聖書講演
『天におられる主人。
そして上に立てられた権威者たち、隣人たち』
金田聖治(日本キリスト教会 上田教会牧師)
はじめに結論
「ローマ手紙13章のことはどうするのか。上に立てられた権威者たちとキリスト教会やそれぞれのクリスチャンは、どう向き合うことができるのか?」などと問われます。とても良い質問です。お手元のレジュメの図をご覧ください。『上に立てられた権威者とどう付き合い、どんなふうに共に生きることができるのか』という問いに対する聖書からの答えは、これです――
(相関図)
(まず、おおまかに図を眺め渡します。真ん中に、「上に立てられた権威に従え」と命じるローマ手紙13章、その両脇に「生き物たちを支配し、従わせ、治めよ」と命じる創世記1章後半と、「父母に従え」と命じる十戒の第五の戒め。また、「妻は夫に仕えよ。子は従え。しもべたちは主人に従え」と命じるエペソ5章、コロサイ3章。互いによく似通ったこれらの証言の下に、それらと相反するかのように見えるいくつかの証言です。サムエル記上8章では、「王さまが欲しいと人々が要求した。それは神の御心に反し、神を捨て去ることだった」と。黙示録13章も、「神に逆らう獣の権威が立つ」と。サムエル下13章では、「御心に背く王の前に預言者が立ちふさがり、王にその罪を告げ、悔い改めを迫る」。それらの上に十戒の要約が漬物樽の上の重し石のように乗せられている。マタイ22:36以下。「どの戒めが大切か」と問われて、主イエスご自身が「一番大切な戒めはコレ。第二にはコレ」と。この最重要の断固たる宣言に押し出されるようにして、コロサイ3:18以下では「天に主人がおられる」と。マタイ23:44以下では、「しもべたちに我が家をひととき任せて家の主人が旅立った。その主人がやがて帰ってくる」と主イエスがたとえ話を用いて語りかける。それと兄弟同士のように堅く結びつけられているコリント手紙(1)4:1-5も異口同音に、「しもべである管理人に要求されるのは、主人(=神)への忠実である。裁き主たる主イエスがまもなく来られるのだから」と。――これらのことを、ご一緒に思いめぐらせます。『聖書自身こそが、聖書のための最善の解釈者である』『聖書によって聖書を読む』という古典的・伝統的な聖書の読み方です)
私たちが暮らしているこの世界では、人間同士が互いに敬ったり敬われたり、従ったり従わせたり、支配したりされたりし合っています。そのようにせよ、と神から命じられてもいます。ローマ手紙13:1-2は「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる」と命じています。どういうふうに従ったらいいのでしょうか。聖書を読み、聖書に慣れ親しんできた私たちは、ここで、よく似た言い方をされつづけてきたことを思い出します。例えば創世記1章の、人間たちへの神の命令。創世記1:26以下、「『人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」。どういうふうに従わせたり治めたり支配したらいいのでしょうか? 「自分たちの思いのまま、望むままに、好き勝手に自由気ままに支配し、従わせてもいいんだ。なにしろ俺たちはこの世界の王様だ。なにもかも俺たちのものだ」と私たち人間は自惚れて、うぬぼれて勘違いしました。ずっと何千年も勘違いしつづけ、黒人を奴隷として売り買いして金儲けをし、差別し、モノや道具のように扱って殴ったり蹴ったり、殺したりし、人間としての最低限の権利さえ奪い、ないがしろに扱い、狭くて汚い金網の檻の中に長いあいだ閉じ込めつづけ、中東地域の戦争の火種を造り、その戦争でも金儲けをしつづけ、悪逆非道の限りを尽くしてきました。とても恥ずかしく申し訳ないことですけれど、それがキリスト教会の歴史です。けれど、どういうふうに従わせたり治めたり支配したらいいのでしょう。
兄弟姉妹たち。「先生。律法の中で、どの戒めがいちばん大切ですか」と、あの律法学者のように私たちも主イエスに質問しなければならないでしょうか。いいえ! 聖書のそもそもの初めから、答えがはっきりと書き刻まれつづけています。ただ、あの彼も私たちも、旧約の時代にも最初の弟子たちの日々にも、宗教改革の時代にも今日でも、私たち人間は聖書の中から自分の気に入った聞きたいことだけを聞き入れ、聞きたくないことや不都合なことは聞き流し、好き勝手に聞き捨てにしつづけました。申し訳ないことです。どの戒めが大切かという問いに対して、主イエスはおっしゃいました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」と。新改訳も新共同訳も口語訳も、どれも皆、まるでいかにも「第一の戒めと第二の戒めはだいたい同じくらいに大切だ」と言っているかのように聞こえるかも知れませんが、決してそうではありません。「いちばん大切な第一の戒めはコレ。第二にはコレ」と、はっきりした区別と順序が主イエスご自身から告げられています。恵みの順序です。神を愛するという第一の戒めの上にしっかりと立って、そこで、「隣人を愛する」という第二の戒めが命じられていることを覚えておきましょう。命じられているだけでなく、そのように生きることができると保証されています。この二つの戒めにこそ、神を信じて生きることのすべて一切がかかっています。この枠組みと土台の上に立って、何が善であって神の御心にかなうことかを弁えつつ、私たちは神から託された使命と責任を果たせるように互いに配慮し、協力し合い、精一杯に支え合って生きることができます。なぜでしょうか。なぜなら、天に唯一の主人がおられることを少なくとも私共クリスチャンはよくよく分かっており、天と地のいっさいの権威を授けられた主イエスによってこの世界へと送り出された私共であり、「世の終わりまでいつも共にいる。だから」とまで委託され、命じられ、励まされつづけている私共ですから(マタイ福音書22:37-40,同28:16-20,コロサイ手紙4:1,ローマ手紙12:1-3)。
1.神によって上に立てられた権威者と私たち
ローマ手紙13:1-2節。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる」。これは難しい箇所です。「すべての人は」と語りかけられているのですから、一人の例外もなく誰も彼もがと命じられています。私たちの上に、この地上の世界に、さまざまな権威者と支配者・指導者たちが立てられており、それら大小様々なすべての権威者の権威と責任とは神に由来する。そのことを権威者自身も、また私たち一人一人もよく弁えている必要があります。また、「上に立てられた権威者」と言われて、ただ何となく安倍晋三総理大臣や政府や国家を思い浮かべるだけでは、サッパリ何も分かりません。それは具体的には、誰と誰と誰のことでしょうか。あの彼らは、そうした大小様々なおびただしい数の権威者たちの中のほんのごく一部分です。他人事ではなく! むしろあなた自身こそが、自分が神によって立てられた権威者の一人であることを思い出すことから、この問題への取り組みがはじまります。さて、「従うべきだ」と日本語に翻訳された言葉は、元々の意味としては、『その権威のもとに立って、その権威者を下から支える』『協力してあげて、きちんと責任と務めを果たすことができるように助けてあげる』という意味です。ですから何をされても、ただただ闇雲に、ご無理ごもっともとペコペコ従いなさいなどという意味では決してありません。どうぞ、安心してください。なぜならば、たとえ神による権威、神に由来する権威であるとしても、その権威者たちは、『自分は神によって立てられた者だから、神の御心にこそ忠実に従って、神の御心にかなって仕事を果たさねばならない』などとはほんの少しも知らない場合も大いにあるからです。あるいは知っていても、神ご自身の権威に自分がはなはだしく逆らい、脱線し、ならず者の暴君に成り下がってしまう場合もありえたからです。それは今日でも、世界中でもこの日本でも! 大いにありえます。神によって建てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、私たちはどうしたらいいでしょう。問うまでもありません。『その権威者が、立ててくださった神の御旨にかなって健全に働くことができるように、下から支える』。そのためには時には、反対意見を権威者に対してはっきりと申し述べたり、その誤りを正したり、立ち向かうこともします。そのようにして、『協力してあげて、責任と務めを彼らがふさわしく適切に果たすことができるように助けて』あげるのです。例えばキリストの教会とその教えは、何度も何度も泥にまみれ、世俗化し、中身のない形式主義に堕落しました。今から500年ほど前のこと。『罪のゆるし。罪からの解放』は、中身のない形ばかりのものへ、教会のただの金儲けの道具へと変質していました。『免罪符、天国行きの格安チケット』の格安販売です。たった一人の修道士が立ち上がって、「それは間違っている。そんなイカサマをしてはいけない、主なる神に背いてしまうではないか!」と。そこから教会全体を真っ二つに引き裂く宗教改革がはじまり、教会はローマ・カトリックとプロテスタント諸派(プロテスタントとは、『抗議する者たち』という意味)とに分裂して今に至ります。キリスト教会が腐敗し堕落するとき、ひと握りの人々が立ち上がって、「それは間違っている。神へと立ち戻ろう」と呼びかけ、正しい道へと導き返すことができた場合もあり、けれど立ち戻ることがなかなかできなかった長い暗黒の時代もありました。しかも何度も繰り返して。例えば、インディアンやその土地に元から住んでいた住民を弾圧し、虐殺し、土地や財産を取り上げて商売人たちと手を組んで大儲けしたのは、キリスト教会です。商売人たちと一緒になって黒人奴隷を売り買いしたのも、キリスト教会です。黒人たちを差別し、奴隷やモノのように扱いつづけたのも、キリスト教会です。南アフリカ共和国で人種隔離政策を取りつづけたのも、キリスト教会と私たちすべてのクリスチャンたちであり、しかも私たちの教会と近しい親戚筋の改革教会のものたちでした。これらのはなはだしい悪事を正すことは難しく、何十年もの長い長い歳月を必要としました。キリスト教会とクリスチャンは罪人の集団にすぎないのです。そのことを、心底から本気になって弁えつづけねばなりません。「自分たちは正しい」とする傲慢こそが、罪のいつもの最大の根っこです。彼らの振り見て、我がふり直せ。
これら、延々と繰り返されたはなはだしい悪事の責任者が誰であるのかは明らかです。王や教会上層部の指導者たちは、もちろん逃れようもない責任者です。けれど彼らだけが責任者なのか。いいえ、それは違います。王や指導者たちと共に、その悪事に加担した全員が一人残らず責任者です。「それは間違っている。神に背いているから、そんなことはしてはいけない」と、もしそこで、ほんの一握りの人々が立ち上がるなら、その国は神の国でありつづけることができます。「それは間違っている。そんなことはしてはいけない」と判断し、声をあげることのできる国民がそこにたった一人でもいるならば。モーセであれ安倍首相や尊敬された大先輩の牧師であれ、他のどんな王様たちであれ、神に代わることなどできません。人間を神に代えることなど決してしてはいけません。神を信じて生きるはずの一人一人に責任があります。どうぞ思い浮かべてみてください。教会では牧師や長老に従い、家に帰ったら夫や父親に従い、町内会では班長や世話役に従い、職場では上司や現場主任の言うことに何でもハイハイと従うのか。神への信頼と、目の前の人間にすぎない指導者・権威者への信頼。この二つが互いに相容れない場合はあります。なぜ? なぜなら、目の前のその権威者は生身の人間にすぎないからです。とても悪い間違った判断をしてしまうこともあるからです。だって、人間だもの。そのとき、神を信じて生きるはずの私たちは、どうするでしょう。「それは間違っている。してはいけない。あなたは神ではなく神の代理人でもない」と立ちはだかって、彼らの心得違いや判断の間違いを、あなたは正すことができるでしょうか。それとも言いなりにされて、どこまでも流されていってしまうでしょうか。それが試金石。キリストを頭と仰ぐキリストのものである教会なのか、キリストに従って生きるクリスチャンなのか、それともそうではないのか。
2.隣人を愛し、尊ぶこと
「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と、私たちは神から命じられています。命じられているだけではなく、「愛することが、あなたにもできるから」と堅く約束されてもいます。ただ誰かに意地悪をしたり、誰かを除け者にしたり困らせたりしないというだけではなく、愛することはその人に平和と憐れみと友情を示し、その人にふりかかる困ったことを精一杯にふせいであげ、自分に反対したり嫌なことをしてくる相手にさえ良いことをしてあげることだと教えられています(ハイデルベルグ信仰問答 問107参照,1563年)。さらに、「自分を愛してくれる者を愛し、自分によくしてくれる者によくしてやったからととてどれほどの手柄か。何の報いがあろうか」(マタイ5:46,ルカ6:27-)と主イエスから痛いところを突かれたとき、自分の好き嫌い、気分、ソロバン勘定、腹の虫をねじ伏せて、ポイと投げ捨てるところから、ついにとうとう隣人探し(=「自分が誰かの隣人になること」ルカ10:29以下)がはじまると気づかされます。わたしたちの隣人とは例えば、ヨソの国から来て日本で暮らしている人たちです。彼らはののしられたり、あざけり笑われたり、しばしばひどく汚い言葉を投げかけられながら、肩身の狭い惨めな思いをして日本で暮らしています。アジア諸国からの農業研修生、職業実習生たちも同じです。彼らは安く便利に使い捨てられようとし、働いた分の賃金を勝手にむしり取られ、きびしい労働条件で働かされています。「仕事の仕方を教えて育ててあげる」というフリをしながら、本当にはただ便利に安く働かせ、自分たちに都合がいいようにその人たちをコキ使っています。長野県のこの地域でも、そういうことがごく身近に日常的に起こっています。たくさんのレタスやブロッコリー栽培の農家の人たちと農協と工場経営者と日本国政府は、そしてまた、見ても見ない聞いても聞こえないフリをしている私たち普通の人々も、その悪いことを悪いことだと分かりながらしつづけています。また隣人は、沖縄の同胞たちです。彼らは、いまだに植民地扱いされ、ないがしろにされつづけています。本当に申し訳ないことです。この国は今やとても悪い国です。もし見過ごしにするなら、この私たち自身も悪者たちの仲間です。隣人とは、見舞金9000万円と危険手当を受け取る約束をし、南スーダンで無駄に殺したり殺されたりさせられようとしている350人の自衛隊員たちとその家族です。隣人は、まともな避難計画もなしに、ただ「安全だ。安全だ」と言い含められ、見舞金や保証金を握らされ、危険な原子力発電所施設の地元でビクビクしながら暮らしている人々です。6年前の震災からの被害はまだまだ続いており、福島原発の事故はほんの少しも収まっていないのに、そこに住んではいけないはずの放射能汚染地域で暮らすようにと無理強いされている人々です。政府も私たちも何もなかったかのように自分たちだけの満足と豊かさと自由をむさぼりつづけています。その片隅で貧しく暮らし、身を屈めさせられている多くの人々がいます。わたしたちの隣人が(出エジプト記22:21-27参照)。また、原子力発電所施設で命と健康を削りながら働いている下請け労働者たちです。非正規雇用で不安定なまま安く便利に、誰も責任を負おうとしない労働環境で働かされつづけるおびただしい数の労働者たちです。劣悪で過酷な環境で働かされる正社員たちもそうです。給食費も払えず、毎日毎日の生活費や食費にも事欠き、上の学校に通うための学資も希望もなく貧しく心細く暮らす子どもたち、父さん母さんたち、高齢の方々です。隣人は、今に至るまで数百年も差別されつづけている被差別部落出身の人々です。また、ほんの少し前まで「らい病」と呼ばれた病気があって、違う呼び方をしても、次々と名前を変えても、扱いも中身もそう簡単に変わっていません。同じような悪い扱いを受けつづけている人々がいます。申し訳ないことです。住むところがなくて、仕方なしに駅の地下道や公園や川べりや道端で寝起きしているたくさんの人々がいます。隣人とは、私たちの小学校、中学校高校や職場でいじめられている人、除け者にされ、心細く惨めな思いをさせられている人たちです。その人たちがひもじい思いを噛みしめても、悩んでも、心細がっても、多くの場合、私たちは痛くも痒くもありませんでした。心が少しも痛みませんでした。どこか遠くの知らない世界の、自分たちとは関係のない他人事だったからです。けれど、その人たち一人一人にかけがえのない人生があり、その彼らはわたしたちの隣人です。「その彼らを悩ませてははいけない。彼らがわたしに向かって叫ぶならば、わたしはこれに聞く。わたしは憐れみ深いからである。あなたがたも、わたしがそうであるように憐れみ深い者であれ」と神さまご自身から命じられているからです(出エジプト記22:21-27参照)。
3.天におられる主人にこそ従うこと
神によって立てられた大小様々な、おびただしい数の権威者たち。一つ一つ思い浮かべてみましょう。幼稚園や保育園、小学校中学校高校の教師たちがそれです。職場の主任や管理職がそれです。医療機関や介護福祉施設の職員たちがそれです。また、国家権力、政府与党、内閣総理大臣、警察官、裁判官などがそれです。地方行政団体の首長や議員たち役人たちがそれです。キリスト教会の牧師、長老、執事、代表取締役員会などがそれです。それらすべては、神による権威であり、神に由来する権威です。しかも、そうでありながら、彼らは生身の人間にすぎません。良いこともするし、してはならない悪いことをする場合もあるでしょう。だって人間だもの。キリスト教会の中でも、ありえます。神によって建てられた権威が暴走し、ならず者の暴君と化すとき、この私たちは、いったいどうしたらいいでしょう。
例えばモーセがシナイ山で神から授けられた十の戒めの第五戒は、「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」(出エジプト記20:12,申命記5:16)と命じています。どういうふうに父母や年長の方々、目上の方々を敬ったり、彼らに従ったりすればいいのか。とくにあなたの父さん母さんは、あなたが出会う一番最初の、一番身近な、神によって立てられた権威者です。どういうふうに従ったり、治められたり、支配されたらいいのでしょう。また、年老いて衰え弱った父さん母さんは、私たちが敬い、重んじ、愛して十分に配慮してあげるべき、身近で大切な隣人でもあります。父さん母さんとの具体的な付き合い方こそが、神によって立てられた大小様々なすべての権威者たちとの付き合い方を読み解くための手本となり、カギになります。子供たちは、どんなふうに育っていくでしょう。「お父さん。あなたを尊敬しているし、とても大切に思っています。でも、天に主人がおられます(コロサイ4:1)。あなたがしていることは間違っている。それは悪いことです」と、その息子や娘たちは父親に立ち向かって行けるでしょうか。それとも、「お父さんが言うのだから仕方がない」とその妻や子供たちは言いなりになるでしょうか。もし仮に40歳、50歳、60歳になっても、「だアって、ぼくのお父さんがこれこれだと言うので」などと何でも言いなりに従うなら、何一つも自分自身で考えたり判断したり選び取ったり、一人の人間として大人として責任を負おうとしないなら、その父さん母さんは子供の育て方をすっかり間違えてしまったことになるでしょう。その子はあまりに未熟な小さな小さな3歳の子供です。いいえ、決してそうであってはなりません。
ローマ手紙13:3-7では、「彼ら権威者たちはいたずらに剣を帯びているのではない」と書いてありました。「いたずらに剣を帯びているのではない」はずのその権威者たちが、剣や委ねられた権力をいたずらに、正しい用い方ではなく理不尽に用いることはありえるからです。神による、神によって立てられたはずの、神のしもべであるはずの権威者が、けれども、ならず者の暴君と化し、どこまでも暴走し、道を踏み外しつづけることはありえます。世界中のどの国でも、私たちの住むこの国でも。ここで読み解いてゆくためのカギとなるのは、5節で「良心のためにも」と言われ、6節でも「彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務めに携わっている」(新改訳;「いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです」)と指摘されている点です。良心とは、神の御心にこそ従うという『信仰の良心』であり、『神さまの御心への服従』です。また、その権威者も私共一人一人も、クリスチャンであろうがなかろうが、皆共々に「神に仕える者として、もっぱら神に仕える務めに携わっている」からです。目の前にいる権威者に仕え、従う以前に、なにしろ神にこそ仕え、神に従って生きる私たちです。その土台の上に立って、目の前にいる、神によって立てられた権威者が神の御心にかなって務めを忠実に果たしてゆくことができるように支え、できるかぎり協力もする。他の聖書箇所で、「すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい」「神をおそれ、王を尊びなさい」(ペテロ手紙(1)2:13,17)と告げられていることも、まったく同じ道理です。はっきりした優先順序があり、決して棚上げすることのできない根源的な土台があります。「主のゆえに、目の前のその権威者に従う」のですし、『主にこそ従う』という弁えの範囲内で、それに矛盾しない限りにおいてだけ、その権威者に従うことがゆるされます。神をこそ畏れ、神に聞き従うという土台の上に立って、目の前の王や大小様々な支配者、権威者、指導者らに従います。つまり、「神によって立てられた権威に従う」とは、その「立てられた権威」が神に逆らう場合にはその権威と命令とに『抵抗する権利と義務』が生じることを教えています。なぜなら、その彼らの上にも、私共の上にも、天に唯一の主人がおられます。しかも私たちは、そのことをよくよく教えられ、習い覚えてもきたからです(コロサイ手紙4:1)。さて、『国家権力への抵抗権』ということが言われつづけ、では、いつごろから抵抗権を発動すべきか、どこまで忍耐し、いつまで抵抗権を保留しておくべきかなどと議論されます。けれど、よくよく考えてみますと、それはそもそも国家権力への服従を当たり前のこととし、前提としているかのように聞こえます。いいえ、違います! 根本的な理解が的を外していて、最も大切なことを見落としているように思えます。天に、主人である神が生きて働いておられ、その神の下に、神によって立てられた大小様々な無数の権威者たちがおり、国家権力もその数多くの権威者の中の1つ、キリスト教会と個々のクリスチャンもその1つ、家族の中の父母、夫もその1つ、学校の校長・教頭・主任、一般の教師たちもその1つ、医療機関、福祉施設の職員たちも絶大な権力と責任を委ねられた権力者たちの1つ、会社やとても悪いブラック企業の経営者・管理職もその1つ。ここでまず、この私たち自身も神によって役割と責任と使命を委託されて立てられた権威者たちの1人1人だと弁えておかねばなりません。主をこそ主とし、主に代えて、また主と並べて他の被造物の何者をも主人としてはなりません。だからこそ、神によって立てられた他の権威者たち(国家権力も含む)が神の御心に反することをするとき、彼らの働きを健全なものへと立ち戻らせる責任がすべての権威者たちにあります。つまり、抵抗権も含めて、神から委託されたその使命と責任を果たすことは、務めに立てられたそもそもの最初からいつでもどこでもずっとありつづける。神からのその使命と責任と委託の全体像と本質とを、キリストの教会とクリスチャンだけが、よくよく教えられています。私たたちこそは、肝に銘じつづけねばなりません。
このローマ手紙13:4に、「彼(=神のよって立てられた大小様々な権威者たち)は、あなたに益を与えるための神のしもべなのである」と書いてあります。神が立ててくださったその権威と力の目的を履き違えて、その権威者が人々に害を与え、ないがしろに扱い、例えば大阪府警察の警察官2人が「土人。支那人どもめ」などと大切な同胞である沖縄県民を怒鳴りつけます。その警官2人の5倍も6倍も悪いのは、権力と大きな責任をもたされている人たちです。大阪府知事、沖縄北方関係大臣、そしてなんと日本国政府さえも「差別とは言えない。撤回も謝罪も不要で、何の問題もない」と総理大臣と他ぜんぶの大臣たちとで決めてしまいました(大阪府知事、松井一郎。沖縄北方担当大臣、鶴保庸介。政府答弁書、11月18日閣議決定。TV番組『ニュース女子』(#91,沖縄高江ヘリパッド問題のいま)2017,1,2放送、東京メトロポリタンTV。YouTubeで検索し、視聴可)。これらの悪者どもとほぼ同じくらいに悪いのは、善悪判断を止めてしまった大多数の私たち日本国民です。目も耳も塞いで、すっかり諦めてしまった者たちや、「自分たちの家族の毎日の暮らしで精一杯だ。自分たちの暮らしさえ少しは良くなるらしいから」と軽々しく騙されて政府与党に投票してしまった人たちかな。神によって立てられたはずの権威者たちが私たちと隣人を踏みつけにするとき、益を与えるはずの権威者がかえって逆に人々の生活と命と安全を奪うなどして機能不全に陥った場合に、私たちはどうすることができるでしょう。例えばユダヤ民族の絶滅の危機に瀕して、モルデカイは王妃となったエステルを諭します、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。また例えば、人々がイエスを救い主だと誉めたたえて叫ぶ声を聞いてパリサイ人らが弟子たちと群衆皆に黙るように命じてくれと訴えたとき、主イエスは答えました、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」(エズラ記4:13-14,ルカ福音書19:40)。重大局面にあたって、私たちが何かをしなければ国が滅び、神の国が後退りしてしまうなどとは語られません。なぜなら神ご自身が、確かに生きて働いておられますからです。あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びる。もしこの人たちが黙れば、道端の石っころさえもが叫ぶであろう。
さて、救い主イエスのその働きは『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもっています。『預言者』として、救い主イエスこそが神の御心を教え、『大祭司』としてご自分のお体を十字架にささげて私たちの罪のあがないを成し遂げ、『王』として御言葉と聖霊によってキリスト教会とこの世界すべてを治めてくださいます。また、主イエスがそのようにお働きになるというばかりではなく、主イエスを信じるすべてのクリスチャンは主イエスの弟子とされて、同じく、この世界に対して『預言者、大祭司、王』という3つの中身をもって働きつづけます。昔から、聖書によって教えられてきたとおりです。一人の宗教改革者は、「クリスチャンは地上のすべての支配者や権力者の上に立つ王であって、何者にも膝を屈めず、言いなりにされない。しかもクリスチャンは同時に自由なしもべであって、心低く、誰にでも奉仕する」(『キリスト者の自由』Mルター,1520年)と告げました。例えばダビデ王がはなはだしい罪を犯して道を踏み外したとき、預言者ナタンが王の前に立ちふさがったように。また主イエスの最初の弟子たちも、主イエスの名によって語ることも説くことも一切してはならないと権力者たちに脅されても、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか判断してもらいたい。私たちとしては、自分の見たこと聞いたことを語らないわけにはいかない」(サムエル記下13:1-,使徒4:19)と平然と立ち向かいました。目の前にいる大小様々な権威者に従ってもいいのは、その人間の行ないが神の御旨に背いていないときだけです。なぜ。なぜなら、天にただお独りの主人がおられることを、この私たちは! よくよく習い覚えてきたからです(コロサイ手紙4:1参照)。
マタイ福音書24:44-51。この箇所こそ、創世記1:26以下「支配せよ。従わせよ」やローマ手紙13章、コロサイ手紙3:18-4:1などについての最終的な答えです;「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう」。大きな大きな、とっても大きな一軒の家があり、大勢の召し使いたちが一緒に暮らしています。その家は、小さな小部屋がたくさんあって細々区切られていたりする。それでも、なんと地球1個を丸ごと包み込むほどの1つの大きな大きな家です。また、さまざまな生き物たちがその1つの家に住んでいます。彼らは皆、その家のただお独りの主人に仕える召し使い同士である。これが、この世界全体と私たち全員を包む『神の真実・神の現実』である、と聖書は語りだします(創世記1:26,28「支配せよ。従わせよ」,コリント手紙(1)4:1-5「管理人」,コロサイ手紙4:1「天に主人」,マタイ福音書11:28-「わたしの軛を負え、学べ」,同20:25-28「しもべになり、仕えよ」,そして本箇所)。しかもこの家の主人は思いがけないときに帰ってくるから、その時に備えて、ちゃんと準備をしていなさい。主人がいつ帰ってきても困らないように、いいえ、むしろ「お待ちしていましたよ~っ。ああ嬉しい」と大喜びでお迎えできるように、あなたは暮らしていなさい。――ここまでは単純素朴で、とても分かりやすい。いかがでしょう。この自分も主人の召し使いの1人であることを思い出しましたか。それなら、よかった。恥ずかしく、またとても申し訳ないことですが実は、僕もたびたび忘れていました。それでずいぶん的外れなことをしたり、他の召し使いたちを困らせたり、いじめたり、苦しめたりしてしまいました。その家に住む皆が、ただお独りの主人に仕える召し使いです。召し使いたちの中に、また彼らの上に、多くの責任を任せられた管理人が立てられていました。管理人でもある召し使いです。
この箇所、マタイ福音書24:45以下全体を振り返ってみますと、神さまからの律法こそが改めて差し出されていることに気づかされます。『神さまを愛すること』と『仲間たちを愛し、互いに尊び合って、その世話を誠実に行うこと』とは一組のこととして命じられます。仲間たちに時間どうりに食事を与えること。そのために、家の主人の全財産の管理という大きな重い責任さえも委ねられました。けれど、あるしもべたちは愚かになり、悪いものに成り下がってしまいました。よくよく考えめぐらせてみるべきなのは、この管理人でもある召し使いはクリスチャンであり、またクリスチャンだけではなく! すべての18歳以上の大人たちだということです。多く与えられ、仲間の召し使いたちの間に、彼らの上に立てられた管理人。私たちは主人に対して忠実に賢く生きることもでき、あるいは逆に、不忠実に愚かに生きることもできます。――考えてみましょう。なぜ、あの彼は自分勝手になり、不忠実になり、愚かに成り下がってしまったのでしょうか。なぜ、仲間の大切な下男や女中を殴ったり、蹴ったりし、彼らが腹を空かせているのを横目で見ながら、自分たちだけ食べたり飲んだりできたのでしょう。また、そういう仲間の管理人を黙って見ているだけで、「悪いことだから止めなさい。ご主人様に申し訳ないしね」と、なぜ忠告できなかったでしょうか。管理人として立てられ、主人から「よろしく頼むよ」と任された最初の数日は、数ヶ月、2、3年くらいは、まあまあ忠実に働いたかも知れません。時間どおりに公平に食べ物を分配し、心配りもし、互いに助けたり助けられたり、支えたり支えられたりし合って暮らしていたかも知れません。そのうちに、天に主人がいることをうっかり忘れてしまいました。その主人がきっと必ず帰ってくることも忘れてしまいました。まるで自分や他の誰彼が主人や殿様であるかのように勘違いしました。『天に主人がおられる。その主人はきっと必ずこの家に帰ってくる。もしかしたら明日か明後日にでも』;これだけは、二度と決して忘れてはなりません。もし万一忘れてしまうならば、ここに書いてある通りに私たちも振る舞いはじめるでしょう。よくよく覚えていさえすれば、良い働きをすることができるでしょう。家の者たちに食べ物を配ることが、この私たちにもできるでしょう。時間どおりに公平に、区別も分け隔てもせず、天の主人への感謝と忠実をもって1日また1日と嬉しく働くこともできるでしょう。その食べ物は、わたしたちがよく習い覚えているとおりに、「われらの日用の糧を今日も与えてください」と願って、受け取りつづけてきたはずの、『天からの憐れみの食べ物』です。皆で食べたり飲んだりし、備えのない者には分けてあげることができ、いっしょになって主を喜び祝うこともできるでしょう。それを、こんな私たちが配らせていただけるなんて。「主われを愛す」というあの子供の歌が歌う通りに、「わが君イエスよ、われを清めて、よき働きをなさしめたまえ」、『わたしの主人でありボスであるイエスよ、私の心も行いも、口から出る何気ない言葉もすっかり清くしてください。自分勝手でワガママで臆病でナマズルイ私ですけれど、こんな私にも良い働きをなさせてください』(♪主われを愛す,461番)。この私にも、良い働きをなさせてください。なぜ、そう願っているのか。必ずさせてくださると知っているし、信じてもいるからです。よい働きを、自分自身でもぜひしたいからです。『善かつ忠なるしもべよ、よくやった。私も嬉しいよ』と、この天の主人に私たち自身のためにも、ぜひ大喜びに喜んでいただきたいからです(マタイ福音書25:23参照)。祈り求めましょう。 (2017,2,11 東信地区2・11集会にて)