○とりなしの祈り
救い主イエスを死者の中からよみがえらせ、それだけでなく、主とともに私たちをも新しい生命に活かしてくださる父なる神さま。命の約束を、どうか今日こそ私たちに堅く信じさせてください。
主なる神さま、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。どうか私たちを憐れんでください。なによりも、あなたが生きて働いていますことを私たちにはっきりと堅く信じさせ、御心にかなって生きることを私たちに今日こそ本気で願い求めさせてください。なぜならあなたは私たちに、「隣人になるとはどういうことか出かけて行って学べ」と、また「わたしが憐れみ深いようにあなたがたも憐れみ深くあれ」と仰ったからです。なにより私たちこそがあなたからの憐れみを受け取りつづけ、あなたご自身が私たちのためにも隣人となってくださったからです。この世界のためにも、また私たちの家族や職場の仲間たちに対しても、深手を負って道端に倒れている小さな隣人たちのためにも、あなたご自身の平和の道具として、私たちを朝も昼も晩も用いてください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2017,4,23(復活節第2主日の礼拝) № 108
◎礼拝説教 マタイ福音書 16:5-12 日本キリスト教会 上田教会
『悪いパン種』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。6
そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。7 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。8
イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。10
また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。12
そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。 (マタイ福音書 16:5-12)
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6節。主イエスは弟子たちに、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」と仰いました。なんのことを言われたのか、弟子たちにはさっぱり分かりませんでした。8-11節。ああでもないこうでもないと互いに論じ合っていると、ふたたび主イエスは仰いました、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと論じ合っているのか。まだ分からないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。パリサイ人とサドカイ人とはそれぞれユダヤ教の中の分派集団です。互いに、信じている信仰の中身はずいぶん違っていました。けれど、主イエスの教えとは相容れない中身でした。また、主イエスの教えが広まって、人々がその教えに引き込まれてゆくのは、パリサイ人にとってもサドカイ人にとっても不都合なことでした。それでたびたび難癖をつけてきます。弟子たちは、ようやく気づきます。警戒しなければならないのは、あの彼ら自身ではなく、彼らが信じて言い広めようとしている彼らの教えのことであると。その通りです。今日、この私たちのまわりでも、主イエスの教えとはずいぶん違う教えをさも当然のことのように、まるで道理にかなっているかのように言い立ててくる者たちがいます。警戒しなければなりません。よくよく警戒しつづけなければなりません。それは、どこから出てきた道理なのか。主イエスからの、聖書自身の福音の道理から出てきたものなのか。それとも、どこか別の場所からの、ただただ人間たちから出てきた知恵や教えなのかどうか。もし主イエスを信じて生きていこうと決めているなら、それなら、主イエスご自身からの教えのもとに留まっていなければなりません。さまざまな人々からのごく人間的なパン種が、あまりに人間的なさまざまな教えが、誘いかけつづけるからです。「だから、立っていると思うものは、倒れないように気をつけるがよい」。弟子たちは、この2000年間ずっと答え続けて来ました、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか判断してもらいたい。わたしたちは、もちろん神にこそ、神にだけ聞き従うとすっかり腹を据えているのですけれども」(コリント手紙(1)10:12,使徒4:19参照)。
9節。「覚えていないのか」と主イエスは注意を促します。ガリラヤ湖のほとりで、五つのパンを五千人に分けたときのこと、また七つのパンを四千人に分けたときのことを(マタイ14:17-21,同15:34-38)。当然覚えているはずのことであり、それなのにすっかり忘れてしまっているからこそ、パリサイ人にささいなことを言いかけられてもアタフタし、サドカイ人に言いかけられてもオロオロし、そよ風が吹いてもソワソワビクビクし、ほんの小さなさざ波がたっても右往左往してしまう。けれど、この私たちも今日こそなんとかして思い出しましょう。よくよく覚え込んで、とても大切な肝心要をもう二度と忘れてしまわないようにしましょう。大勢の人々と自分たち自身がほんのわずかなパンと魚で十分に養われたこと、弟子たちが有り金をすっかりはたいたわけでもなく、人里まで弟子たちがわざわざ買いに出かけたわけでもなく、ただただ主イエスご自身こそが目の前のその難問を解決してくださったことを、あの彼らもこの私たち一人一人も、よく覚えていなければなりません。とくに、(パンの残りを)「幾カゴ拾ったか、幾カゴ拾ったか?」(9,10節)とわざわざ質問されました。最初のときには「パン屑の残りを集めて12のカゴにいっぱい」でした。次のときには、「残ったパン屑を集めると7つのカゴにいっぱい」でした。あの弟子たちに一人一つずつカゴを持たせて集めさせたのは、実地教育のためでした。何が起こったのかをよくよく自分の目で見て、手で触って、自分で集めて、魂に刻み込むためにです。それなのに、あの迂闊な彼らは、すっかり忘れちゃっているらしいですけれど。主イエスの弟子たちよ。例えば、人里離れた寂しいところで大勢の人々が集まり、腹を空かせ、しかもパンも水も魚も乏しく、夕暮れどきも間近に迫ってくるとき、この私たちはどうしたらいいでしょう。また例えば湖の上で、吹き付けえる激しい風や荒れ狂う波に悩まされるとき、小さな小さな粗末な舟の上で溺れそうになるとき、この私たちはどうしたらいいでしょう? 「信仰の薄い者たちよ」(8節)と語りかけられていました。パンと魚の数や量が足りなすぎることが問題ではないのです。吹きつける激しい風や波が問題でもないのです。それよりも千倍も万倍も大問題なのは、主イエスへの信仰がいまだに薄すぎることこそが、キリストのすべての教会にとっても、この私たちにとっても、緊急事態の大問題です。自分自身と周囲の人間のことばかり思い煩って、そのあげくに神を思う暇がほんの少しもないことこそが大問題です。どんな神であり、どんな私たちであり、神は私たちをどう取り扱ってくださるのか。どういう救いであり、神を本気で信じる者たちがどう生きて死ぬことができるのかがいつの間にか、さまざまなことに紛れて、さっぱり分からなくなってしまうことこそが大問題です。だから、「まだ分からないのか。覚えていないのか」ときびしく叱られました。あの彼らのことではなく、この私たち自身のことです。湖のほとりで、また湖の上で小舟に揺られながら、あのとき何があったのか。どのようにしてその窮地から救い出され、空腹と乏しさを満たされたのかを覚えていさえすれば、それで十分だからです。この私たちにも同じことをしてくださる同じお独りの主がいてくださると、そのことを本気で信じはじめることができさえすれば。主イエスに信頼し、主イエスにこそよくよく聞き従うことを習い覚えていさえすれば、それだけで十分だったのです。それでもなお、「よくよく警戒せよ」と促されます。彼らもこの私たちも。
「パン種、パン種」としつこく繰り返されるのは、奴隷にされていたエジプトの国から連れ出していただいたとき、その最後の晩の食事を過越しの祭りとして記念しつづけているからです。あのとき、いつもと違って、パン種の入っていない、酵母菌でふくらまないペッタンコのパンを食べて出かけたことを、心に刻んで覚えておくためにです(出エジプト記12:17,同23:15)。過越し祭を祝って神の恵みを覚えるために、家中からパン種をすっかり取り除き、一週間ずっと、パン種の入っていないペッタンコのパンを食べつづけました。ほんの一粒の、小さな小さな悪いパン種が、練り粉全体をふくらませるからです。『神を押しのけて人間の知恵と教えばかりにしがみつこうとする人間中心の悪い悪いパン種』が、練り粉全体をふくらませ、思い上がってふくらんだパン全体が、隅から隅まで、人間の知恵と教えばかりにしがみつこうとする人間中心のパンに成り下がってしまうからです。別のときに主の弟子の一人が語りかけたのもまったく同じことです、「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭りをしようではないか」(コリント手紙(1)5:6-8)。「よくよく警戒しなさい」と命じられていたことは、このことです。
カビの生えそうな古いパン種を山ほど抱え、体中にまとわりつかせている私たちです。もし救われたいのなら、もし神の憐れみのもとに留まっていたいのならば、その、あなた自身の古いパン種をすっかり取り除けと命じられています。同時にそれは、神にこそ十分に信頼を寄せて、神ではないモノどもを恐れない私たちにされてゆくための、神からの招きでもあります。神への信頼。そして、神ではないさまざまな人やモノどもに対する恐れ、執着。10円玉の表と裏のように何かを『恐れる』ことは、その何かを『信頼する』ことと表裏一体です。たかだか人間にすぎない者どもを恐れてはならない。いや、むしろ神にこそよくよく信頼するあなたとならせよう。そうすれば、神ではない何者をも恐れないでいられるから。これこそ、ここで語りかけられていることの心であり、聖書66巻がずっと語りかけつづける一貫したメッセージです。恐れるな、恐れるな恐れるな。神ではないものへの恐れが高じるとき、逆にその分だけ神への信頼は弱まり、薄れています。神への信頼が強くなり、しっかりしてくるとき、それだけ神ではないものへの恐れは弱まり、薄れていく。子供の頃、シーソー台に乗って遊んだことがありますか。あのシーソーの板の両端に乗って遊ぶ子供たちのように、『神ではないものへの恐れ』と『神への信頼』は互いに相反して上がったり下がったり、重くなったり軽くなったりしつづけます。片方が軽くなって上がると、もう片方は重くなって下がり、片方が下がるともう片方は上に上がってゆく。上がったり下がったり、上がったり下がったり。すると、この私たち自身も信仰の中身をここで激しく問いかけられています。ほんのちょっとしたことが起こる度にアタフタオロオロし、心配したり、恐れたり怖じけたりしつづけているこの私は、気がつくと、神にほんの少しも信頼していない。だからたびたび心配になり、揺さぶられつづけている。なんということかと。まさか? この私は、もう信じてはいないのかと。
同じことが起こりつづけています。コリントの町で、ある夜、主がパウロに言われました、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな」と。その伝道者が心を挫けさせ、恐れと思い煩いにとりつかれていたからです。いまにも口を閉ざし、黙り込もうとしていたからです。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って危害を加えるようなことはない」。だからこそあの彼も、その町に腰を据えて語りつづけることができました。モーセと同胞たちが荒野を旅した40年の日々もまったく同じでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(使徒18:9-11,申命記8:3-10)。そのとおりでした。だからこそ、神をそっちのけにしてアタフタオロオロしつづける私どもに向かって、主は励ましつづけます、「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(申命記31:8)と。ついうっかり思い上がったり、いじけてしまう誘惑は、彼らだけでなく私たちをも付け狙っています。一つの教会としてもまた一個のクリスチャンの心とあり方の中にも、まったく同じ紆余曲折があります。神に信頼していたかと思えば、いつの間にか神を忘れ、受けた恩恵を忘れ、「わたしの手の力で」と高ぶります。思い上がりを捨ててへりくだり、神ご自身への信頼へと立ち返り、かと思うとまた忘れて思い上がり、へりくだって立ち返るという具合に。よく似た讃美歌を思い出しました。267番や286番を。(286番)「♪神はわたしの力、わたしの高い砦の塔、苦しむときの近くにある助けである。もし万一、大地がすっかり様変わりし、山も広い海の中に移るとしても、この私はどうして恐れるだろうか。いいや、決して恐れるはずがないじゃないか」。パリサイ人やサドカイ人が100人200人束になって向かってきても、その偽りの教えをあなたの耳に朝も昼も晩もクドクドクドクドささやきかけてきたとしても、それでも、何の問題も不都合もないでしょう。
あなたは、いったい何が望みですか。何がどうあったら、あなたは満たされ、安らかであることができますか。いまでもなお、必要なだけ十分に、あなたは神を信じておられるのですか。安心材料は、一つだけです。なくてならぬものも一つだけです。その一つを、その手に堅くがっちりと掴んでおられるのなら安心です。もし、そうではないなら、かなり危ういでしょう。神こそが私の堅くて高い城、強い盾であってくださるので、だから私は恐れることなく、おじけることもないと。私たちもみな同じです。神ご自身からの現実的具体的な十分な支えがあったので、だから耐え抜くことができました。へこたれそうになりながら、心が挫けてしまいそうになりながら、なお働きつづけることができたのは、ただただ神さまが、この私たちをさえ心強く守りつづけてくださったからです。もし、これまでそうだったのならば、それなら今もこれからも、どこからでも救い出し、何が起こっても、同じく変わらず心強く守りつづけてくださるからです。