2021年3月28日日曜日

3/28「救い主が十字架につけられた」ヨハネ19:17-37

 みことば/2021,3,28(受難節第6主日の礼拝)       312

◎礼拝説教 ヨハネ福音書 19:17-37              日本キリスト教会 上田教会


『救い主が

十字架につけられた』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 19:17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。……28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。31 さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。32 そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。33 しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。34 しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。35 それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。36 これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。37 また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。 ヨハネ福音書 19:17-37

まず17-18節、「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた」。神ご自身であられる救い主イエス・キリストが、私たち罪人を罪と悲惨の奴隷状態から救い出してくださるために、このように罪のあがないを成し遂げてくださいました。私たちを救うためには、救い主イエスは罪人の身代わりとなって恥と苦しみと死を引き受けなければなりませんでした。私たちの罪の大きさと悲惨さがどれだけ大きかったのかが、ここに示されます。またそこまでしても、なんとしてでも私たちを罪から救い出そうとされた神の愛の大きさと深さが、ここに現れています。死刑にされる犯罪者は、その処刑場所まで、自分がはりつけにされて死ぬための十字架を自分自身で運ばねばなりませんでした。神が身を屈められた、そのへりくだりの深さを、私たちはここに見ています。救い主イエスは、このように私たちのために罪人の一人に数えられ、神の呪いを代わって受けてくださいました。神の律法の規定によれば、罪のあがないのために血を流された犠牲の生き物は幕屋の外に運び出されることになっており、木にかけられる者は神から呪われると宣言されているとおりにです(レビ16:27,申命記21:23。ですから、あのお独りの方の犠牲の死によって、私たちの罪があがなわれ、罪から清められたことを私たちは確信して良いのです。このお独りの方が呪いを受け、罪とされたのは、彼にあって私たちが神の義を受け取る(=神に「よし」とされ、受け入れられ、喜び迎え入れられる)ためでした(2コリント手紙5:21

19-22節、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。十字架の上にかけられた罪状書きには、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてありました。祭司長たちがそれを捻じ曲げようとしましたが、ピラトが書いたとおりに「ユダヤ人の王」とされました。ユダヤ人の王であり、また、世界とこの私たちの王でもあられる方として、救い主イエスは十字架にかけられました。そうあるべきことが成し遂げられました。その方に「ダビデの王座が与えられ、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続く」と神の御使いが予告したとおりに。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と東から来た博士たちが探し求めたように(ルカ1:32-33,マタイ2:2。「この世界の王とは全く違う王国の王である」と彼ご自身が総督ピラトに答えたように。永遠に支配をつづける真実な王として彼は生まれ、生きて、死んでいかれました。死んだ後にも、もちろん死人の中から復活なさり、終わりの日まで王としてこの世界と私たちを治めてくださるために。

 23-27節。救い主イエスが十字架にかけられたあと、兵隊たちはイエスの衣を分け合い、くじを引きました。また十字架の上で救い主イエスは母マリヤと弟子の一人を引き合わせ、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」「ごらんなさい。これはあなたの母です」と彼らを新しい家族となさいました。私たちに対してもそうであられるように、救い主イエスはマリヤに対しても憐み、心を砕いて配慮をしてくださいました。もちろん彼女は祈りや崇拝の対象ではなく、神からの憐みと支えと養いを必要とする、生身の人間に過ぎなかったからです。私たちもそうです。「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(1ペテロ手紙5:6-7と促されているようにです。

28-30節、「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた」。用意されていた酸っぱいぶどう酒について、少し説明します。死刑にされる罪人が十分に責めさいなまれた後で、あわれな罪人の死を早めて楽にしてあげるために、こうした飲み物が用いられていたようです。けれど、ここでよく分かっている必要があることは、救い主イエスはご自分から「その酸っぱい飲み物を早く飲ませて、楽にしてほしい」などとは求めなかったことです。罪人の救いのために必要なすべて一切が成し遂げられることを確かめたうえで、必要なすべてが成し遂げられるまでは、苦しみから解放されることを求めませんでした。それは、私たちへの無限の愛と、私たち罪人の救いに対する測り知れない心遣いと熱情です。何時間もかけて、ゆっくりと少しずつ彼は死んでいかれたのであり、彼がこうむった苦痛ははなはだしいものでした。それでもなお神の裁きに対して罪人たちの罪のつぐないを果たし、罪の清めがすべての点で完全なものとなるまで、苦しみと死から解放されようとは少しも望みませんでした。しかし、どうして、「すべてのことが成し遂げられた(=終わった)」と救い主イエスは言っているのか。罪人の救いのためには、神ご自身である救い主の死と復活こそがどうしても必要です。まだ彼は死んでいないし、まだ死人の中からよみがえっていません。「すぐあとに起こるはずのこと」を、救い主イエスは、ここですでに実感し、はっきりと知っていました。それで、「今や万事が終わった」ことを知り、「すべてのことが成し遂げられた(=終わった)」と救い主イエスは言っています。「聖書に書かれているとおりに死んで、墓に葬られ、三日目に死人の中からよみがえった」(1コリント手紙15:3とは、このことです。やがて間もなく、聖書に約束されていた救いの出来事がすっかり完全に成し遂げられようとしています。

このようにして救い主イエスは、私たちにも、人間たちにではなく、神にこそ従って生きるようにと命じています(使徒4:19,5:29。神の御心に対して十分に従順であり、神への服従を貫いて生きる在り方を。はなはだしい苦痛の只中にあっても、悩みと苦しみに責めさいなまれるときにも、神さまの喜ぶところのことをなして生きるようにと。それが、イエスの弟子である私たちすべてのクリスチャンに必ずきっとできるからと。神が、この私たちのためにもその従順の道を成し遂げてくださると。苦しむとき、悩みの只中で、けれど私たちはそれがいつまでつづくのかを自分では決めないし、自分自身で選び取ることもしません。その判断は神にだけお委ねすることができるからです。「アバ父よ。あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36と。

31-37節、「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある」。ユダヤ人の時間の考え方では、一日は夕方から始まります。「夕べがあり朝があった。夕べがあり朝があった」と世界創造の最初の7日間が数えられていたとおりに。そして、何も動かさず。わずかも働いてはならないと律法で定められている安息日の開始時間が迫っていました。安息日が始まる前に、処刑された罪人の遺体を下ろし、葬りの用意も済ませてしまいたいと人々は考えました。死刑にされた罪人が本当に死んでいるのを確認するために、足を折ります。けれど、十分に死んでいるとして、ローマ人の兵隊は救い主イエスの足を折りませんでした。けれど一人の兵隊がその死を確かめるためにわき腹を槍で突きました。「すぐ血と水とが流れ出た」と証言されています。

 救い主イエス・キリストが私たちに贈り与えてくださった「水と血の恵み」は今日、洗礼と聖晩餐という二つの聖礼典によって証言され、受け取られつづけています。神に背きつづける罪から解放され、私たちが清くされることは、新しいいのちを恵みによって神から受け取ることからはじまるからです。洗礼を受けることからそれははじまり、聖晩餐のパンと杯は罪のあがないが確かに成し遂げられたことを保証して、私たちを養い育てつづけるからです。そのように洗礼と聖晩餐によって、私たちは救い主イエスの恵みのもとへと導かれ、主イエスを信じる信仰によって、新しいいのちを受け取ります。

 あのとき、十字架の木の上で、救い主イエスの心臓の鼓動は止まり、彼は確かに息絶えて、死んでいかれました。神ご自身である彼の死が確かにあったので、罪をあがなう犠牲が成し遂げられました。彼の死と復活が確かにあったので、彼を信じるキリスト教信仰と、神を信じて生きる私たちの生活は虚しい砂の上にではなく、堅い岩の土台の上にしっかりと立てられています。彼が死んで復活なさったので、彼を信じる私たち一人一人も新しいいのちに生きる者たちとされました。

 


3/28こども説教「次の総督の前での取り調べ」使徒25:1-8

 3/28 こども説教 使徒行伝25:1-8

 『次の総督の前での取り調べ』

 

25:1 さて、フェストは、任地に 着いてから三日の後、カイザリヤからエルサレムに上ったところ、2 祭司長たちやユダヤ人の重立った者たちが、パウロを訴え出て、3 彼をエルサレムに呼び出すよう取り計らっていただきたいと、しきりに願った。彼らは途中で待ち伏せして、彼を殺す考えであった。4 ところがフェストは、……言った、「では、もしあの男に何か不都合なことがあるなら、おまえたちのうちの有力者らが、わたしと一緒に下って行って、訴えるがよかろう」。6 フェストは、彼らのあいだに八日か十日ほど滞在した後、カイザリヤに下って行き、その翌日、裁判の席について、パウロを引き出すように命じた。7 パウロが姿をあらわすと、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、彼を取りかこみ、彼に対してさまざまの重い罪状を申し立てたが、いずれもその証拠をあげることはできなかった。8 パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明した。         (使徒行伝25:1-8

                              

 前の総督から次の総督フェストへと、ローマの役人が交代して、なおパウロに対する取り調べがつづきます。7-8節、「パウロが姿をあらわすと、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、彼を取りかこみ、彼に対してさまざまの重い罪状を申し立てたが、いずれもその証拠をあげることはできなかった。パウロは『わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない』と弁明した」。ユダヤ人たちはパウロに対して思い罪状を申し立てましたが、誰一人もその証拠をあげることができませんでした。パウロ自身も答弁します、「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザル(=ローマ皇帝)に対しても、なんら罪を犯したことはない」と。しかもパウロはやがて、もうすぐ「ローマ皇帝に訴え出ます」11節)と言い出します。裁判の場所はそうして、エルサレムからカイザリヤへ、さらにとても遠いローマへと変えられていきます。神の国の福音が遠くまで告げ知らされていきます。「あなた方は出ていって、すべての国民を弟子とし、バプテスマを施し、あなたがたに命じておいたすべてのことを教えなさい」(マタイ28:18-20と復活の主イエスから命じられていた通りにです。神さまが、パウロにも私たちにも、神の国の福音を伝えるその同じ一つの働きをさせようとしています。 

2021年3月21日日曜日

3/21「ある金持ちの願い」ルカ16:19-31

 みことば/2021,3,21(受難節第5主日の礼拝)        311

◎礼拝説教 ルカ福音書 16:19-31                    日本キリスト教会 上田教会

『ある金持ちの願い』

 

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

 16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。   (ルカ福音書 16:19-31


 主イエスがたとえ話を用いて、私たちに語りかけます。ある金持ちがいました。あの彼は、豊かな良いものを与えられていましたが、この世界で自分が満たされるために、自分が喜ぶためにだけその豊かな良い物を使いました。後から来るもう一つの世界のことは思いもしなかったし、ほかの人たちが喜んだり悲しんだり、満たされたり飢えたり淋しい思いをすることなど、気にも留めませんでした。やがて死んでしまった後で、自分の苦しみを癒してくれる者もなく、また永遠の住まいに迎え入れてくれるような友達(16:9)1人も持っていないと気づきました。

 かつて外国のある小説家が言いました。「人は、死んでしまうことが恐いのではない。ただ、死ぬことが恐いのだ」と。だから恐いことを忘れて、なるべく考えないようにして、その日その日を生きてゆく。私たちは、やがて自分が年老いて衰えてゆくことや、死んでしまうことを忘れて、なるべく考えないようにして、その日その日を気ままに生きてゆくこともできます。けれど、それはもったいない虚しい生き方です。むしろ今日は、私たち自身がやがて死んでしまうことを想うための日です。死と、その後につづく新しい生命を想うための日です。主イエスは十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだりました。やがて三日目に死者の中から復活しました。だからこそ私たちも、やがて死んで葬られ、新しい生命に復活させていただけます。「やがて」そうであるというだけでなく、あの初めの日、洗礼を受けてキリスト者とされた時から、「すでに」私たちの死と復活は始まり、それは繰り返されつづけます。キリスト・イエスに結ばれるために、そのために私たちは洗礼を受けました(ローマ手紙 6:3-11)。それは同時にまったくキリストが引き受けてくださったその苦しみと死にあずかるためでした。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者とされました。私たちの中の『罪に支配された古い自分』というものが、キリストと共にはりつけにされたのです。日毎に、古い自分が死に渡されつづけます。生涯かけて、葬られつづけます。それは、罪に支配された体が滅ぼされ、罪に支配された心の思いも滅ぼされ、もはや人間中心の思いの奴隷にならないためでした。私たちはキリストと共に死んだのですし、日毎に死に続けます。それでようやくキリストと共に朝ごとに新しく生きることになります。

 さて、自分が死んでしまった後で、あの金持ちは2つのことを願いました。まず第1に、自分の今の苦しみを和らげてもらいたいと。24節「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています」。その願いは退けられました。次にあの彼は、自分の家族のために願い求めました。28節「わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」。彼の願いは、私たちにもよく分かります。この私だって同じく願い求めるでしょう。あなたも、そう願うかも知れません。「私には大切な兄弟がいる。大切に思っている夫があり妻があり、子供たちがいる。大切な友達がいる。その彼らにぜひ」と。その切なる願いに対して、アブラハムの口を用いて主イエスご自身がこう答えます;「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう」と。モーセと預言者とは、旧約聖書のこと。むしろ、聖書66巻全体です。けれどあの彼は、それだけでは十分ではないと思いました。なにしろあの5人の兄弟たちは、5人が5人ともとても賢くて優秀で、力強く、現代的な感覚を身につけており、しかもそれぞれすごく忙しいのです。だから、あの5人の兄弟たちの心に十分に届き、魂に鳴り響くためには、もっと他の、もっと刺激的で魅力のある、もっと説得力のある感動的な何かが必要だ。胸を打つ力強い話と、目に見える誰からもよく分かるはっきりした証拠が。そうでなければ神に出会うことなど出来ない。神の恵みとあわれみを知らせることもできず、神へと立ち返らせることなど、とてもとても無理だろう。「いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう。神へと心を向け返すでしょう」と。それに対する主イエスからの答えは、刃のように鋭く私たちの胸をえぐります。深く深く刺し貫きます;「もしモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」(31)

 きびしい言葉です。けれど、やはりこの言葉の中にこそ、あの彼の家族と彼自身のための救いの真相があります。私たちのかけがえのない大切な家族の一人一人と友人たちと、夫と息子と娘と孫と、私たち自身のための救いの真実があります。私たちのためにもモーセと預言者がありました。この私のためにも聖書の言葉があったし、一回一回の礼拝の言葉がありました。聖書に書いてあるとおりに、救い主が死んで復活してくださった(コリント手紙(1)15:3-5)。私たちが、このお独りの方を信じて生きることができるためにです。一日また一日と、この方から格別な生命と真理と歩んでいくに足る確かな道を贈り与えられつづけるために。このお独りの方が私たちに、語りかけつづけます。それなら私たちも、自分の家に帰って、今晩か明日の朝かいつか、あの大切な息子に、夫に妻に、年老いた親に、ぜひとも語っておくべき大切なことを語りかけることが出来るかも知れません。「・・・・・・ある金持ちがいた。やがてもうすぐ私が死に、そのうちお前も死んでしまうように、やがてその金持ちは死んでしまった。そこでようやく我に返り、深く後悔した。大切な家族に、ぜひとも伝えておくべき大事なことを話しておけば良かったのにと。神さまの独り子が地上に降りてきてくださった。罪の奴隷にされている人間たちをあわれに思ったからだ。ぜひとも、そこから救い出してあげたいと願ったからだ。神の独り子イエス・キリストが十字架につけられ、死んで葬られ、死者の中から生き返り、今なお生きて働いておられる」と。そのようにして、互いに失われていた親と子が、互いに失われていた夫と妻が、兄弟同士が、もう一度互いを見つけ出せるかも知れません。御覧なさい。あなたの家の前にもラザロがいます。あるいは家の中の茶の間や台所に、あなたの職場に、あなたのための1人のラザロが横たわっています。あなたの帰りを待ち侘びています。

 少し古い時代の信仰問答は、「信じれば十分であるはずなのに、なぜ洗礼があり、聖晩餐のパンと杯があり、毎週毎週の礼拝があるのですか」と問いかけます。そして、直ちにこう答えています、「弱いわたしたちを助け、支えるためです。救われていることを確信させ、信仰のうちに私たちを守り、養い、成長させつづけるためにです」(「ジュネーブ信仰問答」 問308-320参照)と。弱い私たちだからだ、と告げています。そのとおり。私たちはみな、心も体もとても弱いのです。ですから、支えと助けがなければ簡単に倒れてしまいます。神さまを信じる心も同じで、信仰が弱くなって倒れてしまわないようにと、神さまが支えの手段をいくつも与えてくださっています。一回一回の礼拝がそうであり、聖書を読むことも祈りも、教会の集会や交わりも、私たちの信仰を支えるための手段や道具として神さまが用意してくださいました。

 神に逆らう罪の奴隷状態から解放され、神のもとへと立ち返りつづけ、神の御前で新しく生きることが積み重ねられてゆく。その具体的な中身と在り方は、ローマ手紙 6章から8章の前半に詳しく説き明かされます。「もし、わたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もし、わたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる(ローマ手紙 6:5-8と。あなたも僕も誰でも、心に悪い考えや悪い性分を抱えています。なんだか意地悪だったり、頑固で強情だったり、優しい親切な心になれず、すぐに怒ったり恨んだりしつづけてしまう心を。臆病で、生ズルイ考えを。その罪の言いなりにされないで生きられるなら、とても幸いです。自分自身のその悪い考えや性分をねじ伏せ、罪と死に別れて生きることができます。『もし~なら、~となる』と、さきほど読んだローマ手紙6章の5節と8節で二度念を押されています。つまり、『もし~ではないなら、~とはならない』と。しかも、罪に死んで神に生きている自分であると『認むべきである』11節)と。認めようとしないあまりに強情で頑固な自分がいて、神のお働きの邪魔をし、逆らおうとする自分がいるからです。『古い罪の自分と日毎に死に別れる』ことと『神の御前に、新しく生きはじめること』を、もちろん神こそが、この私たちのためにも成し遂げてくださいます。そうか。すでに死んだ人間として、古い罪と死に別れさせていただいた人間として、この私たちは大切な家族や連れ合いや子供たちや隣人たちのもとへ出かけてゆくことができます。私たちは、新しく出会うことができます。ようやく互いに見つけ出し、ついにとうとう互いに生き返ったことを思って、そこで恵みとあわれみの祝宴を生きはじめることが出来るかもしれません。なぜなら十字架につけられて殺されたイエス・キリストが私たちの目の前に描き出され、その御子イエスの霊が私たち一人一人の体の中に住んでくださり、語りかけつづけてくださるからです。父なる神が、救い主である御子イエス・キリストを死人の中からよみがえらせてくださったからです。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。とうとう見つけた」(ルカ15:24)と言って互いに喜び祝うことができます。もし、神が私たちをあわれんでくださるならば。神のあわれみを、この私たちも受けとめることができるならば。

3/21こども説教「総督は不安に思った」使徒24:22-27

 3/21 こども説教 使徒行伝24:22-27

 『総督は不安に思った』

 

24:22 ここでペリクスは、この道のことを相当わきまえていたので、 「千卒長ルシヤが下って来るのを待って、おまえたちの事件を判決することにする」と言って、裁判を延期した。23 そして百卒長に、パウロを監禁するように、しかし彼を寛大に取り扱い、友人らが世話をするのを止めないようにと、命じた。24 数日たってから、ペリクスは、ユダヤ人である妻ドルシラと一緒にきて、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰のことを、彼から聞いた。25 そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。26 彼は、それと同時に、パウロから金をもらいたい下ごころがあったので、たびたびパウロを呼び出しては語り合った。27 さて、二か年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。ペリクスは、ユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロを監禁したままにしておいた。        (使徒行伝24:22-27

 

 24-26節、「数日たってから、ペリクスは、ユダヤ人である妻ドルシラと一緒にきて、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰のことを、彼から聞いた。そこで、パウロが、正義、節制、未来の審判などについて論じていると、ペリクスは不安を感じてきて、言った、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。彼は、それと同時に、パウロから金をもらいたい下ごころがあったので、たびたびパウロを呼び出しては語り合った」。ペリクスという役人は、なかなか面白い人物です。彼は、主イエスを信じるパウロを2年間、自分の責任のもとに閉じ込め続けました。同時に、このパウロを何度も呼び出して、たびたび語り合いました。パウロからお金をもらいたいという下心(=した・ごころ。おもてに現わさずに持っている自分勝手な、自分の得を求める思い)もあった、と報告されています。また、キリスト教信仰の内容を聞かされて、そこにある正義、節制、未来の審判などについての神の御心、私たちに対する神の取り扱いを知り、不安にも感じました。もしかしたら本当のことかも知れないと思い始めたからです。だからこそペリクスは、その話を聞きつづけました。神さまがペリクスの心と耳を開かせつづけておられます。あのペリクスのためにも私たちのためにも、神さまがそのように生きて働いておられます。

2021年3月15日月曜日

3/14「二人の主人に仕えることはできない」ルカ16:13-18

         みことば/2021,3,14(受難節第4主日の礼拝)  310

◎礼拝説教 ルカ福音書 16:13-18                     日本キリスト教会 上田教会

『二人の主人に

仕えることはできない』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

16:13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。14 欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。15 そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。16 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。17 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。

                     ルカ福音書 16:13-18

 

6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。               (申命記 6:4-9)

 ごいっしょに読んだ中で冒頭の13節が最も大切であり、「神にこそ仕え、神の御心に従って生きるように」と救い主イエスご自身が勧めています。神以外の何者にも仕えずに、ただ神をこそ自分のただお独りの主人としつづけ、自分は神に仕えるしもべであると肝に据えて生きていくこと。それこそが幸いな、祝福された生涯です。さて、14節以下では『神の律法を尊び、重んじて生きる』ことが説き明かされます。神を愛し、神に仕えて生きるとは、そのまま直ちに、『神の律法を尊び、重んじて生きる』ことであるからです。救い主イエスがこの地上に降りて来られ、救い主としてお働きになった目的が2つ明らかにされています。(1)罪人を救うことと、(2)律法を成就し、そこに中身と生命を注ぎ込むことです。この2つは互いに結びついて1つの恵みです(1テモテ手紙1:15,マタイ福音書 5:17。そこで14節以下を順に確かめて、最後にまたこの13節へと戻ってきます。

 14-15節。「神と富とに兼ね仕えることはできない」とおっしゃる救い主イエスを、欲の深いパリサイ人たちがあざ笑いました。そこで、その笑っている彼らに向かって主イエスはおっしゃいます、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」と。彼らがあざ笑ったのは耳が痛かったからで、富や財産に執着して、その奴隷にされてしまい、神に仕えることができなくなっていたからでした。図星だったので、あざ笑ってみせました。また彼らは富に執着するだけでなく、「人々の前で自分を正しいと見せかける」ことにも執着して、地位や名誉や人から尊ばれることが何より好きで、その欲望に取りつかれてもいました。けれど神は、「それらは虫がついたり錆びたり腐ったりし、泥棒が来て盗み出したりもする。やがて失われるはずの虚しい宝にすぎない」とキッパリと言い切ります。それらを愛し、執着しすぎることがないようにと私たちは警告されています。

 16-17節、「律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」。まず、「律法と預言者とはヨハネの時までのものである」。それは、律法も預言者たちの預言も新しい段階に入ったからです。長い時間をかけ、人間たちによって、律法は骨抜きにされ、中身のない形ばかりのものに変えられてしまいました。そこに生命と中身がもう一度、改めて吹き込まれなければなりません。別のときに主イエスはおっしゃいました、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」(マタイ5:17-19。主の弟子パウロが説き明かし、宗教改革者たちが改めて読み取ったように、律法は私たちの正しさやふさわしさを証明するものではなく、逆に、私たち自身の罪深さや心が頑固であることを証しします。神の憐みによって救われることを願って、救い主イエスへと向かわせるために。救い主イエスを信じて救われた者たちにとって、神の律法は御心にかなって新しく生きはじめるための指針となります。また、預言者たちはやがて来られる救い主を指し示しつづけました。すると、律法も預言者もともに、救い主イエスを指し示し、イエスを信じる信仰へと人々を導く役割を与えられていたことが分かります。次に、「神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している」ということ。よく分かりにくい言い方です。マタイ福音書11:12では、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と。「突入している。激しく襲われている。奪い取っている」。これらの激しい言葉使いは、決して否定的な悪い意味で言われているのではありません。神ご自身が、神を求める炎のような熱情と渇望を人々のうちに燃え上がらせました。それまで眠っていたような人々が、荒野で呼ばわる洗礼者ヨハネの声に呼び覚まされ、「神の国をぜひ見たい。そこに入れていただきたい」と押し寄せました。まるで激しく襲うような、奪い合うかのような熱情をもって。さらに、主イエスが神の国の福音を語り、その弟子たちが語り継ぎ、すると、その福音の言葉を聞いて、するどい剣で胸を刺し貫かれたかのように心に痛みを覚えて、多くの人々が神を信じて生きることをし始めました。さらに、「律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい」。なぜなら救い主イエスご自身が神の律法を成就するためにこの世界に降りてこられたからです。律法によって、私たちが自分自身の罪深さと邪悪さ、心の頑固さを痛感させられ、神の憐みを求めて主イエスへと向かい、主イエスを信じて生きることをしはじめるために。だからこそ神の律法の一点一画も損なわれることなく、成し遂げられて生命を宿し、その目的を果たします。つまり、救い主イエスを人々に信じさせ、また、『神を愛し尊び、隣人を自分自身のように愛し、互いに尊び合って生きる者たちとさせる究極目標』を果たしつづけます。このように律法の目標は、福音そのものであったのです。

 18節、「すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである」。神ご自身とその律法の尊厳や神聖さが軽んじられ、損なわれようとしていた時代でした。人間たちの手によって、神の律法そのものが都合よく捻じ曲げられていましいた。あるとき、パリサイ人たちが主イエスを試そうとして近づいて来て、こう問いかけたほどです。「何かの理由で夫がその妻を出す(=離縁する)のは差し支えないでしょうか」(マタイ19:3と。「妻を離縁する場合には離縁状を渡せ」と聖書(申命記24:1に書いてあるし、離縁状を渡しさえすれば思いのままに離婚してもよいではないかと。主イエスは答えます、「あなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許した。けれど、初めからそうではなかった。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」(マタイ19:8-9と。つまらない些細な理由で好き勝手に離婚してよいわけではありません。「あなたがたの心が頑ななので、神が、仕方なしに離婚をゆるしてくださったのだ」と告げられました。実は私自身も「×いち」(=バツいち。離婚を一回経験した者)で、離縁状を渡されてしまった身勝手で頑固すぎる人間の一人です。心が痛みます。私たちは皆共々に、あまりに心が頑なな者同士です。創世記2章があるから、軽はずみに離婚してはなりません。「神が一つに結び合わせてくださったものを人間が二つに引き裂いてはならない」からです。また、1コリント手紙7:12以下にとても重要な証言がなされています。「未信者の連れ合いやその子供たちも、そこに1人のクリスチャンがいるおかげで神の恵みと祝福の領域に据え置かれているし、すでに彼らもまた清くされている」と。それでもなお、心のかたくなさを憐れんでいただいており、やむを得ない場合には離婚もゆるされます。神の尊厳や神聖さとともに、その憐み深さを覚えておかねばなりません。また、この言葉は人間同士の夫婦関係ばかりでなく、私たち人間と神との間の本質的な深い結びつきをも指し示しています。クリスチャンは救い主イエス・キリストのものとされ、旧約聖書の時代から「夫と妻のように」神との結婚関係にあるとされ、「すべてのクリスチャンは、花婿である主イエスと添い遂げると誓った花嫁である」と教えられています(ヨハネ福音書3:29-30,マタイ福音書25:1-13,エペソ手紙5:22-32。よく覚えておかねばなりません。

 では、13節に戻りましょう。「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。神と富。もっとはっきりと言い表すならば、『神』と『神以外の、他すべて一切』の両方ともにいっしょに仕えることは決してできない。もし、幸いなクリスチャンでありたいと心から願うならば、誰でも主イエスがおっしゃったこの言葉を、腰を据えて、じっくりと考え巡らせつづける必要があります。『神に仕える心』と『神以外のなにものかに仕える心』、二つの相反する心を抱いたままでは、神に仕える幸いなクリスチャンであることができません。つまり、神を第一として、本気になって腹をくくることができるかどうか。もし、できなければ、いつの間にか、その人は神に仕えることを二の次、三の次にし、どんどんどんどん後回しにしつづけて、それでもなお心が少しも傷まない。そのような二心(ふたごころ)のクリスチャンに成り下がってしまうかも知れません。主イエスに仕えて生きることを本気で考え巡らせるなら考え巡らせるほど、それだけいっそう、「人知では測り知れない神の平安」が私たちを守りはじめます。自分自身や他の人たちのためではなく、私たちの救いのために死んで生き返ってくださったお独りの方のために生きようとすればするほど、「信仰からくる喜びと平安」(ピリピ手紙4:7,ローマ手紙15:13が私たちをしっかりと堅く支え続けます。もし、救い主イエス・キリストに仕えて生きることがそうするだけの価値があることであるならば、この私たち一人一人はいよいよ心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、このお独りの方にこそ仕えて生きるのです。神以外のもの。富や財産。豊かな暮らし。人々からの良い評価。愛され、頼りにされ、人々から重んじられて生活すること。社会的な地位、名誉。様々な喜び、楽しみ。多くの人々にとって、そうしたものが人生のおもな関心事になってしまいます。生きる目的とさえ言ってよいほどに。けれど兄弟姉妹たち、それらを愛しすぎ、執着しすぎてしまうことはとても危険です。

 この私たち自身が、他のものを愛するあまりに神を軽んじることが決してありませんように。他のものに親しんで、そのあまりに神を疎んじてしまう私たちとなることがありませんように。「善かつ忠なるしもべよ」と、終わりの日に、ぜひ私たちも、ただお独りの主人から喜んでいただきたいのです。

 

 

3/14こども説教「パウロの答弁」使徒24:10-21

  3/14 こども説教 使徒行伝 24:10-21

 『パウロの答弁』

 

24:12 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、13 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。17 さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。18 そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。 (使徒行伝 24:12-18

 

 ローマ帝国から送られてきている役人(=総督)の前で、いよいよパウロに対する取り調べが始まっています。パウロは、キリスト教の信仰がどういうものなのかを、ここで知らせようとしています。訴えられたことのほとんどは中身のない、ただの悪口でした。騒ぎを起こしたこともなく、神殿を汚すようなこともしていません。ただ「異端の頭」だと言われたことについては、これに答えることが信仰の中身を知らせるために役にたつことだと考えて、説明をしはじめました。「異端」というのは、自分たちが信じている内容とはずいぶん違う、間違った悪い教えという意味です。そのころのキリスト教は、他の人々からそのように思われていました。14-15節、「ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです」。律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることというのは、旧約聖書のことです。むしろ聖書全体と言っても良いでしょう。「正しい者も正しくない者も、やがてよみがえる」ということもまた、聖書が告げている内容です。聖書が教えるとおりに信じている。パウロも私たちすべてのクリスチャンも、この同じ場所に立っています。そのうえで、「神が救い主イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、このお独りの方によって世界に救いをもたらそうととしている」(使徒2:32,4:10-12。これが、キリスト教信仰の大切な中身です。

 

2021年3月8日月曜日

3/7「不正な家令の利口さ」ルカ16:1-12

       みことば/2021,3,7(受難節第3主日の礼拝)  309

◎礼拝説教 ルカ福音書 16:1-12                   日本キリスト教会 上田教会

『不正な家令の利口さ』

 

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

16:1 イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。12 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。          (ルカ福音書 16:1-12


分かりにくい、やや難しい箇所です。けれど9節にあるように、ここには、『神さまのものである永遠の住まい。神の国』に迎え入れてもらえるための心得と秘訣が説き明かされているようです。ある金持ちの主人は神さまのことです。その主人の財産の管理を任されているしもべは、私たち人間です。まず1-9節、「イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう」。まず、一番最初に引っかかるのは『不正の富』という言い方、天の主人に対する他の人々の借金を扱うこの家令(=その主人の家の管理を任せられている管理人)の取り扱い方。また、クビにされそうだったこの管理人がズルくて間違ったやり方をしたはずなのに、それを天の主人が喜び、主イエスご自身も「よくやった」(9-12節参照)と喜んでくださっていること。この「不正の富」(9,11)は「正しくはない、不当な仕方で手にした富。自分には資格も権利もないはずの富」という意味です。お金や財産それ自体は善でも悪でもない。警戒されつづけてきたのはお金や財産そのものではなく、それに執着しすぎることやむさぼりの心でした(13節,テモテ(1)6:10参照)

 10-11節。「小さなこと」と「大きなこと」、小さなことは他の人々がしでかした神への罪と背きです。大きなこととは、他の誰でもなくこの自分自身がしでかした神への罪と背きです。また最重要の重大問題は、この私自身こそが罪のゆるしを神さまから受け取って、たしかに救われるのかどうか。それこそが「真の富」でもあります。つまり、天に蓄えて積み上げてゆくはずの私たちのための宝です。神に信頼し、聞き従い、神にこそ感謝をしながら幸いに生きて死ぬことです。どんな神さまなのか。どんな私たちなのか。その神さまから私たちは、どういう取り扱いと救いの約束を受けているのか。家を留守にしてやがて間もなく帰ってくる主人。1匹の羊を探しに行ったあの羊飼い。あの、銀貨10枚の持ち主。2人の息子と暮らしていた、「いなくなっていたのに見つかった。死んでいたのに生き返った」と悲しんだり喜んだりしたあの父親。憐れに思って家来の借金をすべて帳消しにしてやり、その家来をすぐに呼び戻して、「不届きな家来め。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」と厳しく叱った王さま。「あの最後のものにも同じように支払ってやりたい。自分のものを自分のしたいようにする」と答えたぶどう園の主人(マタイ18:23-35,20:1-16,24:44-51,ルカ15:3-32。そして今日のこの主人。これら全部、同じお独りの神さまです。神ご自身の、同じ1つの心です。

 さて、神さまに逆らって背を向けること。それが聖書の言うところの『罪』です。罪を、神さまへの『借金』『負債』『負い目』などとも言い表しました。また、『富』や『宝』『労働賃金』などと語られるとき、それらは神さまからの自由な憐れみの贈り物でした。同時に地上に生きている間に使うようにと、期限付きで貸し与えられているもの。神さまご自身のものである財産です。それぞれ死ぬときに、私たちは裸で土に還ります。1-9節までは、私たちがどのように生きて死ぬのか、死んだ後どうなるのかを考えさせるために語られたたとえ話です。『この世の子ら』と『光の子ら』と比べて置かれました。『この世の子ら』は神さまを信じないで、死んだらそれでおしまいだと考えている人々です。だから、もちろんこの世でどうやって生きていくのかと、それしか考えることができません。それでもなお、この世界で自分の居場所を手に入れようと必死になり、知恵をしぼります。神を信じて生きる私たち『光の子ら』は、あの彼のあり方をよくよく見習いなさいと促されます。私たちもあの抜け目ない管理人を見習って生きてゆくとして、最後に1つの疑問が残ります。天の主人に対する友だちや知り合いたちの借金を割引にしてやり、私たちは友だちの家へ転がり込む算段でした。ところが迎え入れてもらう先は、友達や知り合いの家ではなく、『天の主人のものである永遠の住まい』であり、借金割引を主人も主イエスご自身もたいそう誉めてくださり、大喜びに喜んでくださっている。

 ここまでくれば、私たちはもうすっかり知らされており、すべてを思い出しています。(1)神さまに対する友だちや知り合いたちの借金を割引いてやると、救い主イエスがどうして自分自身のことのように喜んでくださるのか。また、友だちの家に迎え入れられるはずだったのが、どうして天の父の永遠の住まいへと迎え入れられるのか。「これら小さい者の1人にしたことは私にしてくれたことだ」(マタイ25:40,45)と主イエスがはっきり仰ったからです。また、「あなたがたのために場所を用意しに行き、あなたがたをそこに迎え入れる」(ヨハネ福音書14:2-3)と主イエスがすでにはっきりと約束してくださっているからです。(2)しかもそれは、私たちがふさわしい十分な働きをしたからではなく、父の永遠の住まいに迎え入れられるに値するからでもありません。ただただ憐れんでくださったからですし、その御父からの憐れみを受け取ったからです(ルカ1:50,54,55,72,77-78,1ペテロ2:10,ローマ11:30-32参照)。(3)あの家令(=主人の家の財産の管理人)は「賢く振舞ったし、抜け目なかった」。それなら私たちは、あの彼よりもさらにもっともっと賢く振舞うことができます。どんな主人なのか、どんな心の主人なのかを知っているからですし、その主人からどういう扱いを受けてきたのかもよくよく覚えているからです。私たち1人1人も、天の主人の財産を委ねられた管理人たちです(マタイ24:44-51,1コリント4:1-2,2コリント5:18-19。なによりも主人の憐み深い御心に忠実であることこそが求められます。手元には、主人に対する隣人たちや家族や知り合いたちの借用書を何枚も何枚も私たちは握っています。私たち自身も、あの彼に負けず劣らず主人のものである財産をずいぶん無駄使いしてきました。「会計報告をいますぐ出せ」と今日の夜か明日にでも言われるかも知れません。クビにされて、主人の家を追い出されて、路頭に迷うかも知れません。さあ困りました。主人に借りのある者を1人1人呼んで、大急ぎで、借用書の書き直しをしましょう。いくらに書き直せばいいでしょう。ほかの人たちの借用書も、どの人の借用書も例外なく、「主人への借り、油も小麦もなにもなし」。天の主人に対するこの自分自身の借用書はどうでしょう。同じです。「主人への借り、油も小麦もなにもなし」。天の主人を知っている光の子らであるなら、借用書の正しい書き直し方を誰でも知っています。誰のどの借用書に対しても、「主人への借り、油も小麦もなにもなし」。2割3割の減額をしてあげるどころではなく、全額を、すっかり丸ごと帳消しにしてあげることができます。なぜでしょう。なぜならば、それこそが私たちが主人からしていただいた、格別な憐れみの中身だからです。他の友人、知り合い、隣人、見たことも聞いたこともない赤の他人に対しても、どこの誰にでも同じ1つの流儀で手を差し伸べてあげることができます。聖書は証言します;(コリント手紙(2)5:18-22)「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」。神の福音の本質は、罪人が価なしに、ただ恵みによって罪ゆるされることでありつづけます。

 (4)ここでも、主なる神さまは、この大金持ちの主人そのままに、自分に借金のある者たちの借金が減ることをこそ喜び願いつづけます。損をしたくて損をしたくてたまらない、とでもいうように。借金を返してもらえてもそうでなくても、どの1人の借金もすべて丸ごと帳消しにしてやりたい、とでもいうように。その通りです。むしろ1人の罪人を憐れんで、罪の責任を問うことなくゆるし、すべて帳消しにしてくださって救うことこそが、主人にとっては他の何にもまさる利益であり、得であり、喜びでありつづけます。ぜひとも、よく心得続けているべきことがあります。どの一人も例外なく、皆、主人の財産を無駄使いし、いつクビにされても文句を言えないはずの、あまりに「不法」で、ふつつかすぎるしもべではありませんか。だからこそ、主人がご自身のものである永遠の住まいへと迎え入れてくださることを、聖書は「恵み」「あわれみ」と言い表しつづけ、私たちの教会の信仰告白もその一点に込められた福音の本質を言い表しました。つまり、「罪に死んでいる人は、ただただ神の恵みによるのでなければ決して神の国(=神の永遠の住まい)に入ることはできない」と。ご覧なさい。すっかり丸ごと帳消しにしてくださるための、主イエスの十字架がありました。それが確かにあったので、だからこそ、今ではすっかり丸ごと帳消しにしていただいています。では、私たちの魂の会計帳簿の整理をしましょう。《莫大な借金があったが、あわれみを受けて、全部帳消しにしていただいた》という私自身の驚きと、《あわれみを受けて、帳消しにしていただいた》という喜びと感謝に照らして。一から十まですっかり丸ごと。私たち自身の会計帳簿を、新しいノートに新しく書き始めましょう。

 


3/7こども説教「敵対者たちの訴え」使徒24:1-9

  3/7 こども説教 使徒行伝24:1-9

 『敵対者たちの訴え』

 

24:1 五日の後、大祭司アナニヤは、長老数名と、テルトロという弁護人とを連れて下り、総督にパウロを訴え出た。2 パウロが呼び出されたので、テルトロは論告を始めた。「ペリクス閣下、わたしたちが、閣下のお陰でじゅうぶんに平和を楽しみ、またこの国が、ご配慮によって、3 あらゆる方面に、またいたるところで改善されていることは、わたしたちの感謝してやまないところであります。4 しかし、ご迷惑をかけないように、くどくどと述べずに、手短かに申し上げますから、どうぞ、忍んでお聞き取りのほど、お願いいたします。5 さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。6 この者が宮までも汚そうとしていたので、わたしたちは彼を捕縛したのです。……それで、閣下ご自身でお調べになれば、わたしたちが彼を訴え出た理由が、全部おわかりになるでしょう」。9 ユダヤ人たちも、この訴えに同調して、全くそのとおりだと言った。         (使徒行伝24:1-9

 

 そのころ、ユダヤの国は他の国に支配される植民地でした。支配していた強く大きな国はローマ帝国です。ユダヤの国を植民地として治める役人(=総督)の前で、取り調べが始まりました。敵対者たちが、主イエスを信じるパウロを訴えはじめます。5-6節、「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。この者が宮までも汚そうとしていたので、わたしたちは彼を捕縛したのです」。パウロについて4つのことが訴えられました。①パウロは疫病のような男だ。②世界中のユダヤ人たちの間で騒ぎを起こしている。③ナザレ人たちの異端のかしらだ。④神の神殿までも汚そうとしている。それらは、ほとんど中身のないただの悪口です。ただ、「ナザレ人たちの異端のかしらだ」ということには、意味があります。「異端」とは、本当の信仰から道を踏み外してしまった、悪い間違った教えという意味です。ユダヤ人たちから見れば、キリスト教の教えは「異端であるかのように」見えました。自分たちと違う考え方や教えを、あまり軽々しく悪いもののように決めつけてはいけません。訴えている彼らとは違うただ1つのことを、パウロと私たちクリスチャンたちは信じています。イエス・キリストを救い主であり、神ご自身であると信じていることです。「死んで復活なさった救い主イエスによる以外に救いは無い。イエスを信じる者たちは罪をゆるされて救われる」(使徒4:10-12,ヨハネ3:16。これがキリスト教信仰のいのちであり、神を信じる信仰の中身です。

2021年3月1日月曜日

2/28「背いたことは一度もない」ルカ15:20-32

        みことば/2021,2,28(受難節第2主日の礼拝)  308

◎礼拝説教 ルカ福音書 15:20-32                   日本キリスト教会 上田教会

『背いたことは一度もない』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。                  (ルカ福音書 15:20-32)

 救い主イエスご自身が、大切なことをぜひ伝えようとして、このたとえ話を話しておられます。まず羊飼いと羊、次に持ち主と銀貨、そして最後に父親と二人の息子たち。3つのたとえ話は1組で、神さまご自身の只1つの心を私たちに伝えようとしています。さて、ある人に息子が2人いました。「ある人=父親」は、神さまのこと。「2人の息子」は私たち人間のこと。兄と弟、2種類の別々の人間、別々のタイプというよりも、同じ1人の私の中にも2つの在り方と心があります。私たちは、ある時にはあの兄のようであり、別の時には弟のようでもあります。今日は特に、兄の箇所を読み味わいましょう。

 24-30節、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』」。家に残って、ずっと父とともに暮らしていた兄さんは、その喜びあう父と弟の姿を見て、とても腹を立てます。取り残されたような淋しさを味わい、心を痛め、まるで自分という存在が踏みつけられたように感じました。この兄の腹立ちや悲しさ、苛立ちを、私たちも知っています。よく知っています。「私は何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけに背いたことはなかった。それなのに」。まず最初に気づくことは、自分は正しいと思い込んでいる人たちは、罪人(のように見える人たち)やふさわしくない(と思える人たち)に対して、しばしば思いやりに欠け、やや不健康な気持ちを抱いてしまいやすいことです。父の財産を使いつぶし、身を持ち崩して家に帰ってきた放蕩息子に対して、その年上の兄がどんな振る舞いをするのかが描き出されます。放蕩息子を大喜びで迎えている様子を目にして、兄はとても腹を立て、弟の欠点やふさわしくなさを言い立てます。父親がその子をあまりに寛大に温かく迎え入れているといって、これまでに積み重なった不平不満をあふれさせます。同じ息子であり、しかも年長の兄でさえあるのに、これほどに良くしてもらった覚えが一度もない。「自分の弟」と呼ぶこともできずに、30節、「あなたの身代(しんだい)を食いつぶしたこのあなたの子」と突き放した冷たい言い方をします。いなくなっており、死んでいたはずの家族を見つけ出し、けれど再び迎え入れることのできたその喜びを分かち合うことも出来ず、ただねたましい思いと、恨みつらみに支配されてしまいます。痛ましく、悲しく寂しい光景です。

 これは、主イエスの時代のユダヤ教徒たち、パリサイ人や律法学者たちの在り方や心情を現わしています。また後にキリスト教に回心したユダヤ人クリスチャンが同胞であるはずの外国人クリスチャンに対して抱く軽蔑や、ねたみや反発をも描き出します。彼らの目から見ると、後から神を信じるようになった外国人クリスチャンは、年下のあの放蕩息子のようにも見えたでしょう。取税人や罪人たちが救い主イエスから喜び迎え入れられている様子を眺めて、パリサイ人や律法学者たちが不愉快そうにつぶやいていたのと同じように15:1-2。放蕩息子の兄の不平不満や怒り、ねたましさはまた、今日のキリスト教会の中の多くの人々がしばしば実感することでもあります。この私たち自身の心にも、日常生活の現実のさまざまな場面で、あの兄と同じ不平不満や憤りが宿ります。

 なぜ、そうなってしまうのか。(1)まず第一に、彼らも私たちも自分自身の罪深さや、恵みに愛しない、ふさわしくない自分であることがよく分からず、「本当に罪深い私だ」などと実感できず、なかなかピンと来ないからです。それで、ついつい「他の人々よりも自分のほうが正しく、ふさわしい」という間違った愚かな幻想を抱きやすいからです。(2)そのために、私たちは他者に対して思いやりに欠け、慈悲深い心を持ちにくいからです。もし誰かが救われて、神の祝福と幸いにあずかったときにも、それを自分のことのように喜ぶことが難しくなります。(3)なによりも、『罪がゆるされ、恵みに価しないまま罪人が、ただ恵みによって罪から救い出される』という福音の本質について、すっかり誤解してしまっているからです。『ただ恵みによるのでなければ、罪に死んでいる人間は決して神の国に入ることができない』という福音の場所に立ち、すべての人が神に大きな負債を負う罪人であり、誇るべきものは何一つもなく、持っている良いもので神からただ恵みによって贈り与えられたのでないものは何もないと気づかされた者たちは、ついにとうとう、あの兄が陥ってしまった心の病いから解き放たれます。

この私たち自身も、この《兄》の悔しさや不満を折々につぶやきます。神の御前に深く慎み鎮まる者だけが、慎み弁える限りにおいてだけ、神ご自身のお働きのごく一部分を喜ばしく担うことをゆるされるのです。片隅の、ほんのごく一部分を。ほんのひと時だけ。例えば、牧師は精一杯に必死に説教をしてもよいでしょう。けれど、それが誰にどの程度に届くのかは、神の領域であり、神ご自身の守備範囲です。例えば教会に奉仕する者たちは、それぞれ精一杯に心を尽くして働いてもよいでしょう。けれど、それがいつどのように実を結ぶのかは、神の守備範囲なのです。「私たちがこう計画し、こう働いた。だから」と出来事や一つ一つの結果を眺めるならば、私たちは、とても大事なものを見落としてしまうことになります。主であられる神さまご自身のお働きと、その慈しみ深い御心を。

  28節以下、「兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。はなはだしく腹を立てて、あの兄さんは家に入ろうとしません。いいえ、悔しさと激しい怒りのあまりに、顔をあげることも家に入ることさえできずにいるのです。父親は出てきて、「私の子よ」と語りかけながら彼をなだめます。「私の子供よ」と呼びかける父の声を聞いて、そこで、あの彼の長年の恨みや不満が噴き出します。あの兄さんは、子山羊一頭分の肉や盛大なパーティーが望みだったわけではありません。「あ。あの子だ」と大慌てでこの私にも走り寄って、私の首をギュッと抱いてほしかったのです。あの弟のときのように。「今日帰ってくるか、明日帰ってくるか」とソワソワ待ちわびてほしかったのです。あの弟のように。「一番良い晴れ着を。指輪を。靴を。すてきなパーティーの支度を、早く早く早く」と大騒ぎしてもらいたかったのです。愛情のはっきり目に見えるしるしが欲しかった。この私も、あの弟のように。つまり、《どんな父親か、父にとってどんな自分か、父が自分のことをどう思ってくれているのか》が、もうすっかり分からなくなっていました。

  『死んでいた。いなくなっていた』のは、一体どの息子のことでしょうか。神さまからはぐれてさまよい続けていたのは、どの息子でしょう。遠くまで出て行った息子だけではありませんでした。家にずっと留まって、父と共に恵みの日々を積み重ねてきたはずのあの息子もまた、そこにいながら死んでいたのです。目の前に父の姿をはっきりと仰ぎながらも、迷子になっていました。忙しく立ち働きながら、迷子になっていました。父を見失い、父からはぐれて、心をすっかり惑わせていました。野原に残っていた99匹の、「自分は正しい。ちゃんとやっている」と思い込んでいた羊たちのように。持ち主の手の中にあっても、嬉しくともなんともないあの9枚の銀貨のように。テーブルの下に落ちて、けれど痛くも痒くもないあの1枚の銀貨のようにです(8-10)。「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と大喜びに喜ぶあの父親は、もう一人の息子に対しても、知らんぷりしてテーブルの下に転がっている1枚の銀貨のためにも、同じくやっぱり「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と喜ばないでしょうか。いいえ、そうではありません。

 31-32節。たとえ話の中の父親の口を用いて、主イエスご自身が神の心を私たちに差し出します、「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。この答えこそ、第一には、主イエスと人々との親しい交わりを眺めて、彼らを軽蔑し、不平不満や怒りをつぶやいていたパリサイ人と律法学者に対する答えであり、しばしばあの兄の貧しい気持ちに毒されてしまう私たちを回復させようとする答えです。救い主イエスは、ただ罪人をゆるし、迎え入れて救うために、この世界に降りて来られました。その福音の証言は、そのまま信じて受け入れるに足るものです(1テモテ手紙1:15「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった」,130:3-4「あなたには、ゆるしがあるので」,ルカ1:72-79「罪のゆるしによる救い」「神のあわれみ深い御心による」)。もし、それを理解し、受け入れることができなければ、この信仰は無意味です。こういう神であり、こういう救いと祝福だからです。

 

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兄弟姉妹たち、よく聞きなさい。あなた自身が天の御父に背いたことが一度もなかったのか度々あったのかどうかを、私は知りません。けれども天の御父ご自身こそは、あなたに背を向けたことなど一度もありませんでした。あの父は、あなたが父に対して従順である日々にも、心を貧しくして背きつづける日々にも、あなたの世話をしつづけました。先頭を切って、しんがりを守って、わが身も顧みず、天の御父こそが全面的にあなたの世話をしつづけてくださった。あなたをぜひふたたび喜び迎えたい、と切に願っておられます。さあ、父の家の中に入ってきなさい。その食事の席に、あなたも着きなさい。主からの恵みをなんとしても見出しましょう。ゆるしがたいことを何度も何度もゆるされつづけてきたことを、支えられてきたことを、大事に大事に愛されてきたことを。穏やかな朝にも、嵐の夜にも、この父の切なる願いと招きに耳をよくよく澄ませましょう。この格別な父さんは、こう呼ばわっておられます;「食べて祝おう。なにしろ、この大切な息子たちは、このかけがえのない娘たちは、死んでいたのについに生き返った。いなくなっていたのに、とうとう見つかった。よかった。よく帰って来た。こんなに嬉しいことはない」。

天の御父の息子たちよ、娘たちよ。