聖書研究 2018,8,23 金田聖治
『神への従順。その破綻と回復過程』
(P)
1.結論 (前篇) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1-4
2.事例研究 ①モーセ神格化の経緯/②士師ギデオンが招き寄せ
た罠と落とし穴/③サウル王の二度の背反/④ヤラベアム王の「金
の子牛×2倍効果」/⑤マタイ24:45-51 なぜ、しもべは悪くなっ
たか? 3-7
3.結論 (後篇)
1).キリストのかたちに似たものとなる ・・・・・・・・・ 9
2).幼子のようになるという秘儀 ・・・・・・・・・・・・・ 9-14
1.結論 (前篇)
地上に生きる人間たちの間に大小様々な権威者たちが立てられつづけます。聖書自身は、そこに多様な視点を与えます――
「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」(ローマ13:1)
「(王を与えよという民の要求に)彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしている」(サムエル上8:7-8)
「神に聞き従うよりもあなたがたに聞き従う方が正しいかどうか、判断してもらいたい」「人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒4:19,同5:29)
「龍(=悪魔)は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた」(黙示録13:2)
これらの証言の出発点は、創世記1章と2章の互いに補完しあう証言です。「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1:26-28)。「神のかたちに人が創造された」という意味内容は理解が難しく、今日でも十分には説明されていません。ともかく、私たち人間こそは特別に優れた存在であり、価値も高く、他の何にもまさって尊い。しかもだからこそ、「治めさせよう。従わせよ、治めよ」と命じられた。私たちこそがこの世界の王さまであり、ご主人さまであり、支配者だ。思いどおりに、好き勝手に、他の生き物や大地や空や海を従わせ、服従させ、この世界を自分のものとしていいのだと。いいえ! とんだ大間違いでした。なぜ、とんだ大間違いであると分かるのか? 神さまこそが、この世界すべてを造ったのであり、神さまこそがこの世界のただお独りの絶対の主人であるからです。「天に主人がおられることをあなたがたはよくよく知っているはずじゃないか。その場合、天の主人に仕える管理人に要求されるのは、主人に対して忠実であること」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2)と何度も何度も釘を刺されつづけています。例えば創世記2章は、1章と対になっていてひと組です。神さまによってこの世界が造られたその初めのとき、地上は草一本も生えない、虚しく物淋しい大地だったと報告されます。その理由は、(1)雨が大地を潤しておらず、また(2)土を耕す人もいなかったからです(創世記2:5)。土を耕す人も、わざわざ土の塵から形づくりました(6,7節)。神さまがその鼻に生命の息を吹き入れた。それで人は生きる者となった。そのことを、ずっと考え巡らせてきました。「地を従わせよ。治めよ、支配せよ」と語られていたその同じ中身が、創世記2章では、「エデンの園に連れて来られたのは、ゆだねられたその土地を耕させ、守らせるためである」(創世記2:15参照)と、はっきりと告げられていました。幸いな豊かな土地になるために、その土地を耕し守る働き人として、私たちはそれぞれの持ち場に据え置かれた。これが、他の様々な生き物たちと共に、この世界に私たちが置かれたことの根本の意味です。さらに、創世記9章10-17節の『虹の契約』です。「『またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、すなわち、すべて箱舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、わたしはそれと契約を立てよう。わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう』。
宗教改革者らは、地上に建てられた大小様々な権威者たちと私たちとがどのように共存しうるかについて熟慮し、十戒の第五戒に着目しました。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12)。ジュネーブ信仰問答は、ここでまず、地上の幸いや長寿という祝福についてこう説き明かします、「地上の生活はどんなに悲惨なものでも、信仰のある人にとっては神の祝福です。それは、その中で神が彼を支えてくださることで、父の慈愛を確証なさるからにほかありません」「神が地上の幸いについて約束してくださることはすべて、それが私たちの霊的救いのために好適であるからという条件のもとに受け取られるべきです。このことが他すべてのことに先立っていなければ、情けないことです」(問189,191)。また「父母」への眼差しはさらに押し広げられます。「父母についてしか語られていないとはいえ、すべて上に立つ者を含んでいると理解しなければなりません。同じ理由があるからです」と。「神が彼らに優位をお与えになったということです。父たちも、王侯も、その他のどんな種類の上に立つ人でも、神が任命なさったものでなければ権威がないからです」(問195)。
さて、生身の父母を第一の参考例とされ、他すべての権威者たちとの共存の仕方もこれとまったく同様であると断言されました。判断材料はこれで十分に出揃いました。彼らを「敬え」と命じられ、また彼らには神から「優位が与えられ」、「権威がある」と説き明かされました。その通りです。それならば、私たちはどのようにして、目の前にいるその彼らを敬うことができるでしょう? 町内会の世話役、親戚の叔父さん叔母さんもいます。学校の担任教師、校長、教頭。職場の主任、上司。警察官、裁判官、政府や総理大臣など。そして教会の牧師、長老、執事なども(もちろん教会の牧師も例外ではありません。「敬われ」「ちょっとした優位と権威を与えられ」て、その彼らがモルデカイの前に立ちふさがった悪大臣ハマンや、ヤラベアム王(事例研究④)に成り下がることは大いに有り得ます。新しい教会に赴任して、「今日からは先生の思い通りに教会を建てあげてください」「思う存分にお働きください」と持ち上げられて、ついついその気になってはいけません。自分の理想とする教会を建て上げようと、牧師は思い上がって独裁者になってはなりません。「○○牧師の志と神学を受け継いで」などと言われて、けれど立ち止まって頭を冷やし、よくよく熟慮せねばなりません。「教会が活性化し賑やかになって、子供や若者が多く集う教会になってなってもらいたい」と願っても良い。もちろんです。けれど、それが最優先の第一の願いとなるなら、あまりに本末転倒です。「~してください。ただし、私たちの願い通りではなく、神さま、あなたの御心のままになさってください」と。牧師のものではなく、他だれのものでもなく、ただただ神のものであるキリスト教会だからです。心を鎮めて、はたして教会の頭であられるキリストの御心にかなっているかどうかと、一つ一つ熟慮せねばなりません)。父さん母さんを敬う子供たちはどんなふうに育ってゆき、やがて大人になってゆくでしょう。敬うからと言って、自分の父さん母さんが何をしても、何を言っても、どんな振る舞いをしても、「だって父さんがそう言うからァ~」と何でもかんでも聞き従って、どこへでも、どこまででも黙って付いて行って良いでしょうか? もしそうであるなら、その親は子供の育て方をたいそう間違えてしまいました。親が悪さを働こうとするとき、越えてはいけない一線を踏み越えようとするとき、そうではなく、「お父さん、申し訳ありませんが、それは間違っています。そんなことをしてはいけません。止めてください」とその息子や娘は断固として立ちふさがることができるでしょうか。もしそうならば、苦労して養い育ててきた甲斐がありました。良い育て方ができたというものです。なぜなら、父母を敬う以上に、その千倍も万倍も主なる神をこそ敬うはずの私たちだからです。彼らの優位に先立って、神こそが独占的・絶対の優位に立っておられ、彼らの権威の前に立ちふさがって、御父から託されて、救い主イエスこそが天と地の一切の権威を手にしつづけておられるからです。彼らへの抵抗権の行使がいつ始まるのか。いいえ、とんでもない。そもそもの最初から始まっていて、連続活動状態にあって、スイッチが切れて休止状態になるときなどないからです。それは、そもそも『神への従順と服従』に含まれる一要素にすぎないからです。だからこそ、モルデカイは悪い大臣ハマンに膝を屈めず、敬礼もしませんでした。火の燃える炉やライオンの穴が待ち構えているとしても、あの青年たちは神にだけ祈り願いました。預言者ナタンは王をきびしく叱りつけました。神の民とされた私たちは、他のすべての民の法律と異なる法律のもとに据え置かれており、(その法律と主なる神の御心に反するものならば)どんな王の法律にも命令にも決して従ってはならないからです。
もう一つ、「あなたの父母を敬え」と命じる同じ一つの神が同時に、「あなたの父と母から離れなさい。二人が結び合って、一体となるために」(創世記2:24-25)と。アブラムとサライ夫婦の出発の時にもそっくり同じことが命じられました。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。やがてずいぶん後になって主イエスの弟子たちも同じように招かれました。「舟と網と父親」を残して、主イエスに従ったのです(創世記12:1-, マタイ4:22)。父さん母さん、親戚の叔父さん叔母さん、生まれ故郷も離れて、けれどこれからは! 主なる神こそが私たちの支えや助けとなり、心強い後ろ盾ととなり頼みの綱となるのです。「やや優位に置かれ」「そこそこの権威」を委ねられた者たちとの関係はほどほどのこととと弁えねばなりません。神にこそ指図され、ご主人さまはただ神お独りであり、ほか全員がその手下であり、その部下であるからです。何を頼みとし、支えとし、聞き従って生きるのか。それは直ちに、『あなたは誰を主人として生きるのか』という根本命題を突きつけます。誰も、二人の主人に兼ね仕えることなどできないからです。一方を憎んで他方を愛し、一方に親しんで他方をうとんじるからです。「主イエスにこそ聴け」(ルカ16:13,同3:22,同9:35)と二度も重ねて! 釘を刺されてきたではありませんか。
2.事例研究
①モーセ神格化の経緯
サムエル記上8章で、民は「人間の王が欲しい。人間の王に統治してもらえるなら、他の国々のように繁栄できるだろうから」と預言者に要求します。これがイスラエルの王政と王国時代の発端です。主なる神が預言者に打ち明けます、「(王を与えよという民の要求に)彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしている」(サムエル上8:7-8)。エジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕えつづけている。え? とわが目を疑いました。モーセ時代から、ずっとそうだったと。本当だろうか? 神の民イスラエルにとって、はじめはモーセもどこかの馬の骨で、ただの人間にすぎませんでした。やがて人々からの信頼を増し加えられ、度を越して信頼を寄せられすぎるようになっていきました。紅海を渡った直後、出エジプト記14章末尾に、「イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」と報告されています。主とそのしもべモーセと、両方を信じたのですね。何対何くらいの割合で信じたでしょう。9対1か、それとも6対4くらいか。出エジプト記32章。二枚の石の板を受け取りに出かけて、モーセが40日40夜も長期出張したとき、その信頼の中身が判明しました。32章1節、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。ここです、分かりますか? モーセがいなくなって、もう帰ってこないかも知れない。「じゃあ、新しい指導者を選ぼう」、それなら道理があります。けれど「新しい指導者を」ではなく一足飛びに、「新しい神を造ろう」。モーセの姿が見えなくなり、モーセの声が聞こえなくなった途端に、彼らの目には主なる神さえも同時に消えてなくなった。いつのまにか、目の前にいる指導者の声や姿を通して神に聞き、神に従うことに慣れすぎてしまった彼らの鈍った目には、モーセと神が一心同体に見えていました。神もいなくなった。神ではなく、モーセが導きのぼった。神ではなく、偉大なモーセが頼みの綱だったと。素敵な金の子牛の神を造って、人々は言いました。「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。自分たちの手で造った自分たち好みの神。するとアロンは暦を確かめるまでもなく、何曜日でも不都合もなく、「あすは主の祭である」と布告し、好き放題に飲み食いして戯れあうばかりのどんちゃん騒ぎの祭りをしはじめました。
さて34章。きびしく叱られた後、モーセの権威は後光が射してまぶしいほどとなり、「モーセを見ると彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった」(34:30)。このあと、モーセだけが神と語り、皆の前でモーセは畏れ多いし眩しいので顔覆いをして過ごすようになりました。私たち人間には自己神格化や自己崇拝に向かう根深い傾向があります。私たちが度を越して上品ぶって、自らの格式と権威を誇ろうと思い上がるとき、その後光はきびしく取り除かれます。ずいぶん後になって、主の弟子パウロがようやく異議申し立てをしました。「モーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、覆いが彼らの心にかかっている」(コリント手紙(2)3:13-18)。生身の人間を王として、また大先生、偉大なる指導者として立てようとするとき、立てたいと渇望するとき、今日でもやはり同じく、私たちも「主なる神を捨てて、自分たちの上に神ご自身が王であることを拒み、神を捨てて他の神々に仕え」ようとする誘惑にさらされる。サムエル記上8章で神が人間の王を渋々許容したのは、このあまりに苦い実地訓練を味あわせるためだったでしょう。これら王や指導者たちの歴代誌は私たちに対する警告であり、戒める訓戒です。
②士師ギデオンが招き寄せた罠と落とし穴 士師記7:1-8, 8:23-27
7章。ミデアン人たちとの戦いで兵の数を32,000人から10,000人へ、さらに300人へと減らされた理由は、勝って心がおごることがないためだった。「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。それゆえ」(7:2-3)と。けれどなお、どうしたわけか、それでもやっぱりギデオンも兵たちも心がおごり、自身の手で自分を救ったと誤解してしまいました。
戦いが終わって、8:23-27、「ギデオンは彼らに言った、『わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます』。ギデオンはまた彼らに言った、『わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください』。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。彼らは答えた、『わたしどもは喜んでそれをさしあげます』。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、罠となった」。エポデは祭司だけが着る式服。耳輪、月形の飾り、紫の衣、首飾りなどすべて神のものであるはずの戦利品の中から、高額な金品が分け前としてギデオンに不当に献げられ、祭司が神に仕えて職務にあたるために着るはずの式服をさえ自分のために作って、自分の町に安置した。イスラエルの人々は皆それを慕って姦淫した。姦淫は姦淫そのものでもあるかも知れませんが、神を脇へ押しのけて偶像礼拝にふけることを聖書は「姦淫」として告発しつづけました。人々がそうしたのは、ギデオンの傲慢に習ったのでしょう。自ら誇り、『わたしたちは自身の手で自分を救ったのだ』と。8:23「私ではなく、主こそがあなたがたを治められる」。けれど、その言葉とは裏腹に、ほんの少しの謙遜も神への従順もなかった。皆共々に心がおごって、罠と落とし穴(8:27)を我が身に引き込んでしまった。恐るべきことです。
③サウル王の二度の背反 サムエル記上13:1-14。 同15:1-23
一度目は、サムエル記上13:1-14。ペリシテ人との戦いで、敵軍は浜辺の砂のように多く、民は皆ふるえた。しかも祭司サムエル戦いの開始日に一週間も遅れた。サウル王は祭司の代わりに燔祭をささげた。「やむを得ず燔祭をささげました」「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。
二度目は、15:1-23。王も民も主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなった。「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。・・・・・・あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです」(注。「皆殺しにせよ」はやや不明確で多義的な用語。むしろ『聖別』『聖絶』と対にされる概念で、すべてを神のものとして献げる意味。違反行為は、ただ「分捕り品に飛びかかって私物化、横領した場合のみが報告されている。本事例、②ギデオンらの戦利品横領、またアカンの横領(ヨシュア記7:18-26)」など)
④ヤラベアム王の「金の子牛×2倍効果」 列王記上12:25-33
さらに歳月が過ぎ去って、イスラエルの王国が南と北とに引き裂かれたとき、北王国の王ヤラベアムはちょっと困りました。都合の悪いことがあったのです。だって、礼拝の場所が南王国のエルサレムの町ただ一箇所だけだったからです。すると礼拝の度毎に、国民が皆こぞって国境を越えてヨソの国に出かけていく。困りました。「・・・・・・そうだ。良い考えがあるぞ」。ヤラベアムは飛びっきりの名案を思いつきました。ちょうど今朝も、出エジプト記32章を読んでいたばかりでしたから。あのとき、モーセが帰って来なくて途方にくれていた人々は、今の自分そっくりだです。「放っておけば皆連れ立って南王国に流れ出してしまう。さあ今こそ、我々に先立って進む神々を自分の手で造ってしまおう」。どんな形の神にしようか。そうだ。やっぱりあの金の子牛だ。しかも今度は2つ造っちゃおう。そしたら2倍の効果がある。「あなたがたはもはやエルサレムに上るには及ばない。イスラエルよ、あなたがたをエジプトから導き上ったあなたがたの神を見よ」(列王記上12:28)。北イスラエルの王ヤラベアムは金の子牛の像1体をベテルに、もう一体をダンに置きました。兄弟たち。このとき、ここで、責任者が誰であるのかが明らかになりました。もちろん王はイスラエル王国の責任者です。けれど彼だけが責任者なのかというと、それは違います。王様と共に、そこに住む全員が責任者であったのです。「優位が与えられ」「権威がある」王たちの悪い行いに対して、私たちはどう振る舞うことができるのか。「その子牛たちは神ではない」とほんの一握りの人々が立ち上がるなら、その国はヤラベアムの国ではなく神の国でありつづけることができます。「祭司を勝手に任命してはいけない。自分が造った子牛にいけにえをささげたり、自分の造った高き所のための祭司をベテルに立てたり、勝手に祭りを定めたり、王であっても自ら祭壇に上って香をたいてはいけない。それは、はなはだしく主に背いている」(列王上12:31-33)と、もし信仰をもって生きる1人の人間が立ち上がって叫ぶなら、その国は神の国であり続けることができたでしょう。ヤラベアムに信頼してもいいのです。ただしヤラベアムが主に背くとき、「それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と判断できる国民がそこにいるならば。主を信じ、ヤラベアムをも信じるとは、そのことです。ヨセフであれモーセであれ、他のどんな王様たちであれ、神に代わることなどできません。人間を神に代えることなど、してはいけないのです(注。「祭司を勝手に任命し、勝手に祭りを定め、祭司ではない者が祭儀行為を行う」主への背信行為。金の子牛事件のとき。士師ギデオンが祭司服を作って自分の町に配置したこと。サウル王が祭儀を執り行ったことと関連する)。
⑤マタイ24:45-51 なぜ、しもべは悪くなったか?
マタイ福音書24章45-50節;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、もしそうなら」。大きな大きな、とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家には、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。しかも44節で「思いがけないときに人の子が来る」と言われたので、救い主イエス・キリストこそがその家の主人であるとはっきり分かります。これがこの世界全体と私たち全員を包む『神の真実・神の現実』である、と聖書は語りだします(創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,同20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)。私たちの役割を確認しておきましょう。ぜひともすべきことがあり、また、してはいけないこともある。管理人として立てられていることの第一の役割は食べ物を皆に公平に配ることでした。この箇所全体を振り返ってみますと、神さまからの律法こそが改めて差し出されていることに気づかされます。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます(マタイ22:34-40)。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、またすべての18歳以上の大人たちであるということです。多く与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。
3.結論 (後編)
1).キリストのかたちに似たものとなる
「神のかたちに人が創造された」(創世記1:26)という意味内容は理解が難しく、今日でも十分には説明されていないと申し上げました。
長い時間をへて、新約聖書の時代に主の弟子たちは、「キリストのかたち」と繰り返し語りはじめました。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ手紙8:29-30)
「御子は見えない神のかたちであって」(コロサイ手紙1:15)
「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである」(コロサイ手紙3:9-11)
「私たちはみな、顔覆いなしに、種の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてゆく」(コリント手紙(2)3:18)などと。
「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。・・・・・・21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、23 心の深みまで新たにされて、24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ手紙4:13-24)
「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」(コリント手紙(1)1:30)
2).幼子のようになるという秘儀
エルサレムの都への旅路が終わりに近づいて、死と復活のときを間近に見据えて、主イエスは弟子たちに仰った。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉いのである」(マタイ18:3-4)。「よく聞きなさい」と仰って、そして語られました。けれどよく聞くことも聞き分けることも、理解して受け止め、受け入れることもされず、ただただ聞き流され、聞き捨てにされました。きっかけは弟子たちが主イエスのもとに来て質問したことです。「いったい、天国では誰がいちばん偉いのですか」と。幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない、と断言されました。幼な子のようになることの中身として、ただ一点、「自分を低くする」ことが説き明かされました。「誰がいちばん偉いだろう、偉くなりたい偉くなりたい」と思い煩い、ひどく気に病み、渇望しつづけている間は、天国に入れていただいた後で第何位くらいの階級と順位と名声と権威を獲得できるのかどころではなく、門前払いされつづけ、滅びに落ちる他ないと宣告されています。もし本当に天国に入れていただきたいのなら、よく聞いて、なんとしてもその秘密を聞き分けねばなりません。これこそ、神を信じて生きる者たちにとって、最優先の緊急課題です。しかも、幼な子のようになることの中身として、「自分を低くする」以外の中身は、ここではすっかり伏せられています。幼な子とは何者なのか。どういう中身なのか。なぜ、そうでなければ誰一人も決して天国に入ることができないのか。
主イエスご自身の口から、よく似た発言が他に二つなされていました。ヨハネ福音書3:3と、マタイ福音書5:17-20、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。
マタイ18:3-4 幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。この幼な子のように自分を低くする者が、天国で一番偉い。
ヨハネ3:3 だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。
マタイ5:20 あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
律法が主イエスによって成就され、律法のことごとくがまっとうされる。だから、「これら(律法)の最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれる」。つまり、律法を軽んじて、その中の小さい戒めのいくつかを自分で破り、他人にもそうするように、そうして良いからなどと教え、そそのかす者でさえ、かろうじて天国に入れていただける。他方、きびしく明言されているのは、「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」と。つまり、『律法学者やパリサイ人の義』と同程度の義しか手に入れられないのならば、私たちも他の誰一人も天国には入ることが決してできない。天国の門の外に締め出され、滅びに落ちるほかない。なんということでしょう。天国に決して入れない典型的な決定的な実例が、主イエスご自身の口によって示されました。しかも『幼な子のようになる』中身としてただ1点だけ示されたのは、「自分を低くする」こと。そのとき鋭く対比されていたのは、「偉くなりたい。高くなりたい」と渇望し続ける弟子たちの姿です。主イエスの教えと対立しつづけていた『律法学者やパリサイ人の義』もまた表面を取り繕いつづけて、「私は偉い。立派だ。正しい」と見せかけ、言い張ろうとする大きな大人のつもりの偽りの義でありつづけました。「幼な子のようになる」ことと「自分の偉さ、立派さ、正しさや高さを言い張り続ける律法学者やパリサイ人の在り方」とは対極にあって正反対です。18:3-4と5:20とは、同じ一つのことを告げているのかも知れません。
律法学者やパリサイ人の在り方と、主イエスの教えとの対立の経緯を辿りましょう。その時代と社会には、とても世俗化された形式的な信仰があふれていました。良い行いを人々の前に積み重ねて、神からも人々からも認められて救いに入れられると考えられていました。その代表例が律法学者やパリサイ人です。彼らの日頃のあり方を想起しながら、主イエスは山上の説教を語りつづけます。マタイ6:1-18;「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。・・・・・・また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」。彼らの信仰は、自分自身の正しさの主張と宣伝にすり替えられています。
少し後で、まず9:9-13。取税人マタイを弟子としたとき、マタイがした最初の仕事は盛大で親しく愉快な大宴会を開いて、取税人仲間や「罪人」とレッテルを貼られた人々を招いて、主イエスと引き合わせることでした。主イエスを信じて、主に従って生きる者とされたことが、とても嬉しかったからです。その喜びと幸いに仲間たちにも預からせてあげたかったからです。パリサイ人たちはこれを見て、「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と弟子たちに文句をつけ、するとイエスご自身が答えます、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』」。神に背く罪を、主イエスは『病気』と言い換え、良い医者である神ご自身が病人である罪人を招き、その病気を治すのだと説き明かします。とても病状の進んだ重病人はむしろパリサイ人たちでした。けれど病識がなく、「自分こそはとても健康だ」と思い込んでいました。だから、良い医者である神のもとへと駆け戻ることもできず、救いを願うこともできず、そのお働きに身を委ねることもできませんでした。良い医者から「診てあげるから来なさい」と呼ばれても、見向きもしませんでした。本当は彼らこそが重篤な病人であり、医者の治療を緊急に必要としていましたが、自分は丈夫で健康だと思い込んでいましたから、医者もその治療も拒んでいました。しかも聖書の専門家を自負していたのに、「わたしが好むのは憐れみであって生け贄ではない」というホセア書6:6はどういう意味か、聖書をちゃんと読んで、いよいよ本気になって学べと命じられて嫌な気がしました。罪人を憐れんで救うし、そういう神であるという根本の道理も見失っていました。
次に同じ9:14-17、ヨハネの弟子たちが断食の件で討論をしかけてきます。「そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、『わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか』。するとイエスは言われた、『婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう』」。ヨハネの弟子たちでさえ、ここではパリサイ人らの形式主義に深く汚染され、かぶれています。「施し、祈り、断食」は代表的な良い行いであり、救われるための自分の義の内容と根拠になっていました。それぞれに積み重ねた総合得点で「誰がいちばん偉いか。誰が正しく、信仰深く、誰が救われて天国に入れられ、そこでの高貴さと権力の地位は第何位くらいか」と競い合いつづけます。断食も、荒布を着ることも、灰をかぶることも、それらは神へと向かう祈りであり、悔い改めて神へと立ち返ろうとするひたすらな願いであるはずでした。けれど、それらはすっかり変質して、自分を誇って他者を軽蔑するためだけの卑しい道具に成り下がりました。神をそっちのけにして。中身のない、ただただ形式的なだけの信仰深さの装い。それが古い皮袋の正体であり、もしそこに福音の中身が入れられてしまうなら、古い罪の皮袋・偽善の皮袋は張り裂けてしまうほかない。彼らの形式主義と主イエスの福音とは相容れず、並び立つことが決してできません。虚しい形式主義を突きつけられて、彼らは主イエスとその教えを激しく憎みはじめます。それらは燃え上がって、間もなく、「イエスを殺してしまおう」(12:14参照)と策略を練りはじめます。
さて昨年のこの集会で、『キリストの従順』という題で登家勝也牧師がくわしく語っておられました;「キリストは、人となってからも御父への従順をまっとうするという第一の任務・目的を持ち続けておられます。それは徹底的な従順です。救い主イエスによっていったい何事が成し遂げられたのかということが徹底的に聖書を見つめる中で探求され、そこから汲み出され、描き出されなければなりません。ところがなおまだ十分には語られておらず、今日に至るまで通り一遍のことしか語られてきませんでした。『そもそもの初めに神が私たちの造り主であられ、ご自身の永遠の憐れみによって私たちを救いへと選んでおられること。世の終わりに、キリストによる審判をへて私たちを永遠の御国へと受け入れてくださること。その希望』という初めと終わりがスッパリ切り捨てられ、ほとんど顧みられないままでいる。そのせいで、教会はとても悪い状況に置かれつづけています。私たちのために定められている終わり。審判のはてに御国に受け入れられるという希望に向けて今を生きているのかどうかと、私たち自身も自分に向けて本当に問わねばなりません。その希望なしには、福音はなんら人を生かさないし、救うことも有り得ないからです。・・・・・・神が受け入れてくださる従順は、キリストが成し遂げてくださった従順であるほかありません。ですから私たちはキリストのものであることによって、その従順に預かりつづけて生きるのです。キリストがいつも共にいてくださり、キリストの御霊にいつも助けられ教えられている人間は、その従順の賜物を喜び祝う祝典に預かりつづけます。私たちは罪人であるので、キリストに依り頼んであること。全面的に、全生涯にわたってです。キリストのもとへと赴きつづけて生きることです。何をなすべきか、どうあるべきかが御言葉によって教えられている教会の秩序の中でこそ、それは成し遂げられます。それこそが、キリストに捕えられており、キリストの中に入れられている人間であるということです(登家勝也『キリストの従順』 2017,8, 16 夏の教理教育学校にて)。
「幼な子のようになる」とは何か。自分を自分で低くする、あるいは誰かに押さえつけられて低くされる。けれど、それだけでは何の手がかりも与えません。神の国(=天国)に入るとは、御父、神のご支配への服従・従順を生きることであり、するとそれは(神に対して!)自分を低くすることであり、御父・神への従順であるほかありません。しかも幼な子さえ、幼い時から心に悪事を思い図ると神からはっきりと見透かされています(創世記8:21,ローマ手紙3:9,同3:21-27参照)。幼な子100人中100人までが、天国に入れていただける合格点に達しません。これが聖書的な答えの到達点です。要求されている中身を満たす幼な子はただ一つの実例しかありません。つまり、唯一の手本は主イエスご自身です。ローマ手紙8:14-17。「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。子たる身分を授ける霊を受け、その御霊に導かれつづけ、神の子とされた。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶ。「アバ、父よ」と御父に全幅の信頼を寄せ、聞き従って生きる幼な子です。「新しく生まれて神の国を見る」ことをニコデモはあの内密の面談の夜には気づくことができませんでしたが、後になって、幼な子とする霊を受けました(ヨハネ3:3,同19:39)。もちろん年をとってから新しく生まれて幼な子として生きはじめることができます。神の霊がその人を新しく生まれさせてくださるならば。ここでようやく、神の子とされた者たちが神の霊によって『アバ、父よ』と呼ぶ。呼ばわりつつ、生きることをし始める。謎が説き明かされました。ゲッセマネの園での、主イエスの祈りの格闘です。
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 (マルコ福音書 14:36)
はじめにそのように造られ、けれど堕罪以降失われつづけていた「神のかたち」がここに回復しています。それは救い主イエスのかたちであり、神への従順への回復です。ピリピ手紙2:5以下は、「キリストは神のかたちであられたが神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」、またローマ手紙の冒頭と末尾は「主イエス・キリストの御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせる」(ピリピ手紙2:5-8,ローマ手紙1:5,16:26)と指し示します。御父への御子イエスの従順。神のかたち。このように、私たちも「~してください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と生きはじめ、ますますそのことを切に願って生き続けることができます。