みことば/2017,4,16(復活節第1主日の礼拝) № 107
◎礼拝説教 マタイ福音書 15:32-39 日本キリスト教会 上田教会
『わずかなパンと魚で』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。33
弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。34 イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。35
そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、36 七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。37
一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。38 食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。39 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。 (マタイ福音書
15:32-39)
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32-33節。主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。ガリラヤ湖の岸辺で、とてもよく似た、そっくりそのままの出来事が繰り返されつづけています(本箇所,マタイ14:13-21)。あのときからおよそ2000年もの間いつもいつもこんなことの繰り返しです。キリストの教会と一人一人のクリスチャンたちの毎日毎日の暮らしは。主イエスを信じて生きるはずのこの私たちの只中でも、何度も何度も繰り返して。それで、キリスト教会の礼拝堂の正面の壁の多くはこのようにわざわざ舟の舳先(へさき)の形にくり抜かれています。大事なことを心に刻んで覚えておくためにです。「あのガリラヤ湖のほとりや湖の小舟の上で起こった出来事をよくよく覚えておきなさい。主イエスを信じて生きる私たちには、あのときと同じような出来事が何度も何度も起こりつづけるのだから」と。けれどあの彼らも私たちも心が鈍くされて、何が告げ知らされているのかをなかなか理解できず、受け取ることもできずにいます。少しのパン、わずかな魚。とても乏しかったはずでした。けれど大勢の群衆がすっかり満たされ、さらに残ったパン屑を弟子たちに集めさせるといくつものカゴが一杯になりました。これを見せるために、実地訓練の一環として、あの弟子たちにわざわざカゴをもって集めさせたのです。直々に教えていただいた主の祈りの中で、『私たちの毎日毎日生きるために必要なすべて一切の糧を、御父よ、どうか今日も与えてください』とまるで口癖のように朝も晩も祈りつづけているくせに、それなのに、必要なすべて一切の糧を天の御父が贈り与えつづけてくださって、そのおかげで暮らしが成り立っているなどとは夢にも思っていない私たちです。一個のキリスト教会も、自分たちの家族の毎日毎日の生活も、一日分ずつの健康も生命さえも、自分たちで支え、養い、自分たちの甲斐性と努力で維持しているなどと思い込んでいます。いったいどうしたわけでしょう? もし、「こう祈りなさい」と主イエスから教えられて祈っているとおりに、そのように信じることが心底からできさえすれば、この私たちも、どんなに幸いでしょう。
さて、主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。どんな救い主だと思っておられましたか。かわいそうにおもって、だから空腹なら食べ物を与え、困ったことがあればそれを解決してくださり、すっかり疲れ果てているなら必要なだけたっぷりと休ませてくださり、恐れや心細さや悩みがあるなら、それを取り除いてくださる救い主です。その救い主を、あなた自身も信じることができますか? ただ口先だけで「信じている信じている」と言うだけでなく、心底から本気で信じることができますか。――それなら良かった。あなたも私もとても幸せ者です。
「かわいそうだ。かわいそうだ」と深く憐れんでくださるとき、救い主イエスのはらわたが腹から溢れて、こぼれ落ちそうになっています。「かわいそうだ。かわいそうだ」と、はらわたが掻きむしられます。「はらわた」は聖書の神を信じる人々にとって、最も深い感情が宿り、そこから噴き出す場所です。「ああ、わがはらわたよ」と 預言者たちが身悶えして苦しみつづけるだけでなく、神の民とされた人々が苦しんでいるだけでなく、神ご自身こそが「わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は」と、はらわたをかきむしられて身悶えしています。神さまを信じて生きるはずの者たちが、この私たちこそがすっかり愚かになり、神を忘れ去り、悪を行うことには狡賢く小利口であるのに善を行うことを知らないかのように振舞うのを見つづけるからです。よくよく知らされてきたはずの主を忘れてしまうからこそ、いつまでも、どこまでも愚かなのです。その惨めさを、神は自分自身のことのように嘆き悲しみます。この同じ神がやがて再び、「ああ、わがはらわたよ」と 苦しみ悶える日が来ます。それは、ご自分の民に対する深い憐れみです。「群衆が飼う者のいない羊のように弱り果てて、倒れている」(マタイ9:36)のをご覧になって、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストは深く憐れまれました。ここでも、他の様々な場所でも、「この人々がかわいそうでならない。何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。救い主イエスは私たちをご覧になって、深く憐れまれます。可哀想でたまらないと。
◇ ◇
そのことをよくよく思い起こすために、讃美歌312番をこの後ごいっしょに歌います。お手数をかけますが、讃美歌312番を開いていただけますか。「いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう。こころの嘆きを包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を」。150年も前から愛され、親しまれつづけてきた讃美歌です。素敵なメロディーとか言葉が美しいなどということを越えて、やっぱり「ああ、こういう救い主だし、こういう神さまだった」と私たちの心に刻ませるからだと思います。「慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス」と噛みしめ、噛みしめしています。本当に、このとおりの救い主です。――さて、はじめからのことを話しましょう。神さまがはじめにこの世界とすべての生き物をお造りになったとき、人間は自由な生き物として造られました。つまり、神を愛し、神に従って共に生きることもでき、あるいはそれが嫌なら、神に背を向け、神からどこまでも離れ去ることもできました。人間は神に背を向け、神から離れ去っていきました。その途端、人間は自分がいったい何者であるのか、どう生きて死ぬことができるのか、何のために生き、どこへと向かって行くのかがすっかり分からなくなってしまいました。人間は互いに傷つけ合い、他の生き物を踏みつけにし、恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりしつづけ、その結果、神の祝福に満ちた喜ばしい場所になるはずだった世界は荒れ果てた淋しい場所になってしまいました。この世界をふたたび神の祝福の中に取り戻すために、神さまは、神を信じて生きるひと握りの人々を選び出し、祝福の出発点とし、そこから神を信じて生きる人々が生み出されつづけるようにしました。また、神ご自身である救い主イエスをこの世界へと送り出しました。救いの御業を成し遂げさせ、すべての生き物とこの世界全体をふたたび神の祝福のもとへと招き入れるためにです(創世記1:31,同9:1-17,同12:1-3,ヨハネ福音書3:16-17)。あるとき、救い主イエスは弟子たちに語りかけました;(ヨハネ福音書15:12-17)「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼ばない。しもべは主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」。クリスチャンとはこういうものです。語られたとおりで、主イエスの友だちにしていただいてる理由と中身は3つです。(1)愛してもらっているし、友だちである私たちのために主イエスはご自分の命を捨ててくださったこと。(2)友だちなので、主イエスの命じる命令を私たちも行うし、行うことができるということ。(3)単なるしもべではなく友だちだという理由は、父から聞いたことを主イエスはすべてすっかり私たちに教えてくださっていること。しかもはじめと終わりに、「互いに愛し合いなさい」と命じられました。これが、神の子どもたちとして選ばれ任命された仕事の中身です。こんな仕事、聞いたことがない。会社や職場の仕事や役割なんかとはだいぶん違います。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。はい、分かりました。よろしくお願いします、精一杯に務めさせていただきます。
歌の1節の中に、1つだけ古い言葉が混じっていました。「などかは下ろさぬ、負える重荷を」。背負っている重荷をいったいどうして下ろさないんだね。国語の授業みたいで申し訳ありませんけど、例の、『質問しているようでいて全然質問じゃない』文の形。その心は、「背負っている重荷を下ろせばいいじゃないか。なんでいつまでも大事そうに背負っているんだ。やめときなさい。さあ、降ろしなさい」という心です。マタイ福音書11章の末尾で、主イエス自身が勧めていました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。重荷をおろしなさいと勧めておきながら、その代わりに私の荷物を背負いなさい。その荷物はとても軽いし、そのおかげで楽~ゥに休むこともできるから。うまいこと言って騙してこき使おうとしていると思いますか。タチの悪いサギ師のペテンみたいに聞こえますか。矛盾しているし、つじつま合わないんですけれど本当のことです。ぼくも、そうしてもらった1人です。疲れはてていたし、どうしていいか分かりませんでした。背負いきれない重い荷物を背負っていました。主イエスのもとに来ました。休ませていただきました。それは他のどこにもない、格別な安らぎでした。主イエスの荷物は軽くて軽くて安らかでした。うまく説明できませんけれど、本当でした。
さて讃美歌の2節、3節。「いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈めるときも、祈りにこたえて慰めたまわん。いつくしみ深き友なるイエスは、かわらぬ愛もて導きたもう。世の友われらを棄て去るときも、祈りにこたえて労りたまわん」。信頼していた友人に裏切られることはあります。家族や親兄弟からも見放される、それもあります。自分で自分にすっかり失望して、「なんてダメな自分なんだろうか」とガッカリすることもあります。遠い昔に、はっきりと約束されました;「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(申命記31:8)。その通りで、ず~っとそうです。主イエスが十字架につけられて殺されるその前の晩、ゲッセマネの園で逮捕されたとき、弟子たち皆が主イエスを見捨てて、散り散りバラバラに逃げ去りました。けれど主イエスご自身は、その弟子たちを見捨てることも見放すこともなさいませんでした。大祭司の中庭で、「主イエスを知らない。なんの関係もない」とペトロが裏切るところを主イエスは見ていました。「ペテロは言った、『あなたの言っていることは、わたしにわからない』。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、『きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」(ルカ福音書22:60-62)。どんな気持ちでペトロを見つめていたのか、私たち1人1人を主イエスがどう見つめてくださっているのかも、そこには書いてありません。書いていないけど、「かわいそうだ。かわいそうだ。私はあなたを決して見放さない」と書いてある。しかも後から、それが誰の目にもはっきりと分かる時が来ます。この私たちも、よくよく知っています、自分自身のこととして。この私たちも同じように、「かわいそうだ。かわいそうだ。だから、あなたを決して見放さない」と憐れんでいただいたからです。何度も何度もそうしていただきつづけてきたからです。それで、ただただその憐れみのおかげで、だからこそ、この私共は今日こうしてあるを得ております。「慈しみ深き友なるイエスは我らの弱きを知りて憐れむ」。だからこそ、私たちは今でははっきりと信じています。信頼を寄せ、このお独りの方の言葉に、朝も昼も晩も耳をよくよく傾けつづけます。幸いなときにも、思い煩いに飲み込まれてしまいそうな心細い日々にも。