2018年8月7日火曜日

8/5「悪いけれども救う」創世記8:20-9:17




                      みことば/2018,8,5(主日礼拝)  174
◎礼拝説教 創世記 8:20-9:17                           日本キリスト教会 上田教会
『悪いけれども救う』

牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

8:20 ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。21 主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。22 地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。9:1 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。2 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。・・・・・・14 わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。15 こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。16 にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう」。17 そして神はノアに言われた、「これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである」。(創世記8:20-9:17)




 ノアの時代に起こった大洪水の全体を見渡します。創世記6章はじめから、9章の半ばまでです。まず、世界を覆い尽くす大洪水が神によって起こされたその発端に目を向けましょう。創世記65-7節;「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた」。そして11-13節、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」。神さまがこの世界のすべてを造りました。草や木や海や空や、すべての生き物たちや、そして私たち人間を。とても素敵な世界になるはずだったんだけど、どうしてか、うまくいかなかった。そして雨が降り出しました。はじめはポツポツ、そしてザアザア、バッシャバッシャ降りつづいて、世界中を水浸しにして大水の下に沈めてしまうほどの大洪水になりました。神さまの言いつけに従って、ノアは大きな箱舟を作りました。神様のいうことを信じて箱舟に乗りたいと思う者なら、誰でも乗せてあげることができました。でも、ほとんど誰も見向きもしなかったのです。ほんのひとにぎりの人間と生き物たちが、神さまの呼び声を耳にして、箱舟へと集まってきました。「ノアは主の前に恵みを得た」(創世記6:8と報告されています。なぜなのか。なぜノアが恵みを受けたのか。それは私たちには分かりません。この私たち自身が神の恵みを十分に受けていることも、それがなぜなのかは私たちには分かりません。それは、ただ恵みを受けたのですから。けれどなお、神の恵みを受けた者は、受けた恵みにふさわしく行動し、生活していきます。神の御前に歩み、神の御声に聞き従って歩んでいきます。その間にも雨は降り続き、やがて箱舟のドアが神さまご自身の手によってバタンと閉められて、それでほかの皆は死んでしまいました。「主は彼の後ろで戸を閉ざされた」(創世記7:16と書かれています。扉を開くことも閉じることも、その鍵を握っているのは神さまであり、ときがきて神ご自身がその扉を閉めます。ノアも私たちも、その神に服従します。箱舟の中にノアと家族と、箱舟に乗り込んだ生き物たちだけが残りました。
  箱舟の外では大水が荒れ狂っていました(7:24)。ずいぶん長く、1年以上もの間、ノアと家族と生き物たちは箱舟の中でいっしょに暮らしました。81節に、「神はノアと、箱舟にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心に留められた」と報告されています。神がこの自分たちのことも御心に留めていてくださると知っている者たちは幸いです。「御心に留めていてくださる」そのことを頼りにして、得体の知れない深い大水の上も、長くつづく波と風と嵐の日々をさえも、心安く生き延びてゆくことができるからです。やがて地上がすっかりまた乾いたので、そして神さまが「箱舟から出てきなさい」(創世記8:16)とお命じになったので、彼らは箱舟から出てきました。
  箱舟から出て、ノアと家族と生き物たちがまず最初にしたことは、神様を礼拝することでした。その礼拝の中で、神さまはこう仰いました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21-22)。「人が心に思うことは幼いときから悪い」。『いつもいつも、朝から晩までず~っと、ただただ悪いことばっかりを思い企みつづけている』、という意味ではありません。それじゃあ、どういうことだと思いますか。実際には、ひどく自分勝手な人でも、ときどきは人のことを思いやることもあります。意地悪な人でも、なんとなく人に優しくしてあげたくなります。また逆に、とても親切な思いやり深い人であっても、どうしたわけか、ついつい意地悪をしてしまうのです。正しいことをしたいと心から願う人であっても、悪いこととは知りながら、悪いことをついついしてしまう。人を傷つけよう、わざと困らせてやろうと思ったわけではないのに、どうしたわけか、気がつくと、誰かを傷つけてしまっている。あとになって、「ああ。自分はどうしてあんなことをしてしまったんだろう」と後悔します。良いことを思うこともあり、悪いことを思ってしまうこともある。「人に親切にしてあげることができる、心の温かな、心の人々とした、思いやり深い良い人間でありたい」と、誰もが願っています。けれどもどうしたわけか、ついつい悪いことを心に思ってしまう。わたしたち人間は、そんなふうにできています。
 さて、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」。ここで足を止めて、神のなさりようをきちんと受け止めなければなりません。私たち人間がごく普通に考えるなら、『悪いから滅ぼす。良いものを救う』と判断するはずです。けれど神さまは、『悪いけれど滅ぼさない。悪いけれど救う』と仰る。私たち人間の理性が納得するような真理ではありません。まったく道理にかなっていません。私たちが子供のころから家や学校や社会で習い覚えてきたはずのモノの道理や合理精神とはまったく違います。ですから、普通のモノの考え方では分からない、納得することも受け止めることもできないはずのことが告げられていると、承知していてください。道理にあわない、私たちが理解も納得もできないことをしばしばなさる神であると知って、その神の御前にへりくだって深く慎むことを私たちは習い覚えねばなりません。『悪いけれども、憐れんで救う』、これが神さまの断固たる決心です。悪いからといって、大地や人をこんなふうにことごとく打つことはもう二度と決してしない。けれど、見過ごして放置するのでもない。では、どうするのか? 神さまは、二段階の救いの道筋を用意なさいます。(1)神を信じて生きるひとにぎりの人々を生み出すこと(創世記12:1-4。そして、(2)救い主イエスによる決定的な救いの出来事と。やがて神さまは、悪い人間を懲らしめて厳しく打ちすえる代わりに、ご自身を厳しく打ちすえ、自分自身を打ち砕こうとなさるのです。十字架の上で救い主イエスは呼ばわります;「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分らないのですから」(ルカ23:34)。兄弟たち。神の憐れみによってその子供としていただいた者たちよ。これが大洪水のあとの、神さまの決心だったのです。『ゆるしたい。ぜひ、何としてでもゆるしてあげよう。その悪い心の泥沼から救い出してあげよう』と。悪いことをついつい心に思ってしまう、そういう私たちを、そういう私たちだということをよくよく分かった上で、けれどもなおゆるし、けれども迎え入れよう。そのようにして、この世界は、そこから新しく出発しました。キリストの教会は、そのようにして新しい土台を据え置かれました。
  ――もし、そうでなかったとしたら、どうでしょう。そうではなく、「人が今後は二度と悪いことをしないし、悪いことをほんの少しも心にも思わない。だから」と世界が再出発したのなら、キリストの教会がそのように土台を据えられたのだとしたら、どうでしょうか。「その正しく立派な善人たちの輪の中に、到底ぼくは入ることなどできない」と思いました。高校2年生の頃に、だからすっかり神様のことが分からなくなりました。信じられなくなったし、嘘っぱちだと思ったし、神さまなんかどこにもいないと思いました。たとえもし神さまがいるとしても、ぼくには何の関係もないと。けれどずいぶん後になって戻ってきて、キリストの教会で最初に教えてもらったのは、この大洪水のあとの神様です。「ほら。ここに、ちゃんと書いてあるだろう」と、その時、教会の牧師は教えてくれました。神さまは、悩んだり腹を立てて怒ったり、がっかりしたり心痛めたりもする。けれども、《ついついい悪いことを心に思ってしまう人間をゆるすと決心する。ゆるして迎え入れるためには、どんなことでもしてあげよう》と神さまのほうで決心してくださったのです。「こういう神様なら信じられる。こういう神様なら、信じて、付いていきたい」と、とても嬉しかったのです。本当に、とてもとても嬉しかった。ぼくは、この創世記8:21の神さまを信じています。教会に戻ってきてから、30年ほど経ちました。戻って来ることができて、この神さまを信じることができて本当に良かった。

  8章につづいて、9章で、神はご自分がお造りになったすべてのモノたちと改めて救いの契約を結びます。その守りと保護の相手は、私たち人間だけではありません。914節、「『わたしが雲を地の上に起すとき、にじは雲の中に現れる。こうして、わたしは、わたしとあなたがた、及びすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思いおこすゆえ、水はふたたび、すべて肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう』。そして神はノアに言われた、『これがわたしと地にあるすべて肉なるものとの間に、わたしが立てた契約のしるしである』」。すべて肉なるあらゆる生き物。すべて肉なる生き物。すべて肉なるあらゆる生き物との間に。雨ふりが続いた後で、暗い灰色の雲の隙間から日の光が差し込んで、きれいな虹が空にかかります。そのとき、「ああ。虹が出ているよ」と嬉しくなって眺めている人もいれば、「なんだ。ただの虹じゃないか」って見向きもしないでサッサと通り過ぎていく人たちもいるでしょうね。みなさんももう何回も虹を見てきたでしょう。その同じ虹を見て、こう言った人がいました――

        私の心は躍る
    虹が空にかかるのを見るとき。
        私のいのちの初めに、
小さな子供の頃にそうだった。
    私は今、大人になっても、
    あの頃と同じに心が躍る。
        私が年老いる日々にも、
やっぱりそうでありたい。
             (ワーズワース『虹』,1802年)

神様のことを何にも知らなくたって、信じていなくたって、きれいな虹を見たら少しは嬉しいかもしれません。でも神様を信じている私たちには、その虹の嬉しさは格別です。大洪水の後の、あのノアと家族と生き物たちが見た虹を思い起こすからです。
 「虹を見て、私は思い起こす。私は心に留める」(9:15-16)と神さまが仰います。だから私たちも、虹を見て、あのときのことを思い起こし、心に留めます。あのとき神さまが仰ったことを、思い起こします。ついつい悪いことを心に思ってしまう私たちだけれど、それでもゆるしてくださると仰ったこと(8:21)を。私たち人間とだけではなく、空の鳥も海の中のものもすべての生き物たちと神様が恵みの契約を結んでくださったことを。すべての生き物のことを神様が大切に思い、神さまが御心に留めておられること(9:10-12,15)を。そうそう、そして「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(9:6)。人の血を流す。それは、ただ大ケガさせて、血がドクドク流れて、その人が死んでしまうことだけじゃないですよ。「そこまではしていないから、自分は人を殺したことがない。ちゃんとしている」とうぬぼれて、高をくくっていた人々に、主イエスはこう仰いました。「『馬鹿』と言った。それは人殺しと同じだ。「あんな奴いなければいい」と除け者にしたじゃないか。あなたは、自分の心の中で、すでにもうその人を殺している」(マタイ福音書5:21-26,7:1-)と。
 虹のしるしを見て、あるとき、だから私たちは「神さま、ごめんなさい」と謝りたくなります。友だちに意地悪なことをして、困らせたり嫌な気持ちにさせてしまったからです。本当は助けてあげることができたはずなのに、知らんぷりをして、「私には関係ないわ。面倒くさい」ってサッサと通りすぎてしまったからです。虹のしるしを見て、あるとき、だから私たちは「神さま、ありがとう」とお礼を言いたくなります。心細くて、さびしくて、なんだかひどくガッカリしていたときに、助けてくれた人がいたからです。「どうしたの。大丈夫かい」と優しく声をかけてくれた人がいたからです。空にかかる虹のしるしを見て、あるとき私たちは、腹を立てていた友達のことをゆるしてあげたくなります。陰口をきいたり悪口を言っていた相手のことを、もう一度、思い直し始めています。だって、ずいぶん大目に見てもらっている私たちです。「分かった、いいよいいよ」と何度も何度もゆるされてきた私たちだからです。いろいろな色の光が1つに合わせられて、空にかかる虹になって、そのように神様からの恵みを私たちに知らせているからです。「ああ。そうだった」と神さまは思い起こし、私たちを御心に留めつづけてくださいます。私たちも虹を見て、「ああ。そうだった」と神様との憐れみ深くとても寛大な救いの約束を思い起こします。朝も昼も晩も、思い起こしつづけます。