みことば/2016,10,9(主日礼拝) № 80
◎礼拝説教 マタイ福音書 11:15-24
日本キリスト教会 上田教会
『悔い改めない町を叱る』
牧師 金田聖治(かねだ・せいじ) (ksmksk2496@muse.ocn.ne.jp 自宅PC)
11:15 耳のある者は聞くがよい。・・・・・・なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、19
また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。20
それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。22
しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。23 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。24
しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。 (マタイ福音書 11:3-12)
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多くの人々は、神のもとからつかわされた預言者たちを拒み、洗礼者ヨハネを拒み、救い主イエスご自身をさえ拒んで十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちの語りかけに耳を塞ぎつづけます。けれど19節。人々が主イエスに対して悪口のつもりで言った言葉、「取税人、罪人の仲間だ」というのは本当のことです。しかも悪口どころか、とても素敵な格別な誉め言葉です。人々から見下されていた取税人や、罪人だと決めつけられて除け者にされていた人々の友だちになり、彼らを神の子供たちとして神の国へと迎え入れるために、そのためにこそ救い主イエスはこの世界に降りて来られました。救い主イエス・キリストは「ご自分の民をそのもろもろの罪から救う」のであり、「罪人を救うためにこそ世に来られた」(マタイ福音書1:21,テモテ手紙(1)1:15)のです。
おさらいですが聖書が語る『罪』とは、神に逆らって、「私は私は」と強情を張りつづけることです。しかも誰と誰が神に逆らう罪人かと問うならば、「誰でも一人残らず神に逆らう罪人であり、そうではない正しい人など一人もいない」というのが聖書からの証言です(ローマ手紙3:9-)。「そりゃあ、聖書には書いてあるかも知れませんが、でも本当ですかア」なんて嫌な顔をして首を傾げるクリスチャンが今でもたくさんいます。え? 聖書には書いてあるかも知れないけど本当かどうか分からない? せっかく本気で神さまを信じるつもりなら、聖書に書いてあることをこそ本気で受け止めなくちゃあ。たとえ気に入らなくても、自分の性分に合わなくても、嫌でも苦くても飲み込んで、自分の腹にちゃんと収めなくちゃ。そうでなけりゃ、100年たっても200年たっても本気で神さまを信じるクリスチャンが出来上がるわけがない。例えば、「礼拝に来るたび、『罪だ罪だ。罪人だ、お前は罪深い』などと言われる。だいたい俺は一回も警察に捕まったこともないし、刑務所に入れられたこともない。俺はまっとうに生きてきたんだ。何が罪人だ。もう聞き飽きた」などと苦情を言われます。キリスト教会の礼拝で告げ知らされるはずの『救い。祝福。幸い』を、あなたはどう考えていますか。『救い』とか『わたしは救われている』って、何でしょう。それは、どういうことでしょうか。『救われる』ことを、「神からの祝福と恵みを受けて、しあわせに暮らす」などと普通に思い浮かべることができます。そういうことも含みますが、聖書が語る救いは、「神に逆らう罪から解放され、自由にされて、神にすなおに聞き従って生きる」(ローマ手紙3:21-28,マタイ福音書1:21,ヨハネ福音書1:29,使徒4:12,同5:31)ことです。クドいようですが念を入れて言いつづけています。救いに関しては、良い行ないをしたかどうかではなく、何の資格もふさわしさも問われず、救い主イエスを信じるかどうかというただ一点だけが問われます。この教会の『こどものための問答」でも、「主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われている」と強調します(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:5-11,同10:9-13)。これこそが、もっとも大切な最重要ポイントです。しかも、その救いの入口が悔い改めです。自分自身の罪深さをはっきりと分かり、神へと立ち返ること。ここでもどのキリスト教会でも、「罪だ罪だ。罪人だあ。お前は罪深いし、誰も彼もが神に逆らっていて、とてもとても罪深い」などと毎週毎週語られます。どうか、勘弁してください。嫌な思いをさせるためではなく、あなた様をバカにしているのでもなく、『罪のゆるし。罪からの解放』という飛びっきりの格別な幸いを受け取っていただくためです。
悔い改めなかった町々が一つ一つ名をあげられて、主イエスから厳しく叱られています。とくにカペナウムへの語りかけに目を留めましょう。23-24節、「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。格別な愛情と親しみをこめて、「お前」とカペナウムの町とその人々に呼びかけています。カペナウムは最初の頃の伝道の拠点でした。ここを「自分の町」と呼び、何日も滞在し、会堂で宣べ伝え、議論をし、この町で取税人のマタイを弟子とし、多くの人々を癒しました(マタイ9:1-9,ヨハネ2:12,ルカ4:23,マルコ1:21-28,同2:1-12,同9:33-37)。それだけ、彼らが主イエスの福音に耳を傾けようとしなかったことに対する落胆は深かったでしょう。いいえ。カペナウムだけでなく、名をあげられた町々すべては神の宝の民とされたイスラエルが住む町々です。神を信じて生きるはずの人々が、今や、心をかたくなにし、耳を塞いで、救い主イエスとその福音に背をむけています。だからこそ今日、神を信じて生きるはずのキリスト教会とすべてのクリスチャンとは、この23-24節の厳しいお叱りの言葉に耳を傾けねばなりません。この私たちこそが、救い主イエスから深く愛されたカペナウムだからです。
救いへと至る入口が悔い改めです。『罪のゆるし』という名前の救いを得させる悔い改めです。神に逆らう自分自身の罪深さを知り、認め、神へと立ち返ること。
洗礼者ヨハネは、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている」と宣べ伝え、人々は自分の罪を告白して洗礼を受けました。救い主イエスも、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝え、主イエスの弟子たちも、「だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と問いかけ、主の弟子たちは答えました、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(マタイ3:7-10,マルコ1:14-15,使徒2:36-39)。さらに別の弟子は、「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか(神ご自身へと向かわせる)熱情をあなたがたに起させたことか」と語りかけました。また別の弟子は、「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(コリント手紙(2)7:10-11,黙示録3:19-20)。深く愛しているからこそ叱ったり、こらしめたりもする。滅びるままに捨て置くことなどとても出来ない、と主なる神はおっしゃる。叱りながら懲らしめながら、あなたの魂の戸口に立って、コンコンコンコンと戸を叩いている。聞く耳のある者は聞きなさい。神のみ心にそった悲しみがあなたの胸にわき起こるとき、あなたは神のみもとへと立ち戻ってきなさい。あなたをがんじがらめに縛りつけていた罪の奴隷状態から救い出していただくために。そこから、自由な晴れ晴れした場所へと導き出していただくために。
詩篇の祈りの人もまた、その自由な晴れ晴れした場所を味わい知りました。恵みの場所からこぼれ落ちようとする度毎に、だからこの人は、主に向かって呼ばわりました。「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください」(詩51:10-12)。なぜならこの人もまた、自分自身の罪深さと悲惨さに深く囚われていたとき、『神によって救われたその喜び』も『自由で晴れ晴れ清々した魂』もまったく失っていたのだと気づいたからです。
兄弟姉妹たち。キリストの教会とその教えは、何度も何度も泥にまみれ、世俗化し、中身のない形式主義に堕落しました。その度毎に、ほんのひと握りの人々が立ち上がって、「それは間違っている。そんなことはしてはいけない、主なる神さまに背いてしまうではないか」と。もう500年も前のこと。『罪のゆるし。罪からの解放』は、中身のない、まったく形ばかりのものへ、教会のただの金儲けの道具へと変質していました。『免罪符、天国行きの格安チケット』です。自分のためにも、家族や友人たちのためにも人々は我も我もと、その『天国行きチケット』を買い求めました。すっかり売り尽くして、けれどまだまだ儲けるうまい手口を教会は思いつきました。「お~い、皆の衆。何年か前に死んだあなたのジイチャン、バアチャン、ヒイバアチャンの魂はどうするつもりだ。このまま地獄に置き去りにしておいていいのかね。すでに死んだ親戚のためにも、一人分300円だ。ほれほれ、安いよ安いよ~オ」。キリスト教会は天国行きチケットを売り歩く行商人たちを世界各地に送り出して、大儲けをしつづけました。当時の戯れ歌は歌いました。「チケット代の料金箱にチャリンと金が入ると、あら不思議、ジイチャン、バアチャン、ヒイバアチャンの魂がヒュードロドロと天国に昇っていった。あ~ら、めでたい、めでたい」。一人の修道士が教会の扉に、キリスト教会のやり方に対する猛烈な抗議文を釘打ちして、「天国行きチケットなんて嘘っ八だ。イカサマだ。もう騙されちゃいけない」と自由な討論を呼びかけました。同じ内容の抗議文を、教会上層部にも送りつけました。もし、ここで黙っているなら、神の御心にはなはだしく背くことになるとはっきり気づいたからです。それは、まったく文字通りに、命がけの挑戦でした。『罪の赦免の効力を明らかにするための95箇条の提題』。彼の異議申し立ては、キリスト教会を真っ二つに引き裂く大論争となって、今に至ります。それが、ローマカトリック教会と私たちプロテスタント教会との決定的な分かれ道でした。罪人は何によって罪をゆるされ、どのように生きることができるのか。救いとは何なのか。孤独な、ただ独りの修道士が呼ばわりました。「キリストの民に向かって『心安かれ、心安かれ』と叫ぶ預言者はすべて立ち去れ。そこに平安はないからである。しかしキリストの民に向かって『十字架、十字架』と叫ぶ預言者に祝福あれ。そこに十字架はないからである。キリスト者は、罰、死、そして地獄を通ってでも懸命にかしらなるキリストに従おうとすること。かくしてキリスト者をして、平和の虚しい保証によってよりは、むしろ多くの苦難を通してこそ、神の国に入るのだと堅く信じることである」(Mルター,1517年10月31日,提題中、92-95)。では、仕上げをしておきましょう。よい行ないをどれほど積み重ねても、あるいはキリスト教会にどれほどたくさん献金をささげ、たくさん奉仕をして働き、どれほど勤勉に礼拝出席に努めても、それで神の国に入ることなどできません。天国行きチケットを再びキリスト教会が売り始めたとしても、それは嘘っ八であり、恐るべき恥ずべきイカサマです。なぜなら誰も彼もが罪人であり、あまりに罪深く、どんな良い業によっても、誰によっても救われるはずがありませんでした。神は、その私たちをかわいそうに思ってくださいました。人間はだれでも神に逆らう罪人であり、神はその罪人をかわいそうに思って、ただ恵みによって救ってくださいます。救いに関しては、良い行ないをしたかどうかではなく、資格もふさわしさも問われず、救い主イエスを信じるかどうかというただ一点が問われます。こどもたちのための交読文でも、「主イエスを信じる信仰によって、ただ恵みによって救われている」「主イエスこそが、私たちをすべての罪から救い出すことができる」と強調します(ヨハネ福音書3:16,ローマ手紙5:5-11,同10:9-13)。これこそが、二度と決して忘れてはならない、もっとも大切な最重要ポイントです。
時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、あなたも主イエスの福音を信じなさい。あなたにもきっとできるから、主イエスを信じて生きることをしはじめなさい。