「こどもの権利条約」や「人種差別撤廃条約」などにも照らすなら、同じ地域社会に住み学習権を有する存在として外国人児童生徒を位置づけることなく調査対象から排除するということは、明らかにそれら国際条約の精神に背反する行政と言えます。それは、外国人児童生徒の人権としての学習権を疎外することにつながるばかりでなく、共に学ぶ「日本人」児童生徒が他者と出会う豊かな経験を排除することにもつながると考え ます。
文部科学省がこれまでも「外国人児童生徒等教育の現状と課題」の調査報告をしていることは聞き及んでいますが、そこでは外国人児童生徒の深刻な不就学問題、日本人生徒と 比較しても格段と低い高校進学率・大学進学率の問題は全く扱われていません。そこには、同じ不就学問題においても、「日本国民」と「外国人」との間に歴然とした差別が置 かれているとしか考えられず、日本人も外国人も共に生き、共に学ぶという「共生」理念の欠如した現実が露呈していると考えられます。そのような教育行政の差別意識が、社会や学校においてもさらに人種差別を生み出す要因になっていくと言えるのです。  
もはや「国民」だけで成り立たない社会の現状を抱えている今日、わたしたちは、住民 として地域に住まう人間の「人権」を擁護し、共に生きる社会を具体的につくりだしてい かなければなりません。  
わたしたちは、ヘイトスピーチに代表されるような差別的な言動が、「選挙活動」の名を借りて垂れ流される状況についても強い懸念を感じています。文部科学省の今回の方針は、そのような差別を当然のこととして認め助長することにつながるものとして、断固、容認するわけにはいきません。  
わたしたちは、外国人住民と共に生きる社会を目指すものとして、文部科学省の「不就学学齢児童生徒調査」の対象から外国人児童生徒を排除することに抗議し、教育機関にお いて日本人児童生徒と共に学ぶ存在として外国人児童生徒をみなす認識に基づいて、文部科学省が不就学児童生徒の調査を実施することを強く要望します。



2019年4月18

マイノリティ宣教センター
日本キリスト教協議会
外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会
外国人住民基本法の制定を求める神奈川キリスト者連絡会
外国人住民との共生を実現する九州・山口キリスト者連絡協議会
平和をつくり出す宗教者ネット
基地のない沖縄をめざす宗教者の集い
日本山妙法寺
日本基督教団 総会議長 石橋秀雄
日本キリスト教会 人権委員会
日本カトリック難民移住移動者委員会
日本カトリック正義と平和協議会
カトリック東京教区 正義と平和委員会
イエズス会社会司牧センター 
日本聖公会 正義と平和委員会
日本聖公会 人権問題担当者
日本聖公会 日韓協働委員会
日本聖公会 青年委員会
日本聖公会 管区事務所 総主事 矢萩新一
日本福音ルーテル教会 社会委員会
日本YWCA
在日大韓基督教会 社会委員会
在日大韓基督教会 関東地方会 社会部
在日大韓基督教会 西南地方会 社会部
西南韓国基督教会館 (西南KCC)
北九州共生文化講座「トラジ学園」
文化センター・アリランを支援する会
富坂キリスト教センター 運営委員長 秋山眞兄・総主事 岡田 仁
平和を実現するキリスト者ネット 事務局代表 平良愛香
人種差別撤廃NGOネットワーク (ERDネット)
                            ( 2019418日現在)

2019年4月15日月曜日

4/14こども説教「金の子牛事件」使徒7:39-43


 4/14 こども説教 使徒行伝7:39-43
 『金の子牛事件』  
~ステパノからの証言⑥~

     7:39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。・・・・・・43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。(使徒行伝7:39-43

  とても悪い恥ずかしいことですが、本当のことをお知らせします。39節、「ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け」。間違って聞こえやすいところですが、神の民イスラエルは「モーセに従わず、モーセを退けた」のではありません。むしろ、いつもいつも、「神に従わず、神さまを退けつづけ」ました。しかもついつい人間に過ぎない目の前の指導者に信頼を寄せすぎて、神に従う代わりにその人に従い、神に信頼する代わりに、生身の人間にすぎない指導者にばかり信頼を寄せつづけてしまいました。いつの間にか彼らの心はとても鈍くなって、まるで目の前にいる人間の指導者と神が一つであるかのように勘違いしてしまいました。ここでの証言は、出エジプト記32章をごく簡単にまとめたものです。神からの十の戒めをいただくために、モーセはシナイ山に登ってずいぶん長い間、4040夜、留守にしました。頼りにしていたモーセ大先生はもう帰ってこないかも知れない、と心細くなりました。そういうとき、どうしましょうか? 「じゃあ、新しい指導者を選ぼう」。それならOK。でも、そうではなく、「新しい神々を自分たちの手で造っちゃおう」、それは全然ダメです。彼らの鈍くなった目には、モーセと神は一つに見えていました。「モーセがいなくなっただけじゃなく、モーセと一緒に神さまもいなくなった。それじゃあ、仕方がないから自分たちの好みに合う都合の良い神を作ろう。かわいい子供の牛みたいな神がいいなあ。神に聞き従うんじゃなくて、私たちに神を従わせて、思い通りに暮らしていこう」。かわいい子供の牛の神を自分たちで造って、好き放題に楽しむドンチャン騒ぎをしはじめました。もちろん神さまは、とてもとても怒りました。そんなとても悪い恥ずかしいことがその後も何度も何度も繰り返されつづけた(アモス書5:25-27,サムエル記上8:4-8と聖書は報告します。ですから、おさらいをしておきましょう。拝んでいいのは神さまだけ。よくよく信頼して聞き従って良い相手は目の前にいる人間の指導者ではなく、ただ神さまだけです。


4/14「主の御心ならば」ルカ5:12-16


            みことば/2019,4,14(受難節第6主日の礼拝)  210
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:12-16                     日本キリスト教会 上田教会
『主の御心ならば』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:12 イエスがある町におられた時、全身重い皮膚病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。13 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった。14 イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、「ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい」とお命じになった。15 しかし、イエスの評判はますますひろまって行き、おびただしい群衆が、教を聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。16 しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。        (ルカ福音書 5:12-16)
*1996年4月の「らい予防法」廃止にともなって、該当箇所を「重い皮膚病」と訳語変更しています。

 救い主イエスは、重い皮膚病をわずらう一人の人を癒してあげました。まず14節のことを解決しておきましょう。「イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、『ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい』とお命じになった」。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。どの福音書も、主イエスがどういうお方であるのかを告げ知らせ、人々が主を信じ、主の弟子とされて幸いに生きるようにとその大目標をもって書かれています。それなのに、「誰にも言ってはいけない」などと時々釘をさされました。しかも他の誰によってでもなく、主イエスご自身から。どういうことでしょう。まず汚れた霊たちが「黙れ」と口止めされました。この箇所のように病気を癒された人々と家族も、またご自分の弟子たちに対してさえも、主イエスは「知らせてはならない。黙っていなさい」と度々お命じになりました。(1) 汚れた霊たちやサタンに対しては、主イエスはご自身の正体を決して証言させませんでした。少なくとも、主イエスを信じる人たちや神に感謝して喜んでいる人たちから、神についての良い知らせを聞くほうが良いからです。
 (2)癒された人々とその家族に対する口封じ命令は、ゆるやかに寛大になされます。ダメと言われていたのに知らせたからと厳しく叱られた人は一人もいません。少し先の箇所ですが、例えば、死んでしまっていた少女を蘇らせたとき(ルカ8:49-56-)、その部屋へは両親と3人の弟子たちしか一緒に入ることをゆるしませんでした。あのときも今日のこの箇所でも、「誰にも話さないように」。しかし彼らは大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めました。そうせずにはおられなかったのです。また例えば悪霊に取りつかれたゲラサの墓場に住む男を癒してあげたとき、彼にこう仰いました。「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなに憐れんでくださったか、それを知らせなさい」。あの彼は、自分の家族や親しい友だちだけではなく、その地方一帯に主イエスの御業を言い広めはじめました。言わずにはおられませんでした。井戸の傍らで出会ったサマリヤ人の女性の場合にも、まったく同じでした(ルカ福音書8:26-39,ヨハネ福音書4:28-
  (3) 弟子たちに対しては、いつまでもずっと黙っていろというわけではなく、ほんのしばらくの間の留保です。救い主イエスのことを精一杯にちゃんと十分に伝えるための準備期間です。なぜなら弟子たちは主イエス町々村々へと福音を宣べ伝えるために遣わされ、主イエスの教えを聞き、そのなさる業を目撃しながら成長し、ついに主イエスの証人として世の果てまでも主の御業を告げ知らせる者たちとされるのですから。やがて例えば、イエスの名によって語ることも説くこともいっさい相成らぬと議員たちから言い渡され、脅かされたときにも、主の弟子たちは、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。私は、もう自分でちゃんと判断している」(使徒4:19-20参照と断固として答えました。これが、クリスチャンの基本の心得です。しかも今では、主イエスご自身は私たちに何も口止めなさいません。それで今日もこうして、大切な親戚の方々やお友だちを心を込めてお誘いし、礼拝に連れてきています。いいえ、「心を込めて誘ったんだけど、今日もまた断られてしまった」という人たちもいますね。大丈夫です。次に誘ったときも、その次もその次も断られたって、あなたがすっかり諦めてしまったのでなければ、願いは必ずかなえられます。私たちは、もう誰からも口止めされていません。もし、あなたがその人に大切なことを精一杯に告げてあげたいと願う場合、どうしたらいいでしょう。例えばこうです。「十字架につけて殺され、神が死人の中からよみがえらせた復活させられたナザレ人、イエス・キリスト。この人による以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていない。本当なんですよ。ですからどうぞ、来てみてください(使徒4:10-20参照)と。
 さて、重い皮膚病を患っている一人の人が主イエスのところに来て、ひれ伏して願いました。主イエスは、この人の願いを受け入れ、病いを癒してくださいました。この人の病いは、病気それ自体として厳しく辛いだけではなくて、生きてゆく現実生活をさまざまに制限し、追い詰め、苦しめました。その病気を恐れ、毛嫌いし、軽蔑する社会のしくみの中で、この小さな一人の人は退けられ、片隅へ片隅へと押しのけられつづけました。心細さの只中に暮らしていました。今、主イエスのところへ来て、ひれ伏して願い求めています。「主よ、御心でしたら、きよめていただけるのですが」。主よ、あなたがもしそう願い、そのように決断してくださるならば、それならば、この私はあなたによって清くされるのです。どうぞ、お願いいたします。
  「御心でしたら」というこの人の願い方に、私たちは驚かされます。神さまへの従順と服従の心得だからですし、この私たち一人一人こそが主イエスから直々に教えられ、よくよく知っているはずの弁えだからです。十字架におかかりなる前の晩、主イエスは祈りました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ福音書22:42)。神さまに何でもお願いして良いという約束です。あれしてください。これもこれもしてください、これはやめさせてくださいと私たちは神さまに何をどれほど願っても良い。しかも、それらの願いに加えて、「しかし私の思いのままにではなく、他の誰彼が言うままでもなく、ただあなたの御心のままになさってください」と。神さまへの信頼と服従です。だからこそ、その分だけ、私たちは自由です。これが、キリストの教会と私たちクリスチャンの基本の心得であるはずでした。胸が痛みます。ぼくは恥ずかしくなります。習い覚えているはずのことをすっかり棚上げして、神さまの御心を片隅へ片隅へと押しのけ、「私はしたいしたくない。私は好きだ嫌いだ。私は気が進む、進まない」などと自分の欲望と願いと自分の腹の思いばかりを先立てて暮らしているこの自分自身に。あるいは生身の教会の生臭すぎる現実に。神さまへの信頼と従順を見失ってしまうとき、私たちはどこまでも転がり落ちていきます。だから、ここで目を凝らさねばなりません。不思議なことにこの人は、身を屈めて主を仰いでいます。御心ならば、と。もし御心に叶うならば。つまり 御心に叶わないならば、していただかなくて結構です。私の願い通りではなく、あなたの御心にこそ従います。主イエスは、「あなたが癒されることが父なる神と私の心だし、願いだ。そうなりなさい」と。救い主イエスこそが、こんな私のためにさえ最善を願ってくださり、私にとっての最善を決断してくださる。しかも私たちは、主がそのように真実に願い、決断してくださる方だと知っている。だから、ここに来た。だからここに、主イエスの御前に膝を屈めている。この人のように、神さまへの一途な信頼と従順を、ぜひなんとかして、この私たち自身のものとさせていただきたいのです。
  14節のつづきです。「誰にも話すな」と仰りながら、けれど祭司に体を見せ、清められたものの感謝の献げものをささげて人々に証明しなさい、と指図なさいます。彼は、これまでその病気を患っているという理由で、これまで社会から、世間の方々から排除されて生きてきました。病気が治り、体が回復するだけでは足りません。社会の大事なかけがえのない一人であることもまた、回復されねばなりません。そうであるならば、何を証明しましょうか。誰に、証明しましょう。あの彼も、ここにいる私たちも、主の憐れみを受けた者です。その憐れみによって立ち上がり、足を踏みしめて立ち、歩く者とされました。受けた憐れみは、私たちの歩みの出発点にすぎなかったのでしょうか。最初の、ほんのちょっとしたきっかけでしょうか。いいえ。その後は、それ以前と同じく、自分自身の責任と自分の決断と自分の努力によって歩んでいるでしょうか。自分の力にこそ頼って、日々の悪戦苦闘を勝ち抜き、立っているでしょうか。いいえ、決してそうではありません。いったい何を証明しましょう。「気の利いた、立派なあれこれを」ではありません。「私はあれが分かっている、これもこれもできる」ではありません。「私は」ではなく、「神さまこそが」。「私が何をしたか何ができるか」ではなく、「神さまがこんな私のためにさえ何をしてくださったのか」。主イエスの弟子とされた方々。いつでも、私たちにとって大切な意味をもつことは、私の回心、私の信仰、あるいは私の立派な善い行ないなどではありません。そんなことはどうでもいいのです。ただただ神さまの善と恵み、神さまの寛大で心優しい救いの御心こそが私たちの救いの土台でありつづけます。苦しむ人を助けるために、主イエスは手で触れる場合があり、手で触れない場合もありました。遠く離れたままで、「清くなりなさい。治りましたよ」とただ言伝を頼むだけの場合さえありました。けれどあの彼の場合には、手を差し伸べる者が他には誰もいませんでした。誰も彼もが、その手を引っ込めました。だから わざわざ手を差し伸べ、その手でじかに触れてくださる必要があったのです。神であられる方が、どのようにして手を差し伸べることができたでしょう。高い所におられる方が、にもかかわらず低く身を屈めさせられた者たちにその手を本当に届かせる。そのためには、救い主イエスは低く低くくだって来なければなりませんでした。地を這うような絶望、心細さを味わう捨て去られた人々がいます。あのときの彼らの中にも。今ここにいる私たちの間にも。主は本当に手を届かせるために、自ら捨て去られ、恥を受け、軽蔑され、退けられ、はげしい痛みに身を委ねねばなりませんでした。
  「もし御心でしたら」と願い求められ、直ちに手を伸ばしてその人に触り、「そうしてあげよう。清くなれ」と仰り、そのとおりに清められた。『御心』は、救い主イエスの心であるだけでは全然足りません。父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神の、その神の一つ思いになって働かれる御心です。救い主イエスは、御父から命じられたこと以外は一切しないという心です。御父は、救い主イエスを指差して、「これこそ私の心にかなう者。これに聴け」とすべて一切を御子イエスに委ね、託する心です。聖霊なる神は、救い主イエスを証しし、救い主イエスを信じさせる心です。そうであり続けるために、主イエスは折々に寂しいところに独り退いて、父なる神の声を聴きつづけます。それが救い主イエスの祈りですし、生き様そのものです。4章の終わり42節でも「イエスは寂しい所へ出て行かれた」と、今回も16節で「しかしイエスは寂しい所に退いて祈っておられた」と。父よ、あなたの御心にかなうことでしたら、私はします。かなわないことなら、何一つ決してしませんと。このように一つ思いになって働く神の御心にかなって生きることを私たちも願っています。だからこそ、私たちは祈りつづけ、神の御声に聴き従いつづけます。「私の願い通りではなく、ただあなたの御心に聴き従って生きる私たちであらせてください」と。

               ◇


  ここで私たちは改めて、クリスチャンであることの広々とした土台を差し出されています。あの彼のように私たちも、主イエスのもとへと来るようにと勧められました。主イエスを信じるようにと。主イエスを信じて、そのことを拠り所として毎日毎日の暮らしを生きるようにと。主イエスに寄りかかり、重荷と悩みと心細さのすっかり全部をお任せして、安心して憩うようにと。主イエスにこそ信頼を寄せ、心細さや恐れを拭い去っていただくようにと。この世界には落とし穴や思いがけない災いや苦難が満ちています。しかも私たち自身は身も心も弱く乏しい。それでもなお主イエスとが共にいてくださるなら、私たちには乏しいことがない。恐れもない。私たちの主であられる神さまは、この私たち一人一人のためにも善い業を成し遂げてくださろうとして準備万端です。なぜでしょう? 主は私たちを愛してくださっているからです。しかも主は、困難なことの多い世界の只中で私たちが心細く、乏しく暮らしていることをよくよくご存知だからです。

2019年4月8日月曜日

4/7こども説教「柴の炎の中から」使徒7:30-38


 4/7 こども説教 使徒7:30-38
 『柴の炎の中から』
~ステパノの証言⑤~

     7:30 四十年たった時、シナイ山の荒野において、御使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。31 彼はこの光景を見て不思議に思い、それを見きわめるために近寄ったところ、主の声が聞えてきた、32 『わたしは、あなたの先祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』。モーセは恐れおののいて、もうそれを見る勇気もなくなった。33 すると、主が彼に言われた、『あなたの足から、くつを脱ぎなさい。あなたの立っているこの場所は、聖なる地である。34 わたしは、エジプトにいるわたしの民が虐待されている有様を確かに見とどけ、その苦悩のうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきたのである。さあ、今あなたをエジプトにつかわそう』。35 こうして、『だれが、君を支配者や裁判人にしたのか』と言って排斥されたこのモーセを、神は、柴の中で彼に現れた御使の手によって、支配者、解放者として、おつかわしになったのである。      (使徒行伝 7:30-38

  モーセが40歳の時には、彼は賢くて知恵もありとても大きな立派そうに見える人物だったので、神さまはモーセを神に仕える働き人にしませんでした(使徒7:17-29,出エジプト記2:1-22参照)40年たって、すっかり正反対に モーセはとても臆病で小さな小さな人間になっていたので、神に仕える働き人にされました。なぜなら神に仕える働き人は、ただ神にこそ信頼し、神にだけ聴き従う人間でなければ困るからです。34節、「わたしは、エジプトにいるわたしの民が虐待されている有様を確かに見とどけ、その苦悩のうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきたのである。さあ、今あなたをエジプトにつかわそう」。そしたら80歳のモーセは、何と答えたでしょう? 「いえいえダメです。私は何者でもないし。出来ません、出来ません」と尻込みしつづけました。みんなから信用されないだろうし、私は口下手だし、人様の前で喋るのが苦手だし、あがっちゃうし、なんて言っていいか分からないし、ああでもないこうでもない。すると主なる神さまがモーセに言いました、「おいおい、だれが人に口を授けたのか。話せず聞えなくさせ、また見えたり見えなくさせる者はだれか。主なるわたしではないか。だから行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを一つ一つ、ちゃんと教えるから」(出エジプト記3:11-4:12を参照)。ビックリですが、それでもまだまだモーセは神に信頼しようとしません。「ダメです、ダメです。どうか他の適当な人に当たってください、ムリムリ」(出エジプト記4:13と。そのようにモーセは臆病で小さいだけじゃなく、とても頑固だったので、彼を説得して神を本気で信じさせるのはとてもとても大変でした。神さまに信頼し、神に聴き従って生きる旅路がこうして始まりました。35-38節で、「この人が奇跡としるしを行った。この人が~と言った。この人が伝えた」と報告されているこの臆病で小さくてとても頑固だったモーセを使って、神ご自身が、神の民を救い出しつづけました。


4/7「初めに恐れがあった」ルカ5:1-11


            みことば/2019,4,7(受難節第5主日の礼拝)  209
◎礼拝説教 ルカ福音書 5:1-11                       日本キリスト教会 上田教会
『初めに恐れがあった』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
5:1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、2 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。(ルカ福音書 5:1-11)

 まず、簡単なこと。1節にある「ゲネサレ湖」とは「漁師だった弟子たちが暮らしを立てていた、あのガリラヤ湖」のことです。一つの湖や山が、こっち岸からは○○湖、向こう岸からは△△湖などといくつかの名前で呼ばれることがあります。
  さて世々の教会は、湖に浮かぶ小舟とそこに乗る救い主イエスと弟子たちの姿に、キリストの教会と自分たちの現実の姿を重ね合わせて、それを大切に聞き取ってきました。大切に噛みしめつづけてきました(それで、多くのキリスト教会の礼拝堂の正面の壁は、ほら、こんなふうに舟の舳先(へさき。船首。舟の前方の先端部分のこと)の形をしています。この舟形を見るたびに、小舟と救い主イエスとあのときの弟子たちの姿を思い起こすようにと)。たびたび吹きつける突風や大波に悩む私たちであり、夜通し働いてもなお一匹の魚も獲れない失望をたびたび味わう私たちです。それでもなお、救い主イエスこそが、私たちの小舟に一緒に乗っていてくださり、「網を打て。突風や大波に恐れるな。魚一匹獲れなくたって、ガッカリするな」と励まします。投げ入れるべき網は主イエスの福音です。湖は、この世界。そして私たちのそれぞれの生活の現場。辿り着くはずの岸辺は、神ご自身が生きて働いておられる神の国であると。そのように主イエスにこそ仕えて一日一日を生きるようにと、主ご自身が私共を招くのです。
 4-5節。主イエスは、沖へ漕ぎ出して漁をせよと命じます。一人の漁師は答えます、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。夜通し苦労して働いたが何も獲れなかった。正直なところ、もうウンザリしている、と私たちも卒直に、ありのままに訴えます。そのように訴えることがゆるされています。しかも主イエスは、夜通し労苦したことも、魚一匹獲れなかったことも、私たちの失望も落胆も、苦々しい溜息も、よくよく分かっていてくださいます。この私たちの現実、私たちの貧しさ、私たちの困難を見ないわけではありません。すっかりつぶさに見て、御心に留めていてくださいます。だからこそ、このお独りの方は私たちの主であられるのです。十分に分かった上で、「よし。それじゃあ沖へ漕ぎだして漁をしてみなさい」と促します。主は、私たちのために収穫を用意し、その喜びと幸いを与えようとして、すでに準備万端です。私たちの現実を乗り越えさせ、私たちの限界を打ち破るほどの、それほどの神の現実があります。あなたのためにも、この私たちのためにもその現実があり、またその主がおられて、主はすでに準備万端なのです。
 8節を見てください。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」とペトロは言います。主なる神さまは生きて働いておられます。その神さまが、今や、こんな粗末な貧しくて小さい私のすぐ近くにおられる。その恵みの現実の大きさが、あの彼を圧倒しはじめています。私たちもそうでした。まず、神への驚きと恐れがありました。その同じ彼が、同じ一人の人が、主イエスを知っていく中で、やがてこう言いはじめるのです;「私から離れないでください」と。さっきは「私から離れてください」(8)と言っていたのが。やがてこの人は「お願いです。どうか、私から離れないでください」と言い始めるのです。「その手に私をしっかりと捕まえて、私を決して離さないでください。なぜなら主よ、私は罪深い者なのですから」(ピリピ3:12,ヨハネ福音書15:4-5,讃美歌333)と。
 神にも周囲の人々にも逆らって「私が私が」と言い立てているとても頑固で罪深い兄弟姉妹たち。私たちは、私たちの小ささや貧しさを知らせる者たちに囲まれています。私たちのいたらなさや欠点を「これでもか。これでもか」と突きつける者たちに取り巻かれて暮らしています。小さな子供のころからそうであり、子供たちの父さん母さんになってからも、年老いてからも、同じくそうです。私たちを恐れさせ、私たちを心細く惨めな気持ちにさせる大きな者たちに囲まれて、私たちは生きています。大きいとか小さいとか、豊かだとか貧しいとか、優れているとか案外たいしたことないとか。互いに品定めをしあい、値踏みしたりされたりしながら、私たちは暮らしてきました。競争と序列と体裁を主張し合う社会であり、さまざまな違いに目くじらを立て合う世界に、私たちは毎日暮らしています。ですから、この私の欠点やいたらなさを人から指摘されると、いつも不愉快で惨めな嫌な気持ちがしました。旗色の悪い元気が出ないときには、「どうせ私は」と落胆し、がっかりしました。元気があるときには、その指摘に「いや。そんなことはない」と猛烈に反発し、抗議し、「そういうあなたこそ」などと反撃したりもしました。
 けれどここでは、世間様や人様がではなく、神さまご自身が彼を圧倒しています。神の恵み深さが、彼をひざまずかせ、ひれ伏させています。しかも、その生きて働いておられる神が、私たちのすぐ近くにおられました。その神さまの恵みの御業を、神ご自身の出来事を、たしかに私たちも見ました。私も見た。その一点が、一人のクリスチャンを誕生させます。神を見失い、その恵みの場所から迷い出てしまいそうだった一人の人が、そこでようやく、クリスチャンとして生きることの幸いと格別な豊かさを噛みしめ直します。この神さまは、私たちのためにも十分に豊かであってくださいます。だから、私たちはとても豊かであってもいいし、あるいは貧しくあってもよいのです(ピリピ手紙4:13。この神は、私たちのためにも強くあってくださる。だから、私たちのそれぞれの働きが大きくても小さくても、どちらでもよかった。この神は、私たちのためにも、十分に生きて働いていてくださいます。だから、私たちの働きが大きくても小さくても、豊かであっても乏しくても、旺盛に精一杯に働く時にも、あるいは、その働きを神さまと兄弟たちに委ねて休むときにも、いずれにせよ、私たちは心強く安らかであることができました。神さまは、この私たちのためにも、あまりに気前よくあってくださいました。だから、私たちは互いに、あなたは貧しいとかいたらないとか、ふつつかであるとか、ふさわしいとかふさわしくないだとか、誠実不誠実などと愚かしく見比べ合うことをしなくても良かった。そうでした。
 「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言うほかない私たちです。けれどもなお、神さまは私たちから離れず、いいえ、それだからこそ、ますます近づいてきてくださいました。どうして。どんなふうにして? ゆるしてくださったからであり、私たちの罪と悲惨とを担ってくださったからでした。それは、ただただ恵みによってです。この神さまを知り、その御前にとうてい立ちえない私である、と知りました。しかも神さまは、その私たちをご自身の御前に立たせるのです。ただゆるしによって。ただ恵みによって。ただただ神ご自身の気前の良さによって。ですから、この一人の、ごく普通の漁師とともに、私たちは自由です。《自分自身を信頼し、自分自身の力と手の働きを頼みの綱として生きなければならない》という重荷をポイと投げ捨てて、私たちは自由です。《大きな私でなければ。豊かな、取り柄も見所もたっぷりある私でなければ》という重荷を投げ捨てて、《何かができる私でなければ》という重圧から、私たちはまったく自由です。なぜなら、私たちの主イエス・キリストがそれら一切の重荷を引き受けてくださったからです。十字架の上の、贖いの血潮によって、引き裂かれたご自身の体によって、無償で、ただ恵みによって、引き受けてくださったからです。「はい。どうぞ」と差し出され、私たちが確かに受け取って、そこに立って生活を築いてきたものを、私たちは《福音》と呼びました。救い主イエスの福音。主イエスからの、私たちのための福音と。
 10節、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。私が、ならせてあげよう。「私から離れないでください。なぜなら私は罪深い者なのですから」と願った私たちに、この主イエスの平安と自由とが与えられました。ゆるされるはずのなかった罪深さや、頑固さ、身勝手さをすっかりゆるされた罪人であるという名前の自由であり、ゆるされた罪人同士であるという名前の平安です。キリストの十字架の犠牲を通して、ただそのことによって、私たちは神さまと和解させていただいています。ただ、そのことによって、神さまのご好意を得ております。その私たちは、それなら、どんなふうに心安く幸いに立って、毎日のそれぞれの生活を建て上げてゆくことができるでしょうか。この51-11節のようにしてです。「夜通し労苦しましたが、魚一匹獲れませんでした。さっぱりでした。散々でした」と私たちは訴えます。突風や大波に揺さぶられる日々に、「私たちは溺れそうです。水浸しになり、この小舟も今にも沈んでしまいそうです」(8:24)と、主の肩を掴んで、しがみついて、私たちも訴えます。なんの遠慮も気兼ねもなく、率直に訴えます。包み隠すことも取り繕うこともなく、精一杯に、ありのままに訴えます。それが、神へと向かう私たちの祈りです。そのように格闘する者は、やがてついに、主なる神さまと親しく出会うでしょう。すでに準備万端である主と。私たちが夜通し苦労したことも、魚一匹も獲れなかったことも、私たちの失望も落胆も、苦々しい溜息も、よくよく知っていてくださる主と出会うでしょう。私たちのそれぞれの現実、私たちの貧しさと困難をつぶさにすっかり見て、心に留めていてくださる主と出会うでしょう。「もちろんそうだ。だからこそ、この方は私の主である」と知るでしょう。この私たちのためにも収穫を用意し、この私にも喜びと幸いを与えようとしてすでに準備万端である主と、私たちはついに出会うでしょう。私たちの現実を越えて、私たちの限界を打ち破り、さまざまな障害を一つ一つ乗り越えさせてくださるほどの、それほどの神さまの圧倒的な現実があります。「しかし、お言葉ですから(5)と、ついに、こんな私たちさえ言うでしょう。手元には網が置かれていました。《神のゆるし。神ご自身の恵み深さ》という名前の網を降ろしてみるでしょう。すぐ目の前の、私たちの足元の湖面へと。

             ◇

 この同じ一つの奇跡は、繰り返されます。聖書の中でも外でも、教会の歴史と私たちの生活の只中で何度も何度も。メモだけしておいて、後でページを開いて確認してほしいのですが、聖書の中ではヨハネ福音書21:1-。主イエスが十字架につけられて殺された後、あの弟子たちは故郷のこの湖に戻ってきていました。そしてまた、以前のように小舟と網を手に入れ、以前のように漁をしているのです。湖に漕ぎだし、夜通し苦労して働いて、けれどそのときもやっぱり魚一匹獲れませんでした。その夜明けごろ、墓から復活なさった主イエスが湖の岸辺に立っていました。けれど彼らには、それが主イエスだとは分かりませんでした。岸辺に立つその人物は、「網を打ってみなさい」(ヨハネ福音書21:6)と奇妙なことを言います。そうしてみました。魚はあまりに多くて、もう網を引き揚げることもできないほどでした。「あ? あのときと同じだ」と気づいて、彼らは、最初に出会ったときのことを思い出しました。初めにあった驚きと恐れを、その感謝と信頼とを、彼らは思い出しました。墓穴から復活なさった主イエスは弟子たちを招きます。改めて、繰り返し繰り返し、この私たちをも招きます。私たちと主との出会いの出発点には、いつもいつも、同じ一つの合図の言葉があります。「私から離れないでください。どうぞぜひ、私と一緒にいらしてください。目を離さないでください。その手に、しっかりと捕まえていてください。なぜなら主よ、私たちは、あまりに罪深い者なのですから」。そして「恐れるな。恐れないあなたとしてあげよう」という約束の言葉を、主から聞きます。くりかえし聞きます。私たちは皆、自分自身の小さな都合ばかりを先立てて、自分の小さな小さな幸いばかりにしがみつこうとして、あまりに罪深い者同士です。とても小さな、弱々しい、それぞれにずいぶんいたらない者同士です。ねえ。例えば、あなたの目の前に立つその伝道者の礼拝説教の言葉は貧しいでしょう。言葉遣いも物腰も態度もあまり上品じゃなく、しばしばガサツであるかも知れません。申し訳ありません。私たちは誰もがたかだか生身の人間に過ぎず、粗末な土の器に宝を贈り与えられた者たち同士です。一人のクリスチャンの姿は、その態度や、何気ない一言や振る舞いが兄弟や友人たちや家族の心を深く傷つけたり、踏みにじってしまうこともあり得ます。「これでもクリスチャンか。それが信仰をもって生きる者のすることか。ああ情けない」と、自分自身に対しても他者についても、私たちは何度も何度も呆れ果てます。
けれど、にもかかわらず、この復活の主イエスから、私たちは離れなくてもよいのです。いいえ、むしろ、とても罪深く、わがまま勝手で、自分の都合と幸いばかりにしがみつこうとする哀れな者同士だからこそ、だから私たちは、このお独りの方から決して離れ去ってはなりません。私が罪深く、あなたも同じくやっぱりかなり罪深いからといって、私たちは互いに背を向けなくても良く、互いに離れ去っていかなくてもよい。あまりに粗末な、貧しくて小さな小さな土の器に、けれど格別に素敵な宝をもつ者同士であるので(コリント手紙(2)4:7。私たちは約束されています。その約束は力強く真実です。見なさい。私たちの只中に、すぐ近くに主がいてくださいます。思い煩いを、心細さを、苛立ちや不安を、なにしろこの救い主イエスに向かってこそ打ち明けなさい。そうすれば、私たちの心と考えとを主なる神さまが守ってくださるでしょう(ピリピ手紙4:5-)。もちろん、ただキリスト・イエスによってこそ。