◎とりなしの祈り
イエス・キリストの父なる神さま、だからこそ確かに私たちの本当の父になってくださり、主イエスをとおして私たちをあなたの本当の子供たちとして迎え入れ、養い、支え、守りとおしてくださる神さま。心から感謝をいたします。あなたを信じる信仰を私たちに与えてください。自分の思いや願いではなく、ただただあなたの御心を思い、他の誰の言葉に従ってでもなく、自分の腹の思いに従ってでもなく、あなたの御言葉にこそ聴き従って生きる私たちとならせてください。
なぜなら神さま。世界中で、またこの国でも、大人も子供も年寄りも、たびたび心がとても狭く頑固になってしまいました。日本に働きにきている外国人たちをむやみに憎んだり、押しのけようとしている人たちの狭い心を、神さまどうぞ、広く大きく温かい心へと変えさせてください。安く便利に使い捨てられつづける外国からの労働者たちとその家族を憐れんでください。年配の人々に、年老いることやだんだんと体が弱ってやがて死んでいくことを乗り越える新しい希望と力を与えてください。病いと困難さを抱えて生きる人々とその家族に、生き抜いてゆくための新しい支えを与えてください。目の前の自分自身の損得ばかりでなく、自分と家族の毎日の暮らしのことばかりでなく、目と心を高く上げて、大切な隣人たちと、また後につづく世代のことを、この私たちも深く思うことができるようにさせてください。それから神さま。350人の自衛隊員の命と家族を、「戦争ではない」と言い張っている愚かな戦争に無理矢理に担ぎ出され、駆けつけて、人を殺したり殺されたりする愚かで惨めで嘘偽りの犬死から、どうか救い出してください。神さま、私たちを憐れんでください。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2017,2,19(主日礼拝) № 99
◎礼拝説教 マタイ福音書 13:24-30,36-43 日本キリスト教会 上田教会
『毒麦のたとえ』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
13:24 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。25
人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。26 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。27 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。28
主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。29 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。30
収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。・・・・・・36
それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。37 イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。38
畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。39 それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。40
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、42
炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。 (マタイ福音書
13:24-30,36-43)
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弟子たちが、その恐るべきたとえ話を説明してくださいと頼みました。37節以下、「イエスは答えて言われた、『良い種をまく者は、人の子(=主イエスご自身)である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい』」。「神を信じて生きているクリスチャンは善良で心が清らかで、誰にでも親切で心優しく、意地悪をせず、陰口もきかない、何をされても言われてもいつもニコニコしていて」などと、神のこともクリスチャンのこともほとんど何も知らない世間の人々は思うらしいのです。しかもクリスチャン自身さえも、どうしたわけか、ついつい自分たちはそういう類いの人間たちだと思い込まされているらしい。本当ですか? いいえ。善良で心が清らかで、誰にでも親切で心優しく、意地悪をせず、陰口もきかない、何をされても言われてもいつもニコニコしている人など一人もいません。『正しい人は一人もいない。教会は罪人の集団にすぎない』と聖書自身は断固としてはっきりと証言しています(ローマ手紙3:9-20,同7:14-25,創世記8:21,テモテ手紙(1)1:12-17,ヨハネ手紙(1)1:5-10)。これが、大事な出発点です。なぜなら、「神を信じて生きているクリスチャンは善良で心が清らかで、誰にでも親切で心優しく、意地悪をせず、陰口もきかない、何をされても言われてもいつもニコニコしていて」などという根も葉もないタワゴトをうっかり真に受けさせられ、そのおかげで人前で正しい人のふりを装いつづけ、猫をかぶりつづける偽善者は、人様が見ていないところで化けの皮を脱ぐからです。陰にかくれて人を困らせ、悪口を言い、建前と本音を使い分けつづけ、二枚舌を使い、心の中に悪いものを溜め込みつづけるからです。また、自分は善良な人間のつもりになって、軽々しく他人を見下したりバカにしたり、その欠点をあげつらって裁きたてるパリサイ人に成り下がるからです。けれど神は生きて働いておられ、その神こそが人の心と行いの隠れたところを見ておられます。ですから私たちクリスチャンは、人前で猫をかぶる偽善者にならないために、善人の顔の下によこしまな心を隠すジギル博士とハイド氏にならないために、朝も昼も晩も、自分自身によくよく言い聞かせつづけねばなりません。正しい人は一人もいない。教会と、私たちクリスチャンは罪人の集団にすぎないと。
さて、世の中がそうであるように、キリスト教会の中のクリスチャンにもいろいろな人々がいます。教会の中に、いろいろな種が混じり合って暮らしています。26-27節。「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』」。私たちのいつもの悩みのタネでありつづけます。それでついつい、選り分けたくなります。選別して、信仰のある人とあまりなさそうに見える人と。悔い改めた人と、まだまだ全然悔い改めていないように見える人と。御国の子供たちと、悪い者の子供らと。けれど、いろいろな種たちよ。それらは洗礼を受けた人々のあらゆる社会と時代のすべての教会の中で、互いに混じり合って、いっしょに置かれつづけます。世界の終りのその日まで、ずっと。「では、さっそく畑に出かけていって、悪い毒麦たちをすっかり引き抜いて、投げ捨ててしまいましょうか」と早合点したしもべたちが口々に言い立てます。主人は言います、「いいや、毒麦を集めようとして、良い麦もうっかりして一緒に抜いてしまうかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい」。
なにしろ、これが畑のご主人の指図ですから、嫌でもなんでも渋々でも従うのです。なぜ? なぜなら、この畑はわたしたちの畑ではなく、ご主人のものである畑なのですから。わたしたちの収穫ではなく、すべて一切が主人のものですから。わたしたちは主人ではなく、主人の代理人でもなく、ただただ主人に仕えるしもべ同士にすぎないのですから。だから、いかにも毒麦らしく見えるその一本の怪しい麦を、私たちは決して抜いてはなりません。収穫の日が近づいて、その麦たちが十分に育つまで、麦をはっきりと見分けることができません。毒麦は、良い麦によく似ていて、そっくりです。しかも長い根が互いに絡み合っていて、一本を抜こうとすると、まわりの麦までいっしょに引き抜いてしまいなけません。「さっそく畑に出かけていって、悪い毒麦たちをすっかり引き抜いて、きれいさっぱり投げ捨ててしまいましょうか」という私たちの熱意は、自分は正しいと自惚れるパリサイ人たちを図に乗らせ、皆を次々とパリサイ人にしてしまい、その傍らで、弱り果てて傷ついた小さな葦の茎を次々とポキポキポキポキ折りつづけるかも知れません。その熱意と見せかけの正しさは、ちっとも正しくなんかありません。とても悪い、正しくもなんともない、神さまを怒らせたり悲しませたりするばかりの正しさです。その様子を見て、昔々、一人の心優しいクリスチャンが言いました。「兄弟たちよ、軽々しく抜いてはいけない。止めなさい。いかにも毒麦らしく見えるその麦も、もしかしたら明日には良い麦になっているかも知れないから」と。怪しくてウサン臭い、いかにも毒麦らしい。それって僕のことだ! あなたも、だいたいそんなものだったでしょう。軽々しく引き抜かれたり、いまだに投げ捨てられなくて良かった。ね。
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毒麦と良い麦と、どちらがどちらということでもなく、区別も見分けもつかず、麦たちはいっしょに育てられつづけます。世界の終りの日まで。これがキリスト教会の実態です。そのことを、私たちはよくよく胸に刻んでおきましょう。世間の人々は、そうした教会とクリスチャンたちの姿を見て、「それがクリスチャンか。それでもキリスト教か。なんだ、ちっともクリスチャンらしくない。了見が狭くて、短気で頑固で、偉そうで自分勝手な、心優しくもないし、いつもヘラヘラニコニコしているわけでもない。ほらほら渋い顔をして、口をへの字に曲げている」などとあざけって笑いものにするでしょう。はい、どうぞ。いくらでも気の済むまで、笑いものにすればいい。クリスチャン同士も互いにひそひそ声で兄弟姉妹たちの値踏みをしたり、「この人はクリスチャンとしては50点、あの人は60点、あそこにいるちっとも悔い改めていないらしい、人間のことばかり思い煩いつづけている生臭いあの人はまだまだ20点、落第だわ。教会の評判にも傷がつくといけないから、なんとか追い出してしまいましょうか」などと。いいえ、とんでもない。そうした上っ調子な評判に心を揺さぶられてはなりません。この毒麦のたとえを思い出しましょう。しかも私たちの主人イエス・キリストは2000年も前から、世間の人々や私たちのとても上っ調子で軽々しい早合点をすっかり見越して、準備しておられました。キリストの教会は誰にでもよく分かる優等生の良い麦ばかりじゃなく、毒麦も良い麦もいっしょに養い育てつづけてゆく。救い主イエスはお命じになりつづけます、「いいや、その麦を引き抜いてはいけない。止めなさい。毒麦を集めようとして、良い麦もうっかりして一緒に抜いてしまうかも知れない。終わりの日の収穫のときまで、両方とも育つままにしておきなさい」。
ならば、主イエスが種をまいてくださった主のものである畑を、この私たちはどのように取り扱いつづけましょうか? どんなふうに手入れをし、水をやり、雑草を抜き、木の根や石ころを取り除き、よい肥料を与えることがゆるされるでしょうか。天におられます主人が農夫であられるので、私たち一人一人も畑を耕し守る農夫です。――知っていることは数少ない。知らないことは山ほどある。神の国の奥義について、私たちが知らないことが山ほどあることを喜び、信頼し、神の御前に慎んでいるようにと戒められています。なぜなら、「『神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである』。また言われた、『神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる』」(マルコ福音書4:26-32)。ですから、隣人や兄弟姉妹たちを軽々しく決めつけたり、裁いたりしないことです。主人であるイエス・キリストはおっしゃいます、「兄弟の目の中にあるおが屑を取り除こうというのか。そのまえにまず、自分自身の目の中にある大きな大きな大きな丸太をこそ、まっさきに取り除けなさい。そうすれば、あなたも耳がよく聞こえ、目も見えるようになって、そのあとでなら、お互い同士でおが屑も丸太も取り除けあうことができるだろう」(マタイ7:1-5)。キリストの教会とお互い同士のあり方に、私たちは決して世間の道理やしきたりを持ち込んではならず、人間的な理想像を求めてはなりません。「神を信じて生きているクリスチャンは善良で心が清らかで、誰にでも親切で心優しく、意地悪をせず、陰口もきかない、何をされても言われてもいつもニコニコしていて」ですって? 冗談じゃない。それは信仰のことも神のことも知らない人々が根も葉もないでまかせを言っているだけですよ。聖書にはなんて書いてあったか、あなたもよく覚えているでしょう。
しかも、毒麦と良い麦をちゃんと見分けることができるのは、ただただ神さまだけです。私たちには、ちっとも分かりません。それで、主の弟子の一人は言いました。「このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。自分が正しいか正しくないか、ふさわしいかふさわしくないかとは何の関係もなしに、ただ憐れみを受け、ただただ神ご自身の義と憐れみとを贈り与えられただけの私である。それだけが、神の御前でのわたしの義である。しかも、わたしをさばくかたは、わたしのためにも裁かれてくださった十字架と復活の主イエスである。だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう」(コリント手紙(1)4:1-5参照)と。そのとおりです。昔々、心優しい謙遜な一人のクリスチャンも言いました。「いいや兄弟たち。軽々しく抜いてはいけない。止めなさい。いかにも毒麦らしく見えるその麦も、もしかしたら明日には良い麦になっているかも知れないから」と。なぜなら、神を本気で信じているその人は、神のゆるしと憐れみ深さにすっかり信頼を寄せているのです。神には、いかにも毒麦らしく見える粗末で怪しげな種をさえ、明日か明後日にでも、とても良い麦に変えることがおできになるからです。種をまく主人は、朽ちるものから朽ちないものへ、滅びるほかない死の淵から永遠の生命へと、一粒の種を生まれ変わらせることさえできるからです。種と麦の行く末について、その希望について、種をまいて育てる主ご自身がこう語りかけました;「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す」(コリント手紙(1)15:42-54参照,イザヤ書55:8-11)。神の約束を信じて生きることをしはじめましょう。