2/26 こども説教 ルカ10:29-37
『隣り人になること』
10:29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。30
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。31
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。33
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。37
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 (ルカ福音書 10:29-37)
ケンちゃ~ん。「わたしの隣人って誰のことですか?」と神さまのことをよくよく勉強して、ちゃんと分かっているはずの人が知らんぷりして言いました。少し前に主イエスは、「自分に親切にしてくれる人や仲良しの友だちにだけ良い顔をして、親切にしても、それではなんの良い行ないでもない。そんなことくらい、だれでもやっている。かえって、自分が気に食わない人や嫌いな人、自分に意地悪をしかけてくる人に親切にしてあげなさい」(ルカ6:27-36参照)と教えてくださいました。そのとおりです。
だれが自分の隣人か。気に入らない人も、嫌な相手も意地悪をしてくる相手も、誰でもみな隣人です。それよりも、自分が誰の隣人になってあげるか、困って苦しんで悲しんでいる人に自分がどうやって隣人として助けたり、かばってあげたり、やさしく親切にしてあげるほうが、もっと大切。しかもその千倍も万倍も大切なのは、いったい誰が、この自分の隣人になってくれたかです。強盗どもに襲われて半殺しの目にあい、着物をはぎとられ、ものすごい死にそうな大ケガを負わされて道端に倒れている人を見ましたね。誰も助けてくれませんでした。一人だけ、ちゃんと助けてくれました。ものすごく親切にしてくれました。ケガが治って元気に暮らし始めるまで、最後の最後まで責任を負ってくれた人がいました。ここを読んで、うれしい気持ちになりましたか? 「私もあんなふうだった。困って苦しくて、どうしたらいいか分からなくて、困っていた。助けていただいた。あありがとうございます。ありがとうございます」と感謝と喜びが、あなたの心にもあふれましたか。『半殺しにされ道端に捨てられ、死にそうだった人は、この自分だ。助けてくれたあの格別に親切なお方は救い主イエスだった』(*)と気づくなら、あなたはとてもとても幸せ者です。
【補足/憐れみ深い神なので】
(*)あの律法学者は(29節)「わたしの隣り人は誰ですか?」と問いかけ、けれど主イエスは(36節)「誰が、襲われて倒れていたあの人の隣り人になったか?」と問い返していました。誰の目にも答えは明らかで、律法学者も渋々と(37節)「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えました。誰かの隣り人に、この自分自身がなること。隣り人として具体的に現実的に振る舞うこと。『隣り人を自分自身のように愛すること』は、『主なる神を愛すること』という第一の最重要の掟に次いで、第二に重要な掟である、と主イエスご自身が説き明かしています(ルカ10:25-28)。第一の掟があり、その土台の上に立って第二の掟があります。これが、福音の順序です。この二つは分かち難く互いに結びつきあって、聖書全体と神を信じて生きることの生命線でありつづけます。なぜそうなのか? 神が憐れみ深い神なので、だから、『神を愛する』者は自動的に必然的に、『隣人を愛する』者とされました。旧約聖書で、愛すべき隣り人として特に名指しされつづけていたのは、夫に先立たれた未亡人、親を失った孤児、外国から出稼ぎにきている心細い労働者たち(=寄留者)です。彼らを苦しめたり、悩ましたり、しいたげてはならないと厳しく戒められます。なぜなら、「わたしは憐れみ深いからである」(出エジプト記22:27)と主はおっしゃいます。