2018年8月13日月曜日

8/12「祝福の出発点とされて」創世記12:1-9

          みことば/2018,8,12(召天者記念の礼拝)  175
◎礼拝説教 創世記12:1-9                      日本キリスト教会 上田教会
『祝福の出発点とされて』


牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC


12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。5 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。9 アブラムはなお進んでネゲブに移った。        (創世記12:1-9)


 まず、創世記12:1-4です。「時に主はアブラムに言われた。『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。アブラムは主が言われたように出で立った」。例えば神の民のはじまりが、なぜ、あのアブラハム(後に、神ご自身によってアブラムは『アブラハム』、サライは『サラ』と改名。創世記17:5でありサラだったのか。聖書は、「ただ恵みによって。ただただ憐れみから」(ローマ手紙3:21-26,テモテ手紙(1)1:12-16と答えつづけます。道端の石ころからでもアブラハムの子を次々と生み出すことのできる、その同じ一つの神さまが(マタイ福音書3:9参照)、あなたや私にも目を留めつづけておられます。しかも皆さん。その人たちに何か見所や取り柄があって、というのではなくてです。なにしろ、とても寛大で慈しみ深い神さまなのです。あなたのためにも、その恵みと祝福を手渡そうとして待ち構えておられます。

 私たちはまた創世記12章というこのタイミングに、よくよく目を留めてみる必要があります。(この1ヶ月ほど、78日から5回にわたって、世界のはじまりから創世記12章の前までを読み味わってきました。ごく大まかに、そのあらすじを辿ります)この世界のすべては、神さまによって造られました。はじめには、地は形なく、むなしく、闇に覆われていました。まず神さまは「光あれ」と仰り、すると光があらわれ、そのように次々と命じられ、一つ一つを造られました。6日目に、主なる神さまはご自分でお造りになったすべてのものを、その一つ一つを御覧になった。つくづく眺め渡して、「それは極めて良かった。とてもいい」と大喜びに喜ばれました。7日目に神さまはご自分の仕事を離れてホッと一息つき、その安らかな息のうちに、ご自分が造られたすべてのものを祝福なさり、ご自分のものとされました。「祝福し、聖別した」(創世記2:3という『聖別』(せいべつ)とは、神さまがそれを、他の誰のものでもなくご自分のものとなさったということです。世界のはじまりは、もう一度、別の角度から報告されます。創世記24節以下です。地が形なく、むなしく、闇に覆われていたように、大地ははじめには草一本も生えない物淋しい土地でした。地上に青々とした植物が生い茂り、花を咲かせ、豊かな実を結ばせるためには、降り注ぐ恵みの雨によって潤され、その恵みを受け止めて大地を耕し守る者たちが必要でした。大地を耕し守る人々。それは土の塵から形作られ、鼻に生命の息を吹き入れられた人間たちです。働きと使命を与えられ、祝福と戒めを与えられ、互いに助け合う者たちの輪が2人から3人、4人5人へ、102030人へと末広がりに広がってゆく祝福のご計画でした(創世記2:4-25。けれど私たち人間はつまずき、そそのかす者に目を眩まされて、神さまに背いてしまいます。創世記3章にはじまった神への反逆は雪だるまを転がすようにどんどん大きくなり、私たち人間は坂道を転げ落ちるように神さまの祝福から遠ざかっていきました。創世記4章。そして6-8章。ノアの時代のあの大洪水は、人間の過ちをなにも解決しませんでした。「人が心に思い図ることは幼い時から悪い。けれどなお打つことも滅ぼすこともしない。ゆるそう」(創世記8:21-22参照)と。だからこそ11章のバベルの塔の町の出来事へと、神への背きと不従順とはとどまることなくますます大きくなり、なお根深く広がっていきました。雪だるまが坂道を転げ落ちてゆくように、世界は際限もなくどこまでもどんどん悪くなっていきました。そのどん詰まり、どん底が、12章というタイミングでした。大洪水を生き延びたわずかの者たちは決して善男善女、聖人君子というわけではなかったのです。「心に思い図ることは幼いときから悪い。誰も彼もがとても悪い。けれどなお、ゆるそう。滅ぼすこともせず、見捨てることもしない」(創世記8:21-22参照)と。ここで足を止めて、神のなさりようをきちんと受け止めなければなりません。私たち人間がごく普通に考えるなら、『悪いから滅ぼす。良いものを救う』と判断するはずです。けれど神さまは、『悪いけれど滅ぼさない。悪いけれど救う』と仰る。私たち人間の理性が納得するような真理ではありません。まったく道理にかなっていません。私たちが子供のころから家や学校や社会で習い覚えてきたはずのモノの道理や合理精神とはまったく違います。ですから、普通のモノの考え方では分からない、納得することも受け止めることもできないはずのことが告げられていると、承知していてください。道理にあわない、私たちが理解も納得もできないことをしばしばなさる神であると知って、その神の御前にへりくだって深く慎むことを私たちは習い覚えねばなりません。『悪いけれども、憐れんで救う』、これが神さまの断固たる決心です。悪いからといって、大地や人をこんなふうにことごとく打つことはもう二度と決してしない。けれど、見過ごして放置するのでもない。では、どうするのか? 神さまは、二段階の救いの道筋を用意なさいます。(1)神を信じて生きるひとにぎりの人々を生み出すこと(創世記12:1-4。そして、(2)救い主イエスによる決定的な救いの出来事と。やがて神さまは、悪い人間を懲らしめて厳しく打ちすえる代わりに、ご自身を厳しく打ちすえ、自分自身を打ち砕こうとなさるのです。十字架の上で救い主イエスは呼ばわります;「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分らないのですから」(ルカ23:34)自分が何をしているのか分からない。どこにどう足を踏みしめて立っているのか。自分が何者なのか。何のために生きているのか。どこへと向かっているのかもサッパリ分からない。だから、ゆるして救う必要があります。憐れで、とても可哀想だからです。神の憐れみを受けた兄弟姉妹たち。これが、憐れんで救う神の御心です。こういう、あまりに情け深い神さまです。
  さて、創世記12:1-3、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される』。神さまからの祝福と平和が陸上競技のバトン・リレーのように差し出され、手渡されつづけ、末広がりにその輪が広がってゆく。祝福の土台・出発点となるように。これこそが、私たちのための神さまからの願いです。元々、アブラハムとサラと子供たち孫たちと親戚一同のためだけの祝福、ではなかった。神の民イスラエルのためだけの祝福ではなかったし、ただ人間様たちのためだけの祝福でもなかったのです(創世記9:8-17,マタイ福音書24:45-51参照)。その祝福の末広がりは、けれど、どのようにして成し遂げられてゆくでしょう。「国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)という指図は、いったい何でしょうか。
  聖書を読み味わってきた私たちの中で、あるとき、読んできた断片的で細切れな事柄が一つまた一つと互いに響き合い、結びつきはじめます。生まれ故郷、親族や父の家からも離れて。これとよく似たことを、どこかで読んだことがある、と。アダムとエバが神さまによって造られたとき、彼らはこう祝福されたのでした;「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記2:24-25)。赤の他人同士だったはずの2人が結び合わされて、一体となる。互いに恥ずかしがりもせず、恥ずかしがらせもせず、恐れたり恐れさせたり、無理に従わせたり従わさせられたりもせず、睦ましく添い遂げて暮らしてゆく。けれど、そのためには、ぜひとも離れ去るべき父母という存在がありました。また例えば、主イエスの弟子たちが招かれたとき、彼らは小さな湖で魚を獲って暮らしを立てる貧しい漁師たちでしたが、父を捨て、家を捨て、舟も仕事道具の網も捨て、仕事仲間たちからも離れて、そのようにして主に従いました。また例えば、福音を告げ知らせるために町々村々へと遣わされたとき、彼らは「下着2枚も持っていくな。杖も袋も金も持たずに行け」(マルコ福音書1:18-20,ルカ福音書9:1-3,10:1-4)と指図されました。奇妙な指示です。何も持っていってはならない。余分な杖もパンも金もキャッシュカードも、着替えの下着さえ。どういうことでしょうか。なんという無暴で世間知らずな。そんなことで現実の生活が成り立つでしょうか。――もちろん成り立つわけがありません。主のもとから送り出された弟子たちは、出かけていって一日二日で、早くも生活に困窮し始めます。何かをしようとする度に、「さあ、困った。どうしたらいいだろうか」と頭を抱えます。食べるにも飲むにも着るにも、何をするにも不自由します。町や村へと遣わされていった弟子たちは、そこで、その土地に住む人々に頼って生活せざるをえません。なんと不自由で肩身が狭く、なんと心細いことでしょうか。まるで、わざわざ、主によってそのように仕向けられているかのようです。その通りです。
 神の民とされ、主イエスの弟子たちとされた人々よ。捨て去るべきものは、それぞれ後生大事に抱えていた後ろ盾です。これがあるから大丈夫という、安心材料、頼みの綱。さらにもう一つの安心材料は、自分自身でした。これまでこうやって世の中を渡ってきたというそれぞれの小さな誇りであり、プライドでした。「しっかりしている。取り柄も見所も社会経験も見識もたっぷりある、なかなかたいした自分だ」という自負心でした。自分に頼って生きてきた優れた人物たちも、けれど信仰をもって生きる中で、その自信も小さなプライドも粉々に打ち砕かれ、大恥をかかされました。なぜ。何のために? 自分を信じるのではなく、主なる神さまをこそ信じるようにと。自分を誇り、自分を頼りとするのではなく、主をこそ誇り、主を頼みの綱として生きるようにと(コリント手紙(1)26-31,(2)1:8-10,ローマ手紙3:21-27。だからこそ、やがて彼らが道端で貧しい小さな人と出会ったとき、「さあほら、素敵でとても立派な私を見なさい」とは言いませんでした。この私が人様・世間様から見て素敵なのかそうでもないか、どんな見所と取り柄があるのか、そんなことと福音伝道とは何の関係もなかったのです;「さあ、私たちを見なさい。この私をよくよく見なさい。金銀は私にはないが、見所や取り柄があるわけでもないが、持っている飛びっきりに素敵なものをあなたにあげよう。ナザレ人イエスの名によって歩きなさい」(使徒3:4-6参照)と。だからこそ、その同じまったく新しい安心材料を受け取り、踊りあがって大喜びしながら生きる者たちが一人また一人と呼び出されていったのです。
 その日から、神の慈しみによって生きることが始まりました。「わたしが示す地に行きなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じられたとおりに出発しました。私たちはよくよく習い覚えてきました。神と私たちとの関係で最も大事な肝心要は、それが『主従関係』であることです。神さまがご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、手下の者です。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」と主が命じるとおりに、行い、聞き従って生きてゆくことです。聖書の別の箇所では、「それに従い、行く先を知らないで出ていった」(ヘブル手紙11:8と報告しています。その通りです。行く先を知らないで出ていっては、何か不足や不都合があるでしょうか? いいえ、何も困りません。それで十分です。なぜなら「わたしが示す地に行きなさい」と指図され、「はい」と出発したからです。いつごろ、どんな場所に辿り着くかは、はっきりとは知らされていません。けれど、なにしろ主に従って歩んでゆくと決めています。主が先立って導いてくださり、見捨てることも見放すこともなさらないと約束されています。そうでしたね。例えばこの後ごいっしょに歌う讃美歌288番の2節は、「行くすえ遠く見るを願わじ。主よ、わが弱き足を守りて、ひと足、またひと足、道をば示したまえ」と心安くほがらかに歌っています。行くすえ遠く、5年後10年後どうなっているかを知りたいとは願いません。また、私がやがて世を去った後で残された大切な連れ合いや息子や娘や孫たちがどんなふうに生きてゆけるのかを、私たちは知らされていません。いいえ、知らなくても結構。だって、すべて一切を主なる神さまにお任せして旅立った私共ですから。主よ、私の弱い足腰をどうか守り支えてくださって、ひと足、またひと足と道を示し、手を引くようにして天の都へと導きのぼっりつづけてください。それで十分、と歌っています。この祈りの人も、私共も、そしてもちろんアブラハム、サラ夫婦も。だからこそ折々に立ち止まり、その都度その都度、神からのご命令と指図とを仰がねばなりません。創世記12:7-9;「時に主はアブラムに現れて言われた、『わたしはあなたの子孫にこの地を与えます』。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。アブラムはなお進んでネゲブに移った」。立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。また立ち止まり、祭壇を築き、主の御名を呼ぶ。そしてまた。一週間また一週間と区切られた旅路を歩む私たちです。なぜ立ち止まり、主を礼拝し、なんのために主の御名を呼ぶのか。なぜ主からの御声に耳を傾けつづけるのか。自分が望むまま自由気ままにではなく、他の誰彼の指図に従ってでもなく、その都度その都度、神ご自身からのご命令と指図とを仰ぐためにです。主が示す地にやがて必ず辿り着くためにです。主からの助けと養いを受け取りつづけ、主によって支えられつづけて、その旅路を喜びと希望を持って、晴れ晴れと、心安く歩みとおすためにです。