2017年4月4日火曜日

3/26こども説教「ゆるしてください」ルカ11:4

 3/26 こども説教 ルカ11:4
 『ゆるしてください』

11:4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。       (ルカ福音書 11:4

  ヨシキくん。そして今日から大きなお兄さんになったケンちゃん。誰かとケンカをして、その後で仲直りをしたことがありますか。どうやって仲直りをしたのかな。
 どうしたわけか、私たち人間は神さまに逆らう心をもってしまいました。自分の思いのままに生きて、したいことをし、したくないことをしないで好き勝手にしていたいと。その悪い心は、タチの悪い病気のようなものでした。いったんその病気にかかってしまったら、そうかんたんに素直なまっすぐな心には戻ることができません。その悪い病気を、聖書は『罪』と名づけました。誰も彼もがみんな、この同じ一つの悪い悪い病気にかかりました。その病気のせいで他の人間や生き物たちを困らせたり、ひどい目にあわせたり、いじめたり悲しませたりしました。悪い心のままに生きることは嫌なことです。神さまに逆らって、自分の思いのままに生きて、したいことをし、したくないことをしないで好き勝手に生きても、少しも楽しくないからです。自分自身でも困ったり苦しくなったりしましたが、どうしていいか分かりませんでした。
神さまは、神に逆らう心にとりつかれてしまった私たち人間を可哀想に思いました。その病気をぜひ、なんとかして治してあげたいと思いました。神に逆らう心を治してあげて、もう一度、神さまに素直に従って生きる嬉しい毎日を取り戻させてあげるために、そのために救い主イエスがこの世界に送られてきました。救い主イエスは、神さまに逆らっていた罪人が神さまに素直に従って生きるための道を用意してくれました。救い主イエスを信じる人は、ただ信じるだけで 誰でもその道をとおって、神様とも他の人たちや他の生き物たちとも仲良しに嬉しく生きることができます。ケンカしていた友だち同士が握手してニッコリして仲直りをするようにです。



      【補足/罪のゆるし】
《罪のゆるし》の教えこそ、キリスト教信仰の肝心要です。キリスト者とは何者なのかと問われて、私たちは答えます。『それはゆるされた罪人です。ゆるされて、それで罪人でなくなったのではなく、依然として罪人であり、その罪深さをゆるされつづけて生きる者たちである』と。その祝福に満ちた中身は、《この私は、人に対しても主に対しても罪を犯した》と告白し、《主があなたの罪をゆるし、その罪を取り除いてくださったし、憐れみによって取り除きつづけてくださる》と、ゆるしの現実を聴くことの中にあります。その私たちはまた、自分に対してなされた他者の罪や過ち、無慈悲、冷淡さをもゆるすようにと促されます。けれど、これは難しい。ひどく誤解されたり、ねじ曲げられ、不当な扱いに傷つけられることは日常茶飯事です。「どうして分かってくれないのか。なぜそんなふうに」と、私たちは打ちのめされ、心を痛めます。人との関わりはしばしば私たちの手に余ります。もし、「なにしろ許すべきだ。ゆるさなければ、あなたはキリスト者ではない」と突きつけられるなら、私は頭を抱えます。あるいは、「あなたがゆるされていることが十分に分かっているなら、それでいい。後は、あなた自身は人を許そうが許すまいが、温かく迎え入れようが冷たく退けようが、それはあなたの自由だ」と言われるでしょうか?
 《主の祈り》の6つの祈願の第5番目は、「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」。どうかゆるしてくださいと、なぜ願うのでしょうか。なぜ、そう祈り求めるようにと命じられているのでしょう。私たちがいまだに罪を許されていない、ということではありません。主イエスの、あの丘の上の十字架上で成し遂げられた罪の贖(あがな)いの出来事を、「それは、この私のためだった」と信じ、受け入れたときに、私たちはすでに何の留保もなく、すっかり決定的に罪をゆるされました。その罪がどんなに数多くても、最低最悪の罪であっても、すっかり丸ごとゆるされています。けれども、《我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく》とは、いったい何でしょうか。この1句に、私たちはたじろぎます。自分のための罪のゆるしと神の憐れみとを願い求めようとする度毎に、「お前はまだゆるしていない。どうしたわけだ?」と、私たちは突きつけられるようなのです。自分に対する他者の負い目をゆるしてあげることが、自分自身がゆるされるための前提条件なのでしょうか。ゆるすなら、その見返りとしてその報酬として、ゆるされるのでしょうか。いいえ、そうではありません。私たちが罪をゆるされることは、神からの恵みのできごとでした。それは一方的な贈り物でした。何の条件もなく、ただただ恵みによって、ただ憐れみによって、まったくの無償でゆるされた私たちです。