2017年3月6日月曜日

3/5「つまずく人々もいる」マタイ13:53-58,列王記上19:1-14

                       みことば/2017,3,5(受難節第1主日の礼拝)  101
◎礼拝説教 マタイ福音書 13:53-58,列王記上19:1-14    日本キリスト教会 上田教会
『つまずく人々もいる』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC
13:53 イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。                                                    (マタイ福音書 13:53-58)
                                        


 主イエスはご自分の生まれ育った故郷で、昔から自分と家族たちのことをよく知っているはずの人々から、どうしたわけかとても奇妙な取り扱いを受けます。もちろん主イエスご自身はこれまで他の町や村で語り聞かせてきたとおりに、同じ一つの中身を、これまでと変わらず同じ口調で語りつづけています。そこらの律法学者たちのようにではなく、他のどんな権威ぶった人々のようにでもなく、本当に権威ある者として教えられた(ヨハネ7:46,マタイ7:28-29参照)そのままの口調で。けれど、生まれ故郷ナザレの人々には、主イエスの語るその言葉も語った内容も、まったく耳にも心にも届かず、何の役にも立ちませんでした。「この人はこの知恵とこれらの力ある業をどこで習ってきたのか」54節)と驚きはしても、けれど彼らの心は、ほんの少しも動かされませんでした。あの彼らは互いに首を傾げて言います、「おかしいなあ。あのヨセフとか言う大工の子じゃないか」。あの彼らは、「自分たちはよく知っているし分かっている」と思い込んで、だからイエスという人物をあなどり、軽く見ていました。主イエスの家族はとても貧乏で、十分な教育も受けていなかったのかも知れません。それで、「ああ。あの地域の、あの家族の子供か」などと。それは、この国でも、この地域でも大昔からあり、今もあり、今後ともありつづけるかも知れません。私たちの心の貧しさやよこしまさがそういう『差別する人々』と『差別されつづける人々』とを産み出しつづけます。ごく表面的に決めつけて人を見下したり差別や区別をしてしまうのは、あまりに恥ずかしい。神様にも人様に対しても申し訳のないことです。
  この私たちも、とても簡単に心が鈍くなってしまいやすいです。いつも目の前にあり、当たり前のことのように慣れ親しんでしまうと、神からの恵みの一つ一つを軽んじ、ないがしろに扱いはじめます。例えば、こんなことを思い浮かべたことがありますか。もし自分が主イエスの姿を目の前に見て、その言葉を聞いていたならば、あっという間に、とても信仰深い忠実な弟子になっていただろうにと。もし、洗礼者ヨハネが自分の目の前で、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる」(マタイ3:7-10などと、厳しく、本気で語りかけてくれたならば、そうすれば、きっと私は直ちに心底から悔い改めていただろうにと。あるいは、主イエスや洗礼者ヨハネや他のごく有名な誰彼がたまたま自分の家の近所に住んでいて、本人やその親兄弟をよく知っていて、ずいぶん前からの付き合いで、その人々をよく知っていて、普段の暮らしぶりもよく見かけていたとしたなら、それなら、この私だっていつまでもどっちつかずの状態ではなく、半信半疑のままでなく身を入れて神を信じて暮らしていただろうにと。そうかも知れないし、そうではないかも知れない。ナザレの人々の振る舞いと腹の思いをよく観察してみてください。また実際には、救い主イエスは生まれ故郷のナザレでだけ敬われなかったのではありません。あの彼らのような人々は、どこにでもいるからです。どんな社会、どの時代にも。ヨソの国にも、この国にも。
  けれども主イエスを信じて生きることをしはじめた、主イエスの弟子たちよ。わたしたちは「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」ようにと習い覚えさせられ、実際そのように毎日の暮らしを積み重ねてきたのでしたね。見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのだからと。さまざまなことが身の回りで起きても、けれどなお落胆せず、たやすく揺さぶられもせずにいられる理由は、ただただそこにこそありました。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(コリント手紙(2)4:16-18と。
  どうして、わたしたちは「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」ことができるのか。「見えないもの」と言いながら、まったく見えないわけではなく、薄ぼんやりとはしているとしてもよくよく目を凝らして見ると見えるからです。現にこれまでずっと見続けてきたからです。何を。神を信じて生きることの希望と喜びと慰めを。救いの実態を。神が、たしかに生きて働いておられますことを。しかも主なる神ご自身こそが、見えないはずのものと隠されているものをさえすっかり見抜いておられるお方だからです。聖書は証言しました;「顔形や身の丈をではなく、人の外側のあれこれをでもなく、主は心をこそ見る」(サムエル上16:7参照)と。ようやく思い出しました。例えば預言者エリヤも、危うくつまずきかけた人物でした。よくよく目を凝らして見ると見えるはずのものに目を凝らしつづけることに失敗し、「自分自身と周囲の人間たちのことばかりああでもないこうでもないと思い煩いつづけ、そのあまり神を思う暇がほんの少しもなくなってしまったあまりに生臭い俗物」に成り下がってしまうその寸前まで、あの彼も転げ落ちました。列王記上18, 19章は、1人の働き人の栄光と挫折を、そして挫折からの回復を物語ります。預言者エリヤは、他に並ぶ者がないほどの飛びぬけて偉大な働き人でした。あの彼こそ、ピカイチのナンバーワンでした。この直前の18章での彼は断固として立ち、自信にあふれ、得意の絶頂にありました。彼の国の王も王妃も、神ではないものを神として崇め、主の預言者たちを次々と殺しました。多くの人々もまた心をさまよわせました。山の上でエリヤはバアルに仕える450人の預言者たちにたった一人で立ち向かい、彼らを打ち破りました。さすがはエリヤ。「私こそは」と彼自身も思い、鼻高々でした。その偉大で立派で揺るぎないはずのあの彼が、どうして性悪の王妃イザベルが一言脅かしただけで、ブルブル恐れ、あわてて逃げ出したのでしょうか19:1-318章の偉大で勇敢な彼とはまったく別人のようです。でも別に、不思議でも何でもありません。私たち自身のいつもの醜態も含めて、そんなことは日常茶飯事。これが普通。得意満面で鼻高々だった者が、次の日には卑屈にいじけている。「大丈夫。何の心配もない」と自信たっぷりに太鼓判を押した者が、ほんの数時間後には「もうダメだ」と頭を抱えて絶望している。「大好きよ。死んでも離れないわ」と熱烈に愛しあった者たちが数日後には「もう顔も見たくない」とそっぽを向いている。エリヤは絶望し、なにもかも嫌になって死を願います。4節、「主よ、もはや十分です。いま私の命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」。先祖に勝る者ではない? あの彼は何を寝ぼけているのでしょう。まるで、ほんの少しも信仰のない人のような眼差しではありませんか。彼の得意と絶望の原因と中身が、ここにあります。今あの彼は、「自分は先祖に勝る者ではない。だから」と絶望しています。ほんの少し前には、「同世代の仲間たちや先輩や先祖たちよりも自分の方が多少は勝っている」と得意になっていました。やっぱりなあ。なるほど。そうであれば、鼻高々になることも、かと思うとてのひらを返したようにすぐに絶望してしまうことも、あまりに簡単。上がったり下がったり右に転がったり左に転がったり、吹く風のようにコロコロコロコロ移り変わってゆくのも、それは当然です。「救われたのは、ただ恵みによった」(エペソ2:4)と聖書に書いてあったじゃありませんか。臆病風に吹かれて逃げ出して、預言者エリヤが向かった先は神の山ホレブです。別名シナイ山とも呼ばれたこの山は、かつてモーセが神と出会った場所。よかった。彼は、ただ闇雲に逃げ出したのではなかったのです。すっかり絶望し、支えと拠り所を見失った彼は、改めて神ご自身と出会いたいと切望しました。神の語りかけを今こそぜひとも聞きたい、聞き届けたいと。失意の只中で、あの彼は神へと向かいます。ふたたび立ち上がるために、ふたたび揺るぎなく確固として歩き出すために。この私たちもそうです。ガッカリして失望するとき、弱り果てるとき、心を惑わせ希望も支えも見出せない日々に、けれどもそこで、帰ってゆける場所を私たちは持っています。そこで神に向かい、その悩みの只中で祈り求め、目を凝らし、神の語りかけを聞き届けたいと切望する――そこで神へと向かう。だから、私たちはキリスト者なのです。キリスト者であることの中身は、《そこで、なにしろ神へと向かう》ことの中にあり、キリスト者であることの慰めも希望も確かさも、《そこで神へと向かう》中でこそ差し出され、受け取られます。ホレブ山の洞窟前で、神とエリヤは同じ問答を2度繰り返しています。「ここで何をしているのか」と問う神。「わたしは主のために非常に熱心に働いてきました。人々はあなたとの契約を捨てました。ただわたし独りだけ残り、彼らはわたしの命も取ろうとしています」と答える彼。(1)すべてを知っておられる神がわざわざ問うとき、それは神ご自身のための質問ではなく、その人のための質問です。ぜひとも気づくべき根本の事柄が問われています。「ここで何をしているのか。何のつもりでここにいるのか」。どこにどう立っているのかを、あなたは気づいているのか。あなたが踏みしめているその足もとをよく見てみなさいと。(2)「わたし独りだけが」;これが彼の責任感であり、誇りでした。これまで彼を支えていたものが、けれど今、逆に彼を苦しめています。独りだけであることが今では彼の重荷となり、絶望の原因ともなっています。だって、『独りで背負っている。わたし独りで担っている』と勘違いしています。わたし独り。じゃあ、それならば、あなたの主である神はどこで何をしておられるのか。神こそが第一に先頭を切って働き、神こそが担い、背負ってくださっているのではなかったのか。主の語りかけを、彼は聞きます。山を裂くほどの大きな強い風。しかし、この中には神はおられない。次に地震。火。けれど、その中にも神はおられない。静かにささやくか細い声によってこそ、神さまは語りかけます(で、神は結局エリヤに何を告げたのか。それは、いつか別のときに詳しく語ります。19:15-18参照)

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マタイ13章の終わりの、なんとも恐ろしい言葉に、けれど私たちも目を留めねばなりません。58節、「そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」。わざとしなかったというよりも、むしろ神である救い主ご自身にさえ難しかったし、力ある業をしようとしても出来なかったのです。彼らの不信仰に行く手を塞がれ、阻まれて。あの彼らの不信仰。神を信じて生きるはずの皆さん。天にも地にも、自分自身が不信仰であることのほかには、彼らの救いを妨げるものなど何一つありません。ほとんどすべての罪がゆるされるとしても、それでもなお、ただただ恵みと憐れみであるはずの神の救いからこぼれてしまう人々はいます。ほかの誰のせいでもなく ただ自分自身の不信仰のゆえに。天の御父の愛はすでにあの彼やこの私共を受け入れ、十字架の上で流し尽くされた主イエスの血潮はあの彼やこの私共をすっかり洗い清めようとして準備万端であるとしてもなお、聖霊なる神の力はあの彼やこの私共を新しく生まれさせようと待ち構えているとしても、それでもなお大きな隔ての壁が高く高く立ち塞がっています。神を信じようとしない心のかたくなさが(ヨハネ福音書 5:40参照)100数十年前に生きた一人の伝道者がこんなことを言いました、「神の子供たちが日毎によく祈り、日毎に神の御心に聴き従って生きることを邪魔するものは三つある。思い上がりと、この世のやり方やこの世の思いに深くまみれすぎていることと、そして神を信じる心が足りなすぎること。これら三つの中で一番タチが悪いのは、神を信じる心が足りなすぎることです」JC.ライル。聖公会=英国国教会の主教,1816 – 1900と。