2018年8月7日火曜日

8/3号外/夏期学校メッセージ「父の家をでていった息子」ルカ15:11-24


 ルカ福音書15:11-24        号外/夏の日帰りキャンプで   2018,8,3
 『父の家をでていった息子』    
 牧師 かねだせいじ


15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。                  (ルカ福音書 15:11-24)



  ここで、お父さんは、神さまのことです。息子たちは、わたしたち人間のことです。弟は、父さんの家で父さんといっしょに暮らしていくのが嫌になりました。「ああ、嫌だ嫌だ。これしなさいとか、これしちゃだめとか、ああだとかこうだとか。オラ、いやだなあ。どこか遠くへ行って、好きなように自分かってに暮らしていきたいなあ。父さん、オラ出ていくから、もらうはずのオラの分け前をちょうだい。じゃあね、バイバイ」。あっというまに全部なくなって、お腹がすいて、お腹がすいて、ブタのエサでも横取りして食べたいほどでした。「父さんの家に帰ろう。帰りたい。だって家では雇人たちさえ、あんなによくしてもらっていた。オラにはもう息子の資格はないから、雇人の一人にして雇ってもらおうっと」。今日帰ってくるか明日帰ってくるかと心配で心配で、父さんは毎日さがしに出て見まわしていました。ずっとずっと遠くにポツリと小さな豆つぶのようにして、変わり果てた息子の姿があらわれました。「あの子だ。とうとう帰ってきた」。かわいそうで、かわいそうで、父さんは大あわてで走り寄って、その首をギューッと抱きしめ、うれしくて接吻しました。「父さん。オラはオラは、あのね、ええと」。あんまりうれしくて、父さんは何も聞いていません。「ほらほら早く早く、一番いい着物をもってきてこの子に着せて、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせてやりなさい。急いで急いで、よく育った子牛をほふって料理をしなさい。皆で喜び楽しもう。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。大喜びのお祝いパーティがはじまりました。


               【補足説明】
   目を凝らして見つめるべき主人公は、神さま(=父親)です。私たちをどんなに深く愛し、思いやってくださっているのかを、よくよく味わい、受け取りたいものです。弟の罪深さは、神を嫌って、神から離れさって生きようと願うことです。神のいない世界で自由に好き勝手に生きよう。それは、自分の腹の思いを神として生きる傲慢です。また「父の財産のうち自分がいただく分を」12節)と要求しているところ。自分には当然の権利があると思い上がって、だから贈られた恵みを虚しく使い潰してしまいます。傲慢さとむさぼりとは、しばしば対になって現れます。
   17節「本心に立ち返って」;彼が気づいたことは、「雇い人たちさえも気前よく、寛大に、慈しみ深く取り扱われていた。ましてや自分と兄は」と、神の慈悲深さでした。そこでようやく、「息子と呼ばれる資格のない、神に背きつづけてきた私だ」と自分自身の罪深さにも思い当たり、しかも神のもとに大きなゆるしがあることも思い出しています。だから帰りたい。こんな私でさえも父の家に帰ることができると。
   18-19節の詫びの言葉を、21節で、父である神はろくに聞いていません。嬉しくて嬉しくて、耳に入らないのです。反省して十分に悔い改めたからゆるすのではなく、遠く離れてポツンとその変わり果てた憐れな姿を目にして、そこで憐れみはじめたのでもなく、そもそもの最初から可哀想に思い、憐れんで、ゆるしています。20節以下、「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて」と、息子への憐れみがあふれて、ほとばしりつづけます。こういう神であり、こういう憐れみを、この自分も注がれつづけていたのかと気づきたい。
  たとえ話の冒頭から息子との再会まで、父親の内面は巧妙に隠されつづけて、何を考え感じているのかさっぱり分からない謎の人物です。「分け前をほしい」と言われれば渡す。「家を出ていく」と言われれば、引き止めるでもなく、そのまま送り出す。けれど遠く離れてポツリと息子の姿が見えた瞬間から、息子を思う父親の愛情が激しく噴き出します。24節、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。ここに、神のもとへと立ち帰る一人の罪人(=神への反逆者)のために、神のもとに大きな喜びがある(ルカ15:7,10)理由のすべてがあります。裏返すと、背を向けて離れ去っていった一人の罪人のために、神のもとに大きな大きな悲しみと嘆きがありつづけたということです。だから、その失われ、死んでしまったかのように見えた罪人を探し求めて止まない神です。多種多様な罪人の姿;羊が迷子になったのは自分勝手だったからかも知れない。慌てもので注意散漫だったか、誰かからいじめられ、追い出されたからかも。銀貨は失われても、自分では痛くも痒くもない。出ていった息子は父から離れ去ることを自分で選び、やがて帰りたいと願った。家に留まりながら父の心を見失って嘆いていた息子(ルカ15:25-32)もいる。明日にも父の家を出ようと荷造りしはじめる息子がおり、放蕩の限りを尽くす最中の息子や娘たちがおり、ドン底で本心に立ち帰る息子たちもいるだろう。おびただしい数の放蕩の息子たち、娘たち。どの罪人のためにも、その一人が失われ、死にかけると神は嘆き悲しむ。見つけ出し、その一人が生き返ると大喜びに喜ぶ。それぞれの罪人のために、同じく激しく嘆き、激しく喜ぶ神がおられると知りましょう。あなたや私のためにさえも。これが、私たちのための神の心です。