◎とりなしの祈り
主なる神さま。あなたが恵み深く、憐れみあり、怒ること遅く、慈しみ豊かであられることを私たちは知らされ、また自分自身のこととして習い覚えさせられてきました。心から感謝をいたします。
神さま。あの東日本震災から6年の年月が過ぎ去りました。3月11日だけではなく、いつもいつも、あの日から今日にいたるまで続いている大きな苦難を思い起こさせてください。その苦難と痛みの只中に置き去りにされようとするおびただしい数の人々がいるからです。ほんのわずかな人々がぜいたくで快適な暮らしを楽しんでいる一方で、多くの人々が毎日の暮らしや食事にも困るような貧しさにあえいでいます。生きるための基本的な権利をその人たちが奪い取られないように、どうか助けてください。しかも私たちは、しばしば気づかないフリをしています。自分自身と家族のことばかりに目を向け、その人々の心細く惨めな暮らしに目も心も塞いでいます。自分自身のように隣人を愛し、思いやり、尊び、それゆえ貧しくされ、惨めにされ、身を屈めさせられたその隣人たちに慈しみの手を差し伸べる私たちとならせてください。私たちはしばしば思うべき限度を超えて思い上がり、あまりに傲慢にふるまいました。まるで自分自身が主人であるかのように。神さま、まことに申し訳ありません。神がお造りになった、神ご自身の世界であり、神さまのものである私たちの一日ずつの生命であることを、ですから、この私たちにも深く魂に刻ませてください。あなたに信頼と感謝を十分に寄せ、心を尽くし精神をつくし力をつくしてただあなたにこそ聴き従い、そのようにして互いに慎んで生きることができますように。主よ、どうか私たちを憐れんでください。救い主イエスのお名前によって祈ります。アーメン
みことば/2017,3,12(受難節第2主日の礼拝) № 102
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:1-12 日本キリスト教会 上田教会
『洗礼者ヨハネ、退場』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)(ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
14:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、2 家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。3
というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。4 すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。5
そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。6 さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、7
彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。8 すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。9
王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、10 人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。11 その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。12
それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。 (マタイ福音書 14:1-12)
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洗礼者ヨハネの、心痛む退場についての報告です。3-12節。「というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。すなわち、ヨハネはヘロデに、『その女をめとるのは、よろしくない』と言ったからである。そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。すると彼女は母にそそのかされて、『バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます』と言った。王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した」。
どんなによこしまで極悪非道な人間にも、ひとかけらの、ほんの小さな『良い心』が宿っています。エジプト王のパロにもです。決して許されないはずのとんでもない悪事をしでかしたダビデ王にもです。神に背きつづけたイスラエルの歴代の王たちにもです。みなさんにも、この私にも。そして、かの悪名高きヘロデ王にさえも。1節です。ヘロデは救い主イエスの噂を聞いて、ひどく恐ろしくなって縮みあがりました。彼は家来に言いました、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。とてもよこしまで腹黒いヘロデは、神を信じるあの人にこの自分が一体どんなひどい仕打ちをしてしまったのか、その一つ一つを思い出して、すっかり心が挫けてしまいました。彼の魂の中にある『小さな良い心』が、彼に語りかけます。あのヨハネという人が神を信じる心から「悪いことをしてはいけない」と戒めてくれたのに、けれどお前はそれをバカにして、フンと鼻でせせら笑い、とんでもなく悪い殺人を犯してしまったと。彼の魂の中にある『小さな良い心』はまた語りかけます、「あの彼を殺して葬ってしまっても、終わりのときの裁きの日にヨハネともう一度顔を合わせることになるだろう。そのとき、あの人に対して、お前はいったい何と言って詫びるつもりなのか。なんということをしてしまったのか。申し訳も立たず、お詫びのしようもないではないかと。その人自身の魂の中に宿っている小さな小さな『良い心』こそが、その人を朝も昼も晩も責め立てて止まないのです。生まれつき、たとえどんなに堕落し、絶望的なほどにもよこしまで性悪の人間であっても、神はなおその人自身の中にその人を見張る小さな番人を住まわせておられます。その人のものである、ひとかけらの小さな良い心を。それでもなお聖霊なる神さまの導きなしには、その良い心は貧しすぎ、弱々しい道案内にすぎず、だれをも罪と滅びの道から救うことができず、だれをも救い主キリストのもとへと連れ出すことができません。もし、神ご自身がご自分のもとへと引き寄せてくださるのでなければ(ヨハネ福音書 6:44参照)。
だからこそ伝道者と教師たちは、すべての人々の魂の中に『小さな良い心』が宿っていることを思い起こし、その『ひとかけらの小さな良い心』がやがていつか目覚めて働きはじめることを信じましょう。心を込めて精一杯に教えられたことであっても、その時には少しも実を結ばなかったかのように見える場合もあります。その時にはたとえ見向きもされなかったとしても、虚しく忘れ去られているように見える日々にも、それらがいつもいつも虚しく無意味だったとは限りません。語られ、また教えられた説教や学びが、その人々が墓に眠ったずっと後になってから再び起き上がることは有り得ます。あの洗礼者ヨハネの場合のように。たとえヘロデが認めなかったとしてもなお、それは正しかったのだと明らかにされる日々がきます。しかも主に仕えるその働き人たちの働きは、お百姓さんが畑に小さな小さな種粒をまくような仕事だからです。主イエスがおっしゃいました、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」(マルコ4:26-29)。
また、憐れみを受けて神の子供とされた人々よ。神さまのために働き、神さまに仕え、神さまの御心にかなって生きようと精一杯に努めてきたことの報いを、この私たちは、いつ受け取るでしょうか。『私が生きているあいだに、この私の目の黒いうちに』などとあまり決めつけすぎてはなりません。この世界で、生きているうちに良い収穫にあずかることができる場合もあるでしょう。あるいは、そうではなく私たちが死んだそのずっとずっと後になってから、そこでようやく喜ばしい収穫と実りを受け取る場合もあったのです。こう願い求めましょう、「父なる神さま。どうか私が生きているうちに私の願いをかなえてください。遅くとも、あと7、8年くらいのうちに。できればもう少し早く4、5年くらいで。――けれど、私の願いどおりではなく、私の思いのままにでもなく、あなたの御心のままになさってください。あなたに信頼し、あなたの御心にすべて一切を委ねることのできる信仰を、この私にも与えてください」と。生きている間には、どんな素敵な報いも報酬も実りも与えられない場合もありえます。洗礼者ヨハネの場合をご覧ください。彼のごく短い働きの間、多くの者たちが目を見張るほどの仕事を成し遂げました。そして生涯の終わりには、あの彼にも、無残な死が待ち構えていました。「そら見たことか。神さまに仕えて、神の御心に従って生きることに、いったいどんな良いことがあるだろうか。苦しくて辛くて惨めなことばかりじゃないか」などと言う人々も大勢いるでしょう。まるで犯罪者のように牢獄に閉じ込められました。34歳になるかならないかというとき、突然に、暴力的な死によって幕が下ろされました。性的不品行を咎められた女性の、その激しい怒りと憎しみを買ってしまったからです。
では、この私たちは、いったい何が望みでしょうか? 何がどうあれば、この私たちは満たされ、満足し、十分に神さまに感謝することができるでしょうか。「主よ主よ。あなたがご主人さまであり、私は主人に仕えるしもべです。けれど、あなたの願いどおりではなく、ただただこの私の心のままにさせてください。この私の心のままに、この私の心のままに」と、もし私たちがいつまでも強情を張りつづけるなら、私たちはどうなるでしょう? いいえ、決してそうであってはなりません。自分自身では心のかたくなさを脱ぎ捨てることは難しいですけれど、神になら、神に素直に従って生きる私たちとならせることができます。主よ。主の御心をこそ第一とし、精一杯に重んじ、あなたの御心にこそ従って生きる私たちとならせてください。ぜひ、この一つの願いを、私共のためにもかなえてください。聖書は証言します;「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者(きりゅうしゃ=外国から出稼ぎにきた労働者)であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」(ヘブル手紙11:13-16)。信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜んだ。不思議ですね。「約束のものはまだ受けていなかったが」というのは、ていねいに申しますと「すっかり全部は受けていなかったが」という意味です。何一つまったく受け取っていなかったのなら、ただただ空約束のままでありつづけたのだったら、いったいどうして喜ぶことなどできるでしょう。十分な手付けを受け取っていました。あの彼らも、洗礼者ヨハネも、「今こそこのしもべを安らかに去らせてくださいます。私の目が今あなたの救いをこの目で見たのですから」と満ち足りたシメオンのように、ピスガの山の頂で約束の地をはるかに見渡させていただいたモーセのように、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と息を引き取った救い主イエスご自身のように、そしてもちろんこの私たちも(ルカ2:29,申命記34:1-4,ルカ23:46)。
やがてしばらくして、救い主イエスはヨハネのことを群衆に語りました、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。・・・・・・預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイ11:7-11)と。しかし天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。この主イエスの発言の意味を、今日こそこの私たちははっきりと知り、心に深々と刻むべきです。なぜなら彼の道備えを受けて、救い主イエスがこの地上に降り立ち、救いの御業を成し遂げ、罪のゆるしによる救いへと私ども罪人らを招き入れてくださったからです。救いに値しない、ふさわしくない者たちが、けれども神の憐れみを受けて、神の子供たちとされ、神の国へと迎え入れられたからです。新しい契約が、そのようにして確かに成し遂げられ、その同じ一つの道筋で、この私たちもまた迎え入れられ、神の子供たちとされ、神が王としてご支配なさる神の国に住んでいるからです。「新しい契約を立てる日が来る。・・・・・・すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」(エレミヤ31:31-34)とかつて預言者が告げたとおりのことが起こり、今や大きいも小さいもなく、豊かだとか貧しいとか賢いとか愚かだなどという区別も分け隔てもなく、小さい者も中くらいに小さい者もほどほどに小さい者たちもとても小さい者たちさえ皆、主を知るようになったからです。新しい契約がついにとうとう神と私たちとの間に結ばれ、救い主イエスが流し尽くした血潮と引き裂いたご自身の体によって結ばれ、その救いの契約の只中にこんな私たちさえもが据え置かれているからです。だからこそ、恵みにふさわしくない、弁えのまったく足りない罪人たちよ。私たち最も小さい者たちさえも、あの彼と同じ程度には大きい。なぜなら古いものは過ぎ去り、すべては神ご自身によってすっかり新しくされたからです。神の恵みのあまりの大きさのゆえに、もはや、たかだか人間同士で大きいも小さいも豊かだの貧しいだのもないからです。
これらすべてのことは、ただただ神の憐れみから出て、私たちに贈り与えられたからです。ただ恵みによって。なんという恵み、なんという幸いでしょう。