◎とりなしの祈り
憐れみ深い神さま。あなたがそうでありますように、あなたからの憐れみを受けた私たちも、隣人たちに対して憐れみ深くあることができますように。身を屈めさせられ、貧しく心細く暮らす人々が世界中に、またこの日本にも大勢いますから、その人たちに目と心を向け、手を差し伸べようとする私たちであらせてください。「自分と家族と仲間たちさえ良ければそれでいい」と多くの人たちがますます心を狭く貧しくし、身勝手になろうとしています。神さま、私たちを憐れんでください。自分たちとは違う考え方や違う言葉や文化、違い信仰の人々を差別したり、押しのけ排除したり、むやみに恐れたり憎んだりしない私たちとならせてください。へりくだって自分自身を低くする寛容さと、他者を受け入れる温かく広々した心を、どうか今日こそ、この私たちにも与えてください。
あなたによって上に立てられ責任を持たされ、人々のために働く者たちを、公正な誠実さと熱意をもって務めに当たることができるように助けてください。政治家と役人たちと裁判所職員、警察官、福祉と医療と教育の現場で働く者たちを支えてくださって、精一杯の良い働きができるように励ましてください。子供を養い育てる親たちをよく支え、親の務めを十分に果たせるようにどうか健全に導いてください。 私たち自身のためにも祈ります。この一週間、私たちが語る一つ一つの言葉と行いと心の思いも、主イエスを信じてそのご命令と御心に従って生きる者たちにふさわしい言葉、行ない、心の思いとならせてください。主イエスは私たちとすべての者たちのために、あらゆるこの世の慰めと富と力とご自分の生命をさえお捨てになりました。ですからどうか私たちが、ふたたび自分自身のためだけに生きることがないように、むしろ、あなたと隣人とを精一杯に愛し、尊んで生きることができるようにさせてください。主イエスのお名前によって祈ります。 アーメン
みことば/2017,2,12(主日礼拝) № 98
◎礼拝説教 イザヤ書6:9-18,マタイ福音書 13:9-18
日本キリスト教会 上田教会
『切り株と若枝のときまで』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
6:9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。10
あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。11
そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、12 人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。13
その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。 (イザヤ書
6:9-13)
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イザヤ書6:9-13は、『心をかたくなにするメッセージ』と呼ばれてきたいくつかの聖書証言の中の代表的な一つです(申命記29:4,同31:20,同32:15,詩69:22-23,マタイ13:9-18,マルコ4:12,ルカ8:18,ヨハネ12:40,ローマ11:8-32)。このイザヤ書6章の前半は預言者イザヤが神の働き人として立てられた輝かしい出来事の報告であり、愛され、親しまれつづけてきた聖書箇所の一つです。8節、「わたしはまた主の言われる声を聞いた、『わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか』。その時わたしは言った、『ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください』」。この美しく気高い光景に感激して、主への献身を誓った人たちは数多くいたことでしょう。けれども、それに続く9-13節は、あまりに心苦しく、また理解しがたい理不尽なご命令でした。それで多くの者たちはこの箇所を読まなかったことにし、また立ち止まって意味を考えることを差し控えつづけました。実は金田も、この箇所は読まなかったことにして、飛ばして内緒で先へ進もうかと考えていたほどです。読みましょう;「主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である」。『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』。この9節のこの言葉こそが、主なる神が預言者に宣べ伝えよとお命じになったメッセージそのものです。なんということでしょう。今でも昔でも、そんな言葉を語りつづけたら、その伝道者はクビにされ、ただちに教会を追い出されてしまうでしょう。自分も大切な家族も路頭に迷うでしょう。それでもなお、好きでも嫌いでも気が向いても向かなくても、あまりに危険で恐ろしくても、そんなこととは何の関係もなく、主が「せよ。語れ」とお命じになることを、主の働き人はなし、命じられるままに語ります。主が「してはならない。そんなことを語ってはならない」と禁じることを、主の働き人は決してなさず、禁じられるままに口をピタリと閉ざします。なぜなら、そうでなければその伝道者は主の者ではなく、偽り者であり、主のための働き人ではないからです。しかも兄弟姉妹たち。牧師や長老や執事が主の者であり、主のための働き人であるだけではなく、洗礼を受け、神の御前で誓ったその日から、一人の例外もなく、すべてのクリスチャンが主のための働き人とされました。身も心も、生きるにも死ぬにも、この自分はもはや自分のものではなく、真実な救い主イエス・キリストのものとされて、『自分の思いや願いや計画通りではなく、御心にこそ従って、神にだけ忠実に生きる者たち』とされたのです。ですから教会の中でも外でも、どこで誰と何をしていても、「こうしなければいけない。こうしたい。これとこれとこれ」と強く心が動いたとき、私共は心を鎮めて、救い主イエスのものとされた自分自身をよくよく思い出さねばなりません。その願いと判断と欲望は、はたして本当に神の御心にかなったことだろうか。あるいは、神さまを悲しませ、ガッカリさせ、神がカンカンになって怒ったり叱ったりするはずのことだろうかと。そのこだわりや欲望は、聖書の中から、習い覚えてきたはずの神の御心に従おうとする場所から出てきたものだろうか。それとも、どこか別の場所から出てきたものだろうかと。わたしたちはクリスチャンです。ここは、キリストの教会です。
どうして、「あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない」と神の民に告げねばならないのか。何のためなのか。10節、「あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。預言者はたまらず主に問いかけます。「主よ、いつまでですか」。例えば預言者ヨナも、気に入らない嫌な仕事を主から命じられ、嫌々渋々従って働きました。「神の怒りを告げ、滅びを告げ、悔い改めを求める」という仕事を。あのときは、ほんの数日間でした(ヨナ書3:1-4:2参照)。「主よ、いつまでですか」と問いかけたとき、せいぜい一週間か二週間くらいなら我慢して、皆から嫌がられながらも主の命じるままに従って働けるかもしれない、と預言者イザヤは考えたでしょうか。それとも数ヶ月か、ほんの数年くらいなら、なんとか辛抱できるかもと。けれど、およそ40年ほどです。朝も昼も晩も、「あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない」と。このイザヤ書6章の11-13節は、ユダの地がすっかり荒れ果て、人々が遠い外国の土地に捕虜として連れ去られ、エルサレムの神殿も町も城壁も打ち壊され、ガレキの山となるときまで。
けれど、神の民とされたイスラエルよ。13節こそが、神の民とされた私共のための最後の希望の光です。「その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である」。テレビンの木またはかしの木、これが栄華を誇り、傲慢に思い上がって神を少しも思わない神の民イスラエルです。この大きな大きな一本の木が根元近くからバッサリと切り倒され、『切り株』だけが残される。
神の民とされたイスラエルよ。イザヤだけではなくすべての預言者たちは、「切り株、切り株、切り株」と一途に切り株からの希望をこそ語りつづけます。世の罪を取り除く神ご自身の切り株を。40年間ずっと。なにしろあの彼も私共一人一人も、洗礼のときのことと、主の働き人として立てられた日に何をどのように誓ったかをはっきりと覚えているので。「あなたがこの職につくのは、教会のかしらであり、また大牧者である主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか。あなたは、その恵みによって、召された召しにかなって歩もうと決意しますか」。わたしも「はい」と答えました。答えたことをはっきりと覚えていますし、そのときの確信と決意こそが、私のくびきであり、手枷、足枷であり、主イエスがこの私を、畑で働いたり荷車を引く牛や馬として引き回してくださっているからです。主イエスのくびきとイエスご自身からの荷物だけがとても軽くて、楽チンで、安らかで、そこでこそやっとようやくこの私たちも安らかに息をつくことができるからです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28-30)と約束されたとおりでした。とっても幸せで、心も晴れ晴れします。ああ本当に良かった。主イエスのところに来てみて。主イエスのくびきを負う農耕用の牛や馬の一頭に加えていただいて、手綱を主イエスにこそしっかり握ってもらい、ただただ主イエスにだけどこへでも引き回していただけて。
神の民とされたイスラエルよ。大きくて立派で見栄えも良い一本の木が根元からバッサリ切り倒されて、あとに残された侘しくみすぼらしい切り株。そこにどんな希望と救いがあるというのでしょう。「主よ、いつまでですか」と半ばウンザリしかけて主に問いかけていた預言者は、やがてとうとう語りはじめます。人の心に思い浮かびもしなかった救いを神ご自身が備えておられたからです、「見よ、主、万軍の主は、恐ろしい力をもって枝を切りおろされる。たけの高いものも切り落され、そびえ立つものは低くされる。主はおのをもって茂りあう林を切られる。みごとな木の茂るレバノンも倒される。エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す」(イザヤ書10:33-11:4)。その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。撃たれるべきとても悪い国はどの国でしょう。救い主のくちびるの息によって殺されるべき極悪非道の悪しき者とは誰のことでしょう? 私たち自身の肉の思いです。私たち自身のうちにまだまだ深く頑固に根付いている古い罪の自分です。
神の民とされたイスラエルよ。切り株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生え、やがて太い太い幹となったその若枝である救い主イエス・キリストを信じ、そのイエス・キリストにだけ聴き従いはじめ、そのイエス・キリストの幹に接木された、新しい小さな小さな枝たちよ。主イエスの弟子の一人は、「古いイスラエルの心が鈍くされたのは何のためだったか」と呼ばわります。「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(ローマ手紙11:11-12)。
神の民とされたイスラエルよ。わたしたちは切り株からの若枝である救い主イエス・キリストを信じました。それは、他のどんな人間や被造物に聴き従ってでもなく、自分の腹の思いに従ってでもなく、また、パウロ大先生やルター先生、カルヴァン先生、代々の牧師先生たちなどに言いなりに従ってでもなく、ただただイエス・キリストにだけ聴き従って生きるために。『主イエスこそが、一個のクリスチャンというこの務めに召してくださった。召された召しにかなって歩もうと決意した』という誓いは、このことだからです。他のどんな幹でもなく、ただただそのイエス・キリストの幹にこそ接木された新しい枝たちよ。自分は立っていると思うなら、倒れないように気をつけなさい。あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。神の慈愛と峻厳とを見よ(ローマ手紙11:20-23)。
◇ ◇
さて、マタイ13:10以下の秘密もすっかり説き明かしましょう。天国とは、神が王さまとしてご支配なさる領地です。その住民となって幸いに生きて死ぬことができる者は、案外に数少なかったのです。種まきと、4種類の土地について聞いたばかりです。天国の奥義を知ることがゆるされているのが誰と誰なのか。ゆるされていないのは誰々なのかを、私たちはよく知りません。なぜなら、「耳のある者は聞くがよい」(マタイ11:15,同13:9,同13:43)とわざわざ語りかけられているとおりに、耳があったり無かったりするわたしたちですから。耳が開いたり、かと思うとまったく塞がれたりするわたしたちですから(こども讃美歌4番「けさもわたしの」;今朝も私の小さい耳よ、神の言葉に聞き従え。神さま、今日もみ心をおこなう日にしてください。大人も子供も耳が小さくて聞こえにくいのは似たり寄ったりです。神さまが私たちの聞く耳を開き、神さまこそが強情で頑固な私たちをも、み心に従って生きる素直でまっすぐな人間に新しく作りかえてくださいます。それが、クリスチャンの希望の根本でありつづけます)。マタイ13:15で、「悔い改めて癒されることがないため」と主イエスがお語りになった真意は、その本当の心は、『ぜひ、なんとしても悔い改めさせ、この人もこの人もぜひ癒してあげたい』という熱情です。ほどほどの中途半端な悔い改め、そこそこに見えて分かった程度ではなく、十分に癒されて救われるために。悔い改めのためにも、神を信じるためにも、癒され救われて日々を生きるためにも、神ご自身による大きな力業こそがどうしても必要でした。栄華を誇ったレバノンの大きな木が根元からバッサリ切り倒され、切り株だけが残り、切り株からまったく新しい若枝が、復活の主イエスが生え出るのを待たねばなりませんでした。救い主イエスが来られ、死んで復活なさり、同じく私たちも古い罪の自分を根元からバッサリと切り倒していただき、切り株からの再出発を成し遂げて救われる。イザヤ書6:9-13こそがこの最後の秘密を打ち明けていました。「主よ、いつまでですか?」「大きな木が切り倒され、切り株からの若枝が芽生えて伸びるまで」と。これが、聖書自身からの唯一の答えです。そのため、ひとたび心が鈍くされ、かたくなに頑固になり、目も耳もすっかり塞がってしまいました。けれど神の民よ、物分かりを悪くし、悟らせないために譬え話で語られるわけではありません。逆です。私たち自身もまたなんとかして分かり、聞き分けさせていただくためにです。神の民イスラエルよ。一個のキリスト教会は、この上田教会は、どうやって、何をもって揺るぎなく立ち、支えられつづけるでしょうか。一人のクリスチャンとその家族は、どのように救われるでしょうか。いろんな人々が今ではいろんなことを言い始めています。けれど聖書自身は、いつも同じ一つの答えを語りかけつづけます。神の民イスラエルよ、あなたがたの耳はちゃんと2つあり、もう十分に大きい。だから聞きなさい;「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせた、このかたくなな私たちをも新しく神の御前で、神に向かって、神ご自身の真実に依り頼んで生きさせると信じるならば、そうである限りにおいてだけ、キリストの教会は揺るぎなく確固として立ち、あなた自身も、あなたの家族も救われる」(ローマ手紙10:9参照)。