2017年3月25日土曜日

3/19「パン5つと魚2匹」マタイ14:13-21

                みことば/2017,3,19(受難節第3主日の礼拝)  103
◎礼拝説教 マタイ福音書 14:13-21                日本キリスト教会 上田教会
『パン5つと魚2匹』

 牧師 金田聖治(かねだ・せいじ)ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC

14:13 イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。      (マタイ福音書 14:13-21)
                                               

ガリラヤ湖のほとりです。洗礼者ヨハネの無残な死の知らせ(14:1-12)を聞いて、主イエスは人里離れたところに独りで退かれました。祈るためにです。何より、祈るためにこそ。ヨハネという名の、働きを終えた主の仕え人のために。救いを待ち望む人々のために。そして、そこからいよいよ本格的に始まってゆく御自身の働きのために。このときだけではなく、主イエスにとってもまた私たちにとっても、天の御父へと向かう祈りはなお続きます(13,23)。群衆が追いかけてきました。主は、彼らを見て深く憐れみました。弟子たちがそばに来て、主イエスにこう提案しました。「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」(15)。この提案は理にかなっています。ものの道理をわきまえた、とても理性的な大人の判断です。けれども主イエスは乱暴なことを命じます。「彼らが出かけて行くには及ばない。いいえ あなたがた自身の手で食物をやりなさい」(16節参照)と。
  人々を見て、主イエスが深く憐れむ。それは、このことです。たしかに《言葉の神》です。けれど、言葉だけの神ではなく、心の中にだけいるらしい神ではなく、ただ口先だけの神ではありません。現実に具体的に、生きて働かれる神です。素敵な教えを語り、立派な美しい言葉を聞かせるだけでは何の役にも立ちません。「思い悩むな」と主は確かにおっしゃいました。あのときも、着るもの食べるもの飲むものなどどうでもいいと冷淡に突き放したのではありませんでした。聖書の神を知らない外国人と同じに私たちクリスチャンも、誰でも皆、食べるもの着るもの住むところを必要とします。霞を食べて生きる仙人のような人間など一人もいません。「これらのものが皆あなたがたに必要なことを、天の父はご存知だ。何よりまず、神の国と神の義を求めよ。そうすれば、これらのものは皆、添えて与えられる」(マタイ6:33)。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4,申命記8:3)と確かに主はおっしゃいました。けれどあの時も、パンなど要らないと乱暴なことを言ったのではありません。神の口からの1つ1つの言葉とそしてパンと、その両方をもって人は生きるのです。神の言葉も朝昼晩の飢えを満たす食べ物も、その両方を私たちが必要とすることを主はよくよくご存知です。ですから、主イエスは彼らをそのまま放り出すことはしません。行かせることはない。この私自身が、私の弟子であるあなたがたに、彼らに食べ物を与えさせよう。
 19節です。主は天を仰いで、讃美の祈りを唱えました。パン5つと魚2匹を抱えて、主はそれらを掲げもちます。「これだけしかありません」と嘆くのではありません。その乏しさを「なんだ。これだけか」と軽蔑するのではなく、「これだけある」と感謝し、それらを大切に尊ぶ祝福でした。ここで主が祈った祈りは、どのような祈りだったのでしょうか。どのような感謝と祝福だったのでしょう。主イエスの、ここでのこの祈りこそが重要です。なぜなら、この祈りによって事態が決定的に180度の転換をしているからです。私たちがいつも祈る《主の祈り》。その中の一つの大事な願いは『私たちの日用の糧を今日も与えてください』です。私たちが生きるために必要なもの。高価なものも、ごくありふれてささやかに見えるものも、霊的なものも物質的なものも、大きなものから、ごくささいな、他人からはつまらないと思われる小さなものまで。それら一つ一つを、一日分ずつ、主であってくださる神こそが贈り与えてくださった。どうか今日も与えてください。主から与えられる必要な、十分な、そして豊かなものを、驚き喜んで、感謝して受け取ることができるようにさせてください。あのとき、あの弟子たちはとまどい思い悩み、不平不満を言い立てたくなりました。「金もパンも、私たちにはない。できるわけがない」と。主イエスは、私たちの乏しさや困窮を無視なさるわけではありません。そこにも目を留め、十分に分かっていてくださる。私たちの乏しさや貧しさをあわれんでくださる主です。例えば、家族の生活や子供たちの養育をどうしようか。どんなふうに育てていったらいいのか。病いに苦しむ大切な家族を、どんなふうに支え、どうやって慰め、どんなふうに寄り添って生きてゆくことができるだろう。その人に何を与え、何を取り除いてあげることができるだろうか。何を支えとし拠り所として生き抜いてゆくことができるだろう。私たちの健康。私たちの一日分ずつの生命。自分自身も一日また一日と年老いて衰えてゆくことに対して、この私たちはどんなふうに立ち向かってゆくことができるでしょう。詩篇の信仰者は祈ります。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください」と。私たちも祈ります。「彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です」(90:12,14,92:14-15)と。私たちが生きて死ぬまでの生涯の日の一日一日を、けれどどうやって数えることができるでしょう。もし万一、わたし自身の努力と働きと才能によって勝ち取ってきた日々だと誤解するなら、私はかなり数え間違っています。もし万一、若く健康で力にあふれている限りにおいて実を結び、年老いて白髪になれば後はただ枯れてゆくだけだと誤解するならば、私たちはすっかり数え間違っています。目の前にある目に見える事柄に一喜一憂し、恐れつづけ気に病みつづけ、山ほどある思い煩いの只中で、すっかり神を見失ってしまうでしょう。神さまが生きて働いておられますことなど、いつの間にか思いもしなくなるでしょう。それでは困ります。とてもとても困ります。神さまの御前に慎んで心安くひざまずくことができるなら、そこで私たちも、私自身の生涯の日を正しく数えはじめ、ついに知恵ある心を贈り与えられるでしょう。ヨソの学校や他の書物からは決して与えられないはずの、神ご自身からの知恵を。「主のあわれみと慈しみが、私の日々の一日ずつにあった。確かにあった」と数えはじめるでしょう。なぜ、白髪になってもなお実を結び、生き生きと命にあふれることなどできるでしょう。若者も倦み、疲れ、百戦練磨の勇士さえもが次々とつまずき倒れる中で、なぜ、その一握りの人々は新しい力を獲得し、鷲のように翼を張ってのぼることができるのでしょうか。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。それは根も葉もない絵空事にすぎなかったのでしょうか? それとも本当のことでしょうか (イザヤ40:30-31,46:3-4)
 19節です。主イエスの仕草は、あの最後の晩餐のときの主の仕草そのままです。イエスはパンを取り、天を仰いで祝福を御父に願い求め、パンを裂き、弟子たちもまた主イエスからのお指図そのままに、教えられたとおりに、パンを取り、天を仰いで祝福を御父に願い求め、兄弟姉妹たちに分け与え、同じく言います。主イエスがこうなさり、『取って食べなさい。これは私の体である』と仰った。『取って食べなさい。これは私の体である』。同じくまた杯を取り、感謝の祈りを唱えて、主イエスは弟子たちに渡し、弟子たちは渡されるままに、指図され教えられてきたとおりに、天を仰いで祝福を御父に願い求め、兄弟姉妹たちに手渡しつづけています。今までもこれからも。あの晩餐には、またそれにつづく聖餐式のパンと杯には、主の十字架の出来事こそが深く刻まれます。主はパンと魚を掲げ持ったように、十字架の上で、私たちのために、ご自身の体を掲げたのです。主は天を仰いで祈りを唱えました。感謝と、切なる願いの祈りをです。主はパンを裂くようにして、あの丘の上で、あの十字架の木の上で、私たちのために、ご自身の体を引き裂き、ご自身の血を流しつくしてくださいました。主はご覧になり、この世界と私共一人一人を憐れんでくださいました。
 私たちも健康を望みます。大きな良い仕事を成し遂げたいと願います。富も力も欲しい。みんなから「素晴らしい。さすがだ。あなたのおかげだ」と誉めてもらいたい。もちろん幸せになりたい。それでもほんの何年か若返る程度の健康や力では全然足りません。ちょっとやそっとの富や賞賛や支えでは、全然足りません。そうであるならば、私は健康も病気も、その両方を受け取りましょう。老いも衰えも、そのまま受け取りましょう。健やかなときも病める日々にも、弱り果てる日々にさえ、心安くありたいからです。富を受け取るだけでなく、貧困も貧しさも受け取りましょう。満ち足りて喜ぶ私でありたいからです。賞賛も侮辱も、そのまま受け取りましょう。人から誉められれば嬉しい。けなされれば悔しい。それでも何しろ「良い忠実な僕よ、よくやった。お前の名は天の御父の膝下に置かれた命の書に書き記されてある。あなたの名前をちゃんと書いておいた」(マタイ25:21,ルカ10:20)と、あの方から喜んでいただけるなら、とても嬉しい。虫が食ったり、さび付いたり、泥棒に盗まれたりしない宝でなければ役に立ちません。主イエスをこそ信じ、主イエスにだけ忠実に聴き従って生きていこうと決意なさった兄弟姉妹たち。朽ちることのない色褪せない宝でなければ、いざというとき使い物になりません。大雨が降り、川があふれ、やがて強い風も吹き荒れはじめます。私たちの乗った小さな小さな粗末な舟は大きな波に飲み込まれそうになるでしょう。手元にぜひとも残しておくべき道具や装備は、そう多くはありません。よくよく知っておくべきことは多くはありません。貧しく乏しい私たちであること。しかも、その貧しさ乏しさは、主によって豊かにされ、主によって満たされること。弱い私たちが主によってこそ心強く支えられること。信頼し、すべて一切を委ねるに値する主であられます。願い求め、待ち望むに足る神と私たちは出会っていたのです。主に相対し、主が私の右にいてくださり、夜も昼も私を諭し、私を励まし、私を慰めてくださるならば、そうであるなら、そこでようやくこんな私さえ揺らぐことがない(16:7-)と知りたいのです。骨身にしみて、腹の底から、分かりたいのです。
 私は願います。その一つの確信を、自分の妻と分かち合いたいと。その肝心要をこそ、大切な息子たち娘たちにも、ぜひ手渡してあげたいと。兄弟たちと、この一点を分かち合い、共々にそれを喜び祝いたい。だから私も祈ります。いつもの食事をする時にも、大切な仕事の前にも、友と語り合うときにも、夜眠るときにも、朝目覚めたときにも。「・・・・・・父なる神さま。あなたは生きて働いておられます。このパン5つと魚2匹も、あなたが恵みによって与えてくださったものでした。ありがとうございます。私たちを愛するあなたの愛によって、この豊かな贈り物を通して、私たちの心も体も養ってください。あなたからの贈り物は、まだまだ他にもあります。家族や隣人たちが、これらのパンと魚のように与えられていることに感謝します。私たちを憐れんでくださって、あなたの恵みのお計らいでした。職場や居場所や私の健康や一日ずつの生命を、これらのパンと魚のように贈り与えてくださって、本当にありがとうございます。どうか、ただ恵みによって支えてください。大事に受け取って、その喜びと確かさを魂に刻む私たちであらせてください。あなたから受け取りつつ、あなたによって養われ支えられて、そのようにして心強く、喜びにあふれて生きる私たちであらせてください」。
なにしろ、命と息とすべてのものの与え主である神(使徒17:25の御前に、晴れ晴れとしてひざまずく私たちでありたいのです。喜びと悲しみをもって、困難と願いをもって、感謝と信頼をもって、そこでそのまま主へと向かう私たちでありたいのです。「助けてください。支えてください」と主に向かって呼ばわる私たちでありたいのです。「ありがとうございます。感謝をいたします」と主に向かって喜び祝う私たちでありたい。私たちのための力と喜びの源は、ここにあります。飛びっきりの格別な祝福は、ここにあります。