2017年4月4日火曜日

4/2「その人自身を汚すもの」マタイ15:1-20

                 みことば/2017,4,2(受難節第5主日の礼拝)  105
◎礼拝説教 マタイ福音書 15:1-20                       日本キリスト教会 上田教会
 『その人自身を汚すもの』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
  
 15:1 ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、2 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。4 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。5 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、6 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。10 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。11 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。12 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。13 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。14 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。15 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。16 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。17 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。18 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。19 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、20 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。(マタイ福音書 15:1-20)
   


  主イエスが、パリサイ人や律法学者たちと対話をしています。おさらいですが、パリサイ人と律法学者たちが度々なぜ福音書の中に登場して厳しく批判され、非難されつづけるのか。彼らをバカにするためでなく、彼らを見下してこちらが良い気分になるためでもありません。彼らの姿や心の思いは、いつもの私たち自身の在り方や腹の思いにそっくりだからです。この私たち自身の悪い本性をはっきりと映し出す良い鏡だからです。あの彼らのフリ見て、わがフリ直せ。しかも今回は、食事の時に手を洗うか洗わないかについて語り合っています。どうでもよい些細なことのように、今日の私たちとはあまり関係のないことのように見えますか。いいえ、そうではありません。
 「なぜ食事のときに手を作法通りにきちんときれいに洗わないのか。律法違反じゃないか」と非難してくる信仰深い、きちんとした、モノの道理をよくよく弁えているはずの、清く正しく立派な人々に向かって、主イエスご自身がお答えになります。3節以下、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。偽善者たちよと呼びかけられます。ぼくは心が痛みます。最初から、しかも神を信じて生きてゆこうと決心しながら、なお元々偽善者だった者なと滅多にいなかったからです。また、「自分は今日から偽善者になろう。偽善者として一生涯生きてゆこう」と思い定めて偽善者になった者などほとんどいなかったはずだからです。あの彼らの身に、いったい何が起こったのか? ごく初めのうちには、あの彼らの多くは神を本気で信じていました。神に熱心に仕え、自分の心の思いにではなく、神の御心にこそよくよく聴き従い、何が善であり神の御心にかなう良いことなのか。何が悪いことで、神を悲しませたりカンカンに怒らせたりするのかを弁え知りながら一日一日を生きる私でありたい、ぜひそうでありたいと心底から願ってもいたはずです。けれどあるとき気がつくと、いつの間にか、あの彼らは偽善者に成り下がっていました。いつ、どこから、そうなったのか彼らには分かりません。いっしょに暮らす家族にも連れ合いや子供たちも、いつから、どうしてあの父さん母さんがそうなってしまったのか、さっぱり分からないと首を傾げるばかりでしょう。なぜ、形ばかりの者となり中身を失い、ただただ虚しい信仰の虚しい人間たちに成り下がってしまったのかを、この私たちはよく知っています。なぜ、そうなってしまったのか。昔々、「神を愛し、その律法を重んじる人々」がいました。やがて、その中の大多数は「形式主義者、律法主義者」に成り下がってしまいました。「神を愛し、その律法を重んじる人々」と、中身のないただ形ばかりの「形式主義者、律法主義者」と、両者の区別と違いはとても微妙で、ときどき本人でもよく分からなくなるほどです。同じように、「神と隣人を心から愛して生きていこうとするクリスチャン」と、「ただ形ばかり名ばかりのクリスチャン」との違いも、とてもとても微妙です。さあ困りました。なぜ、やがて中身と生命とを失ってしまったのか。――理由と中身を問うことを、あるときピタリと止めてしまったからです。
  8-9節。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」。耳が痛い指摘ですが、痛くても苦くても聞き分けねばなりません。あの彼らのようになってしまわないためには。ちゃんと中身もクリスチャンでありつづけるためには、何より神ご自身から新しい心を贈り与えられねばなりませんでした。神が私共にお求めになる献げ物は何だったでしょう。打ち砕かれ、自分自身の罪深さを悔いて恥じる低い心でした。「外側や体裁ばかりではなく心にこそ割礼を受けよ」と命じられています。素敵な礼拝堂で讃美歌を美しく歌い、格調高く厳かに祈っても、慎み深そうに笑顔で挨拶を交わしあってもなお、心が神さまから遠く離れているままならば、それは虚しいと告げられます。そのとおりです。17-20節、「 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。そうそう、もう何十年も昔のことですが、ヨソの教会の礼拝に招かれたとき、その教会では説教壇にあがるときスリッパを脱いで足に靴下だけはいてあがることになっていました。その教会では、説教壇周囲のほんの2メートル四方ほどが聖なる領域だったのです。「いやあ、形式主義に見えるでしょうけど、昔からずっとこうやってきたもので」と、その教会の牧師は照れくさそうに弁明していました。形式主義だなあ、と思いました。それならスリッパだけじゃなく、せっかくだから靴下もズボンもちゃんと脱がなくちゃ。自分自身の腹の中の薄汚れた思いをこそなんとかして漂白したり、除洗して、地面の下の奥深くに埋めてコンクリートの分厚い壁で覆ってしまわなくては。燃えても燃え尽きない柴の木の前で神がモーセに「足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だから」(出エジプト記3:5とおっしゃったことに自分たちは従っている、と思い込んでいたのでしょう。靴を脱いだ? とんでもない。靴を脱ぐだけでは全然足りません。聖なる場所と神ご自身を汚すのは、靴や靴底のチリや泥などではなく、むしろ人の口から出るものであり、人の腹の中に積もり積もっている神に逆らう罪の在り方です。しかも、双子の弟のヤコブが兄を恐れて夜逃げをし、人里離れた淋しい場所で野宿をして主と出会ったときのこと。「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」と驚いて目を見張ったとき、地上のどこもかしこも神の家、天の門とされたのでした。主の聖なる場所ではない、人間たちのためだけの俗なる場所など、もうほんのわずかも、どこにも残されていません。さらに、主イエスが十字架の上で息を引き取られたとき、神殿の、聖所と至聖所(=神だけの、最も神聖な場所。大祭司が年に一度だけそこで罪のあがないの儀式を執行する)を隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに引き裂かれ、取り除かれました。そのときから、神と人間、また人間同士を隔てる壁と垂れ幕がいっさい投げ捨てられてしまいました。体裁やごく表面的な秩序や、供え物や見栄えや、格調高く厳かで敬虔そうな雰囲気をではなく、いつもいつも中身と心を求める神です。しかも救いに値しない罪人を招いて、憐れんで救う神でした。そのためにへりくだって、救い主イエスは身を屈め、弟子たちにも手本を示してくださったではありませんか。手拭いを腰にさげ、水をいれたタライをもち、屈んで弟子たち一人一人の足を洗ってくださったではありませんか。「主であり教師である私があなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに屈んで足を洗い合うべきである。そのために手本を示したのだ。もし、これらのことが分かって、それを行うなら、あなたがたは幸いである」と主イエスが直々に、伝道者たちに、また、すべてのキリスト教会とクリスチャンたちに向けて、おっしゃったではありませんか。いかにも神聖そうにみえる厳かな説教壇の周囲ばかりではなく、どこででも365日ずっと、靴下も脱いで裸足になって歩き回らねばなりません。この私たちこそは。
 洗礼も聖晩餐も同じです。強情ではなく神に従順に生きるためには、人間たちのしきたりや願いばかりにではなく、神の御心にこそ従って生きるためには、自分自身の心の前の皮を取り去らねばなりません。せっかくなので、ここで聖晩餐の目的と願いについて、少し説明させてください。当教会のホームページに掲載していますが、キリスト教信仰の入門コース(=キリスト教の中身が分かるコース)では、このように説き明かしています;「聖晩餐とは何ですか?」「イエス・キリストがご自身の体と血とにあずからせることによって、わたしたちをしっかりと生きる者とし、救われた者の喜びと希望のうちに養ってくださる食卓です」「だれが聖晩餐のパンと杯にあずかりますか?」「洗礼をうけ、主イエスを信じる者とされたものたちです。恵みに値しない、ふさわしくないわたしたちですが、それでもなお、ただ神の憐れみによって救われ、ただ憐れみによってこの食卓に招かれています。このパンと杯こそが病人のための良い薬であり、罪人には慰めであり、貧しいものには格別な贈り物だからです」「洗礼を受けたわたしですが、先週もその前も罪深い自分勝手なことをたくさんし、人を傷つけてしまいました。こんなわたしは、聖晩餐のパンと杯を受ける に値しません。パンと杯を、今回は受け取らない方がいいでしょうか?」「いいえ、ちがいます すべてのクリスチャンもふくめて、誰もがとても罪深いのです。『罪深さや自分勝手さが無くなって十分に清くされてから聖晩餐を受けましょう』などと考えるなら、わたしたち人間は200年たっても300年たっても、準備が整いません。自分自身も含めて、皆すべての人間がこの恵みを受け取る資格がない、と気づきましょう。しかも、そのうえで恵み深い神さまは、その値しない、ふさわしくない、資格のない者たちを恵みと祝福の中へと招き入れてくださいます。とても罪深くて、恵みに値しないあなたこそが、どうぞぜひ安心してパンと杯を受け取ってください。神さまの恵みの中で養われ、罪と自分自身の肉の思いから救い出され、清められ、神の憐れみに向かって成長してゆくためにです」(ローマ手紙3:21-28,同5:5-11,テモテ手紙(1)1:12-17,Jカルヴァン「キリスト教綱要」41741-42節)。聖晩餐のときに読まれるコリント手紙(1)11:27以下には、とても恐ろしいことが書かれています。「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」と。そこにはもちろん福音の道理がありますが、舌足らずで、さらに大切な真理の残り半分を言い損ねています。罪深さをなお根強く抱えており、恵みに値しない、ふさわしくない私たちです。ふさわしくない私たちだとよく分かって、へりくだった低い心になることこそが、神の御前での最善のふさわしさです。自分を吟味し、主のからだをわきまえるとは、そのことです。聖晩餐のパンと杯にあずかり、み言葉によって養われつづけることによって、神の憐れみによって、少しも弁えなかった者たちがだんだんと自分自身と主の教会のことを弁えるようになり、ふさわしくなった者たちが少しずつふさわしい私たちへと作り替えられてゆきます。「ただ神の憐れみによって救われ、ただ憐れみによって主の食卓に招かれ、養われつづけている私たちだ」と、パンと杯にあずかる度毎に習い覚えさせられてゆきます。どうぞ今日も安らかに、喜びと期待をもってパンと杯にあずかってくださいますように。