2017年4月27日木曜日

4/23こども説教「信じる人は恵まれている」ルカ11:27-28

 4/23 こども説教 ルカ11:27-28
 『信じる人は恵まれている』

11:27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。(ルカ福音書 11:27-28

  ケンちゃん。神の国について、神を信じて生きて死ぬことについて、それがどんなに幸せで心強くて安心で嬉しいことであるのかを、その一番大切なことを、主イエスはずっと語りつづけていました。けれど、その女の人はちっとも聞いていませんでした。主イエスの言葉を聞き流しつづけて、だからトンチンカンなことを言い出しています。救い主を、なにかアイドル歌手か映画スターみたいなものだと思っていたのかも知れません。
  はっきりおっしゃいました。28節、「いや、恵まれているのは、むしろ、神の言葉を聞いてそれを守る人たちである」。その通りです。神である救い主イエスを信じて、その言葉を聞いて信じて、「ああ本当にそうだ」と受け止めることができるなら、主イエスを信じたことと、腹に収めた神の言葉が、その人を守りつづけます。その人が神の言葉を、ではなくで逆です。聞いて信じて腹に収めたはずの神の言葉が、その人の心と毎日毎日の在り方とを守ってくれます。いつでもどこでも何が起きても、その人を支えつづけ、助けつづけます。主イエスを信じることができるなら、その人たちは、このように神さまから良いものを受け取りつづけます。本当のことです。


【質問/私は、まだクリスチャンではありません。まだ理解が足りなすぎて洗礼を受ける勇気がありません。クリスチャンになるには、どんな気構えが必要ですか? それと、洗礼準備にはどんな学びがありますか?】

【お答え】  ①神がいる、と信じられるかどうか。②その神に信頼して、聞き従って生きる価値がある、と思えるかどうか。③そうしたいと自分が願うのかどうか。以上3点が明確なら、洗礼準備をし始めることができます。具体的には、その人と牧師との個別授業です。その中で、『どんな神さまなのか。人間とはどんな存在なのか。神は、どのようにして人間を救うのか。神を信じる人がどのように生きることができるのか』を、聖書のページをめくりながら、ご一緒に考えあいます。現実の教会生活の具体的で細々した点についても、後で困らないように、できるだけ説明します。その人の生活時間の都合によっては手短に準備を済ませたり、手紙やメールのやり取りで補ったり、あるいは時間をたくさんかけて、じっくり丁寧にする場合もあります。
 クリスチャンとして生きてゆくことは、『山登り』に似ています。洗礼とその準備は、登山口です。そこで準備体操をし、リュックの中身を点検します。無事に最後まで歩ききることを願って、できるだけの準備を精一杯にするのです。じゃあ、あなたのリュックの中に何を入れておきましょうか。弁当。水筒。おやつ。着替え。地図。道中で様々な困難も予想できます。しっかりした、歩きやすい靴も必要です。足場の悪い道があると思えば、ロープも持ってゆくでしょう。雨合羽も。一緒に登る仲間や道案内があるなら、かなり心強いでしょうね。どうぞ、考えてみてください。


4/23「悪いパン種」マタイ16:5-12

 ○とりなしの祈り
 救い主イエスを死者の中からよみがえらせ、それだけでなく、主とともに私たちをも新しい生命に活かしてくださる父なる神さま。命の約束を、どうか今日こそ私たちに堅く信じさせてください。
 主なる神さま、私たちは大きな苦難の中に据え置かれています。どうか私たちを憐れんでください。なによりも、あなたが生きて働いていますことを私たちにはっきりと堅く信じさせ、御心にかなって生きることを私たちに今日こそ本気で願い求めさせてください。なぜならあなたは私たちに、「隣人になるとはどういうことか出かけて行って学べ」と、また「わたしが憐れみ深いようにあなたがたも憐れみ深くあれ」と仰ったからです。なにより私たちこそがあなたからの憐れみを受け取りつづけ、あなたご自身が私たちのためにも隣人となってくださったからです。この世界のためにも、また私たちの家族や職場の仲間たちに対しても、深手を負って道端に倒れている小さな隣人たちのためにも、あなたご自身の平和の道具として、私たちを朝も昼も晩も用いてください。
 主イエスのお名前によって祈ります。アーメン


                 みことば/2017,4,23(復活節第2主日の礼拝)  108
◎礼拝説教 マタイ福音書 16:5-12                       日本キリスト教会 上田教会
『悪いパン種』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。6 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。7 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。8 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。10 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。12 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。  (マタイ福音書 16:5-12)
                                               

  6節。主イエスは弟子たちに、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」と仰いました。なんのことを言われたのか、弟子たちにはさっぱり分かりませんでした。8-11節。ああでもないこうでもないと互いに論じ合っていると、ふたたび主イエスは仰いました、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと論じ合っているのか。まだ分からないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。パリサイ人とサドカイ人とはそれぞれユダヤ教の中の分派集団です。互いに、信じている信仰の中身はずいぶん違っていました。けれど、主イエスの教えとは相容れない中身でした。また、主イエスの教えが広まって、人々がその教えに引き込まれてゆくのは、パリサイ人にとってもサドカイ人にとっても不都合なことでした。それでたびたび難癖をつけてきます。弟子たちは、ようやく気づきます。警戒しなければならないのは、あの彼ら自身ではなく、彼らが信じて言い広めようとしている彼らの教えのことであると。その通りです。今日、この私たちのまわりでも、主イエスの教えとはずいぶん違う教えをさも当然のことのように、まるで道理にかなっているかのように言い立ててくる者たちがいます。警戒しなければなりません。よくよく警戒しつづけなければなりません。それは、どこから出てきた道理なのか。主イエスからの、聖書自身の福音の道理から出てきたものなのか。それとも、どこか別の場所からの、ただただ人間たちから出てきた知恵や教えなのかどうか。もし主イエスを信じて生きていこうと決めているなら、それなら、主イエスご自身からの教えのもとに留まっていなければなりません。さまざまな人々からのごく人間的なパン種が、あまりに人間的なさまざまな教えが、誘いかけつづけるからです。「だから、立っていると思うものは、倒れないように気をつけるがよい」。弟子たちは、この2000年間ずっと答え続けて来ました、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが神の前に正しいかどうか判断してもらいたい。わたしたちは、もちろん神にこそ、神にだけ聞き従うとすっかり腹を据えているのですけれども」(コリント手紙(1)10:12,使徒4:19参照)
 9節。「覚えていないのか」と主イエスは注意を促します。ガリラヤ湖のほとりで、五つのパンを五千人に分けたときのこと、また七つのパンを四千人に分けたときのことを(マタイ14:17-21,15:34-38。当然覚えているはずのことであり、それなのにすっかり忘れてしまっているからこそ、パリサイ人にささいなことを言いかけられてもアタフタし、サドカイ人に言いかけられてもオロオロし、そよ風が吹いてもソワソワビクビクし、ほんの小さなさざ波がたっても右往左往してしまう。けれど、この私たちも今日こそなんとかして思い出しましょう。よくよく覚え込んで、とても大切な肝心要をもう二度と忘れてしまわないようにしましょう。大勢の人々と自分たち自身がほんのわずかなパンと魚で十分に養われたこと、弟子たちが有り金をすっかりはたいたわけでもなく、人里まで弟子たちがわざわざ買いに出かけたわけでもなく、ただただ主イエスご自身こそが目の前のその難問を解決してくださったことを、あの彼らもこの私たち一人一人も、よく覚えていなければなりません。とくに、(パンの残りを)「幾カゴ拾ったか、幾カゴ拾ったか?」9,10節)とわざわざ質問されました。最初のときには「パン屑の残りを集めて12のカゴにいっぱい」でした。次のときには、「残ったパン屑を集めると7つのカゴにいっぱい」でした。あの弟子たちに一人一つずつカゴを持たせて集めさせたのは、実地教育のためでした。何が起こったのかをよくよく自分の目で見て、手で触って、自分で集めて、魂に刻み込むためにです。それなのに、あの迂闊な彼らは、すっかり忘れちゃっているらしいですけれど。主イエスの弟子たちよ。例えば、人里離れた寂しいところで大勢の人々が集まり、腹を空かせ、しかもパンも水も魚も乏しく、夕暮れどきも間近に迫ってくるとき、この私たちはどうしたらいいでしょう。また例えば湖の上で、吹き付けえる激しい風や荒れ狂う波に悩まされるとき、小さな小さな粗末な舟の上で溺れそうになるとき、この私たちはどうしたらいいでしょう? 「信仰の薄い者たちよ」8節)と語りかけられていました。パンと魚の数や量が足りなすぎることが問題ではないのです。吹きつける激しい風や波が問題でもないのです。それよりも千倍も万倍も大問題なのは、主イエスへの信仰がいまだに薄すぎることこそが、キリストのすべての教会にとっても、この私たちにとっても、緊急事態の大問題です。自分自身と周囲の人間のことばかり思い煩って、そのあげくに神を思う暇がほんの少しもないことこそが大問題です。どんな神であり、どんな私たちであり、神は私たちをどう取り扱ってくださるのか。どういう救いであり、神を本気で信じる者たちがどう生きて死ぬことができるのかがいつの間にか、さまざまなことに紛れて、さっぱり分からなくなってしまうことこそが大問題です。だから、「まだ分からないのか。覚えていないのか」ときびしく叱られました。あの彼らのことではなく、この私たち自身のことです。湖のほとりで、また湖の上で小舟に揺られながら、あのとき何があったのか。どのようにしてその窮地から救い出され、空腹と乏しさを満たされたのかを覚えていさえすれば、それで十分だからです。この私たちにも同じことをしてくださる同じお独りの主がいてくださると、そのことを本気で信じはじめることができさえすれば。主イエスに信頼し、主イエスにこそよくよく聞き従うことを習い覚えていさえすれば、それだけで十分だったのです。それでもなお、「よくよく警戒せよ」と促されます。彼らもこの私たちも。
 「パン種、パン種」としつこく繰り返されるのは、奴隷にされていたエジプトの国から連れ出していただいたとき、その最後の晩の食事を過越しの祭りとして記念しつづけているからです。あのとき、いつもと違って、パン種の入っていない、酵母菌でふくらまないペッタンコのパンを食べて出かけたことを、心に刻んで覚えておくためにです(出エジプト記12:17,23:15。過越し祭を祝って神の恵みを覚えるために、家中からパン種をすっかり取り除き、一週間ずっと、パン種の入っていないペッタンコのパンを食べつづけました。ほんの一粒の、小さな小さな悪いパン種が、練り粉全体をふくらませるからです。『神を押しのけて人間の知恵と教えばかりにしがみつこうとする人間中心の悪い悪いパン種』が、練り粉全体をふくらませ、思い上がってふくらんだパン全体が、隅から隅まで、人間の知恵と教えばかりにしがみつこうとする人間中心のパンに成り下がってしまうからです。別のときに主の弟子の一人が語りかけたのもまったく同じことです、「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭りをしようではないか」(コリント手紙(1)5:6-8。「よくよく警戒しなさい」と命じられていたことは、このことです。
  カビの生えそうな古いパン種を山ほど抱え、体中にまとわりつかせている私たちです。もし救われたいのなら、もし神の憐れみのもとに留まっていたいのならば、その、あなた自身の古いパン種をすっかり取り除けと命じられています。同時にそれは、神にこそ十分に信頼を寄せて、神ではないモノどもを恐れない私たちにされてゆくための、神からの招きでもあります。神への信頼。そして、神ではないさまざまな人やモノどもに対する恐れ、執着。10円玉の表と裏のように何かを『恐れる』ことは、その何かを『信頼する』ことと表裏一体です。たかだか人間にすぎない者どもを恐れてはならない。いや、むしろ神にこそよくよく信頼するあなたとならせよう。そうすれば、神ではない何者をも恐れないでいられるから。これこそ、ここで語りかけられていることの心であり、聖書66巻がずっと語りかけつづける一貫したメッセージです。恐れるな、恐れるな恐れるな。神ではないものへの恐れが高じるとき、逆にその分だけ神への信頼は弱まり、薄れています。神への信頼が強くなり、しっかりしてくるとき、それだけ神ではないものへの恐れは弱まり、薄れていく。子供の頃、シーソー台に乗って遊んだことがありますか。あのシーソーの板の両端に乗って遊ぶ子供たちのように、『神ではないものへの恐れ』と『神への信頼』は互いに相反して上がったり下がったり、重くなったり軽くなったりしつづけます。片方が軽くなって上がると、もう片方は重くなって下がり、片方が下がるともう片方は上に上がってゆく。上がったり下がったり、上がったり下がったり。すると、この私たち自身も信仰の中身をここで激しく問いかけられています。ほんのちょっとしたことが起こる度にアタフタオロオロし、心配したり、恐れたり怖じけたりしつづけているこの私は、気がつくと、神にほんの少しも信頼していない。だからたびたび心配になり、揺さぶられつづけている。なんということかと。まさか? この私は、もう信じてはいないのかと。
同じことが起こりつづけています。コリントの町で、ある夜、主がパウロに言われました、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな」と。その伝道者が心を挫けさせ、恐れと思い煩いにとりつかれていたからです。いまにも口を閉ざし、黙り込もうとしていたからです。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って危害を加えるようなことはない」。だからこそあの彼も、その町に腰を据えて語りつづけることができました。モーセと同胞たちが荒野を旅した40年の日々もまったく同じでした。「主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」(使徒18:9-11,申命記8:3-10。そのとおりでした。だからこそ、神をそっちのけにしてアタフタオロオロしつづける私どもに向かって、主は励ましつづけます、「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(申命記31:8と。ついうっかり思い上がったり、いじけてしまう誘惑は、彼らだけでなく私たちをも付け狙っています。一つの教会としてもまた一個のクリスチャンの心とあり方の中にも、まったく同じ紆余曲折があります。神に信頼していたかと思えば、いつの間にか神を忘れ、受けた恩恵を忘れ、「わたしの手の力で」と高ぶります。思い上がりを捨ててへりくだり、神ご自身への信頼へと立ち返り、かと思うとまた忘れて思い上がり、へりくだって立ち返るという具合に。よく似た讃美歌を思い出しました。267番や286番を。286番)「♪神はわたしの力、わたしの高い砦の塔、苦しむときの近くにある助けである。もし万一、大地がすっかり様変わりし、山も広い海の中に移るとしても、この私はどうして恐れるだろうか。いいや、決して恐れるはずがないじゃないか」。パリサイ人やサドカイ人が100200人束になって向かってきても、その偽りの教えをあなたの耳に朝も昼も晩もクドクドクドクドささやきかけてきたとしても、それでも、何の問題も不都合もないでしょう。
あなたは、いったい何が望みですか。何がどうあったら、あなたは満たされ、安らかであることができますか。いまでもなお、必要なだけ十分に、あなたは神を信じておられるのですか。安心材料は、一つだけです。なくてならぬものも一つだけです。その一つを、その手に堅くがっちりと掴んでおられるのなら安心です。もし、そうではないなら、かなり危ういでしょう。神こそが私の堅くて高い城、強い盾であってくださるので、だから私は恐れることなく、おじけることもないと。私たちもみな同じです。神ご自身からの現実的具体的な十分な支えがあったので、だから耐え抜くことができました。へこたれそうになりながら、心が挫けてしまいそうになりながら、なお働きつづけることができたのは、ただただ神さまが、この私たちをさえ心強く守りつづけてくださったからです。もし、これまでそうだったのならば、それなら今もこれからも、どこからでも救い出し、何が起こっても、同じく変わらず心強く守りつづけてくださるからです。



2017年4月17日月曜日

4/16こども説教「子供に良いものを与えたいと願う親」ルカ11:9-13

 4/16 こども説教 ルカ11:9-13
『子供に良いものを与えたいと願う親』

11:9 そこでわたしはあなたがた に言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカ福音書 11:9-13)

  『しきりに、必死にしつこく願いつづけて、それで良いものを与えてもらう』場合と、『そうではなかったのに、けれど良いものを与えてもらえた』場合と、両方がある。「いつもいつもしきりに、必死にしつこく願うなら、良いものをあげる。そうではないなら、あげない」という神さまではありません。私たちが思っているよりも、その5倍も6倍も、もっともっと心の優しい思いやり深い神です。
8節までは、「しきりに必死にしつこく願い、求め続ける」ことが語られていました。ここからは、ぜんぜん違います。「しつこく求めよ。必死に探せ。血が出るまでガンガンガンガン戸を叩きつづけなさい」とは書いてありません。もし本当にそうなら、ちゃんと、そう書いてあります。そうではないので、そうは書いてありません。むしろビックリすることに、ほんの少し求めてみたら与えられる。捜しはじめた途端に見つかる。そおっと軽くコンコンとノックしてみただけで、「はい。いらっしゃ~い。待ってたヨオ」とニコニコして、すぐにドアを開けて中へ入れてもらえます。どうしてでしょう? ぜひ贈り与えよう、見つけさせてあげたい、家の中に入れてあげたいと楽しみにしてワクワクしながら待ち構えておられたからです。自分の子供を大好きで大好きでたまらない、子供のためならなんとでもしてあげたいと愛している親のような神さまだからです。いいえ 子供を愛する親である神です。その神さまの子供にしていただいた私たちです。



   【補足/求め、捜し、門を叩く神】
「求めよ、探せ」。もしかしたら、それは神ご自身のための願いだったのかも知れません。私たちを探し求めるあまり、神は近づいて来られました。どんどんどんどん近づいて来られました。身をかがめ、低く低くくだって、私たちの低く貧しい生活の只中へ降りてきてくださった。神であられることのその身分も尊厳もご自分の生命さえ取るに足りないものとし、無にし、すっかり投げ捨ててくださった(ピリピ2:6-)。そのように私たちを求め、私たちを探し、私たちの門を叩きつづけてくださる神です。だから私たちも、天の父に向かって門を叩きつつ、探しつつ、ワクワク期待して求めつつ生きることができます。


4/16「わずかなパンと魚で」マタイ15:32-39

                          みことば/2017,4,16(復活節第1主日の礼拝)  107
◎礼拝説教 マタイ福音書 15:32-39                      日本キリスト教会 上田教会
『わずかなパンと魚で』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。33 弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。34 イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。35 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、36 七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。37 一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。38 食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。39 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。    (マタイ福音書 15:32-39)
                                               


  32-33節。主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。ガリラヤ湖の岸辺で、とてもよく似た、そっくりそのままの出来事が繰り返されつづけています(本箇所,マタイ14:13-21。あのときからおよそ2000年もの間いつもいつもこんなことの繰り返しです。キリストの教会と一人一人のクリスチャンたちの毎日毎日の暮らしは。主イエスを信じて生きるはずのこの私たちの只中でも、何度も何度も繰り返して。それで、キリスト教会の礼拝堂の正面の壁の多くはこのようにわざわざ舟の舳先(へさき)の形にくり抜かれています。大事なことを心に刻んで覚えておくためにです。「あのガリラヤ湖のほとりや湖の小舟の上で起こった出来事をよくよく覚えておきなさい。主イエスを信じて生きる私たちには、あのときと同じような出来事が何度も何度も起こりつづけるのだから」と。けれどあの彼らも私たちも心が鈍くされて、何が告げ知らされているのかをなかなか理解できず、受け取ることもできずにいます。少しのパン、わずかな魚。とても乏しかったはずでした。けれど大勢の群衆がすっかり満たされ、さらに残ったパン屑を弟子たちに集めさせるといくつものカゴが一杯になりました。これを見せるために、実地訓練の一環として、あの弟子たちにわざわざカゴをもって集めさせたのです。直々に教えていただいた主の祈りの中で、『私たちの毎日毎日生きるために必要なすべて一切の糧を、御父よ、どうか今日も与えてください』とまるで口癖のように朝も晩も祈りつづけているくせに、それなのに、必要なすべて一切の糧を天の御父が贈り与えつづけてくださって、そのおかげで暮らしが成り立っているなどとは夢にも思っていない私たちです。一個のキリスト教会も、自分たちの家族の毎日毎日の生活も、一日分ずつの健康も生命さえも、自分たちで支え、養い、自分たちの甲斐性と努力で維持しているなどと思い込んでいます。いったいどうしたわけでしょう?  もし、「こう祈りなさい」と主イエスから教えられて祈っているとおりに、そのように信じることが心底からできさえすれば、この私たちも、どんなに幸いでしょう。
  さて、主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。どんな救い主だと思っておられましたか。かわいそうにおもって、だから空腹なら食べ物を与え、困ったことがあればそれを解決してくださり、すっかり疲れ果てているなら必要なだけたっぷりと休ませてくださり、恐れや心細さや悩みがあるなら、それを取り除いてくださる救い主です。その救い主を、あなた自身も信じることができますか? ただ口先だけで「信じている信じている」と言うだけでなく、心底から本気で信じることができますか。――それなら良かった。あなたも私もとても幸せ者です。
 「かわいそうだ。かわいそうだ」と深く憐れんでくださるとき、救い主イエスのはらわたが腹から溢れて、こぼれ落ちそうになっています。「かわいそうだ。かわいそうだ」と、はらわたが掻きむしられます。「はらわた」は聖書の神を信じる人々にとって、最も深い感情が宿り、そこから噴き出す場所です。「ああ、わがはらわたよ」と 預言者たちが身悶えして苦しみつづけるだけでなく、神の民とされた人々が苦しんでいるだけでなく、神ご自身こそが「わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしは苦しみにもだえる。ああ、わが心臓の壁よ、わたしの心臓は」と、はらわたをかきむしられて身悶えしています。神さまを信じて生きるはずの者たちが、この私たちこそがすっかり愚かになり、神を忘れ去り、悪を行うことには狡賢く小利口であるのに善を行うことを知らないかのように振舞うのを見つづけるからです。よくよく知らされてきたはずの主を忘れてしまうからこそ、いつまでも、どこまでも愚かなのです。その惨めさを、神は自分自身のことのように嘆き悲しみます。この同じ神がやがて再び、「ああ、わがはらわたよ」と 苦しみ悶える日が来ます。それは、ご自分の民に対する深い憐れみです。「群衆が飼う者のいない羊のように弱り果てて、倒れている」(マタイ9:36のをご覧になって、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストは深く憐れまれました。ここでも、他の様々な場所でも、「この人々がかわいそうでならない。何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。救い主イエスは私たちをご覧になって、深く憐れまれます。可哀想でたまらないと。

              ◇

 そのことをよくよく思い起こすために、讃美歌312番をこの後ごいっしょに歌います。お手数をかけますが、讃美歌312番を開いていただけますか。「いつくしみ深き友なるイエスは、罪とが憂いを取り去りたもう。こころの嘆きを包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を」。150年も前から愛され、親しまれつづけてきた讃美歌です。素敵なメロディーとか言葉が美しいなどということを越えて、やっぱり「ああ、こういう救い主だし、こういう神さまだった」と私たちの心に刻ませるからだと思います。「慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス、慈しみ深き友なるイエス」と噛みしめ、噛みしめしています。本当に、このとおりの救い主です。――さて、はじめからのことを話しましょう。神さまがはじめにこの世界とすべての生き物をお造りになったとき、人間は自由な生き物として造られました。つまり、神を愛し、神に従って共に生きることもでき、あるいはそれが嫌なら、神に背を向け、神からどこまでも離れ去ることもできました。人間は神に背を向け、神から離れ去っていきました。その途端、人間は自分がいったい何者であるのか、どう生きて死ぬことができるのか、何のために生き、どこへと向かって行くのかがすっかり分からなくなってしまいました。人間は互いに傷つけ合い、他の生き物を踏みつけにし、恐れたり恐れさせたり、恥じたり恥じ入らせたりしつづけ、その結果、神の祝福に満ちた喜ばしい場所になるはずだった世界は荒れ果てた淋しい場所になってしまいました。この世界をふたたび神の祝福の中に取り戻すために、神さまは、神を信じて生きるひと握りの人々を選び出し、祝福の出発点とし、そこから神を信じて生きる人々が生み出されつづけるようにしました。また、神ご自身である救い主イエスをこの世界へと送り出しました。救いの御業を成し遂げさせ、すべての生き物とこの世界全体をふたたび神の祝福のもとへと招き入れるためにです(創世記1:31,9:1-17,12:1-3,ヨハネ福音書3:16-17。あるとき、救い主イエスは弟子たちに語りかけました;(ヨハネ福音書15:12-17「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼ばない。しもべは主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」。クリスチャンとはこういうものです。語られたとおりで、主イエスの友だちにしていただいてる理由と中身は3つです。(1)愛してもらっているし、友だちである私たちのために主イエスはご自分の命を捨ててくださったこと。(2)友だちなので、主イエスの命じる命令を私たちも行うし、行うことができるということ。(3)単なるしもべではなく友だちだという理由は、父から聞いたことを主イエスはすべてすっかり私たちに教えてくださっていること。しかもはじめと終わりに、「互いに愛し合いなさい」と命じられました。これが、神の子どもたちとして選ばれ任命された仕事の中身です。こんな仕事、聞いたことがない。会社や職場の仕事や役割なんかとはだいぶん違います。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。はい、分かりました。よろしくお願いします、精一杯に務めさせていただきます。
 歌の1節の中に、1つだけ古い言葉が混じっていました。「などかは下ろさぬ、負える重荷を」。背負っている重荷をいったいどうして下ろさないんだね。国語の授業みたいで申し訳ありませんけど、例の、『質問しているようでいて全然質問じゃない』文の形。その心は、「背負っている重荷を下ろせばいいじゃないか。なんでいつまでも大事そうに背負っているんだ。やめときなさい。さあ、降ろしなさい」という心です。マタイ福音書11章の末尾で、主イエス自身が勧めていました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。重荷をおろしなさいと勧めておきながら、その代わりに私の荷物を背負いなさい。その荷物はとても軽いし、そのおかげで楽~ゥに休むこともできるから。うまいこと言って騙してこき使おうとしていると思いますか。タチの悪いサギ師のペテンみたいに聞こえますか。矛盾しているし、つじつま合わないんですけれど本当のことです。ぼくも、そうしてもらった1人です。疲れはてていたし、どうしていいか分かりませんでした。背負いきれない重い荷物を背負っていました。主イエスのもとに来ました。休ませていただきました。それは他のどこにもない、格別な安らぎでした。主イエスの荷物は軽くて軽くて安らかでした。うまく説明できませんけれど、本当でした。
さて讃美歌の2節、3節。「いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈めるときも、祈りにこたえて慰めたまわん。いつくしみ深き友なるイエスは、かわらぬ愛もて導きたもう。世の友われらを棄て去るときも、祈りにこたえて労りたまわん」。信頼していた友人に裏切られることはあります。家族や親兄弟からも見放される、それもあります。自分で自分にすっかり失望して、「なんてダメな自分なんだろうか」とガッカリすることもあります。遠い昔に、はっきりと約束されました;「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない」(申命記31:8)。その通りで、ず~っとそうです。主イエスが十字架につけられて殺されるその前の晩、ゲッセマネの園で逮捕されたとき、弟子たち皆が主イエスを見捨てて、散り散りバラバラに逃げ去りました。けれど主イエスご自身は、その弟子たちを見捨てることも見放すこともなさいませんでした。大祭司の中庭で、「主イエスを知らない。なんの関係もない」とペトロが裏切るところを主イエスは見ていました。「ペテロは言った、『あなたの言っていることは、わたしにわからない』。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、『きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた」(ルカ福音書22:60-62)。どんな気持ちでペトロを見つめていたのか、私たち1人1人を主イエスがどう見つめてくださっているのかも、そこには書いてありません。書いていないけど、「かわいそうだ。かわいそうだ。私はあなたを決して見放さない」と書いてある。しかも後から、それが誰の目にもはっきりと分かる時が来ます。この私たちも、よくよく知っています、自分自身のこととして。この私たちも同じように、「かわいそうだ。かわいそうだ。だから、あなたを決して見放さない」と憐れんでいただいたからです。何度も何度もそうしていただきつづけてきたからです。それで、ただただその憐れみのおかげで、だからこそ、この私共は今日こうしてあるを得ております。「慈しみ深き友なるイエスは我らの弱きを知りて憐れむ」。だからこそ、私たちは今でははっきりと信じています。信頼を寄せ、このお独りの方の言葉に、朝も昼も晩も耳をよくよく傾けつづけます。幸いなときにも、思い煩いに飲み込まれてしまいそうな心細い日々にも。




4/9こども説教「しきりに願うなら」ルカ11:5-8

 4/9 こども説教 ルカ11:5-8
 『しきりに願うなら』

11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。            (ルカ福音書 11:5-8)

  どんな神さまなのかをぜひ知りたいと願って、それで、ここに座っておられるんですね。それなら、よく聞いて下さい。「パンを三つ貸してください。すみません、お願いしま~す」としきりに願っている人のようになりなさい、と神さまは勧めておられます。子供たちといっしょに布団に入っていて、「面倒をかけないでくれ。ダメですよ」と断ろうとして、けれど、やがて必要なものを分けてくれる友だち。これは神さまのことです。けれども よく分かっていてもらいたいのは、『しきりに、必死にしつこく願いつづけて、それで良いものを与えてもらう』場合と、『そうではなかったのに、けれど良いものを与えてもらえた』場合と、両方があるということ(*)「いつもいつもしきりに、必死にしつこく願うなら、良いものをあげる。そうではないなら、あげない」という神さまではありません。その証拠に、来週は(ルカ11:9-13、まったく違うことをお話しますよ。
 それでも、しきりに、必死にしつこく願いつづけることの大切さもあります。「パンを三つ貸してください。すみません、お願いしま~す」としきりに願っているこの人は、とても大切なことを2つ知っています。1つは、夜遅くに泊まりに来てくれた友だちが自分にとって本当に大切な友だちで、疲れ果ててお腹も空かせているこの人のためなら、なんとかして、なんとしてでもパンを手に入れてあげよう。そうしなくちゃ、と分かっていること。もう1つは、パンを分けてもらいに行ったその相手は願いを必ずきっとかなえてくれると分かっている。だから、しきりに、必死にしつこく願っています。友だちのことを大事に思っているし、しかもこの人は神さまに ちゃんと十分に信頼しているのです。この人は幸せ者です。

   【補足/頭をやわらかく】
   (*)『人を見て法を説く』教育法に、神は熟練しておられます。「持ち物全部を売り払って貧しい人に施せ」(ルカ18:18-)と誰彼かまわず命じたのではなく、財産や名誉に執着して自惚れも高すぎるあの彼だから特に、そう命じました。わずかな献げものを喜んでくださる主であり、何一つも求めない場合さえありました。主に同行した弟子もおり、現地に残された弟子もいました。信仰を誉められた者もあり、不信仰なままで恵みを受けた者たちも大勢います。


4/9「パン屑をいただく信仰」マタイ15:21-28

○とりなしの祈り

  できないことは何一つない神さま。この世のことと自分自身の生活、社会的評価や自分だけの小さな小さな満足に囚われてしまいやすい、あまりに自己中心すぎる、了見の狭い私たちです。あなたからの招き受け、あなたにこそ仕えて生きることをはじめた自分であることを忘れてしまわないように、あなたが生きて働いておられますことを覚えつづけて生きるように、どうか神さま、絶えず私たちの目を覚まさせてください。人間中心・自分中心のあり方から離れ去り、あなたへと私たちを向かわせ、心と思いを尽くしてあなたに仕えて生きる私たちとならせてください。どうか今日こそ、自分の心と願いをではなく、あなたの御心をこそ心から尊び、御心に従って生きることを願い求め、隣り人を自分自身のように愛する私たちとならせてください。日本で暮らす外国人を憎んだり排除しようとする人々の在り方や活動に対しても、私たちは責任があります。安く利用され、使い捨てにさせられつづける人々の貧しく惨めな暮らしに対しても、米軍基地を無理矢理に押し付けられている沖縄の同胞たちに対しても、私たちには果たすべき大きな責任があります。また貧しく心細く暮らす子供たちとその家族に対して、年老いた人々に対しても、若者たちに対しても。しかも福島原子力発電所の事故現場から、許される限度を超えた莫大な量の、あまりに危険な放射能汚染物質が海に垂れ流され、空気中にも撒き散らされつづけ、政府も公共機関もマスメディアもこれを隠しつづけているからです(*)。この世界に対して、あとに続く世代に対して、私たち大人には責任があります。神さま、目と心を閉じてしまわないように、どうか私たちを目覚めさせつづけていてください。
  主なる神さま。人間の力にではなく、あなたご自身の力に信頼し、人間の賢さにではなく、あなたご自身の知恵と賢さに聞き従って、そのように御心にかなって生きることを願い求める私たちであらせてください。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン

(*)『メディア観戦記#46 「女性自身」2107,4,4号) 福島第一原発1号機 9月の建屋カバー撤去で65倍 都内でも4.5倍の放射能汚染!』  
木村結(東電株主代表訴訟事務局長)

 昨年9月、市民の反対と福島の不安に応えず、東京電力(以下、東電)は福島第一原子力発電所1号機の建屋カバーを外した。東電は放射性物質には飛散防止剤を使うので心配はないと説明していた。しかし、「女性自身」編集部が原子力規制庁のデータを検証したところ、福島県双葉郡では20171月の放射性セシウム134770ベクレル/立方メートル、1374700で合算5470ベクレル/立方メートル。カバーを外す前の20169月と比べると約65倍に急増していた。東京都新宿区では約4.5倍、神奈川県茅ヶ崎市では約9倍、群馬県前橋市では約13倍、千葉県市川市で約5倍となった。これは東電の怠慢であると同時に国民の安全を守らなければならない国の怠慢であり、全国各地で定点観測している規制庁は数値を知りながら警告せず放置していたことになる。1986年に福島原発と同じくレベル7の事故を起こしたチェルノブイリ原発は30年経って石棺にヒビが入り放射能漏れを起こしたため、ドーム型の覆いを施したが、これは100年持つという。チェルノブイリではデブリ(=原子炉から解け落ちて鉄や金属とともに固まった核燃料。非常に高い放射線量を持つ)を取り出すことはまだ不可能と考えているということ。 
 ところが日本は再稼働をしたいばかりに事故を起こした原発から無理にデブリを取り出し、何が何でも廃炉が可能と言いたいようだ。それは取りも直さず作業員に多大なる被ばくを強い、無理やり帰還させた福島の住民をも被ばくさせるだけでなく、全国民も知らないうちに被ばくさせられているということ。このような原発推進ありきの政治を一刻も早く終わりにしないと日本は世界の核のゴミ捨て場になってしまう。 




                      みことば/2017,4,9(受難節第6主日の礼拝)  106
◎礼拝説教 マタイ福音書 15:21-28                      日本キリスト教会 上田教会
『パン屑をいただく信仰』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。         (マタイ福音書 15:21-28)
                                                 



 「ツロとシドンとの地方」は、ガリラヤ湖の北のほう6070kmほどの地中海沿岸地帯にあります。ユダヤ人ではない外国人の一人の女性が助けを求めて、主イエスに叫びかけます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。わたしの娘が悪霊にとりつかれて苦しんいます」(22)と。それは魂の叫びであり、祈りです。そのような祈りがもしユダヤ人の由緒正しい家柄と血筋と身分の者が叫んだのなら、「すばらしい信仰」と人々はほめたたえたかも知れません。けれどユダヤ人ではない外国人たちの土地で、神を知らないはずのどこの馬の骨とも分からぬ怪しい人物の口から叫ばれたのです。その祈りと願いは軽蔑され、危うく退けられそうになります。あの弟子たちも、ここにいる私たちと同じように人間を色眼鏡で見て、「この人はこういう人。あの人はああいう人」と簡単にレッテルを貼り、侮って決め付けてしまう習慣がついていました。「この女を追い払ってください」(23)と弟子たちは言います。
  あのカナン人の女性は、自分の娘の厳しく困難な病いを背負って、苦しみと痛みの中を生きてきました。その苦しみが、彼女をキリストの御もとへと連れ出しました。その痛みが、彼女を祈ることへと向かわせました。その苦しみと悩みがもしなければ、彼女は神と出会うことなどなく、神を知らない人間として一生を終えたかも知れません。確かにそうです。苦しみと痛みの中で身を屈めさせられたことは、彼女にとって良いことでした(119:71)。なにしろ、そのおかげで格別な贈り物を受け取ったのですから。彼女のそのひたむきで一途な姿に照らし出されて、私たちはここで自分自身のいつもの有りようを突きつけられます。悩みと苦しみの中で、それなのに私たちは「祈ってなどいられない」とつぶやきます。その時こそ祈るべき時だったのに。打ちひしがれ疲れ果てて、私たちはその場に座り込んでしまいます。けれど、その時こそ神へと一途に向かうべき時だったのに。のしかかってくる重荷と困難とは、神からの招きだったかも知れません。そのことを通して、私たちに格別な幸いが与えられようとしていたのかも知れません。目の前に立ち塞がる試練は、立ち止まって自分自身を振り返ってよくよく考えてみるようにと私達を促しました。膝を屈め、鎮まって祈るようにと、耳を澄ましてみるようにと。「心の貧しい人たちは幸いである。悲しんでいる人たちは幸いである。義に飢え渇いている人たちは幸いである」(マタイ5:3-)とは、このことです。『艱難(かんなん=困難にあって苦しみ悩むこと)、汝を玉(=素敵な宝石)にする』と昔の人は言いました。けれど、それはいつもそうなるはずの当然のことではなく、そうではない場合も多かった。苦しみと悩みに押しつぶされ、その人は希望も喜びも見失い、空ろな淋しい人間になってしまったかも知れません。かたくなで意固地な偏屈な人になり果ててしまったかも知れません。では、なぜ悲しむ人たちが幸いなのか。悲しみを喜びに変えてくださる方がおられるからです。なぜ飢え渇いている人たちが幸いなのか。良いものを贈り与えて満ち足らせてくださる方がおられるからです。もし、その悲しみと渇きが、その人たちを神へと向かわせるなら、そうであるならその人は幸いです。もし、そうではなく、ただただいじけたり僻んだり自分を憐れみつづけるだけならば、幸いでもなんでもなく、ただ惨めなだけです。神へと向かうその人たちが、そこで神さまからの慰めを受け、良いもので満たされ、神ご自身と出会うならば。そうであるなら、飛びっきりの幸いをその人たちは受け取るでしょう。そこでようやく喜びに溢れることでしょう。

             ◇

 けれど、主イエスのこの態度はどういうことでしょうか? 23-26節。「主よ、わたしを憐れんでください」という叫びに、しかし何もお答えにならないのです。叫び続けても、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のものには遣わされていない」と冷たく背を向けるのです。ひれ伏して「どうか助けてください」と必死に願っても、なお「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」などとあざけるのです。なんだか意地の悪い、了見の狭い、ひどく皮肉っぽい救い主ですね。虫の居所が悪かったのでしょうか。思いやり深い、慈しみにあふれる主であると思っていたのに。私たちがよく知っている主イエスの顔つきと、ここでの主の顔つきはまるで違います。まったくの別人のようにさえ見えます。どういうことでしょう? この哀れな女と共に、私たちもここで心を痛めます。そして何より、この救い主は、ユダヤ人のためだけの救い主だったのでしょうか。私たちは信仰の判断を問われています。どんな主であり、どんな私たちだったのかと。
 そういえば私たちも、この彼女と同じように取り扱われました。きわめて手荒で乱暴な仕方で、私たちの祈りが鍛えられたことがありました。手厳しい訓練を、私たちも折々に受けました。耐え忍んで祈りつづけるのか、それとも簡単に諦めて見切りをつけてしまうのかどうかという訓練を。自分の心の中に何があるのかが白日の下にすっかり暴かれてしまうような日々が、私たちにもありました。彼女の祈りの姿に目をこらしましょう。苦しみと痛みの中に置かれた1人の母親の祈りは、初めにはまったく顧みられないかのように見えます。主の弟子たちも冷たく背を向け、主イエスご自身さえたった一言も答えてくれず、見向きもしないかのようです。けれど彼女は祈りつづけています。次に主の口から出た言葉は、彼女の心を挫こうとするかのようです。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のものには遣わされていない」(*)。さらに彼女は祈りつづけます。ひれ伏して、「主よ、どうか助けてください」と。すると主からの答えは、さきほどの答えよりもさらになおさら冷たく、そっけなく、彼女の希望を打ち砕こうとします。「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。けれど、ご覧ください。彼女は祈ることを止めません。口を閉ざそうとしません。彼女の祈りがなお続いています。そしてついに彼女は答えを見出し、受け取ります。神の憐れみの約束は本当でした。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイ7:7)。この約束は、彼女にとってもこの私たちにとっても真実でありつづけます。神さまからのこの憐れみの約束は、決して破られることがありません。 
  祈り求めつづけるこの1人の母親をご覧ください。彼女は、自分の大切な欠けがえのない娘のために、執り成して祈りつづけています。「わたしを憐れんでください」と叫びながら、主イエスに自分の娘を憐れんでほしいのです。「助けてください」と呼び求めつづけるのは、自分の娘を助けていただきたいからです。「神へと心を向け返してもらいたい、ぜひそうしてもらいたい」と願い求める1人の人が、私たちにもあります。大切な子供たち、自分の夫、自分の妻があります。その人のための救いをぜひにと願い求めるかけがえのない家族や友人たちが、私たちにもあります。「恐れるな。語りつづけけよ。黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って危害を加えるようなことはない。この町には、私の民が大勢いるのだから」(使徒18:9-)。もちろん、そうです。神の民はその1つの町に大勢おり、私たちの町にも、私たちの家の同じつの屋根の下にも、いつもの茶の間にもいるからです。イスラエルの家の、かけがえのない失われた羊たちが。そうであるなら、あのカナン人の母親のように、大切な欠けがえのない1人の人のために、この私たちも祈り求めつづけましょう。
  そして、ご覧ください。主にしがみつく祈りの格闘の中で、彼女は、「でも小犬も、その主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」という信仰を受け取りました。主人の食卓の下にいる小さな子犬の信仰です。恵みの大きさに比べて私は小さく貧しい、私はその恵みに少しも値しないという信仰です。それなのに私たちは、自分が小さな小犬に過ぎないなどとはほんの少しも、夢にも思ってみず、他人と見比べて小さいとか大きいなどと肩肘張りつづけてきました。虚勢を張ったり、体裁を取り繕ったりしながら、大きな大きな私であることを必死に求めつづけてきました。だからです。それまでは誰かに「お前なんか、ちっぽけな小さな小さな小犬に過ぎない」などと呼ばれたら、カンカンに腹を立てました。そのくせ、「あの犬は私よりも少し小さい」と誰かを見下しては胸をなでおろしました。品定めをしあい、傲慢に高ぶったかと思うと卑屈にいじけて、周囲を見回して上がったり下がったりして、人間のことばかり思い煩っていたその人が、神ご自身の恵みの大きさを、そこでようやく見据えています。見栄っ張りでプライドばかりがやたら高かったその人が、「しかし小犬も」と幸いを噛みしめ、喜びにあふれています。「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました」と喜び祝うマリアのように。「主は今こそ、わたしを心にかけてくださって、人々の間から私の恥を取り除くためにこうしてくださいました」と感謝に溢れたエリサベツのように(ルカ1:25,48。なぜなら、小さな小さな、ちっぽけな子犬たちよ。それは当然の権利、報酬、代価などではなく、憐れみを受け取ることだからです。食卓の下の小犬がパン屑を求め、喜び感謝して食べることだからです。恵みの大きさに比べて私は小さい、私はその恵みに値しない。私の小ささと貧しさに比べて、受け取った恵みはあまりに大きく豊かだと。そこは広々とした自由な土地でした。そこでは、誰もが安らかに、深~く息をつくことができたのです。
  「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(コリント(1)1:9,イザヤ64:3からです。その救いの御業は意外なところから起こり、私たちが思ってもみなかった意外な人物の魂を揺さぶり起こします。例えば、「祈っても無駄だ」と思っていた人が、あるとき、祈り始めます。「こんな大変なときに、祈ってなどいられるか」とただ虚しくアタフタオロオロするばかりだった人が、あるとき、膝をかがめ、鎮まって祈り始めます。「その前に、まずあれをしてこれをして、このことも片付けて、それから」と気もそぞろだった人が、抱えていた山ほどの思い煩いをいったん脇に置いて、あるとき祈りはじめます。聖書は証言します;「主は近くにおられる。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」。「主はすぐ近くにおられる」とわざわざ言われたのは、それを忘れていたからです。ガラテヤの兄弟姉妹たち。あなたがたの心をいったい誰が惑わせてしまったのか(ピリピ手紙4:5-7,ガラテヤ手紙3:1-目に見えない神は、見えにくかったのです。語りかける神の御声は、あまりにか細く、小さなささやき声だったのですから。私の周りにはあの人、この人、あの彼らがいてとばかり見回していたあなたや私の騒がしい眼差しには、神の姿が見えるはずもなく、その騒がしい耳と心では、ささやきかけるそのか細い御声も足音も聞こえるはずもありませんでした。しかも、分かったつもりになって高をくくっていました。「神などいない。人間がいるばかりだ」と。「神ご自身のお働きなどどこにもない。ただただ私たち人間が働いたり休んだり、私たちが計画したり、私たちが取り仕切っているばかりだ」と。心が騒ぎ立つのも当たり前、ブクブクと沈みそうになるのも当然です。せっかく主イエスが「来なさい」と招いてくださり、その呼び声に従って舟から降りて水の上を1歩、2歩、3歩、4歩、5歩と歩き出したのに、風が突然に吹きつけます。波が打ちかかり、しぶきが顔を濡らします。怖くなり、私たちは真っ暗な湖の底へとブクブク沈みかけます(マタイ14:29-)。けれど、その時こそご覧ください。主は、あなたのすぐ近くにおられます。あなたに向かって手を差し伸べながら。「主よ、助けてください。私は溺れそうです」と、あなたも打ち明けなさい。小犬がパン屑を求めるように。求めているものを、恐れているものを、あなたは神に打ち明けなさい。パン屑を求めるように。なすべき務めを果たすことができるように、「力を与えてください」と。試練と誘惑に打ち勝つことができるように、「憐れみを与えてください」と。悩みと苦しみを耐え抜くことができるように、「あなたからの格別な慰めを、この私にも与えてください。どうぞぜひ与えてください」と。小犬がパン屑を慕い求めるように。
しかもあなたもまた、イスラエルの家の失われて再び探し出された大切な大切な羊たちの中の一匹なのですから。カナン人の母親の願いを聞き届けてくださった方は、ここにいるこの私たちの祈りと願いにも耳を傾けておられます。私たちのためにも願いをかなえ、主イエスの恵みと平和を取り戻させ、そのようにして、私たちの心と考えとを守ってくださいます。イエス・キリストによってこそ。主なる神さまは生きて働いておられます。もちろんこの私のためにも、あなたのためにも。

   【補足/神ではなく、神を信じる者たちこそが心を狭く貧しくしつづけた】

(*)24節の主イエスの発言同様に、誤解されやすい発言はいくつもあった。旧約の民もクリスチャンも信仰と恵みの領域を狭くしつづけた。「神によって選ばれた少数の優れた私たちだ」と。けれど、天と地のすべてを造った神であり、神によって造られたすべての生命を愛し、祝福しようとする神でありつづける。アブラハムら少数の者たちを選び出したのは、神によって造られた世界への祝福の出発点とするためだった(創世記1:31,9:8-17,12:1-3。やがて救い主イエスが仰る;「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子とし(マタイ28:18-と。