4/16 こども説教 ルカ11:9-13
『子供に良いものを与えたいと願う親』
11:9 そこでわたしはあなたがた に言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカ福音書 11:9-13)
『しきりに、必死にしつこく願いつづけて、それで良いものを与えてもらう』場合と、『そうではなかったのに、けれど良いものを与えてもらえた』場合と、両方がある。「いつもいつもしきりに、必死にしつこく願うなら、良いものをあげる。そうではないなら、あげない」という神さまではありません。私たちが思っているよりも、その5倍も6倍も、もっともっと心の優しい思いやり深い神です。
8節までは、「しきりに必死にしつこく願い、求め続ける」ことが語られていました。ここからは、ぜんぜん違います。「しつこく求めよ。必死に探せ。血が出るまでガンガンガンガン戸を叩きつづけなさい」とは書いてありません。もし本当にそうなら、ちゃんと、そう書いてあります。そうではないので、そうは書いてありません。むしろビックリすることに、ほんの少し求めてみたら与えられる。捜しはじめた途端に見つかる。そおっと軽くコンコンとノックしてみただけで、「はい。いらっしゃ~い。待ってたヨオ」とニコニコして、すぐにドアを開けて中へ入れてもらえます。どうしてでしょう? ぜひ贈り与えよう、見つけさせてあげたい、家の中に入れてあげたいと楽しみにしてワクワクしながら待ち構えておられたからです。自分の子供を大好きで大好きでたまらない、子供のためならなんとでもしてあげたいと愛している親のような神さまだからです。いいえ! 子供を愛する親である神です。その神さまの子供にしていただいた私たちです。
【補足/求め、捜し、門を叩く神】
「求めよ、探せ」。もしかしたら、それは神ご自身のための願いだったのかも知れません。私たちを探し求めるあまり、神は近づいて来られました。どんどんどんどん近づいて来られました。身をかがめ、低く低くくだって、私たちの低く貧しい生活の只中へ降りてきてくださった。神であられることのその身分も尊厳もご自分の生命さえ取るに足りないものとし、無にし、すっかり投げ捨ててくださった(ピリピ2:6-)。そのように私たちを求め、私たちを探し、私たちの門を叩きつづけてくださる神です。だから私たちも、天の父に向かって門を叩きつつ、探しつつ、ワクワク期待して求めつつ生きることができます。