みことば/2018,8,12(主日礼拝) № 175
◎礼拝説教 創世記12:1-9 日本キリスト教会 上田教会
『しずまれ。主の救いを見よ』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
14:1 主はモーセに言われた、2 「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。3 パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。4 わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。・・・・・・10 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、11 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。12 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。15 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。16 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。17 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。18 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。 (出エジプト記 14:1-18)
アブラハムに対して語られていた約束の通り(創世記15:13-)に、彼らは400年の間エジプトの国で奴隷にされていました。主なる神は彼らを憐れみ、そこから連れ出しました。神の民とされたイスラエルは、私たちの先祖たちは、葦の海を渡りました。1-4節。神の民は袋小路に追い込まれました。行く手は海、そしてエジプト兵が迫ってくる。どこにも逃げ道がない。たまたま偶然に、ではありません。主なる神こそが、わざわざそうなさったのです。パロの心が頑なになったのも、それもまた、主なる神ご自身が彼の心をかたくなにしたのだと念を押されます(4,8節)。どうしてなのか。なぜ、そうする必要があったのかと問わねばなりません。4節を見てください、「わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らの後を追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉れを得、エジプト人にわたしが主であることを知らせるであろう」。主が主であることを知るようになる。何度も何度も申し上げます。神と私たちとの関係で最も大切な肝心要は、それが『主従関係』であるということです。どっちがどっちでしょう。神さまがただお独りのご主人さま、私たちはその主人に仕える召し使いであり、手下の者たちにすぎません。「天に主人がおられ、その主人に仕えて忠実に働くはずのしもべたち同士」(コロサイ手紙4:1,コリント手紙(1)4:1-2参照)であると自分の魂に言い聞かせ言い聞かせしながら生きる私たちです。「主なる神」と申し上げ、「主イエス」と呼ぶ弟子であるとは、このことです。「~しなさい」と命じられ、「はい。分かりました」とご主人さまが命じるとおりに行い、このご主人さまにこそ十分に信頼を寄せ、主なる神さまによくよく聞き従って生きてゆくこと。エジプトの王も兵隊たちも、神の民イスラエルも、そして今日ここに集まった私たち自身も。今日ここに集まっている目的も、私たちがクリスチャンとされたことも、主が主であられることを知るためです。本当にそうだと、つくづくと知りつつ生きるために。
救い主イエス・キリストによる救いの出来事は、『第二の過越し』と呼び習わされてきました。最初の過越しがあり、第二の過越しがあった。かつて子羊の血が家の戸口に塗られて災いが過ぎ越し、神の民が救い出されたように、やがて神の子羊である救い主イエスの血が流し尽くされて、私たち神の民が救われたと。神の民である私たちにとっては祭りは礼拝です。そこに集う者たちのいつもの心得は、そこで語られ、行われている救いの出来事を自分自身のこととして喜び味わうことです。それが、いつもの基本の心構え。なぜなら主なる神さまはかつてエジプトの国から彼らを救い出しただけではなく、今ここにいるこの私たち一人一人をさえ救い出そうとしているからです。かつて彼らに手を差し伸べてくださっただけではなく、今ここにいる私たちにも同じ救いの手を差し伸べておられるからです。エジプト脱出を祝う過越祭で、祭りに集う人々は皆で神さまへの感謝を魂に刻んで祈ります。神さまの慈しみと恵みの一つ一つを覚えるための、長い長い感謝と信頼の祈りがささげられます。『それでもなお満足』という祈りです。かいつまんで、簡略にご紹介します;
「なんと多くの素晴らしい恵みを聖なる神さまから私たちはいただいていることだろう。もし仮に、神がエジプトから私たちを導き出しながら、けれど私たちに向かって海を真っ二つに引き裂いてくださらなかったとしても、それでもなお私たちは満足である。……まして私たちは遍在者にして聖なる神さまから、その二倍も三倍もの何と素晴らしい恵みをいただいていることだろう。それは神さまがエジプトから私たちを導き出してくださり、海を私たちに向かって真っ二つに引き裂き、海の中の乾いた所を渡らせてくださった。また40年間の荒れ野での日々において私たちの必要を満たしてくださり、天からの恵みのマナをもって、天からの恵みの肉をもって、また岩からの恵みの水をもって私たちを養いとおしてくださり、安息日を与えてくださり、シナイ山に私たちを導いて十の戒めを授けてくださった。さらに、乳と蜜の流れる安息の地カナンに入らせてくださり、私たちのあらゆる罪をあがなうために、お望みになる神殿の建設を私たちに許してくださったからである」。
(『過越祭のハガダー』山本書店より)
友だちは言います;「なるほどねえ。ユダヤ教徒もクリスチャンの方々も、神さまへの絶対的な信頼をもっているんですか。素晴らしいですね。けれど現在の私にはそれがなかなかできず、尻込みしてついつい二歩も三歩も下がってしまいます」。神への全面的な信頼。だから神にこそよくよく聞き従いつづけて生きること。確かに聖書と神ご自身は、これを私たち人間に要求しつづけました。けれど私たち人間は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、神さまに信頼することに失敗しつづけました。神さまに十分な信頼を寄せつづけて生きて死んだ人など一人もいない、と聖書自身は証言します(ローマ手紙3:9-,同3:21-27)。「神ではないものを恐れるな」と命じられつづけ、けれど神さまになかなか信頼できず、神ではない他アレコレを恐れたり信頼したりしつづけて。それが聖書全体の一貫する証言です。神さまへの信頼と感謝が日毎に増し加わり、「私たちの神は確かに生きて働いておられます」とその存在が色濃くなってゆくはずでした。が、どうしたわけか、そうはなりませんでした。神さまは片隅へ片隅へと押しのけられ続けて、今日に至るまで、ずっと影が薄いままです。なんということでしょう。だからこそ強がって見せても、誰も彼もが皆とても心細い。『それでもなお満足』という美しく素晴らしい祈りを、けれども神を信じて生きるはずの私たち自身の、その腹の思いは裏切りつづけました。あまりに裏腹な現実です。出エジプト記14章9節以下;「エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った、『エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです』。モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい』」(14:9-14)。パロとその軍勢はすでに間近に迫っています。イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍はすでに背後に襲いかかろうとしていました。あの感謝の歌とは裏腹に、イスラエルの人々は非常に恐れ、主に向かって叫びました。「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。この後も、彼らは「食べるものがない」と言っては不平不満をつぶやき、「水がない」と言ってはつぶやき続けます。あの感謝と信頼と喜びの歌とは裏腹に。読んでいて気づいたのですが、この、恐れと心細さに揺さぶられて不平不満をつぶやき続ける神の民イスラエルと、あの心を頑なにし続けるエジプト王パロとはよく似ていると思えます。10円玉の表と裏のように。鏡のこちら側とあちら側のように。『喉もと過ぐれば熱さを忘るる』と言いました。苦しみを忘れてしまうだけではありません。喜びも感謝も、主への驚きも信頼も、簡単に忘れてしまう。困ったものです。
13-14節、モーセは民に答えました。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。どうしたら、恐れないでいられるでしょう。一体どうしたら、主なる神さまへの感謝と信頼のうちに、心安く晴れ晴れとした私たちであることができるでしょうか? 主の救いを見ることによってです。ご主人であられる神さまが、この私のためにさえ、先頭を切って第一に戦ってくださる。その姿をつくづくと見て、「本当にそうだ」と知ることによってです。「きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう」。それはつまり、これからも何度も何度も、度々繰り返して、彼らを見るという意味です。この私たちを奴隷にしようとするものたちが追いかけてきます。目の前に海が立ち塞がります。袋小路に据え置かれて、私たちは恐れと心細さに打ちのめされそうになります。いつもの職場でも、茶の間に座っていても、道を歩いているときにも。あなたの目の前にいる、あまりに気難しく頑固で偏屈な
パロは「ゆるす」と言い、すぐに心を変えて「ゆるさない」と言うでしょう。そのとき、あなたや私はどうするでしょうか。そのとき、恐れないあなたであることができるでしょうか。それともただただ言いなりにされ、臆病風に吹かれるでしょうか。恐れたりおじけたり、神ではないものを仕方なしに拝んだりさせられてしまうでしょうか。「仕方がない、仕方がない」と都合のよい言い訳を並べ立てながら。貧しく身を屈めさせられる日々が来ます。年老いる日々が来て、若者たちさえ疲れ、弱り果てる日々が来ます。歴戦の勇士たちもつまずき倒れる日々が、この私たちそれぞれのためにも来ます(イザヤ43:12)。様々な悩みと思い煩いが海のように行く手を塞ぐときが、この私たちそれぞれのためにも来るでしょう。
16節、「海の中の乾いた地を行かせなさい」と主がお命じになり、そのとおりにしていただきました。その後も、「海の中の乾いた地を。海の中の乾いた地を」(22,29節)としつこく繰り返されます。泥水だらけのぬかるんだ道ではなく、乾いて歩きやすくしていただいた道を安心して落ち着いて渡りました。ここが、心に留めるべき大切な点です。だからこそ、年寄りや赤ちゃんや小さな子供、足腰衰えた者、病弱な者たちもも大勢いる中で、けれど皆で渡りきることができました。主なる神の慈しみ深い取り扱いが民の一人一人に及びつづけます。燃える火の中や大水の下をくぐる時にもです。苦難の只中にあっても、主はあなたを見放すことも見捨てることも決してなさらないからです。さて、生きることは、いつまでもどこまでも望むままに生きることを意味しません。若い日々にも健康で旺盛な日々にも、小さな子供の頃でさえ、生きることは死と隣り合わせ・背中合わせだったではありませんか。限りある、ほんの束の間のごく短い生命のときを、それじゃあ、この私自身はどうやって使おうか。どのように生きてゆこうか。やがて必ず来る死と終りを見据えて、だからこそ、そこで私たちは「じゃあ、この私はどんなふうに生きていこうか」と腹を据えたのでした。腹をくくって、よくよく心を鎮めましょう。たとえ予想できる最低最悪の事態がこの身に起こるときにも、「それでいい。分かりました」と受け入れ、従うことができます。あってよいことと、あってはならないことを決める立場に私たちはいません。私たちは神さまではないのですから、神より賢くあってはならないのですから(コリント手紙(1)1:18-25,ヨハネ手紙(2)9参照)。むしろ神さまにこそ信頼を寄せ、願い求め、神さまの真理と慈しみにすがって生きるはずの私たちですから。
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大切なことをお伝えします。2つです。(1)神さまがこの世界の全部を造り、神を信じる人たちをあらかじめ救いへと選んでくださっています。(2)やがて世界の終わりに、主イエスを信じて生きる人たちは、ただ「イエスを信じる」という一点だけで救われ、神の永遠の御国(=天国,神の国)に迎え入れられます。そこで、神さまと一緒に、幸いにいつまでも生きることになります。もし、聖書の神さまを信じて生きるなら、「死んだあとにも幸いな生命がある」と、ここまで信じることができるならば信じた甲斐があります。なぜなら、もし、この希望がないなら、聖書の教えも福音も人を少しも生かさないし、その人自身と家族を救うことも決して有り得ないからです。これが、神を信じて生きることの希望の中身です。その希望をもって一日一日を生きることができるなら、その人たちはとても幸いです。「天にいますわたしの御父の御心なしには髪の毛一本も私の頭から虚しく落ちることがない」、これからもそうです。しかも現に髪は抜けて薄くなり、白髪頭・ハゲ頭になり、足腰衰え、物忘れもひどくなりました。この私たち一人一人も、やがて間もなく次々と死んでいきます。しかも祝福と恵みを十二分に受け取りながら、天の御父の御心によって。