みことば/2017,2,26(主日礼拝) № 100
◎礼拝説教 マタイ福音書 13:44-52 日本キリスト教会 上田教会
『宝が隠してある』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
13:44 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。45
また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。46 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。・・・・・・51
あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
(マタイ福音書 13:44-52)
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読んだ中身のすべてについて語ることは、できません。どうしても語らなければならない必要最低限のことだけを手短に話します。『畑に隠してあった宝をみつけた人』のことと『よい真珠を探し回ってとうとうそれを見つけることができた商売人』の2つのたとえ話。そして、52-53節の少し分かりにくい主イエスご自身からの説明と。
2つのたとえ話には、まったく違うところと、すっかり同じところがあります。違っているのは、『畑に隠してあった宝をみつけた人』はその宝物を探し求めていたようには見えないし、その一方で、『よい真珠を探し回ってとうとうそれを見つけることができた商売人』は実際によい真珠をぜひなんとしても手に入れたくて、必死になって熱心に探し回りつづけていました。では、すっかり同じなのはどういう所でしょう。とても素敵な宝物や極上品の格別に良い真珠を見つけた人たちの、その振る舞い方です。44-46節、「人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買う」。見つけた後は、2人ともまったく同じですね。両方共、「喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買う」。また、「高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買う」。このたとえ話から学び取るべき、他のどこにもない格別な知恵は、この一点にかかっています。さて、おさらいですが、『天国。天の国。神の国』とは、神ご自身が主人であり、王さまである世界のことです。そこでは、すべて一切が神の所有物であり、神のものであり、神ご自身がご主人さまとして、また絶大な権威と力をもって生きて働かれる王さまとして生きて働いておられます。その王国に住むことをゆるされた者たちの幸いと、その人々が受け取るはずの格別な祝福、大きな喜びがここで語られ、差し出されています。しかもこの私たちは、畑の中の宝物を見つけ、極上品の格別に良い真珠を見つけて、すでにそれを手に入れているではありませんか。自分自身の手の中にあるその宝物を見てください。その極上品の格別に良い真珠を改めてつくづくと眺め、味わい、喜び祝ってみてください。
このたとえ話が私たちにぜひ気づかせようとしていることは何でしょうか。罪をゆるされ、罪と悲惨の只中から救い出され、神の子供たちとされ、神の国に入ることをゆるされている。それがどんなに喜ばしいことなのかと気づいている者たちは、キリストとそのすべての恵み、永遠の生命を受け取るためになら、他すべて一切を投げ捨てることでしょう。畑に隠してあった宝物を見つけた人のように。また、極上品の格別に良い真珠を見つけた商売人のように。畑の宝物を見つけた人は、もう嬉しくて嬉しくて、たとえそれがいくら高かろうが、100万円出しても200万円出してでも30年か40年のローンを組んででも、喜んでそれを手に入れました。あの商売人も、その真珠一個を一目見たとたんにそれが、二度と出会うことも手に入れることもありえないほどに、ものすごく良いモノであることがはっきりと分かりました。だから、どんな代償を支払ってでも、なんとしてでも手に入れたいと心が焼けつくほどに渇望しました。2人とも、とてつもなく良いものを自分は見つけたのだとはっきり分かりました。それを自分自身のものとするためにならどんな犠牲や代償を支払うにも値すると分かって、手に入れると嬉しくて嬉しくて、心がすっかり満たされました。けれど、この2人の姿を傍らで眺めていた他の人々は、ポカーンとして首を傾げました。また別の人たちは「バッカじゃないか。そんな畑やただだか真珠くらいでそんなたくさんのお金を支払うなんて。タチの悪い新興宗教にでも騙されて、ろくでもない二束三文のゴミみたいな壺を何千万円だか何億円も出して買わされて喜んでいる愚か者たちと同じじゃないか。そう言えば、ついこの間も若い女優がつまらない悪徳商売のペテンに騙されていた。なんてあほらしい、なんて可哀想に」と。それでも、この二人は気づいていました。「やった。なんて幸せなんだ、この私は。とんでもない掘り出し物だ」と。
けれど、一粒の真珠を見つけて手に入れたとても幸いな商売人の皆さん! これこそが紛れもなくキリスト教の信仰であり、主イエスを信じるクリスチャンの本来の姿をはっきりと描き出していると分かります。あの彼らは、クリスチャンが召された恵みにかなって、そうあるはずの姿で立っています。クリスチャンとして、神の御心にこそ従ってなすべきことをなし、してはならないと教えられていることをしないでいます。なぜなら、贈り与えられた宝物と一個の真珠が「やったあ。掘り出し物だ」というに値するほどの掘り出し物だとはっきり分かったからです。あの彼らは、元いた、神を信じない世界から神を信じて生きる新しい世界に出てきました。あの彼らは、古い罪の自分を脱ぎ捨てさせられ、肉の思いの奴隷状態からついにようやく自由にされました。古い世界の虚しい仲間たちを後に残して出てきました。
51-52節。「これらのことがみな分かったか?」と主イエスは質問なさいます。耳を傾けてずっと聞いていたのは主イエスの弟子たちです。「分かりました」と彼らは答えました。そこで、主イエスは弟子たちにさらに一歩二歩進んで、こうおっしゃいました。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。もちろんこの私共も、あのときの彼らに負けず劣らず、主イエスの弟子です。同じく質問いたしましょう。「これらのことがみな分かりましたか?」。主イエスの弟子であり、しかもさらに、この私たちも彼らも『天国のことを学んだ学者』であり、『新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人』でさえあります。大丈夫。今日こそは皆、ちゃんと十分に分かります。神が主人であり王さまである国に住んで、神ご自身のお働きによって一日分ずつのなくてはならぬ糧を贈り与えられ、神に背かせようとする罪の誘惑と悪い者から救い出されつづけ、罪をゆるされつづけている罪人である私たちです。そうだというだけでなく、そのことの道理と順序も十分に学ばせられてきた私たちです。この世の学者の一般的な知恵と賢さなど及びもつかないほどに。ですから私共も、『新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人』でさえあります。新しいぶどう酒と新しい皮袋、古いぶどう酒と古い皮袋のことを聞いて、覚えておられますね。同じことですけれど、新しいぶどう酒(またここで『新しいもの』)とは、救いに値しない罪人を、にもかかわらずゆるして救うという『福音の順序であり道理であり、その中身』です。古いぶどう酒と古い皮袋とは、神を信じる前に習い覚えてきた、この世のしきたりと習慣と一般常識と様々なルールです。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたら、古い皮袋はビリビリに裂けて破れました。当然です。そのとても古い皮袋は、新しい中身につりあわないし、新しい中身を入れておけるほど丈夫でもなく、また、なにしろ新しいぶどう酒には古い皮袋をビリビリに引き裂く力があるからです。救い主イエスが死んで葬られ、その三日目に復活なさいました。この私たちも主イエスに率いられて、自分自身の古い罪の皮袋をビリビリに引き裂いていただき、それを墓の中に葬っていただいて、そのようにキリストの中に沈め入れられ、もはや自分は自分自身のものなどではなく、キリストのものとされ、新しい生命に生きる者とされました。神に向かって、神の御前で、神さまのご栄光のためにこそ。つまり、「自分の心と体の全部を神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として毎日毎日ささげながら。この世と同じ形にならず、同じこの世の古い道理と古い順序に縛り付けられず、むしろ心を新たにすることによって造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るように、だんだんと少しずつ少しずつ習い覚えさせられ、成長させられつづけながら」(ローマ手紙12:1-2参照)。
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さきほど讃美歌の142番を歌いました。このあと、Ⅱ編の195番を歌います。二つの曲は同じ一つの心を歌っています。「世の富、ほまれは塵にぞひとしき。この世のもの皆、消えなば消え去れ」などと歌い、またⅡ編の195番でも、「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも」などと晴れ晴れ清々して歌っています。しかも、やせ我慢でもなく見栄を張って心にもないことを偽装しているのでもなく、心底から歌っています。これらの歌も、畑の宝を見つけたその同じ人であり、極上品の格別に高価な真珠一個を手に入れた商売人たちの一人であるからです。Ⅱ編195番、1節2節;「キリストには代えられません、世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、行け。キリストには代えられません、世のなにものも。2節。キリストには代えられません、有名な人になることも、人の誉める言葉も、この心を惹きません」。涼しく、晴々して歌うときもあるでしょう。感謝と喜びに溢れて歌うときもあるでしょう。あるいは信仰の危機に直面して、崖っぷちに立たされて、そこで必死に呼ばわるときもあります。「キリストには代えられません。代えられません」と繰り返しているのは、ついつい取り替えてしまいそうになるからです。惑わすものにそそのかされ、目も心も奪われて。キリストの代わりに、富やさまざまな宝物を選んでしまいたくなる私たちです。キリストの代わりに、様々な楽しみに手を伸ばしてしまいたくなる私たちです。キリストよりも、目を引く素敵で美しいものを。人から誉められたりけなされたりすることを。うっかり取り替えてしまいたくなるほど、それらの生々しい肉の思いが私たちの心を引きつけて止まないからです。なぜ、そうだと分かるのか。Ⅱ編195番の繰り返し部分に目を凝らしてください。あまりに過激です;「世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ」。とても切羽詰っていて、緊急事態です。ここまで彼に言わせているものは何なのか。世の楽しみよ、去れ。世の誉れよ、どこかへ行ってしまえ。そうでなければ、私は目がくらみ、今にもキリストをポイと投げ捨ててしまいそうなので。自分はいったい何者なのか、誰を自分の主人として生きるつもりなのかと厳しく問い詰められる日々がきます。あれも大切、これも大切、あれもこれも手放したくないと山ほど抱えて生きるうちに、主イエスを信じる信仰も、主への信頼も、主に聴き従って生きることもほどほどのことにされ、二の次、三の次に後回しにされつづけてゆく。何が望みなのかと、何を主人として私は生きるつもりのかと。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。歌の3節の3、4行目。ついにこの人は、キリストに固着し、死守るする秘訣を体得しました。やったあ! このお方で心の満たされている今は、と。私に代わって死んでくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。だから今は、揺らぎ続ける危うい私であっても、キリストから離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私でありつづけたい。「このお方が私に代わって死んだ。私に代わって死んだ」と今後も同じく歌いつづけていいです。ただし、この歌の心は「私に先立って・私を引き連れて」です。この救い主イエス・キリストというお方が私に先立って死んで、私に先って復活してくださった。今も生きて働いていてくださる。やがて再び来てくださるし、今も共にいてくださる。だから、もうどんなものもキリストには代えられない。世の宝も富も、楽しみも、人から誉められたりけなされたりすることも、良い評判を得ることも冷たく無視されることも、有名な人になることも、どんなに美しいものも。私たちもついにとうとうキリストにこそ固着し、死守する秘訣を体得しました。私に先立って死んで復活してくださったキリストで、今この瞬間は、私の心はいっぱいに満たされている。
一粒の格別な真珠を手に入れた商売人たちよ。神さまはキリストと共に私たちをも死者の中から復活させることができるし、現に復活させつづけてくださる。だから今もこれからも、揺らぎ続ける危うい私たちであっても、キリストから二度と決して離れないでいることができる。明日も明後日も、死ぬまでず~っと同じく変わらず、そのような私自身でありつづけたい。ぜひとも、そうでありたい。