2017年4月17日月曜日

4/9「パン屑をいただく信仰」マタイ15:21-28

○とりなしの祈り

  できないことは何一つない神さま。この世のことと自分自身の生活、社会的評価や自分だけの小さな小さな満足に囚われてしまいやすい、あまりに自己中心すぎる、了見の狭い私たちです。あなたからの招き受け、あなたにこそ仕えて生きることをはじめた自分であることを忘れてしまわないように、あなたが生きて働いておられますことを覚えつづけて生きるように、どうか神さま、絶えず私たちの目を覚まさせてください。人間中心・自分中心のあり方から離れ去り、あなたへと私たちを向かわせ、心と思いを尽くしてあなたに仕えて生きる私たちとならせてください。どうか今日こそ、自分の心と願いをではなく、あなたの御心をこそ心から尊び、御心に従って生きることを願い求め、隣り人を自分自身のように愛する私たちとならせてください。日本で暮らす外国人を憎んだり排除しようとする人々の在り方や活動に対しても、私たちは責任があります。安く利用され、使い捨てにさせられつづける人々の貧しく惨めな暮らしに対しても、米軍基地を無理矢理に押し付けられている沖縄の同胞たちに対しても、私たちには果たすべき大きな責任があります。また貧しく心細く暮らす子供たちとその家族に対して、年老いた人々に対しても、若者たちに対しても。しかも福島原子力発電所の事故現場から、許される限度を超えた莫大な量の、あまりに危険な放射能汚染物質が海に垂れ流され、空気中にも撒き散らされつづけ、政府も公共機関もマスメディアもこれを隠しつづけているからです(*)。この世界に対して、あとに続く世代に対して、私たち大人には責任があります。神さま、目と心を閉じてしまわないように、どうか私たちを目覚めさせつづけていてください。
  主なる神さま。人間の力にではなく、あなたご自身の力に信頼し、人間の賢さにではなく、あなたご自身の知恵と賢さに聞き従って、そのように御心にかなって生きることを願い求める私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

(*)『メディア観戦記#46 「女性自身」2107,4,4号) 福島第一原発1号機 9月の建屋カバー撤去で65倍 都内でも4.5倍の放射能汚染!』  
木村結(東電株主代表訴訟事務局長)

 昨年9月、市民の反対と福島の不安に応えず、東京電力(以下、東電)は福島第一原子力発電所1号機の建屋カバーを外した。東電は放射性物質には飛散防止剤を使うので心配はないと説明していた。しかし、「女性自身」編集部が原子力規制庁のデータを検証したところ、福島県双葉郡では20171月の放射性セシウム134770ベクレル/立方メートル、1374700で合算5470ベクレル/立方メートル。カバーを外す前の20169月と比べると約65倍に急増していた。東京都新宿区では約4.5倍、神奈川県茅ヶ崎市では約9倍、群馬県前橋市では約13倍、千葉県市川市で約5倍となった。これは東電の怠慢であると同時に国民の安全を守らなければならない国の怠慢であり、全国各地で定点観測している規制庁は数値を知りながら警告せず放置していたことになる。1986年に福島原発と同じくレベル7の事故を起こしたチェルノブイリ原発は30年経って石棺にヒビが入り放射能漏れを起こしたため、ドーム型の覆いを施したが、これは100年持つという。チェルノブイリではデブリ(=原子炉から解け落ちて鉄や金属とともに固まった核燃料。非常に高い放射線量を持つ)を取り出すことはまだ不可能と考えているということ。 
 ところが日本は再稼働をしたいばかりに事故を起こした原発から無理にデブリを取り出し、何が何でも廃炉が可能と言いたいようだ。それは取りも直さず作業員に多大なる被ばくを強い、無理やり帰還させた福島の住民をも被ばくさせるだけでなく、全国民も知らないうちに被ばくさせられているということ。このような原発推進ありきの政治を一刻も早く終わりにしないと日本は世界の核のゴミ捨て場になってしまう。 




                      みことば/2017,4,9(受難節第6主日の礼拝)  106
◎礼拝説教 マタイ福音書 15:21-28                      日本キリスト教会 上田教会
『パン屑をいただく信仰』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。         (マタイ福音書 15:21-28)
                                                 



 「ツロとシドンとの地方」は、ガリラヤ湖の北のほう6070kmほどの地中海沿岸地帯にあります。ユダヤ人ではない外国人の一人の女性が助けを求めて、主イエスに叫びかけます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。わたしの娘が悪霊にとりつかれて苦しんいます」(22)と。それは魂の叫びであり、祈りです。そのような祈りがもしユダヤ人の由緒正しい家柄と血筋と身分の者が叫んだのなら、「すばらしい信仰」と人々はほめたたえたかも知れません。けれどユダヤ人ではない外国人たちの土地で、神を知らないはずのどこの馬の骨とも分からぬ怪しい人物の口から叫ばれたのです。その祈りと願いは軽蔑され、危うく退けられそうになります。あの弟子たちも、ここにいる私たちと同じように人間を色眼鏡で見て、「この人はこういう人。あの人はああいう人」と簡単にレッテルを貼り、侮って決め付けてしまう習慣がついていました。「この女を追い払ってください」(23)と弟子たちは言います。
  あのカナン人の女性は、自分の娘の厳しく困難な病いを背負って、苦しみと痛みの中を生きてきました。その苦しみが、彼女をキリストの御もとへと連れ出しました。その痛みが、彼女を祈ることへと向かわせました。その苦しみと悩みがもしなければ、彼女は神と出会うことなどなく、神を知らない人間として一生を終えたかも知れません。確かにそうです。苦しみと痛みの中で身を屈めさせられたことは、彼女にとって良いことでした(119:71)。なにしろ、そのおかげで格別な贈り物を受け取ったのですから。彼女のそのひたむきで一途な姿に照らし出されて、私たちはここで自分自身のいつもの有りようを突きつけられます。悩みと苦しみの中で、それなのに私たちは「祈ってなどいられない」とつぶやきます。その時こそ祈るべき時だったのに。打ちひしがれ疲れ果てて、私たちはその場に座り込んでしまいます。けれど、その時こそ神へと一途に向かうべき時だったのに。のしかかってくる重荷と困難とは、神からの招きだったかも知れません。そのことを通して、私たちに格別な幸いが与えられようとしていたのかも知れません。目の前に立ち塞がる試練は、立ち止まって自分自身を振り返ってよくよく考えてみるようにと私達を促しました。膝を屈め、鎮まって祈るようにと、耳を澄ましてみるようにと。「心の貧しい人たちは幸いである。悲しんでいる人たちは幸いである。義に飢え渇いている人たちは幸いである」(マタイ5:3-)とは、このことです。『艱難(かんなん=困難にあって苦しみ悩むこと)、汝を玉(=素敵な宝石)にする』と昔の人は言いました。けれど、それはいつもそうなるはずの当然のことではなく、そうではない場合も多かった。苦しみと悩みに押しつぶされ、その人は希望も喜びも見失い、空ろな淋しい人間になってしまったかも知れません。かたくなで意固地な偏屈な人になり果ててしまったかも知れません。では、なぜ悲しむ人たちが幸いなのか。悲しみを喜びに変えてくださる方がおられるからです。なぜ飢え渇いている人たちが幸いなのか。良いものを贈り与えて満ち足らせてくださる方がおられるからです。もし、その悲しみと渇きが、その人たちを神へと向かわせるなら、そうであるならその人は幸いです。もし、そうではなく、ただただいじけたり僻んだり自分を憐れみつづけるだけならば、幸いでもなんでもなく、ただ惨めなだけです。神へと向かうその人たちが、そこで神さまからの慰めを受け、良いもので満たされ、神ご自身と出会うならば。そうであるなら、飛びっきりの幸いをその人たちは受け取るでしょう。そこでようやく喜びに溢れることでしょう。

             ◇

 けれど、主イエスのこの態度はどういうことでしょうか? 23-26節。「主よ、わたしを憐れんでください」という叫びに、しかし何もお答えにならないのです。叫び続けても、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のものには遣わされていない」と冷たく背を向けるのです。ひれ伏して「どうか助けてください」と必死に願っても、なお「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」などとあざけるのです。なんだか意地の悪い、了見の狭い、ひどく皮肉っぽい救い主ですね。虫の居所が悪かったのでしょうか。思いやり深い、慈しみにあふれる主であると思っていたのに。私たちがよく知っている主イエスの顔つきと、ここでの主の顔つきはまるで違います。まったくの別人のようにさえ見えます。どういうことでしょう? この哀れな女と共に、私たちもここで心を痛めます。そして何より、この救い主は、ユダヤ人のためだけの救い主だったのでしょうか。私たちは信仰の判断を問われています。どんな主であり、どんな私たちだったのかと。
 そういえば私たちも、この彼女と同じように取り扱われました。きわめて手荒で乱暴な仕方で、私たちの祈りが鍛えられたことがありました。手厳しい訓練を、私たちも折々に受けました。耐え忍んで祈りつづけるのか、それとも簡単に諦めて見切りをつけてしまうのかどうかという訓練を。自分の心の中に何があるのかが白日の下にすっかり暴かれてしまうような日々が、私たちにもありました。彼女の祈りの姿に目をこらしましょう。苦しみと痛みの中に置かれた1人の母親の祈りは、初めにはまったく顧みられないかのように見えます。主の弟子たちも冷たく背を向け、主イエスご自身さえたった一言も答えてくれず、見向きもしないかのようです。けれど彼女は祈りつづけています。次に主の口から出た言葉は、彼女の心を挫こうとするかのようです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のものには遣わされていない」(*)。さらに彼女は祈りつづけます。ひれ伏して、「主よ、どうか助けてください」と。すると主からの答えは、さきほどの答えよりもさらになおさら冷たく、そっけなく、彼女の希望を打ち砕こうとします。「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。けれど、ご覧ください。彼女は祈ることを止めません。口を閉ざそうとしません。彼女の祈りがなお続いています。そしてついに彼女は答えを見出し、受け取ります。神の憐れみの約束は本当でした。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ7:7)。この約束は、彼女にとってもこの私たちにとっても真実でありつづけます。神さまからのこの憐れみの約束は、決して破られることがありません。 
  祈り求めつづけるこの1人の母親をご覧ください。彼女は、自分の大切な欠けがえのない娘のために、執り成して祈りつづけています。「わたしを憐れんでください」と叫びながら、主イエスに自分の娘を憐れんでほしいのです。「助けてください」と呼び求めつづけるのは、自分の娘を助けていただきたいからです。「神へと心を向け返してもらいたい、ぜひそうしてもらいたい」と願い求める1人の人が、私たちにもあります。大切な子供たち、自分の夫、自分の妻があります。その人のための救いをぜひにと願い求めるかけがえのない家族や友人たちが、私たちにもあります。「恐れるな。語りつづけけよ。黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って危害を加えるようなことはない。この町には、私の民が大勢いるのだから」(使徒18:9-)。もちろん、そうです。神の民はその1つの町に大勢おり、私たちの町にも、私たちの家の同じつの屋根の下にも、いつもの茶の間にもいるからです。イスラエルの家の、かけがえのない失われた羊たちが。そうであるなら、あのカナン人の母親のように、大切な欠けがえのない1人の人のために、この私たちも祈り求めつづけましょう。
  そして、ご覧ください。主にしがみつく祈りの格闘の中で、彼女は、「でも小犬も、その主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」という信仰を受け取りました。主人の食卓の下にいる小さな子犬の信仰です。恵みの大きさに比べて私は小さく貧しい、私はその恵みに少しも値しないという信仰です。それなのに私たちは、自分が小さな小犬に過ぎないなどとはほんの少しも、夢にも思ってみず、他人と見比べて小さいとか大きいなどと肩肘張りつづけてきました。虚勢を張ったり、体裁を取り繕ったりしながら、大きな大きな私であることを必死に求めつづけてきました。だからです。それまでは誰かに「お前なんか、ちっぽけな小さな小さな小犬に過ぎない」などと呼ばれたら、カンカンに腹を立てました。そのくせ、「あの犬は私よりも少し小さい」と誰かを見下しては胸をなでおろしました。品定めをしあい、傲慢に高ぶったかと思うと卑屈にいじけて、周囲を見回して上がったり下がったりして、人間のことばかり思い煩っていたその人が、神ご自身の恵みの大きさを、そこでようやく見据えています。見栄っ張りでプライドばかりがやたら高かったその人が、「しかし小犬も」と幸いを噛みしめ、喜びにあふれています。「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」と喜び祝うマリアのように。「主は今こそ、わたしを心にかけてくださって、人々の間から私の恥を取り除くためにこうしてくださいました」と感謝に溢れたエリサベツのように(ルカ1:25,48。なぜなら、小さな小さな、ちっぽけな子犬たちよ。それは当然の権利、報酬、代価などではなく、憐れみを受け取ることだからです。食卓の下の小犬がパン屑を求め、喜び感謝して食べることだからです。恵みの大きさに比べて私は小さい、私はその恵みに値しない。私の小ささと貧しさに比べて、受け取った恵みはあまりに大きく豊かだと。そこは広々とした自由な土地でした。そこでは、誰もが安らかに、深~く息をつくことができたのです。
  「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(コリント(1)1:9,イザヤ64:3からです。その救いの御業は意外なところから起こり、私たちが思ってもみなかった意外な人物の魂を揺さぶり起こします。例えば、「祈っても無駄だ」と思っていた人が、あるとき、祈り始めます。「こんな大変なときに、祈ってなどいられるか」とただ虚しくアタフタオロオロするばかりだった人が、あるとき、膝をかがめ、鎮まって祈り始めます。「その前に、まずあれをしてこれをして、このことも片付けて、それから」と気もそぞろだった人が、抱えていた山ほどの思い煩いをいったん脇に置いて、あるとき祈りはじめます。聖書は証言します;「主は近くにおられる。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。「主はすぐ近くにおられる」とわざわざ言われたのは、それを忘れていたからです。ガラテヤの兄弟姉妹たち。あなたがたの心をいったい誰が惑わせてしまったのか(ピリピ手紙4:5-7,ガラテヤ手紙3:1-目に見えない神は、見えにくかったのです。語りかける神の御声は、あまりにか細く、小さなささやき声だったのですから。私の周りにはあの人、この人、あの彼らがいてとばかり見回していたあなたや私の騒がしい眼差しには、神の姿が見えるはずもなく、その騒がしい耳と心では、ささやきかけるそのか細い御声も足音も聞こえるはずもありませんでした。しかも、分かったつもりになって高をくくっていました。「神などいない。人間がいるばかりだ」と。「神ご自身のお働きなどどこにもない。ただただ私たち人間が働いたり休んだり、私たちが計画したり、私たちが取り仕切っているばかりだ」と。心が騒ぎ立つのも当たり前、ブクブクと沈みそうになるのも当然です。せっかく主イエスが「来なさい」と招いてくださり、その呼び声に従って舟から降りて水の上を1歩、2歩、3歩、4歩、5歩と歩き出したのに、風が突然に吹きつけます。波が打ちかかり、しぶきが顔を濡らします。怖くなり、私たちは真っ暗な湖の底へとブクブク沈みかけます(マタイ14:29-)。けれど、その時こそご覧ください。主は、あなたのすぐ近くにおられます。あなたに向かって手を差し伸べながら。「主よ、助けてください。私は溺れそうです」と、あなたも打ち明けなさい。小犬がパン屑を求めるように。求めているものを、恐れているものを、あなたは神に打ち明けなさい。パン屑を求めるように。なすべき務めを果たすことができるように、「力を与えてください」と。試練と誘惑に打ち勝つことができるように、「憐れみを与えてください」と。悩みと苦しみを耐え抜くことができるように、「あなたからの格別な慰めを、この私にも与えてください。どうぞぜひ与えてください」と。小犬がパン屑を慕い求めるように。
しかもあなたもまた、イスラエルの家の失われて再び探し出された大切な大切な羊たちの中の一匹なのですから。カナン人の母親の願いを聞き届けてくださった方は、ここにいるこの私たちの祈りと願いにも耳を傾けておられます。私たちのためにも願いをかなえ、主イエスの恵みと平和を取り戻させ、そのようにして、私たちの心と考えとを守ってくださいます。イエス・キリストによってこそ。主なる神さまは生きて働いておられます。もちろんこの私のためにも、あなたのためにも。

   【補足/神ではなく、神を信じる者たちこそが心を狭く貧しくしつづけた】

(*)24節の主イエスの発言同様に、誤解されやすい発言はいくつもあった。旧約の民もクリスチャンも信仰と恵みの領域を狭くしつづけた。「神によって選ばれた少数の優れた私たちだ」と。けれど、天と地のすべてを造った神であり、神によって造られたすべての生命を愛し、祝福しようとする神でありつづける。アブラハムら少数の者たちを選び出したのは、神によって造られた世界への祝福の出発点とするためだった(創世記1:31,9:8-17,12:1-3。やがて救い主イエスが仰る;「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子とし(マタイ28:18-と。